京都府綾部市五泉・五津合・八津合・睦合
京都府何鹿郡中上林村
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旧・中上林村の概要
《中上林村の概要》
今でもナカカンと呼ばれているが、上林谷の真ん中あたりに位置する。以前はこの範囲の村があった。今はこの範囲を対象とする行政組織はない、自治会の単位として残るくらいか。
中上林村は、明治22年~昭和30年の何鹿郡の自治体。五泉・五津合・八津合・睦合の4か村が合併して成立。旧村名を継承した4大字を編成。村役場は八津合の神谷地内に設置した。
昭和28年台風13号の洪水によって全村が大被害を受けた。同30年綾部市の一部となる。村制時の4大字は綾部市の大字に継承された。
中上林村の主な歴史記録
『中上林村誌』に、
廃藩より町村制実施まで
明治五年五月より明治九年九月十三日迄の間何鹿郡は十四の区に分けられて行政が行われたが、中上林関係は次の区に属していた。
第十二区
浅原村、念土村、小山村、真野村、小田村、引地村、西屋村、神谷村
第十三区
日置殿村、石橋村、殿村、馬場村、山田村、瀬尾谷村、遊里村、清水村、虫村、大町村、弓削村、市之瀨村、市志村、辻村、水梨村
其後念道、小山、真野、小田、引地、浅原の六ケ村を合して睦合村とし、西屋、神谷、日置殿、石橋、殿村、馬場、山田、瀬尾谷の八ケ村を合して八津合村を立て、又遊里、清水、虫、大町、弓削の五ケ村を合して五津合村とし、市之瀨、市志、辻、水梨を合せ頭音をとって五泉村を立てた。
明治九年九月十四日より明冶十二年十二月迄第二回の行政区割によって行政が行われたがこの時睦合、八津合、五津合、五泉の各村は第五区に属した。
明治二十一年四月市町村制が公布され、翌二十二年には連合役場を改廃して何鹿郡内を一町十三ケ村に分け村長、助役を置いて行政を行う事になった。
本村に於ては明治二十二年五月十日村長並びに助役選挙の為、初村会を開会、出席議員は十二名、議長は郡長の指名で清水嘉兵衛が勤めた。選挙の結果森津幸右衛門が初代村長に当選、次で助役選挙の結果、小林俊治が当選した。明治二十二年六月十日村会を開き、収入役及び書記を選任、収入役に五津合の福井三左衛門が指名された。尚村会の際の議長は村長森津幸右衛門がこれに当つた。
明治二十二年六月一十九日付で何鹿郡元八津合村外三ケ村連合戸長森津幸右衛門より中上林村長森津幸右衛門(連合戸長と同一人)に報告した二十一年度連合戸長役場経費に関する報告書によれば、一年間の役場経費総額は九十五円八十四銭八厘となっている。 |
昭和28年の台風13号で大きな被害があった。
○台風十三号
◇災害の状況
二十四日来より降りつゞいた雨は二十五日に至り増々雨量を加え、午后に入るや台風を伴ひ、暴威を京都府一円に振ひ近畿各県に亘り被害各地に甚だしく、本村の被害も又未曾有の惨状を呈した。山林地帯には山津軽を起し、道路は寸断され、河川も堤防決壊、洪水は家屋を流失し損壊、埋没、浸水し、中心部穀倉地帯の耕地は殆んど喪失し、収穫を目前にした黄金の波は一瞬にして泥土と石河原と化したのである。
(『中上林村誌』) |
台風十三号来襲
昭和二十八年九月二十三日、年前八時から正午過ぎまで降った雨はすでに土中飽和状態にあった。つまり大地はすでに雨を吸収できないまでに水をふくんでいた。引きつづき二十四日の降雨により河川は増水しはじめ、二十五日の朝来台風が近づくとともに、風をまじえた雨はいよいよ強く、午前十時由良川は綾部大橋で危険水位 (二・五メートル)に達し、正午には同橋下流の紫水園付近に浸水しはじめた。そのころ福知山-綾部間は電柱が倒れて送電線が切れ、午後二時半には市内の国鉄山家-綾部間、綾部-梅迫間は不通となり、各地とも交通ならびに電灯線は寸断され、風速は二〇メートルに達し歩行困難となった。雨は益々はげしく刻々増水、雨量は遂に三五〇ミリに達し、午後八時ごろには暗黒の中に家屋が流れはじめ、被害は時がうつるとともに次第に増大した。
特に由良川の支流上林川流域は、二十四、二十五の両日に降雨量五〇〇ミリを記録、特に二十五日夕方にかけては時間雨量四〇~四五ミリという滝のような大雨が数時間降りつづき、上林谷に未曽有の大惨害をもたらした。奥上林の田ノ谷部落では避難先の家が山崩れにあい一九名の尊い命が一瞬のうちに生き埋めにあうという痛ましい事故が発生した。また、二〇〇か所以上の山崩れがおこり、堤防はいたるところで決壊し、上林川沿岸平野いっぱいに氾濫した水が湖のようになり、厚さ二メートルもの砂礫と泥土、流木が堆積するに至ったのである。
(『綾部市史』) |
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