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丹波の

並松(なんまつ)
京都府綾部市並松町



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京都府綾部市並松町

京都府何鹿郡綾部町本宮村

並松町の概要




《並松町の概要》
市街地の東部。東は綾部井堰によって水がたたえられた由良川に面する。由良川に架かる綾部大橋をかつては府道福知山綾部線(8号)が通っていた。左岸沿いを走る府道広野綾部線(450号)に沿って住宅や旅館などがある。
並松町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。もとは綾部市大字本宮村の一部。


今は鄙びて寂れて忘れられて、の印象があるが、かつては市内第一の景勝地で「丹波ライン」と売り込んだという。本物のラインの流れを見たことがないので似ているかどうかは判断できない。
元々は地名の通りに松並木があったが、それもなくなってしまった。今は夏の水無月祭だけにその賑わいがしのべる。

『目で見る福知山・綾部の100年』↑↓
並松風景(綾部市・昭和20年代) 井根山から遠望したところ。綾部井堰らよって由良川の水が湛えられるため、市内第一の景勝地である。

並松遊船場(綾部市) 明治40年頃から遊船として知られ、夏には昼も夜も歓声が断えない観光地であった。和船や屋形船が浮かぶ風景には趣があった。明治45年の写真。背後には3代目綾部大橋。



《並松町の人口・世帯数》 190・82


《主な社寺など》

熊野新宮神社

市民センターの西隣。
熊野十二社大権現     綾部町
祭ル神
鳥居有 小松ノ重盛信仰ノ社ト云伝フ(本)宮村宮本ナリトモ云
(『丹波志』)

熊野新宮神社 綾部町字本宮村小字上溝口にあり。村社にして伊奘册命、事解男命、速玉男命を祭神とす。現在氏子二四二戸、並松、本宮、横町、上野の各一部之に属す。本神社は古く本宮山の東麓にありしを、九鬼隆季公の時現在の地に遷し、次で子隆常公は寛文十年三月十五日社領として三石五斗一升の地を奉納したり。現在は十月十五日を例祭とす。今綾部藩の記録中より左の一節を抄出せん。新宮之神社は熊野権現にてまします。即ち此処は昔平重盛卿領地たりしによつて、観請し、不時の詣をなさまほしく景色の清き所を選び給ふ。此の所心に叶ひけるにや宮造りましまして敬ひ給ふ旧跡とかや。三熊野の景色にて本宮といふ山の北に新宮の社あり。南に那智といふ所あり。是熊野三山を移し玉ふ。本宮山の東の方に滝あり。那智の滝の如く流れ、末に川あり。是三熊野之川になぞらへて、妙なる霊地なり。抑々当社の御神体のこと、諸説まちまちにして、古老の伝ふる所混雑定かならず。社記伝記に曰く、本宮は伊奘册尊、新宮は速玉之男、那智は事解男と云ふ。
(『何鹿郡誌』)

熊野新宮神社(並松一本木)
 祭神 伊奘冊命、事解男命、速玉男命
 熊野権現、或は俗に水無月さんなどゝ呼んでいる。藩記に、
 一、権現
 一、社 四間半 三間半 三社立
 一、拝殿 二間 四間
 一、神楽堂 二間半 一間半
 隆季公 寛文十戌三月十五日
 一、三石五斗一升 毛見帳面
   内
   六斗七升六合 新宮村分
   二石八斗三升四合 坪内村より
 縁起一巻近年何其寄進右之内に
丹波国何鹿郡綾部庄新宮之神社は熊野権現にてまします。即ち此所昔平氏小松三位中将御領知たるによって、彼卿熊野権現を信仰して此所に三熊野を勧請し、不時の詣をなさまくおぼして景地の清き所を選び給ふに、此所心に叶ひけるにや宮造りましまして敬ひ給ふ旧跡とかや。真に三熊野の景色にて本宮と云山の北に新宮の社有、南に那智と云ふ所有、是熊野三山を移し給ふ跡なり。本宮山の東の方に滝有、那智の滝の如く、流れの末に川有、是三熊野の川になぞらへて妙なる霊地なり。抑々当社の御神体の事諸説区々にして或は古老の伝ふる所混雑定かならず、社記伝記に云、本宮は伊奘冊尊、新宮は速玉之男、那智は事解之男と云
一説に此社は元来本宮山の東麓に有之、然るを隆季公御代此所に遷したまふ。
 右縁起にあるように、本宮山の麓に熊野三山を移して祀られていたのが、「新宮権現勧進並に本宮権現勧進の事」の記縁によると、寛文十二年の秋新宮を今の地に移し、藩主の援助を受け社殿を新築し、本宮の御神体をも共に遷した模様である。又水無月祭は古来本宮権現の祭として、六月末日の夜更け由良川の上流に月が出て、田野川が落ちて出来ているかさねの滝にその影が映るのを合図に祭典が始り、其の夜は終夜庶民も群り参拝し賑かな祭が行はれたと云ふ。それが現在綾部名物の一である夏の水無月祭の起りである。
 養蚕神社
熊野新宮神社に合祀されている。祭神は大宜津比売神、和久産日神であるが、大正六年十一月十六日、時の皇后陛下が蚕糸業奨励の為綾部に行啓になり、親しく地方蚕業の実状を御覧になった光栄に感激し、部長前田宇治郎氏は郡民を代表して宮中紅葉山御養蚕所に祀られている蚕祖神の分霊を賜らんことを請い、特に赦されて此処に奉斎されたものである。
大正十五年三月郡内の有力者が発起人となり.池田府知事を総裁に仰ぎ、郡内各町村長、蚕糸同業小組長等協力の上、養蚕神社建立の運動を起したが果さず現在に至っているが、毎年四月十六日祈願祭、十一月十六日報賓祭を執行し、綾部の主な年中行事の一つとなっている。
 蛭神社
熊野新宮神社の境内にある。
明治三十七年町の呉服商組合の出口常次郎、村上隆一、田中行一、大島利吉、山口松之助等の商人が、京阪神の取引先から資金を得て西ノ宮蛭神社から分霊を奉祀したのが始りで、この年始のて十二月に蛭市を催した。
それ以来熊野神社の境内に祀られていたが、昭和二十三年神殿を新に造営し、二十九年から一月、七月の各十日にえびす祭が催され、本町通から並松までの商店が蛭会を組織して大売出しをするようになった。今本町上町通りを一名蛭通りというのもこのお宮から来たものである。
(『綾部町誌』)


境内の恵比須神社↑初エビス大祭とか催され、宝船などの巡行がある。
右手は大本教の出口王仁三郎の歌碑。大本教とも関係は深い。


水無月まつり
当社の祭礼ではないが、近い所で、俗には、そう信じられてもいる。水無月の祓いは各地で広く行われている民俗行事だろうと思われ、どこか特定の有名神社とは特に関係がなかろう。ここでは当社に習合していると言えばそういうことであろうか。
菊人形というのがあって、対岸だったが、ずいぶんと古いハナシで、もう綾部の人でも知らないかも、まだ幼児くらいの時だが、それは誰かに連れていってもらった記憶がある、菊の香りがいまだに生々しく思い出される。しかしこの花火などはいまだ見に行ったことがない。

水無月祭 その他に外客誘致の観光施策として二十七年九月、景勝の由良川並松河畔で鵜飼いをはじめたが、二十八年の災害などでながつづきしなかった。しかし、毎年七月二十八日夜、並松河畔一帯にくりひろげられる花火と万燈流しは水無月祭りとして、福知山の堤防まつり・舞鶴の港祭りとならんで両丹の三大祭りとされ、数万の観客で街はにぎわった。並松を中心とする観光施設の歴史はふるく、明治三十九年ごろからはじまったといわれる。そのはしりが遊船場であって、資金四〇円ではじめた大小五そうをもつ貸ボート屋だった。並松の清流に舟をうかべて酒をくみ、あるいは釣り糸をたれて風流をたのしんだものだが、ある夜、漁師がかがり火をたいて舟をあやつる光景が水にはえ、なんともいえぬ美しさであった。これにヒントを得て、カマボコ板に釘をうちローソクをたてて燈をともし、上流から流して見物をしながら盃をかわす遊びがはやった。これが万燈流しのはじまりだったという。大正五、六年ごろの経済界の好景気の波にのり、並松付近ははでになる一方で、これとともにアユ狩りと万燈流しもさかんになっていった。大正七年、綾部実業団が水無月祭りの行事としてこの方燈流しをとりあげ、その後綾部の名物のひとつとして戦後はますます盛んとなった。特に市制施行後は、綾部商工会議所が中心となって毎年続けられ、夏の納涼大祭として市民に親しまれ現在にいたっている。
(『綾部市史』)

あやべ水無月まつり


綾部井堰



綾部大橋と丹波大橋の間に設けられている、堰を作って水位を上げて水を取り入れる、手前が取り入れた水が流れる綾部用水。

モニュメントがある。

綾部井堰
古来瑞穂の国の日本の農業は稲作が中心であり、稲作のために欠くことのできない水を得ることがもっとも重要なことでした。
綾部井堰用排水路は、綾部市並松町で一級河川「由良川」から取水した潅漑用水で、福知山盆地の由良川左岸の田畑を潤しつつ福知山市前田に至っています。
寛永11年(西暦1634年)綾部藩主九鬼隆幸の時代の古絵図には綾部井堰と天田井堰の水路が描かれておりますが、慶応2年(1866年)大洪水のおり治水担当代官の近藤勝由が二つの井堰を継ぎ合わせる大改修を行い基礎を作りました。
今日の水路は、昭和25年度から昭和40年度にかけて行われた「府営綾部福知山用排水改良事業」等により改良されたものです。
一滴の雨、一片の雲が谷を下り川となり、青い空、青い山のもとこの清流を育んでいるのです。
上流の自然と先人の努力に心から敬意を表し、私たちはこの水路と歴史を後世に引き継いでいきます。
平成23年3月        綾部井堰土地改良区


綾部井堰
綾部から中筋地区の大島を経て高津、福知山市西中筋地区までの広大な水田五百六十町歩を潅漑している綾部井堰は、此の地方最大の潅漑工事であり、豊富な水量が綾部盆地の平野を水田化したもので、その産業的な価値は測り知ることが出来ない。従って江戸時代より井堰については藩も周到な措置をとっていたことは当然である。
現在の綾部井堰は並松に井堰を設け、青野井倉から延裏まで水路を有するものと、栗村と大島の間にあって大島、高津より西中筋区に及ぶ天田井堰の二つが延裏で一本に結ばれて出来たものである。
即ち慶応二年(一八六六)五月、八月の両度の洪水で綾部井堰及び天田井堰は大損害を受けたが、殊に天田井堰は井口が土砂で埋り水路が干上ってしまって大島以西の水田を潅漑することが出来なくなった。従って大島以西の水田を救う為綾部藩は時の代官近藤勝由に命じ、延裏の綾部井堰の溝尻を天田井堰の水路につなぐ為其の同約八丁の塀割工事を敢行させた。この工事については中筋組の大庄屋羽室嘉右衛門が二十二才の青年の身を以て近藤代官を助け、その熱心な監督ぶりは永く語り草となった。時に慶応三年三月のことである。
 近藤勝由は文政十年(一八二七)綾部藩士の家に生れ、家禄は米拾石の軽身であったが、嘉永元年(一八四八)八月の大洪水で綾部井堰の井口が切れた時、年僅かに二十一才の身で代官に任ぜられ、井堰の土橋及び破損水路を修築した。其の後勝由は専ら井堰の修理に当ったので、井堰については唯一の権威であり、綾部井堰の樋門の修理の如きも勝由を除いては人がなかつたと伝えている。現在の樋門は明治十七年彼の手によって修築されたものである。唯前記延裏新溝開さくに関する記念碑に、勝由の功績が強調され、綾部井堰が近藤代官によって創始されたように伝えられているのは誤りである。勝由は明治十一年頃田町の堀勘七が郵便局を開設した当時、局員として勤務したが、同十三年より同二十二年まで局長に就任し、明治三十五年七十六才で亡くなった。
 綾部井堰の構築は少くとも三百年以前であることは、九鬼隆季が始めて綾部に陣屋を造った当時の見取図に、明瞭に綾部井堰の水路が引かれていることで知られる。この井堰がいつ頃創設されたかは歴史的に解明する事が出来ないが、往昔嘗て由良川が流れたであろう低湿地帯に、郷村制の成立による地方勢力か又は大きな政治力の下に多くの郷土民が営々として掘割を造って、並松に堰を設けて水を引入れたものであることは想像出来る。こゝに注意をひくことは、昔平重盛が綾部を領し、熊野神社や井倉八幡宮を勧請したと云う伝説が或る程度真実性があるとすれば、当時の平氏の権力がこんな大事業を起しても不思議ではないと思はれる。井倉八幡宮の社伝として、
 古老伝えて云う。重盛領主として潅漑の利を企て、和知 川をせき止めんとせしも功成らず、綾部郷に七社を奉斎して遂に堰止めたり
とあるのも一つの参考資料であろう。
 綾部井堰はもと大体現在の位置に築かれていたが、近藤代官が味方の笠原神社の下手から斜に構築していたが、明治二十九年の大洪水に崩壊し、味方側の堰下をひどく荒し、並松側を削って松の大木を多く倒したので、その後は現在の場所に変更されたものである。
 綾部井堰は毎年洪水等によって修理の必要があったので、藩では関係村々に人足を徴し、修復の万全を期していた。藩記録によると、
 綾部井堰
 長弐百四拾間、味方より川除き新堰弐拾五間、享保十九 寅春出来
 井組人足
  二十三人青野村  十四人 町
           内二人坪内村
  十六人 井倉   十四人 岡村
  二十四人廷村   二十四人 大島村
   〆 百十五人
 堰繕杭桁
  桁五百本 例年河合野山にて
  杭五千本 被下候古格也
 田方水懸り 九十町二反四畝十八歩
  拾弐町七段四畝十一歩  青野村
  十七町一反五畝十五歩  町 分
  一町四段二十四歩    坪内村
  二十一町六畝九歩    井倉村
  九町三反十二歩     岡 村
  十七町八反六畝二十四歩 延 村
  二十町一反六畝三歩   大嶋村
などあり、又昔から並松の井根山はその山の木を井堰の構築用に用いたから、名が出たと伝えられている。
 明治二十四年八月、水利組合条例にこよって綾部町井堰普通水利組合と弥し、綾部町長を以て管理者とし、更に明治四十二年一月規約を改正し現在に及んでいる。今熊野神社の境内に建てられている近藤翁頌徳碑は、昭和十年水利組合によって建立されたもので、明治二十五年の「延裏新溝之記」の碑文をそのまゝ転記し、綾部井堰構築の功績を近藤代官一人に帰している観があるが、綾部井堰創設と混同してはならない。
 尚この井堰の外に、並松の重ね橋のたもとから田野川の水を引いて、並松から一本木を経て川糸通りを流れ、綾中、青野方面を潅漑している上井溝がある。これも相当古い水路であろう。
(『綾部町誌』)

綾部井せき
 綾部市・綾部小 六年 藤原和代
            平賀信一朗
            菅野真由美
 私たちの住んでいる綾部から、福知山にかけては広い田んぼが開けています。そのちょうど中央に、由良川がゆったりと東から西へ流れています。私たちは、この由良川の水と、人々のくらしについて調べることにしました。
  綾部井せきの誕生
 綾部井せきは、綾部の並松という所にある、コンクリートのとても大きい井せきです。全長は二〇〇メートルもあります。この井せきによって由良川の水を一時せきとめて、そこから用水路で綾部、福知山の田んぼに水を送っているのです。
 用水路は、この綾部井せきから出て、青野、井倉、岡、大島、高津を経て、福知山の観音寺、おき、石原、戸田へと、全部で一〇キロ以上もあります。今は、こんなにきれいな井せきと用水路だけれど、昔はいったいどんな様子だったのでしょう。
 この井せきと用水路のもとになったものがいつごろ作られたかは、はっきりわからないそうですが、井倉八満宮の社伝によれば、平氏が作ったとされているそうです。そうだとしたら、この井せきと用水路は、八百年以上も昔に作られたことになります。そんなに昔なので、作り方も今のように機械やコンクリートで作るのではなく、人の力と、木や石で作ったことでしょう。江戸時代になって、綾部藩の管理になりましたが、たびたびの洪水でこわされ、その修理にはずい分苦労を重ねてきたといわれています。
 今の井せきと用水路の形がだいたい整ったのは、江戸時代のおわりから、明治にかけてのことです。資料によると、慶応二(一八六六)年の八月に大洪水があって、天田井せきがこわれ、農民たちが困っていたのを、近藤勝由という代官が私財を投げうって綾部井せきと合流させて、今のような綾部から福知山までの用水路を作ったそうです。これによって、三五〇ヘクタールの田んぼに水がゆきとどくようになりました。当時、農民は「そんなことはできっこない」と反対したそうですが、私財を投げうってまで工事をした近藤代官は、とてもりっぱだと思いました。
  井せきと水路のつくり方
 今の井せきは、コンクリートのとてもじょうぶなものですが、昔は木や石で作ったそうです。先生の話では、川底に太い親ぐいを何本もうちこんで、ばた(丸太をタテに半分に割ったもの)でとめて、その間に子ぐいをうちこんで、石を中につめて流されないようにしたそうです。くいは、生松を使ったそうですが、これは「生松千年」といわれるぐらい、水の中ではじょうぶだったからです。
 親ぐいは、直径が三〇センチ、長さは三メートルもあって大きなやぐらを組んでは、十人以上もの人が力を合わせてうちこんだそうです。六〇~八〇キロもある鉄のおもりをなわで引っぱりあげ、それを親ぐいに落としては、少しづつうちこむそうです。みんなの調子を合わすために、「くいうち音頭」という歌をベテランの人がうたったといいます。また、くいをうつ時には、うち役の他に、根どりと、しんや持ちという仕事があって、根どりは、くいが動かないようにささえる人、しんや持ちは、くいにさしてあるしんが、動かないように持つ人です。このしんや持ちはベテランでないとできないそうです。
 水路の方は、「すぼり」と言って、土を掘った所に土がくずれないように、石をつんだり、しがらみをしたそうです。ここでも生松を使いました。しがらみには、竹を使ったそうです。
  現在の綾部用水
 この用水路が今のようなコンクリートにされたのは、昭和に入ってからです。初めに昭和二十五、六年の二年がかりで並松から井倉まで、残りの前田までは、昭和二十八年から工事を始めて、約十三年間、二億一千万円の費用をかけて作りあげられたそうです。この全長は一四キロもあります。井せきの方も、昭和二十八年の大洪水でくずされたのを機会に、コンクリートのものに作り直されました。
この水路工事の完成によって、用水の不足によるかんばつや、排水不良の悩みがなくなって、米もたくさんできるようになりました。
 今も昔も、農業にとって水はとても大切なものです。この綾部用水にも、水が絶えないように色々の工夫がしてあります。用水路と排水路が、別々にあって、農業に一度使われた水は全部排水路に集められたり、排水路の上を用水路が通っていたり、延のある所では、一度使った水をもう一度用水として使うというようなしくみの所もあります。もしも、この井せきと用水路がなくなってしまったらいったいどうなってしまうのだろう。農家では作物がぜんぜん取れなくなるし、ぼくたちも食べるものがなく困ってしまう。農家の人たちにとっても、私たちのくらしにとっても、なくてはならない大切なものだと思いました。
(『由良川子ども風土記』)

上水道の浄水場もある。

綾部大橋

並松町と対岸味方町をつなぐ。由良川に架かった最初の鉄の道路橋。昭和4年の架橋で、いまとなれば、狭い。西向き一方通行になっている。高さ2mまでである。これがない頃は渡し舟である、鉄道の鉄橋が架かっているあたりにその渡しがあった、という。

紫水が丘公園より↓


この橋以前にはこんな橋が架かっていた(今の橋と似ているが今の橋ではない)↓

『目で見る福知山・綾部の100年』↑↓
綾部橋(綾部市・大正末期) 昭和4年に架けかえられるまでの綾部橋を味方側より望んだ景色で、右上は熊野新宮神社の森、木材の集積場や遊舟場の舟、松並木などが見える。

あやべ市民しんぶん・時代の架け橋


市民センター

いつだったか、当会館に何かでお世話になったことがあって、冬だったのか、「エライ寒い所だな、ヘンな建物だな」の記憶がある。
実はどこかのマチが泣いて喜ぶ赤れんが倉庫のような建物で、海軍の払い下げを改造したリサイクルものだという。武器のためのもので、中にいる人間の都合などは考えられてはいない、元々が快適さゼロである。市の財政苦しかった時代の想い出の建物であり、いろいろな団体がここを拠点としている様子で、戦争のカゲを喜ぶような馬鹿は一切見られない。
一度目は悲劇として、二番目はつまらぬ茶番として、ヘーゲルは正しいよう…


市民センターの建設
市制をしいた綾部市は非常に広い区域となったが、市民は体育や文化活動の場にめぐまれず、さらには府下の中央に位置する都市として中丹地区をはじめとする全府下的なつどいの誘致にも事欠く有様で、市民の間には早くから市民会館建設を望む声がたかかった。
旧綾部町民には、各種の催し物や集会場として大正九年に建設された波多野記念館が使われ親しまれてきたが、この建物も古いうえに狭くなり、市の各種行事は大本みろく殿など外の施設にたよるという状態であった。市においても、多人数のつどいの場として中央公民館建設の必要は感じていたが、市制施行以来、学校建築・市庁舎新築・十三号台風による災害復旧費などの予算がかさみ、容易にこの建設にとりくむに至らなかった。昭和三十三年十一月、企画審議会を開き市民センター建築委員会を設置、事務局を設けて逐次具体化する運びとなった。これによると、旧舞鶴海軍の鉄骨建物の払い下げをうけ、屋内体育館・図書館・婦人会館などあらゆる団体の総合殿堂にしようと計画されている。建物はもと栗田海軍航空厳の大工場で、建坪二四四九平方メートル、軒高一六・五メートル、棟高二五・五メートルという大きなものであった。有利に払い下げをうける見通しがついたので、同年十二月の定例市議会で市民センター建設が決議され、翌三十四年、五三二五万円で起工することになった。建設位置は中央公民館(波多野記念館)の東側で、第一期工事は航空廠建物の鉄骨を解体して運び、本館の建物を築造することがおもで、三十六年一月、建坪二〇八四・七平方メートルの大市民センターの外郭が完成した。
その間に厚生年金還元融資五千万円が確定され、その他の財源として一般市民・市外在住出身者・法人関係などに自主的な寄付金の協力をうったえた。第一期工事の完成で総工事の約七〇パーセントができあがったとはいえ、そのままでは利用できず、一階・二階の第二期工事の着手がまたれた。
三十七年二月、志賀新市長が長岡市長のあとをひきつぎ、市民センター早期完成の努力をかさね、ようやく国民年金融資の見通しを得て同年十二月、三一五〇万円で集会場・図書室・ホール・ロビーなどの第二期工事に着工、翌年六月未で工事をおわり、体育室・中央ホールをはじめ図書室・会議室などが使えるようになった。第二期工事の完成をまって三十八年七月五日に開館された市民センターは、文字通り市民の文化・体育の殿堂としての各種の組織・団体の会議や式典、講演、競技、レクレーションなどに使用され年々利用者もふえたが、第三期整備事業として残された地下室の整備工事は四十三年三月から総工費一四九八万円を投じ、大中小の各会議室・和室・機械室・用具庫・倉庫・更衣シャワー室などのほか中央ホールの暖房設備も完備し、ここに市民センターは一〇年の歳月を要して名実ともに完成し、並松河畔にその偉容を誇る存在となった。
(『綾部市史』)


府立綾部高校東分校

市民センターの裏側(北側)にある(地籍は川糸町)。九鬼藩は最初(下市場時代)は、この辺りに城館を置いていたという。当時の綾部藩本丸はここにあった。その時代の図↓(『綾部市史』)


古い綾部の中心はこの辺りであった。

《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


並松町の主な歴史記録


郷土の熊野信仰 別所町の那智山願成寺と熊野神社には、熊野十二所権現がまつられていることは前に述べたところである。熊野権現を京都に勧請したのは、永暦年間(一一六〇~一)といわれ、治承二年(一一七八)には熊野の修験者たちが山陰通にあらわれており、京都の新熊野社の荘園二八か所のうち、丹波国には吾雀荘と志万荘があった。この熊野十二所権現像は、これら荘園の守護神として在地の人々にまつられたものであろう。
 平氏の熊野信仰については前に述べたが、綾部にもこれにかかわる伝承がある。それによれば、平重盛は丹後の知行国主となり、天の橋立の景勝を愛して、府中に館をもっていた。また綾部にも所領をもち、並松の景色がきわめて熊野によく似ているというので、ここに熊野三所権現を勧請したという。いまこの地には、那智山正暦寺・熊野神社・熊野新宮社(明治になって熊野神社に合社)があり、地名に、本宮・新宮が残っている。正暦寺の一祠には那智の本地仏、千手観音像がまつられている。この像は藤原様式の繊細な感じのする木像で、鎌倉前期の作といわれ、熊野信仰の盛んな風潮の中で作られたものである。
その外、熊野神社・熊野新宮社・十二社神社・十二所神社・十二所権現などがまつられており、本社が一五社、境内社が七社、合わせて二二社におよんでいる。いずれも鎌倉初期から熊野信仰の盛行する中で、中世の間に勧請しまつられたものであろう。
(『綾部市史』)

丹波ライン
観光綾部は並松の水郷を中心とする景観を以て成立して来た。その濫觴は平家全盛の沿革の昔、平重盛が綾部の地を熊野の風景になぞらへ、この地を愛して熊野三山を勧誘したと云う伝説から発している。
江戸時代には藩主も並松の川瀬に舟を浮べ、納涼に打ち興じたものと見え、藩記事保六年の条に、「四月御遊山舟一艘出来」とある。又味方への渡船場附近の青野川原では毎年藩士達が花火を打上げて楽しんだものである。元来並松は阪鶴鉄道(大阪-福知山-舞鶴)開通以来、由良川上流の桑田、船井両地方の材木を筏に組んで流して来たものを陸上げして、阪神地方へ輸送する重要な木材の集散地であった。即ち綾部井堰でせき止められた並松の淀みに、無数の材木が水面を覆っている光景は実に壮観で、当時並松から味方へかけて材木屋、製材所、飲食店、旅館、その他商店が立並んで、綾部の繁華街的色彩を呈していにのも一つには木材の集散地としての条件があったからである。
然るに明治四十三年、園部、綾部間に鉄道が開通し、直接綾部、京都間に鉄道輸送が可能になつに為、従来の木材その他の物資は総て鉄道を利用するようになつにので、由良川名物の筏洗しの風景が跡を断ってしまい、綾部の材木に関する事業は全く衰微するに至った。
並松を中心とする観光施設の沿革は、大体明治三十九年頃から始つたものと考えられる。その最も早く試みられにものは遊船場である。即ち旧藩士吉川正中、大串重事、石川正時などが正麿寺下の重ね橋の別荘(当時大串家所有)を中心に商売と遊びを兼ねて「短艇矢艪会」と云うものを作った。資金は石川、吉川両氏は金拾円、四方某、西村某は各々拾五円を拠出し、大型ボート二艘、小型ボート三艘を購入して貸ボートを始めた。これが明治三十九年六月のことである。総資本金六拾五円、ボート五艘、この代金三十七円五拾銭、常務として前記吉川、石川、大串の三人が当ると云つた陣容であった。然し翌四十年の大洪水はこの遊船場に大損害を与え、修繕費その他出費多く、収支償わず、遂に四十三年廃業してしまった。
この矢艪会時代、吉川氏等三人は右の別荘を根拠として、並松の清流に船を浮べ、或は酒を汲み或は釣糸を垂れて閑日月を楽しむと云つた風流をことゝしていたが、或る夜漁師がかゞり火をたいて舟を操る光景が水に映じ、何とも云えぬ美観であったので、これにヒントを得て蒲鉾板に釘を打ち、ローソクを立てゝ灯をともし、上流から流して盃を交しながら風流に興ずると云った遊びをやったが、これが後の万燈流しの始まりである。これと時を同じくして並松の観光の為に一生を捧げた四方敬助を中心に、梅原弁蔵、梅原宗三郎、白波瀬弥太郎の四人が合資で、松雲閣(今の現長旅館)の前あたりに遊船場を経営し、遊覧客を招致する一方法としてこの火流しを研究し、やがて客の需に応じて一箇何銭と料金を取って、二十、三十と灯籠を流すようになった。
明治四十四年頃より四方敬助の主唱によって、綾部の旅館組合のてつぼうや、小西屋、花月、亀甲屋、亀嘉 天治、金波楼、美濃屋、杉山亭等と提携し、綾部橋の上手に遊船場を新設し、和船七艘を備え、始めて屋形船も出現した。その後大正五、六年頃より経済界は好景気に恵れ、夏の遊覧地並松は夜となく昼となく、平安時代の朝臣さながらの、絃歌さんざめく花やかな遊船時代を現出した。それと共に鮎狩、万燈流しなどが流行するようになつた。万燈流しもその後改良に改良を重ね、最後には円い板にうすい色紙を筒型に張り、中にサイダーの詰金に臘を溶かしたものを入れ、芯には西洋マッチを挿入んで火をともすようになっていた。
大正七年頃綾部実業協会は水無月祭の行車として万燈流しを取上げ、それ以来綾部の名物として毎年並松に於て盛大に行はれ、花火と共に水陸一帯を火の海と化す美観が呼びものとなるに至った。
大正の末期、並松の万屋旅館が綾部橋の下手に遊船場を経営し、水上自転車や大形の屋形船等も備えつけ、一時盛にやっていた。又昭和五年頃から橋の上手の遊船場は一藤旅館の経営に移り、大形の屋型船も浮べていたが、昭和六年九月失火の為焼いてしまつに。こうして二つの遊船場が昭和七、八年頃まで続いたが、上手の方は亀甲屋が本町の揚屋組合と合同して一ヶ年程経営、その後は単独で昭和十六年頃まで僅かに命脈を保つ程度に存続していたが、大戦中全く廃絶してしまつた。
因に前記四方敬助は個人で並松や味方川原に桜や松などを植えたり、ベンチを設けたりして遊覧地開発の為に尽力した観光綾部の恩人である。尚味方川原の松林は並松の風景を一段と引き立てゝいるが、この松林が出来たのは明治二十九年の大洪水で味方側井堰下一帯が非常に荒されたので、水害防止の目的を以て、同三十年頃味方中総出で味方平から手頃の小松を運んで来て植えたものである。その後明治四十年の水害で荒され、残ったものが今の松林であるが、度々の洪水で直立しているのは珍らしい程で、反って趣がある。その後時々補植したり、桜や紅葉を植付けた。
又並松の大松は綾部藩主九鬼隆季の入部後植えたものらしく、昔はもつと上流まで生えていたが、年々少くなって行つた。殊に明治二十九年の大洪水には、綾部井堰が笠原神社下から斜になっていたが為に並松側が洗はれ、多くの大松が倒れてしまった。次いで昭和九年の大風害に、正暦寺下の松三、四本が倒れ、今では僅に教本を残すのみとなった。
並松は綾部から須知山峠を越えて京街道へ出る道筋であり、松並木は並松に景色を漆へると共に、綾部陣屋を守る防塞用の並木であったとも伝えられている。
昭和七、八年以来並松区は保勝会を組織し、年々松の補植、立木の施肥等を行ひ、並松一帯の保勝に努力を続けている。昭和二十一年現長旅館主は遊船場を再興し、並松への外客誘致に種々努力を重ねて来たが、同二十二年六月綾部観光協会が設立され、翌二十三年先づ味方川原に観光道路を開設、同持に並松一帯を丹波ラインと名づけ、続いて綾部観光株式会社が設立された。同会社の事業としては現長下の遊船場、野田のバンガロー等を経営し、並松の川を上下する大型発動機船を建造して遊覧の便を計った。かくして並松を中心とする観光施設が紫水園と相侯って着々進行の途につきつヽある。
(『綾部町誌』)

並松 (綾部市)
 ハア一、関の五本松 一本切りゃあ 四本-。
 島根県・美保関町の″関の五本松″はいま、ダウン寸前とか。ここ並松町の松も、いまでは町名も恥じ入るほど減った。
 その昔、並松町は、参勤交代の大名が、京への上り下りに必ず通った所。上りは、いまの三和町へ出たあと、丹波町須知へ。そこから、〝京街道〝(いまの国道9号線)へはいった。京への道のりは約20里(80㎞)。足のはやい旅人なら1日で行けたが、普通は須知で1泊しての長旅だった。
 ″山陰の大河″由良川沿いに植えられた松は、街道筋に緑を添え、旅人の心をいやした。道わきには旅館や飲食店が建ち並び、そのにぎわいは、広重の「東海道五十三次」の風景画をみるようーと、古老は話す。
 時代は移り、国鉄山陰線が同町の山手を走るようになると、めっきり人通りも減った。また松もたび重る由良川の水害で次々と流失。いまでは、2、3本というさびしさ。おまけに、近畿地建の河川改修で対岸の味方町に堤防ができ、かつてあった松が切り取られたことから、ピンチを迎えている。
(『由良川改修史』)

今は松並木はない。代わりか、桜が何本か植えられている。

参勤交代の大名行列の時代はもとより、綾部-園部間の鉄道がない時代は、綾部から京都方面へでるには、今の国道173号を須知山峠を越えて、今の国道9号へ出て、園部まで行く、すべて歩いてである、園部で一泊して、朝に鉄道に乗った、という。
今の国道173号はかつては並松街道を通っていたと思われ、街道筋には老舗らしい旅館や料亭が何軒もみられる。


伝説





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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