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丹波の

睦寄(むつより)
京都府綾部市睦寄町有安・鳥垣・草壁・山内・長野・志古田


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京都府綾部市睦寄町有安・鳥垣・草壁・山内・長野・志古田

京都府何鹿郡奥上林村睦寄

睦寄の概要




《睦寄の概要》
睦寄は、上林川と支流草壁川の合流地付近に位置する。東は洞峠を経て北桑田郡美山町、大栗峠を経て船井郡和知町に通ずる。
合流点付近に集落・耕地が立地する。上林川沿いに府道小浜綾部線(1号線、若狭街道)、草壁川沿いに府道舞鶴和知線(51号線、京街道)が走る。
睦寄村は、明治7~22年の村。有安・鳥垣・草壁・山内・長野・志古田の6か村が合併して成立。同22年奥上林村の大字となる。
睦寄は、明治22年~昭和30年の大字名。はじめ奥上林村、昭和30年からは綾部市の大字。同年睦寄町となる。


長野(ながの)
上林川上流域、右岸山麓の若狭街道沿いにある。川下側から来ると睦寄の最初の集落。村境の石ケ鼻付近は険阻な所。
中世は上林庄の地。地名は天文年間の勧進奉加帳に「長野之左衛門母」とみえるのが初見。江戸時代初頭は旗本藤懸氏領、元和5年から園部藩領。
村内に文禄年中(1592-96)創建と伝える臨済宗南禅寺末慈慶寺があったが、明治以後有安の金剛寺に合寺された。
明治4年園部県を経て京都府に所属。同7年近隣の五ヵ村と合併して睦寄村となった。


山内(やまうち)
光明寺の表参道沿いの集落で、ヤマウチと言うのか寺院の境内地を指す山内(サンナイ)のことかと思われる。光明寺は山の上ばかりでなく、また八津合の寺町あたりばかりでなく、このあたりにも里坊がいくつもあったと思われる。
今はあやべ温泉「二王の湯」↓や、山の家、二王公園などが設けられている。市のリゾート開発地である。


光明寺表参道は真ん中の道↓
「丹波負笈録」は「往古より君尾山表道と云、本堂迄谷十丁山八丁」と述べる。今は車で登れて、二王門の下まではいける。しかし頂上の駐車場から二王門までは石段なので、足腰が普通程度以上でないと登れない。自信のある方はまっすぐ行って下され。そうでない方は、
参道の綾部温泉の下の三叉路。↓ここを左にまわって、裏道を参られるのをおすすめる。
なお、国宝・二王門は修理中で、平成30年一杯はかかる予定という。全体に白いシートがかぶせられているので、見学はできない。



山内村は江戸時代初頭は旗本藤懸氏領、元和年間から園部藩領。
中世は上林庄の地。地名は天文年間(1532-55)の勧進奉加帳に「山内 左衛門」「山内 岩ハナ左衛門」などとあるのが早い。村の西方の尾根に山城跡があるが、城主は不明。 明治4年園部県を経て京都府に所属。同7年近隣の5ヵ村と合併して睦寄村となった。

キャンプ場横の林道を行けば、大トチの木がある。
樹齢2000年とも云われ、主幹の周囲は10.4m、樹高は23m、栃の木では京都府一の巨木(全国3位)。 京都府自然200選の一つ。
君尾山の大橡
奥上林村宇睦奇君尾山中にあり。光明寺より草裡をわけ入ること半里、西北の谷間に其の巨幹を見る。枝葉茂り、樹勢盛なり。幹の周囲一〇・九米突郡内第一の大木なれば、わざく來り見る者多し。
(『何鹿郡誌』)

大橡樹(おおときのき)
君尾山光明寺よりおよそ二粁へだたる西北の谷の中にある。周囲およそ八尋、枝葉蔚然、綾何地方第一の巨木老樹
なるをもって名高い。ちなみに本村には橡木が多く、とち餅・とちようかんなどにして珍重がられている。名物として全国的に売出す方法はないものであろうか。
(『奥上林村誌』)

幻の大トチ


志古田(しこだ)
上林川上流域、左岸側の小支谷にある。鳥垣村と弓削村の間。南方の大栗峠(大国峠)で弓削村・烏垣村からの道と合流して船井郡粟野(和知町)に至る。旗本城下藤懸氏領。
中世は上林庄の地。地名は天文年間の勧進奉加帳に「志古田 治部」「志小田 治部女中」などとあるのが初見。このあたりの集落には両墓制が存続していた。
明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年志古田・長野・山内・烏垣・草壁・有安の6ヵ村が合併して睦寄村となった。


鳥垣(とりがき)
若狭街道と京街道の分岐点、上林川左岸の山麓にある。中世は上林庄の地。地名は天文年間の勧進奉加帳(光明寺文書)に「鳥垣 孫右衛門」「鳥垣 七郎街門兵衛方」などとみえるのが初見。
鳥垣村は、江戸期~明治7年の村名。旗本城下藤懸氏知行地。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年近隣の5ヵ村と合併して睦寄村となる。

天台宗光鐘山長楽寺(廃寺)
鳥垣渓谷の入口に

案内板には、
千部塔と長楽寺
千部塔とは、「万民除災興楽」などを祈願して法華経などの経典を千部読誦したときの記念に建てた石碑である。この「法華千部塔」は長楽寺林地に通じる坂道に建立されていたが、水源の里広場の整備にともなって、平成二十七年にここへ移設したものである。
石碑の表面には「法華千部塔」、裏には「天保立申午七月十日 権大僧都大阿闍梨法印寂如 書之」と記載がある。(天保立年は西暦1829年)この地(小野田)にあった光鐘山長楽寺は、天台宗寺門派総本山園城寺中玉院の末寺で、本尊は阿弥陀如来木像(御丈四尺五寸)であり、仁寿年中(851~854年)に智証大師開基が創立し、寛和元年(985年)頃に花山院が再建したとある。
(明治二十九年に長楽寺住職が京都知事に差し出した調査記による)
山裾に長楽寺の墓地が残されているが、墓碑で確認できる最も古いものは、「長楽寺中興開山良寛 延宝八年(1681年)」とある。古い由緒と輝かしい歴史をもった長楽寺であったが、住職の様々を工夫による経営の努力も空しく、明治四十四年(1911年)には廃寺となった。
本尊は舞鶴の天台寺へ送ったと伝えられている。
この千部塔の他に、長楽寺由来の史跡として、向かいの山上には、嘉永五年(1852年)に造営された金毘羅神社があり、その手前には、天保三年(1832年)の年号が刻まれた大きな手水石が残きれている。また、この先の道端には椿と欅の古木があるが、その下には、長楽寺の若宮神社と薬師神社の祠が現存している。

天台宗の古い寺院があった。寛和年中(985-987)花山天皇の勅願によって草創、天正年間(1573-92)に退転し寛文年間(1661-72)に江州園城寺)の僧良覚が再建を試み、良珍・宥盛・陳玄・蔵海らが受け継いだと伝えるが、明治には廃絶した、という。


有安(ありやす)
上林川と草壁川の合流点、若狭街道(府道1号)と京街道(府道51号)の分岐点附近の集落。
中世は上林庄の地。地名は光明寺再建奉賀帳の天正19年に「上布一段有安与二郎母」とあるのが初見。「蔭涼軒日録」文明16年(1484)9月14日条以下に「上林上村吉忠番」の記事が頻出する、これは当村内の市場と山内村との境界付近のことであろうとされる。
元禄13年(1700)の知行所村高付帳は「在安村」と記す。「丹波負笈録」に小名(小村)として「数郎・古井・市場・庄村・森」が記される。旗本城下藤懸氏領。
明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年志古田・長野・山内・烏垣・草壁・有安の六ヵ村が合併して睦寄村となった。


草壁(くさかべ)
上林川上流域左岸の支谷草壁川の両岸に位置する。有安の一つ川上側、さらに草壁川の峡谷をさかのぼると大岩(おおいわ)・古屋(こや)の技村がある。古屋から洞(ほら)峠を経て洞村(美山町)へ至る。丹後田辺(舞鶴市)や上林谷東部から京街道の一要地であった。尚今(2018)は、道路工事中で、許可がないと草壁公民館から先へは行けない。
中世は上林庄の地。地名は天文年間の勧進奉加帳に「草加部」「草かべ」などとあるのが初見。
草壁村は、江戸期~明治7年の村名。元禄13年(1700)の知行所村高付帳は村名を「草賀部村」とする。旗本城下藤懸氏領。
明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年睦寄村の一部となる。

草壁。草壁川と府道51号、公民館のすこし上側より
今の草壁公民館の向かいの山を少し登った所に(右手の坂道)、臨済宗高徳院の跡があり、境内に新宮社を祀る。草壁皇子の伝承をもつ古墓があるという。参道にイノシシ除けの囲いがあって入れない。

(臨済宗南禅寺末)高徳庵
文禄2年(1593)開基と伝え、明治年間に有安の金剛寺に合寺された。
高徳禅庵 京南禅寺末  草賀部村
開基忍公主座 文禄二巳年境山ニ新宮大川社在 堂所
??往古新宮領 織田信長公ヨリ取上ル
草賀部新宮ハ往古君屋山ニ修験多住ケリ 此新宮エ峯入アリ ニンクワン寺ト云寺アリ 今ハ奥ノ坊鐘皆ト云字ノミ 今ニ薬師堂アリ 古仏也 損寄セ仏多ト
(『丹波志』)

高徳寺 臨済宗 文禄年間(一五九二年)の創設と伝へられる。現在は無住
(『奥上林村誌』)

草賀部(奥上林村睦寄の草壁区)日下部氏は開化天皇の孫狭穂彦より出づ。其の部曲山城、摂津、河内、和泉にありしこと見ゆ。押磐皇子の帳内、日下部使主が、其の子吾田彦と億計王、弘計王を奉じて丹波に隠れしは、この部曲を経しことを証すべく、浦島子が日下部首なるも、この地方に日下部のありしを知る。
(『何鹿郡誌』)

草壁(日下部) 睦寄町の小字名である。草壁は御名代部からきた地名である。『古事記』に、仁徳天皇の代、「若日下部王の御名代として若日下部を定めたまひき」とあり、これが草壁の成立した記録である。
当地の草壁に新宮神社があり、その由緒として社記に、「往古ヨリ言伝フル所ハ朱鳥年中草創ニシテ草壁皇子ヲ勧請シ草壁神社ト号ス 則境内ニ陵ト覚シキ塚アリ 依之草壁村ト称ス」と記されている。草壁皇子は天武天皇の皇子であり、皇太子となった人である。社伝は付会されているところがあるようだが、この村が日下部であったからそういう伝承が生まれたものと考えられる。
(『綾部市史』)


《睦寄の人口・世帯数》 291・141


《睦寄の主な社寺など》

石槍
最近明らかになったものに、陸寄町行道前(奥上林小学校敷地内)出土の石槍がある。昭和三十三年ごろ、湿地の排水溝を掘る作業中に発見されたもので、詳しい出土状況はわからない。石槍の長さ二〇・六センチメートル、石質は頁岩と思われる堅いもので、よく研磨されている。弥生時代の前期ないし中期前半のものと思われる。
(『綾部市史』)

坂尾呂神社(さかおろじんじゃ)(睦寄町鳥垣)

案内板がある。
坂尾呂神社
祭神 須佐之男尊
例祭 九月五日(現在は十月五日)
本殿は寛政六年(西暦1789年)領主の許可を受け再建に着手、六年後若狭日置村の彦兵衛の手によって落成
古文書に『若狭日置村彦兵衛此人宮宅普請功者大工故社申候。作料高、銀四貫五百匁 米二十石 相極候』と記されている

坂尾呂神社 奥上林村字睦寄小字鳥垣鎮座。当社にして須佐之男命を祭る。現在氏子一八〇戸、山内、草壁、鳥垣、有安之に属す。例祭は十月五日、今園部藩記録によりて、徳川時代に於ける山内村の社寺の状況を述べん。
 氏神正一位坂尾大明神(但し城下領鳥垣村にあり)薬師堂森一ケ所、山神森、不動森、法華宗京妙願寺末妙宗寺無住寺内に妙見宮御座候。…。
(『何鹿郡誌』)

坂尾呂神社  馬垣(ママ)
須佐之男尊を祭神とする。
天正年中焼失の為創立其の他は評かでないが、現在の拝殿は寛政六年(西一七八九年)領主の許可を得て再建(御宮も古く相見候間御普新仕可云々)に着手、翌七年若狭日置村の彦兵衛の手によって落成した。(若狭日置村彦兵衛此人宮宅普請功者大工故頼被申候、作料高銀四貫五百匁、米二十石相極候)この記録以前の旧記に由緒の深いものが想像されるが入手出来ないのは残念である。
例祭は旧九月五日で、振りもの六流れ、かぐら、神輿、のぼり十二本、剣 二木、金幣等を相連ねて、庄の稲荷神社への御旅に賑はつたものであった。
(『奥上林村誌』)

マントヒヒ型とか呼ばれる狛犬がある。
南北朝期までさかのぼる時代物で、これがあるということは、当社も少なくともその時代までさかのぼるものと思われる、周辺の集落の総鎮守だが、なぜか『丹波志』などには当社の記載がない。
オロだからオロチか。逆オロチかも。鍜冶屋は自らオロチと名乗っていたという。「おひかえなすって、当方は○○のオロチにござんす」とか仁義をきったという。
金属と関係深さそうに思われる。こんな所に鉱山などあるのかぁぁと思えるような所だが鳥垣川をさかのぼると鳥垣渓谷でその奥にマンガン鉱跡があるという。地図↓真ん中へんにある。これは新しいものと思われるが、古い鉱山があってもおかしくはない。
さらにこの人が近づきそうにもない谷に古墳がある。石材が残っている。おいおいおいという所になろうか。



真言宗醍醐派君尾山光明寺(睦寄町有安)
君尾(きみのお)山の中腹にあり、下界からは遠い高い山中にある。山号君尾山、真言宗醍醐派、本尊千手観音。古い上林のヌシのようなお寺。
寺伝によれば、聖徳太子の開創といい、延喜年中(901-923)理源大師によって真言道場として再興されたという。盛時には伽藍諸宇72坊を擁したというが、数次の兵乱で堂塔を焼き、やがて衰微の一途をたどった、という。
坂根正喜氏の空撮(2007.7)↓

光明寺は今はこれだけしか残っていない。一番下にあるのが二王門、一番上は本尊・千手観音を祀る本堂。その下にあるのが庫裡など。周囲には人家などはない。
案内板。
光明寺
真言宗醍醐派に属する古刹で、君尾山光明寺と称する。寺伝によると、推古天皇七年(599)聖徳太子によって建立され、後に役小角がこの地で修業し、延喜年中に至って聖宝理源大師が真言の道場として再興、坊舎七二坊に及ぶ大寺院であったが、大永七年(1527)の兵火によって二王門を除く全山が焼失した。天文二年(1533)上羽丹波守が大施主となって再建したが、天正年間の戦乱で再び焼失した。本堂は天保七年(1836)に再建され本尊は千手観世音菩薩をまつる。
国宝二王門は宝治二年(1248)竣工したことが柱上の墨書銘によって判明、鎌倉時代における類例少ない和様系二王門の遺構である。
市指定文化財の宝篋印塔は無銘ではあるが細部にわたって丁寧に仕上げられた南北朝時代の優品である。勧進帳は天文二年再建時の勧進状と奉加帳で数少ない中世の生活資料として貴重である。
 指定文化財  国宝  二王門 一棟
        市指定文化財  宝篋印塔 一基
                勧進状・奉加帳 一通一冊
      昭和六十一年十一月 綾部の文化財を守る会




国宝・仁王門
綾部市の唯一の国宝、丹波・丹後では建物の国宝としては唯一のもの。約65年ぶりで、屋根をふき替え、塗装を塗り直している。修復工事は3カ年計画で、府が施工監理する。総事業費1億6千万円のうち、85%は国庫補助金があてられ、残り2千400万円は地元負担となるが檀家のない光明寺は費用を捻出できないとして、市が6月に関係団体で組織した「国宝光明寺二王門プロジェクト実行委」が二王門のPRと寄付呼び掛けにあたっている。
国宝光明寺二王門プロジェクト実行委員会

この仁王門は綾部市唯一の国宝であり、建造物としては丹波丹後を通じてただ一つの国宝である。この門は昭和二十七年に解休修理をした際、上層背面の中央左柱の上部に、
「宝治二年戊申」(一二四八)
の墨書銘を発見し、さらに一重天井板に転用されていた棟札に、仁治三年(一二四二)十二月に着工、建長五年(一二五三)九月に竣工したことが記されていて、建築時期が明らかになった。
この門の平面は下層で七・三×四・二六メートル、三間一戸(柱間三、戸口一)で正面前方の両脇の間には低い床が張られ、仁王尊は一般の例と違って、後方の両脇の間に安置されている。これは珍しい例とされるが、舞鶴市の松尾寺仁王門も同様の形であるから、地方色ともいわれるところである。前方に床が張られているのは、仁王信仰により尊像を礼拝する場として使ったのではないかといわれている。
斗?は上・下層とも和様三手先で、いずれも尾?付であり、下層天井は組入天井である。屋根は栩葺といって珍しい葺き方である。厚さ一・五~二・○センチメートルの割り板を重ねて葺いたもので、薄い割板の柿葺と違った趣きのある極めて珍しいものである。全体的にみて、中世の数少ない和様系の二重門であることや、栩葺の珍しい屋根、そして全体の姿がすぐれていることなど、立派な建造物である。なお楔に、
永正十三年三月十五日 戒順
の墨書があって、そのころ一部改修が行われたものと思われる。…
(『綾部市史』)

本堂など

左から本堂(本尊の千手観音)、地蔵堂、鐘楼。
本堂と地蔵堂の間に市文化財の宝篋印塔(南北朝時代)がある。

鐘が落ちている。檀家なしというから、歴史古く守るべき立派な物はたくさんあるが、それを支える者がない。まことにツライお寺の様子。
タヌキやイノシシの檀家しかない。ヒトとしてはみなでしっかり守って子孫に引き渡していかねばなるまい。
二王門が語る波乱の歴史 ●君尾山光明寺
光明寺は綾部市東北部の睦寄町にある真言宗醍醐派の古刹で、千手観音を本尊とする。寺伝によれば、聖徳太子開闢の霊地で、延喜年間(九〇一~二二)に埋源大師聖宝により真言道場として再興されたという。
寺域は君尾山の山腹にある山上と西方の山下に分かれ、合わせて坊舎七二坊を数えたという。いまも山内に坊舎の跡が点在するが、元禄一三年(一七〇〇)の記録によれば山上の寺数は六坊である。山下の里坊は西方六キロ、上林谷のほぼ中央にあたる八津合町内にある。天正一五年(一五八七)には「寺町惣中」として諸役免除を認められている。さかんなときには二三坊を擁したというが次第に衰微し、元禄一三年に一五坊、享保一八年(一七三三)にはそれらを全焼し、その後六坊のみ再建された。明治初年には四か寺、現在は一か寺を遺すのみだが、今もこの一帯を寺町と呼ぶ。
さて、光明寺の栄光を伝える最大の文化財は鎌倉時代の二王門である。これは三間一戸門で、上下ともに屋根をもつ和様系の二重門であり、入母屋造・栗材による栩葺である。また両脇の二王像を後方に安置し、前方を板張りにしているところにも地方色や当時の二王信仰の様子がうかがえるという。
さらに昭和二六年(一九五一)の解体修理の際、上層の柱上部から「宝治二年戊申」(一二四八)の銘が、また下層の天井板に転用されていた棟札から仁治三年(一二四二)着工、建長五年(一二五三)竣工が確認され、建築時期が確定して文化財としての価値が倍加した。「光明寺略記」によれば二王門の修復は、その後永正一三年・享保一四年・安政六年にも行なわれている。永正一三年については二王門の楔に同年銘の墨書がある。この棟札の裏には、勧進に中心的役割を果たしたと思われる比叡山西塔院の覚承阿闍梨の名があり、当時の光明寺と延暦寺との関わりを示している。文安元年(一四四四)には、延暦寺の支配下にある光明寺の所領を、隣接して所領をもつ相国寺側が押領したとして、比叡山の衆徒が朝廷に訴えている。また、嘉吉の乱(一四四一)や応仁の乱(一四六七~七七) にあたり、光明寺への軍勢の乱入を禁じた制札が遺されていて、光明寺が中央の戦乱や動向と無縁でなかったことを物語る。
光明寺にとって最大の危機は大永七年(一五二七)「赤井の兵乱」により二王門を除く山内すべての堂塔が灰燼に帰したことであった。天文二年(一五三三)に始まる再建事業は勧進帳および奉加帳に詳しいが、六〇年を費やし文禄二年(一五九三)にようやく成就した。なお、現存の本堂などは天保年間(一八三〇~四四)に改築されたものである。
江戸時代には領主の旗本藤懸氏代々の崇敬をうけ境内地の地子免除の特権を得たが、その勢威は昔日の比ではなく、広大な山林についても山麓諸村との山公事(山論)に悩まされている。(川端二三三郎)
(『福知山・綾部の歴史』)

大永7年(1527)光明寺は兵火(赤井の乱)にかかり仁王門を除き焼失した。再建は天文2年(1533)開始され、天正19年(1591)まで60年を要したと当寺所蔵の勧進奉加帳や万聞書に記されている。この再建のための勧進奉加帳(市指定文化財)は上林谷の在地構造を知るための貴重な文献となっている。
仁王門楼上に納められている巡礼札(三禅定、三十三所巡礼)は文明7年から永正6年(1509)までのものが8枚あり、記載された僧侶名は延べ24人、うち重複するものは2人である。
天正年間は高田氏、慶長年間以降は藤懸氏の、代々の領主から境内地地子免除の特権を与えられたが、その勢威は昔日の比ではなく山麓諸村との山論が続発し、その対策として醍醐寺三宝院(京都市伏見区)と本末関係を結ぶに至った。寛文5年(1665)には一山の僧26人、ほかに弟子を含め53人を数えるが、享保18年(1733)に山下の里坊(八津合町寺町)が全焼し、その後6坊のみ再建された。明治初年にはさらに山上2坊、山下4坊に減少。なお現建造物は仁王門を除きすべて天保年間に再建されたもの。


臨済宗南禅寺派紫玉山金剛寺(睦寄町有安)


春屋妙葩が隠棲した舞鶴雲門寺と京都との往還途中に寄った宿という。その街道(府道51)を見おろすすこし高い所にある。
また境内に弥勒信仰を対象とする堂があるが、阿弥陀如来(坐像、木造彫眼、平安後期の作)を安置する。寺の西に隣接して小堂宇があり、下庄(しもしょう)御堂という。堂内に阿弥陀如来坐像を含む平安後期の仏像5体(市指定文化財)が安置されている。現在は下庄最寄りで阿弥陀講をつくって祀っているそう。
案内板
金剛寺
当寺は紫玉山金剛寺と称し、本尊は延命地蔵尊。開山は春屋妙葩(普明国師)であって現在は臨済宗南禅寺派に属する。
もとは紫玉庵といい、元享年中(一三二一~二三)の創建と伝えるが、応安四年(一三七一)に南禅寺山門破却事件をめぐり五山の指導者であった妙葩が管領細川頼之と対立し、舞鶴の雲門寺に隠棲した時期に京都往還の際この紫玉庵に休息するの左常としたところから明徳二年(一三九〇)に金剛寺と改称し、すでに没していた妙葩を開山とあがめるにいたったものである。
妙葩が幕府と和解し南禅寺に還住したのは康暦元年(一三七九)であるが、その後将軍充満の発願になる相国寺の造営にも尽力した。上林荘はその大半が相手国手に領にあてられたところから、当寺は相国寺の寺領経営の拠点として重きをなしたと思われるが、次第に衰退し天正七年(一五七九)には、諸堂伽藍を悉く焼失し慶安二年(一六四九)棟雲和庄によって現在地に再興されたものである。
市指定文化財 木造普明国師坐像
綾部の文化財を守る会


紫玉山金剛寺 禅宗京南禅寺末 有安村
往古ヨリ地蔵堂有本尊也 栄静ノ所ト云 元享年 京西嵯峨天竜寺中ニ鹿王院開山普明国師 丹後国加佐郡余部郷下村ニ竜ノ住シ池アリ 聞之其所ニ行其池ヲ貰 則埋サセテ海中ニ嶋アリ其嶋エ封シテ蛇嶋ト云 其池跡ニ神竜山雲門寺ヲ建立 則称開山ト入院有之所 其時堂主国師ニ因縁有ヲ以又当地エ請国師ヲ 其時ノ堂ヲ紫玉山金剛寺ト直シ普明国師ノ道場ト成ス 二祖前建長棟雲徳大和尚住職也
上林七里ノ谷 当寺在テ後十六寺有 皆同末当寺ハ派頭ナリ 其後文録年中当寺前往光岳和尚隠居料長野村慈慶庵ト云新寺建立 其後檀那四ケ村ヲ分チ一寺ト成ス 古今繁昌ナリ 時代城口下タト云所ニ晩主藤懸永勝公ト申他ヨリ入城アリ 則亦 慈住侶ノ光岳和尚ヲ請開祖ト永勝寺建立ト云
(『丹波志』)

金剛寺
「足利義満の尊信をうけて京都の相国寺を開いた知覚普明国師春屋妙葩はわけがあつて加佐郡余部(舞鶴市中舞鶴地区会部下)の雲門寺に康暦元年南禅寺に入るまで住つていた。その間北桑田郡へ往復し、その道中一つの庵に憩うのを常としていたが、後この庵を改めて一寺を興し自ら開山となつた。これが庄の紫玉山金剛寺である。足利義満は諸堂を建て、旧二百石を寄進した。その故をもってか今境内に尊氏及義満の石碑がある。」
これが金剛寺の歴史である。朝廷との権力争いに大勢を制した足利氏は、奈良時代の国分寺にならつて国毎に安国寺を建てた。尊氏の母が東八田上杉に本拠をもっていた上杉氏の出であったため、東八田の光福寺を丹波の安国寺と定めた。
このように尊氏は仏教に力を入れたが義満も又寺に力を入れたのでふる。当時における寺の勢力はあなどりがたいものがあったことがわかる。

金剛寺 臨済宗 元享年中(西暦一三二一)の創立で、足利氏との由緒も深い古刹(別貢に詳記)
現在の本堂は慶応二年再建、檀徒は睦寄一円に及ぶ。
(『奥上林村誌』)

応安四年(一三七一)に南禅寺山門破却事件に抗議して加佐郡余戸里に隠棲した春屋妙葩が開いた雲門寺は永享年間以前に諸山に列せられている。妙葩は丹後雲門寺に隠棲すること約十年、この間、妙葩開創と伝える禅刹に加佐郡与保呂の報恩寺、丹後加佐郡との国境にある丹波何鹿郡に金剛寺がある。さらに妙葩のもとに椿庭海寿が来丹し、加佐郡興禅寺、清光院の開山になったと伝えられている。さらに永享十年(一四三八)以前に諸山に列せられたとされるものに普済寺があるが、その所在や開創年次、開山等は不明である。
(『舞鶴市史』)


日蓮宗円乗山妙宗寺(睦寄町山内)

円乗山妙宗寺 法花宗京妙顕寺末 山内村
日堯上人開基 今寛政八年ニ二百四年ニ成ト云
境内ニ近年摂州能勢ノ妙見勧請スト云
(『丹波志』)

妙宗寺 日蓮宗 慶長二年(一五九七年)日堯上人の開基と伝えられ、本村唯一の日蓮宗。
(『奥上林村誌』)


奥上林小学校



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


睦寄の主な歴史記録



両墓制
 墓制の方式には単墓制と両墓制とがある。死者の遺骸や遺骨を埋葬した上に墓石をたててその霊をまつる形式が単墓制であり、埋葬地とは別に祭地を設け、墓石をたてて死者の霊をまつるという二つの墓地をもつ形式を両墓制という。
 両墓制は日本人の霊魂観や祖霊観の根源に迫るものをもつ墓制であって、その発生過程を知ることは墓制変遷史の上で重要である。この両墓制は全国的にみられるが、特に近畿を中心に最も多く分布する。このように中央先進地域に偏在している事実は、古いしきたりが周辺地域に残されるという理論と矛盾していて、両墓制が古いしきたりといえないところがあり、民俗学的にもまだ解明されていないものである。
 丹波では六郡どこにも両墓制が分布していて、船井郡二八地区、桑田郡一三地区、多紀郡七地区、氷上郡八地区、天田郡一地区と特に船井郡に多い報告が出されている。(磯貝勇 丹波地方及びその周辺における両墓制について)
 綾部市内では上林地域にあるし、東八田地域の一部にもその形跡がうかがえる。この分布はさらに北へ伸び、若狭大飯郡から舞鶴市の大浦地方におよんでいる。このことは単に地域性だけで片付けられないものがあり、どのように位置づけるかは今後の研究にまつところである。
 上林地域の両墓制は、奥上林のほとんどの地区と中上林の数町区にみられ、その形式はそれぞれ集落によって少しずつ異っている。第一次墓地をウメバカ・イケバカ・ミハカ・村バカなどとよび、第二次墓地をヒキバカ・マツリバカ・カブバカなどとよんでいる。この第一次墓地と第二次墓地との距離は念道・草壁・神塚・市茅野のようにかなり離れている所もあるし、志古田・川原・小仲・早稲谷・古和木・栃・小唐内・大唐内のように極めて近接しているところもある。死者の遺骸を埋葬し土盛りのままにしておくものが多く、自然石を置くものもある。このウメバカはほとんどが共同墓地になっており、その中で各戸別に墓地がきまっているところや、死者が出ると順に埋めていき、何年か経過すると初めのところへかえって埋めていくところなどがある。埋めたあとは草や笹が生い茂ってどこへ埋めたかわからなくなっているところも多い。お盆には草を刈り掃除をするところもあるが、二、三年に一度刈るところ、全然刈らずに埋めるときだけそのあたりを刈るところなどがある。ステバカという呼び方があるが、全くそれに近いところもある。埋葬地への墓参は地区により四九日、初盆、一周忌、三回忌などと一定しない。
 第二次墓地へ移すことを「墓をヒク」という。つまりヒキバカの呼び方を意味するもので、このときに石を一つ持っていくとか、土を一握り運んでいくというのが一般的であるが、最近あまり行わなくなったところもでてきている。墓をひいてからあとウメバカにはまいらないところ、三年ほどまではまいるところ、長期間まいるところなどがある。
 ウメバカは家から遠く離れた山や丘の上、河原などにつくられ、ヒキバカは家の近くでまいりやすいところにつくられているとの報告もあるが、上林地域では、そういうところもあるし、ウメバカとヒキバカが隣り合っているところも多い。
 ヒキバカは個人の家ごとにつくられるか、株ごとにつくられるかのどちらかであって、狭い墓地に石塔がひしめきあって建てられているところが多い。近年は個人の石塔をたてる余地がなくなって、「○○家先祖代々之墓」をたてて個人碑をたてない家も出てきた。
 このような墓碑はいつごろから建てられるようになったのだろうか。両墓制・単墓制に限らず死者の埋葬地をとどめるとか、祭地を設けるために自然石を置くことがはじまり、やがて宝篋印塔や五輪塔などの墓碑がたてられるようになった。しかし庶民の墓地として刻名ある石碑を建てるのは近世以降である。ヒキバカの石塔の中には、室町末期の宝篋印塔や五輪塔、桃山時代の石造厨子や石仏龕などのほかに小形板碑・一石五輪塔が元禄以後の石碑に混在している。このように両墓制が行われている地区には、特色としておびただしい数の板碑や一石五輪などが墓地に造存しており、単墓制の地区にはみられない傾向である。両墓制の一つの墓地であるまいり墓は、現実にはすべて石碑・石塔が建てられていることからして、石碑以前のまいり墓がどのようなものであったかが問題である。推論ではあるが寺院がまいり墓の性格をもっていたのではなかろうか。睦寄町光明寺や睦合町善福寺では詣り墓の意味をもっていたと考えられる習俗を伝えている。
 死穢を忌み遠ざけようとする気持ちと、死者を親しみなつかしんで別れがたい感情との二つの対立する心情が、こうした両墓制の基盤になっているといわれている。
(『綾部市史』)

綾部市上林地域の両墓制について  綾部史談会  梅原 三郎
両丹地方の両墓制の調査報告は、磯貝勇氏による「丹波地方及びその周辺における両墓制につのて」(綾部高等学校研究紀要第二輯昭和三十年)井上益一氏の「上林谷に於ける両墓制」(綾部史談第四十号昭和三十年)井上正一氏の「丹後における両墓制」(両丹地方史第十三号昭和四十六年)しか私には見あたらない。日本民俗学界の調査報告である「若狭の民俗」(昭和四十一年吉川弘文館)に佐藤米司氏が「両墓制の問題」として報告されているものは、近隣地域のものとして参考になるところが多い。竹田聴洲氏は「民俗仏教と祖先信仰」(昭和四十六年東大出版会)という大著の中で、「民俗学によって発見された両墓制習俗は、一般の単墓制よりも一つ古い墓制と目され、固有の民俗文化としての墓の意味と形態を尋ねる上に重要な指針となるものではあるが、両墓制の半身ををす詣り墓が現実にはすべて石碑という形をとり、石碑が民間に普及したのは近世以降であるところから、現行の両墓制はむしろ新しのものとする異見も提出されまた半世紀に近い研究史が積成した両墓制事例の分布地域が畿内を中心とする中央先進地域に偏在していることは、古典的な周圏理論との矛盾も見られるところから、民俗学界に於ける最近の両墓制研究は一種の混迷に陥っている。」とされ「石碑以前の詣り墓が如何なるものであったかを明らかにするのが焦眉の急事である。」として膨大な資料蒐集とその整理研究をなされている。
私は綾部市内上林地域の両墓制につのて実態を調査して、両墓制のもつ性格を少しでも明らかにし、又口丹波の桑田船井地域や若狭高浜地域、丹後大浦地域の両墓制との関連を知る手がかりを得たいと考えた。このことは単に墓制だけでなく、民俗や文化の伝播交流を探る手がかりともなると思う。このささやかな報告がそうした役割の一部でも果せたら幸である。

両墓制の実態
市茅野…福井県境の村で戸数は明治初年には二八戸あったが現在は七戸である。ここでは府道より北へ集落へ入る道をはさんで、東側と西側の丘の麓に約二百米離れて第一次墓と第二次墓がある。東側が第一次墓でイケバカといい、丘へ登る道をはさんで左右に小さい平地を拓き、二~三軒分の埋葬地が五ヶ所ある。家毎に埋める場が定っており、株内の数軒でまとまっている。埋めたところは土まんじゆうで、まわりに板塔婆が数本立ててある。盆のあとのことで、茶わん、竹の花筒が供えられ、花が枯れていた。十三回忌の塔婆も立っていた。詣り墓は西側の丘のふもとの狭い土地につくられ、たくさんの石碑が二重三重に並び、ひしめき合って立っていた。自然石のものが多いが、角型の大きな石碑もあり、三郎右エ門代々之墓、八左エ門先祖代々之墓など刻まれていた。この先祖代々之墓碑は新しのものばかりである。一石五輪や浮彫石仏など室町末から江戸初期と思われるものもあった。土地の人に開くと、イケバカから詣り墓へ土を少しもって行って墓をヒク。今は先祖代々之墓があるので石塔は立てない。詣るのは三年はイケバカへ詣るとか、何年たっても両方へ詣るとかはっきりきまっていないという。昔は墓は個人持ちの地所につくったが、いつの頃からか今のように集めた。しかし昔の個人墓のあとは私は聞のたことはないと、七十余のおばあさんが話された。
小庸内・大唐内…両地区とも市茅野と大略同じであったが、大唐内は市茅野ほどイケバカと詣り墓の場所が区分けされていなかった。
小中…ウメバカは共同墓地であり草が生い茂っている中に四角に石を組んだところが何ヶ所も並んでいた。墓地の隅には野小屋が葬式用具が納められていた。ウメバカはどの家の埋めるところということなしに、亡くなった人から順にあいたところへ埋めてのくという。ヒキバカはウメバカから離れた丘のふもとの斜面を拓いて株毎につくられており、石塔がたくさん並んでいた。初盆まではウメバカへ詣り、それ以後はヒキバカへまいる。ヒクときには石か土を一にぎりヒキハバカへ持っていく。株によっては単基のところもある。
神塚…両墓制をとる株では、ウメバカは山の高い所にあり、アミダサンとよぶようである。ヒキバカは家の近くに、家毎につくられる。自然石の無銘の石がたくさん立てられている中に、大きの角型の新しの石碑があり白木家先祖代々之墓と刻まれていた。あの家の墓、この家の墓とあちこちにヒキバカが見られる。お盆には両方の墓へ詣り、両墓とも同じ位の重さで祀るという。塔婆ははじめはイケバカに立てるが、一周忌以後はヒキバカに立てるということであった。
志古田…集落の入口に近い丸山という丘の西斜面が墓地で、低い段がウメバカで、すぐ右手の少し高い段の平地がヒキバカである。ウメバカはお盆であっても雑草が生い茂っており、二、三年に一度草刈りをするとの事である。個人別の墓地ではなく、亡くなった順に埋めていく共同墓地である。ウメバカには四十九日まで詣り、そこで墓をヒク。ヒクときは昔は土を一にぎり持って行ったものだが、今はやらないという。ヒキバカは株毎につくられているが、それが連って一面に石塔の列をなしている。昔は夫婦単位の墓石であったが、近頃は先祖代々之墓がふえつつあるという。古老の話によると、約七十年前に個人持ちのあちこちにあった墓を集めて共同墓地を作ったというから、明治二、三十年代のことである。それまでの個人墓地では埋めたところに石塔を立てたという。共同にした時墓石も集めたが、今でも旧墓地に五輪や石地蔵が残っているところがある。墓地の合理化をしたもので、両墓にしたのは埋める場所がないからだと古老は語っていた。
川原…志古田と全く同じ形であり、ウメバカには熊笹が生の茂っていた。ウメバカの右上側にヒキバカがあり、一石五輪や宝篋印塔があり、上林の特色の家型石碑や浮彫五輸の二基並んだものなどが見られた。記年のあるものには延享二年、天保五年などがあった。
草壁…大略右同様の形であるが、ウメバカは山の尾にあり、ヒキバカは山の裾の雑木林を開いた中に株毎につくられていた。明治三十年頃に共同墓地にしたが、それまでは個人墓地であったという。
古和木…今は墓地は三ヶ所にある。昔は川向いの墓地一ヶ所で村中そこに埋めていた。雪が降ったり雨で川が増水したりするので、明治の中頃に今のように新しく二ヶ所の墓地をつくった。しかし昔の墓地の近くの家では今もそこに埋めている。ここも両墓で下の段に埋め上の段に石塔を立てている。奥の墓地は集落のすぐ北の小高い丘の上にあり、小道をはさんで東側に杉垣を背に多くの石碑がひしめきあって立っており、墓石には天明五、文政十一、天保十などの記年が見られる。小道の西側北側にウメバカがあり、細長い土盛りが十数個並んでいた。お盆過ぎの事とて木製のお膳の上に茶わんをのせ竹筒に花がさして供えてある。共同墓地で空いたところへ埋めていくのだが、ここへは三年位詣るという。石塔のところをマツリバカという。明治の中頃にこちらに墓地をつくるまでは川向うに埋め、マツリバカは個人の家毎に家の近くに持っていた。八木家の家墓には、寛文、正徳の石塔が残っている。
早稲谷…古和木と大略同様である。
栃…ここの墓制は複雑である。村の家々から見られる小高の丘全体が墓地の集まりとなっている。丘への登り道の左右に斜面を開いて墓地がいくつも作られており、その小墓地の手前の部分がウメバカで奥に石碑が立てられているもの、単墓と思われるもの、埋めた土盛少のすぐ横に石碑の立てられているものなどがある。丘の頂上の平地にはたくさんのウメバカの土盛りが並んでおり、茶わんや花が供えてある。株か家毎に持墓があるようで区切りが整然とされている。墓地の中央に大きな木の集まりがあり、木の根本に大きを自然石の石塔が数個立てられており、寛文四、元禄十、宝永元などの記年が見られた。この丘より三百米程離れたところにも或る株の墓地があり、石塔がたくさん並んでいる。寛永十一、享保八などの記年があり、一石五輪や石カラトも見られる。石塔群の少し上のせまい平地に、ほんの小さの土盛りや杉の根本に花筒が供えてあるのが四、五ヶ所見られた。昔のウメバカではないかと思われる。
念道…ヒキハカは丘の中腹にあって、株毎にもっており、株の共同墓地である。五輪や石カラトなどが立てられている。今は家毎に墓地をもっており、埋めたところに石碑を立て、ヒキバカへはひかない。この個人墓地には江戸時代の石塔もある。株には当番があってヒキバカの掃除をする。お盆の十四日の朝には株毎に集ってヒキバカに詣るが、どの株も同じ時刻に詣るので村中がヒキバカでそろうことになるという。年末には株内の各戸が集まり、株荒神と株のヒキバカへ詣り、そのあと当番の家で御馳走を食べて株講をする。ヒキバカはいつごろの人を祀ってのるかわからないが先祖だということだけだという。
上記の村々の他に辻、引地は両墓制であり未調査の村も残っているが、奥上林地域の殆どは両墓制であると思われる。地域の人たちはどこでも両墓の習俗を当り前のこととしており、特殊な習俗とは考えていないし、他のどの地域にこうした墓制があるか考えてみたようすもない。両墓にしている理由としては、埋める土地がないからという答が最も多い。中には山の高いところへ石塔を運ぶのが重いからというのもあった。又老富地区では、大きの石塔を建てると家が栄えないというので、土まんじゆうだけにしているのが多いのだとも聞のた。経済的理由があるのではないかと推察されるところである。共同墓地にした年代はどこでも明確ではないが、明治三十年前後のことと思われる。
    +  +  +  +
この調査を通して墓制の習俗類型としての年代的序列がある程度うかがえるような気もするが、僅少の資料で結論めのたものを出すことは先学の戒めるところなので避けたい。ただ「穢れている共同葬地が両墓制成立の前提であり、共同葬地の成立が村落の惣村的結合と重なり合う」という説には疑問を出さざるを得なのと思う。
 (この調査には楳林誠雄氏に格別御協力を頂いた。ここに記して厚く御礼を申上げる)
(『両丹地方史』(1972.11.19))


睦寄の伝説


藤元七家と聖明神
時代は詳かでないが睦寄の里に、悪な武家くづれが徘徊、暴力勝手の振舞に人々は殊の外に難渋し不安の毎日を送った。
其の頃有安に藤元善右衛門と云ふ弓の名人あり、人々の苦しみを絶たんとして一日山上より矢を放って悪人の胸板を貫き、名声は頓に上った。(射殺現場の有安の畑の一隅には石塚が現存する)。この頃大唐地の大くも谷に大蜘蛛一族が棲み、暴ぎゃくをほしいまゝにした。安住の危機に直面した住民はひそかに善右衛門に救いを請ふた。義侠の雄善右衛門は求めに応じて大くも一族と対決し、終に其の神技によって悪霊を退治した。住民は後難を慮り一社を建立して、ねんごろに其の霊を弔ふ。大くも神社(現在の聖大明神)が即ちこれである。
恩に感じた大唐地内住民は毎年十月一日の祭礼には、善右衛門を賓客として招き最高の礼を尽すのを例とした。其の後年うつり星変って善右衛門の一家は益々栄え一族は七家にまで繁栄したが、このしきたりは連綿として続き、藤元七家と聖明神の奇しき宿縁のきづなをなしている。
昭和の今日、銀輪を連ねて参拝する藤元七家の姿を見る毎に、この香床しい伝承と、往時の伝統を今尚護って生きる大唐地の人達の篤い信仰と純心さが心温かくしのばれるのである。
(『奥上林村誌』)


聖大明神     大唐内村
祭ル神 聖リト云  祭礼 九月三日
舞堂 鳥居 森凡五十間四方
当社ノ調往古奥ノ山ニ人ヲ取大蜘住ケル由 草ケ部村ニ高野聖リ住シ当山ニ来リ退治ス 今其谷ノ名大蜘谷ト云 其聖リヲ祭ト云 并藤ノ森ト云社アリ 近江国佐々木郎等住シ其先社也ト云 子孫今有 有安村
(『丹波志』)


君尾山の天狗と大とち
  綾部市・奥上林小 六年 楳林久範
君尾山には「国宝仁王門」があります。鎌倉時代に建てられたという歴史があります。この山門には、次の様な伝説があることを父から聞いたことがあります。
君尾山光明寺に、ある住職さんがおられました。この住職さんは、君尾山にいる天狗をこらしめようと、天狗を呼びました。そして 「向こうの仁王門まで飛びあいっこをしよう」と話して、本堂の屋根に登って仁王門まで飛びました。そしたら、この住職さんが、
「今度はうしろ向けに飛びましょう」と言われたのですが、いくら和尚さんでも、それはできないと思いました。でもこの住職さんは飛んだのです。天狗はできなかったので、この住職さんに「天狗のわび証文」として残しました。この様に仁王門には、伝説が残っているのです。
仁王門のつくりですが、屋根はとちぶきという珍しいふきかただそうです。この仁王門は、昭和二十七年に解体修理をした時、二階から年号が書いてある柱が見つかったそうだ。そして、仁王像は鎌倉時代の特色がよく表現されていて、がんじょうで力強さが感じられるところから、鎌倉時代のものとわかったそうだ。
君尾山のもう一つの有名なものとしては、大とちです。大とちの周囲は、十二・七メートルと言われているので直径は、約四メートルです。この大とちは、天然記念物となっています。中は空洞になっていて、下から人が入れるそうです。ぼくも行ったことがありますが、それはそれは雄大な木でした。何本もの枝がのびていて、他の木をさえぎるように立っているようです。
この君尾山も、今では君尾山林道の完成で、自動車を使っての参拝もできるようになりました。すばらしい山門と大とちを、できるだけ多くの人に見てほしいと思います。
(『由良川子ども風土記』)




睦寄の小字一覧


睦寄町
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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