京都府綾部市西方町
京都府何鹿郡志賀郷村西方
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西方の概要
《西方の概要》
犀川支流の西方川が東流する谷で、川沿いに府道西方三河線(494号)が真ん中を通る。東西方向にかなり長い地域。
西方村は、室町期から見える村で、吾雀西方・和崎西方とも称した。康永3年(1344)7月日の亮性法親王庁解文では、吾雀荘は3か村に分かれ、中村は本家新熊野社領、「西方・向田両村」は領家妙法院門跡領となっている。その他その後の史料にも村名が見える。
近世の西方村は、江戸期~明治22年の村。元禄8年には柏原藩領920石と山家藩領432石余の相給。柏原藩領分は東西方村と西西方村に分村する。当村は屋河内・味噌尾・長尾・井岡・宮奥・岡・奥の計7か村の総名であると見える。明治4年柏原県、山家県を経て京都府に所属。同9年東西方・西西方・西方の3か村が合併し旧に復する。同22年志賀郷村の大字となる。
西方は、明治22年~昭和30年の大字。はじめ志賀郷村、昭和30年からは綾部市の大字。同年西方町・仁和町となる。
西方町は、昭和30年~現在の綾部市の町名。
《西方の人口・世帯数》 384・170
《主な社寺など》
藤波神社
当社は志賀七不思議の白藤の古跡である。菅沼謙蔵手控は藤波神社の祭礼について「藤ノ宮、九月廿三日、柏原領入組、別当宝満寺、宮へ参詣其夜神前ニテ狂言、翌廿四日輿幟道具行列ネリ込、一ノ鳥居迄迎宮へ移」と記しているという。
参道入口に案内板がある。その後は藤棚だが、もう花の季節は過ぎてしまい、葉だけが案内板に涼しげな木陰を投げかけていた。これが正月に咲いたという藤なのであろうか。
志賀の七不思議と「白藤」伝説
その縁起
今からおよそ一四〇〇年前の崇峻天皇の頃、大和朝廷は、国の中心勢力をかためるため、金丸親王を遣わし、丹波の国々の地方豪族を征伐することになりました。
すさまじい戦いに悪戦苦闘の末、ようやく丹波の国々を平定した金丸親王は、おおいに喜び、これ一重に神仏のおかげによもものと、丹波の国々に七仏薬師如来を納め、国家の安泰を祈りました。また、志賀の里の〝藤浪〝〝金宮″〝若宮〝〝諏訪″〝白田(後の篠田の五つの社を厚く信仰されたということです。
親王の子孫金里宰相は、この五社の大明神に千日参りをされ、これを記念して、藤波大明神には「藤」、金宮大明神には「茗荷」、若宮大明神には「萩」、諏訪大明神には「柿」、白田大明神には「竹」をお手植えされ、国家の安泰と子孫の繁栄を祈願され、このことを大和朝廷に報告されました。この時以来、この志賀の里にいろいろ不思議な奇瑞があらわれるようになったということです。なお、この五社のほかに、向田の「しずく松」「ゆるぎ松」にも同時に不思議な霊験があらわれ、これらをあわせ「志賀の七不思議」として、今に語りつがれています。
その奇瑞 藤波神社=藤波大明神の「白藤」伝説
毎年、旧暦の正月元日には、不思議とお手植えの藤の木に白い藤の花が咲き、おめでたい香りがたちこめました。神社では、毎年身体と心を清め、この藤の花を箱に入れ、宮廷に献上する習わしになっていました。
年代もたち、鎌倉時代の後伏見天皇の即位の年(一二九九年)飛脚がこの藤の花を持って京都に行く途中、観音峠の麓で、うかつにも箱を開いて中を見ようとしました。すると不思議!このこの藤の花は、たちまち一羽の白鷺になって北の空へ飛び去ってしまいました、ということです。この事件により、藤の花の献上はできなくなり、それ以後、不思議な霊験も消えてしまったそうです。
境内に残っている、この古い藤の木が、その子孫と言い伝えられています。 志賀郷公民館
参道を反対側へ(西ヘ)古路峠を越せば、大江町の「才の神の藤」のある所ヘ出る。
藤波大明神 志賀村 産神
祭ル神 祭礼 九月廿四日
舞堂 御輿蔵 一二三鳥居大道ニ有 社地凡百間四方 二ノ鳥居ノ外ニ一間ニ二間ノ井垣 是往古ヨリ志賀七不思議藤ノ花ノ古跡ト云 但シ藤波明神ノ藤ノ花古跡 西方村ニモアリ又此所ニモ有 此儀如何 (『丹波志』) |
原撰時代不詳なるも、此の時代の著といわれる主基所風土記何鹿郡の名所に吉見の里、富緒川、長宮山、藤浪社、篠杜、若槻等の名あり。
吉見の里 今の吉見村字里ならん。幾見村を里村と呼ぶに至りしは享和の頃なり。
富緒川 所在不明。一説今の犀川の前名と。
長宮山 綾部町字田野より天田郡へ通ずる所に永宮峠あり、即ちこれなるべし。
藤浪社 志賀郷村字西方鎮座村社藤波神社。
篠杜 東八田村字高槻鎮座村社篠神社か。
若槻 不詳なれど、高槻ならんといはる。 (『何鹿郡誌』) |
藤波神社
西方の北方に鎮まり給う。社頭の老樹森々と茂り宮川の清流鼓の鳴るが如く、河畔に石籠を結いて其中に老藤樹が古の不思議を物語れるようである。祭神には「火雷神」を祀り、十月十七日の祭礼、古は入会地だったので五社中一番賑やかであつた。
(『志賀郷村誌』) |
丹後鱒留の天目一箇神を祀る藤社神社と同じフジであり、祭日は月遅れの同神の祭日のようである。当社もまた天目一箇神を祀る社ではなかろうか。
「白藤」や「白鷺」の伝説も鉄や天目一箇神と関係が深いと思われる。各地の伝説でも白鷺ばかりでなくコウノトリなどの白い鳥類は鉄霊を表していることが多い。
『鉄山秘抄』によれば、金屋子神が高天が原より播磨国志相郡に天降りして、鉄作りを教え、岩石をもって鉄鍋を造られた。これよりその地は岩鍋と言われるようになった(現在の宍粟郡千種町の辺り)。しかし、周囲に住み賜う山がなかったので、「我は西方を主とする神なれば、西方に赴き良きところに住まん」と仰せられ、白鷺に乗って出雲国能義郡黒田の奥非田の山に着き、桂の一樹に羽を休められ、この地で安部氏に鉄造りの技術を教えた。という。
金屋子神というのは金山彦+金山姫で、金山彦は天目一箇神と同神とされる(ほぼ、だいたいの話、厳密に区別すれば区別もできるのかも知れない)。
金屋子さんは犬と蔦、麻が嫌い、藤は好き には、
鳥取県日野郡では金屋子さんが天降りされた時、犬に吠えられ蔦を伝って逃げられたが蔦が切れたので犬に噛まれて亡くなった。島根県飯石郡では蔦の代わりに麻苧(あさお)に絡まって亡くなった。仁多郡では蔦が切れたが、藤に掴まって助かった、などの伝説があります。神とは言いながら何とも人間臭いユーモラスな話です。そのような訳でたたらの中には犬を入れない、たたらの道具に麻苧を用いないと言います。また、桂の木は神木なのでたたらで燃やさないとされています。
高野山真言宗吉祥山宝満寺
吉祥山宝満寺多門院 真言宗高野山末 志賀村
空也上人開基 本堂五間四間 本尊毘沙門天四尺斗 脇立アリ 別ニ薬師如来麻呂子親王作 鎮守地主権現ナリ 二重二王門鐘有 惣門往古四百石御朱印 六坊今字ニ 上ノ坊 閼伽ノ坊 西ノ坊 先ノ坊 塔屋敷 閼伽ノ池 風呂池 風呂山 風呂釜今有 大ナリ 門前ニ百姓一軒
(『丹波志』) |
宝満寺
本尊毘沙門天、天徳年間に加佐郡有路吉祥平の地に僧光勝によって開創されしも兵燹に罹る。文明七年一四七五年西方村古路に移転し毘沙門天孝女物語(雲萍雑記)を伝えている。元禄四年一六九一年俊英上人中興して現代に至る。境地は所謂七丘七岳の盆地村内唯一の大伽藍である。 (『志賀郷村誌』) |
《交通》
《産業》
《姓氏》
西方の主な歴史記録
◇西光院
西方村ケイゴの谷の奥に草深い荒堂がのこされている。古記によると華厳寺西光院である。もと山城醍醐の真言宗三宝院末寺の山伏寺である。村の旧記に正保元年山伏長覚が復興したが明治に入て全然衰退し現在では名のみとなっておる。
【註】西方に塩見鶴吉という人あり世々藤右ヱ門という家名で西光院院代(一種の武士で山伏の管理をする役)の家柄であつた。その家の言伝には祖先の藤右ヱ門は湊川の荒武者で西方に落ちて来て西光院の院代になったというので、上り藤の定紋を下り藤に替えたということで古文書を収蔵していたが、且て大正八、九年頃に兵庫の旧家北風荘一氏が旧神戸駅敷地譲与の件で祖先の史料踏査に来村した。そして塩見氏と資料を探すが伝説以外の資料は発見できなかった。
北風家の古文書に「貞治年中(一三六二年・一三六七年)北風左衛門尉貞村は湊川役に破れ身を山伏に紛して丹波西光院に入りそれより消息たゆ」とある。恐らく此の西光院はケイゴ華巌の西光院であろうか。 (『志賀郷村誌』) |
根来山花厳寺皆定院 真言宗三宝院下修験
行者堂 鐘アリ 八丁口ニ二間四方観音堂有 五尺斗 畑五反御除地 古屋敷字ニ本堂屋敷奥ノ坊ト云 同南夫婦岩ト云 大岩寺ヨリ三丁上ル山中ノ池ニ大蛇住事有 同村塩見弾正ト云人四方ヨリ焼ケレハ亡ケリ 其池五間四方斗 俗ニケゴノ蛇池ト云
(『丹波志』) |
伝説
白鷺になった藤 伝承地 綾部市西方町
むかし志賀郷の藤波(神社)さんの境内には、毎年正月になると見事な白い花が咲く藤の木があった。藤の木といえば夏の初めに咲くもんだが、そりやあ珍しかろう。いつの頃から咲くようになったのか、だれも知らないということだ。とにかく毎年お正月になると藤波さんの境内は初詣と藤見物の人でごった返し、初市がたつぐらいの大にぎわいだったそうな。なにしろ近郷近在はもとより京、大坂からも見物にきたという。
そのうち京は天皇様の耳にも聞こえるようになり、「ぜひ一度見てみたいのお」ということで、藤波さんが献上することになった。ご覧になった天皇様は「おお、これは見事じゃ。正月に咲く藤の花、めでたい、これはめでたい」と、大変な喜びようで、それ以来、お正月には初咲きの白藤の花を御所に献上することになったそうな。
ある正月のことだった。毎年献上のお役を務めている村の若者が急な病に取りつかれ、献上の役目ができなくなった。藤波さんの神主さんも村役さんも困り果てた。お正月のことだから、だれも家を空けるわけにもいかない。考えあぐねているところへ現われたのが、これより京へ上って程なく戻るという若者だった。神主さんと村役さんは、これ幸いとその若者に代役を頼むことにした。若者は駄賃も出ることだし、と快く引き受けて志賀郷を後にしたんだが……。
道すがら、若者は神主さんと村役さんの言葉を思い出し、「この文箱はいったい何だろう。神主さんと村役さんの話だと、たいそう大事なものが入っているらしい。御所の天皇様にお届けするんだから、きっとすごいものが入っているに違いあるまい」と独り言。思えば思うほど中身が気になってくるものだ。若者は口の中で「イヤイヤ、イヤイヤ」といい返しているうちに、「見るだけならよかろう」と、辺りを見回し、松林の陰に入って、文箱のふたを開けた。
するとどうだろう。「バタバタバタ」と羽音がしたかと思うと、文箱の中から一羽の白鷺が飛んで出た。若者はびっくり仰天。口をあんぐり開けている間に、白鷺はひとっ飛び、はるかかなたへ消えてしまったという。
我に返った若者は「しまった」と思ったが、後の祭りだった。空の文箱を持って御所へも行けず、「こんな小さな文箱に、ようもあんな大きな白鷺が入っていたものよ」と思いながら、京で用事を済ませると、そしらぬ顔で志賀郷まで戻り、「確かに御所にお届けしましたよ」と言って、峠を登り丹後へ向かったという。さすがに気がとがめたのか、駄賃は受けとらなかったそうだ。
それ以来、藤波さんの境内の白藤には花が咲かなくなってしまい、くだんの若者も志賀郷を出たきり丹後の家には戻ってこんということだ。 (『あやべ昔話抄』)
【伝承探訪】
藤波神社の社頭に藤は頑丈な幹を見せ、太い蔓を八方に伸ばしていた。それはいかにも神樹のごとき姿であった。しかし周囲の田畑に人影もなく、森閑とした昼下がり、小さな境内を伝説の名残を求めて歩くより他なかった。ならば金河内町の斎宮修さんに伺った「志賀郷の七不思議」を参考にしよう。藤波神社の伝説はこの七不思議の伝承を抜きにしては語れない。しかもそれは麻呂子親王の大江山鬼退治譚にかかわるものである。
崇峻天皇の御代、用明天皇の皇子金丸親王(一説には麻呂子親王ともいう)は大江山の鬼を平定せよとの勅命を受けた。その折り皇子は大願成就を祈願して、この地に七種類の植物を植えたという。その七種の植物がいずれも奇瑞を示したのである。藤波神社の藤もその一つ。旧暦正月一日、藤が花を咲かせたのである。ほかにも阿須須伎神社では正月三日ミョウガを生じ、同じく四日、篠田神社にはタケノコを生じたと伝える。また五日には若宮神社にハギの花が咲き、六日諏訪神社の柿が実をつけたという。神は奇瑞を顕わして、所願の成就するしるしとされたのだ。
藤を献上せんとしたのは後伏見天皇のころという。船井郡水戸峠で朝廷への使者が箱を開けると、藤は鷺と化して飛び去ったと伝える。鷺の飛び去った地を「鷺の宮」と称するのだが、それがどこであるか明らかではない。しかし「鷺の宮」と称されるならば、鷺は神の化身でもあったに違いない。神は去って奇瑞は失なわれたのである。以来藤は咲かなくなった。いま社前にある藤は代用として植えられたという。
阿須須伎神社と篠田神社では、今でもミョウガ・タケノコの占神事が行なわれている。二月三日と四日に、その年の稲作の豊凶が占われるのである。それならば藤波神社でもかって藤にまつわる神事は行なわれたのだろうか。 (『京都の伝説・丹波を歩く』) |
藤の花が咲かない(志賀郷)
私の妻の母のふるさとは志賀郷である。妻も幼い頃はよく母に連れられていったようだ。
志賀郷には藤の宮(藤波大明神)という社があった。そこには次のような話が伝わる。
この社の藤は毎年正月近くなると、美しい花を咲かせる。藤の花は初夏の頃に咲くもので、それが正月に咲くのだから評判になるのは当然である。この珍しい花を一目みようとあちこちから見物の客が押しかけて社の内外は人で一杯だったという。
郷の人も神主さんも京の天皇様にもお目にかけようと、ある正月の前日に、フジの花を切りとって桐箱に入れた、走り自慢の若者に京に上り、御所へとどけるように頼んだ。若者は承知して、飛脚のようなかっこうで、桐の箱を肩に、神主やら里人に見送られて郷をたった。神主からは、この箱の中の物は決して見てはいけないとかたく言われていた。人間というものは、見てはいけないといわれると、かえって見たくなるものである。ツルの恩がえしの話、浦島太郎の話のように、昔から欲望をおさえつけられると、かえってあけたくなるものである。
男は走りながら、この箱の中には、お金が入っているのか、世にも珍しいものが入っているのか考えた。考えれば考える程この箱の中に何が入っているのか見たくなった。
綾部より由良川にそって走っているのだが、川の水が段々ゆるやかになっている。川辺には木立がならぶ、正月の前日だから、外に出ている人はほとんど見かけない、遠くの山の頂上には白い雪が積っている、京への道は半分は来ただろう、ここらで一休みでもしようかと、川辺に腰をおろし、手ぬぐいで汗をぬぐった。川水は冷たく川底がみえる。両手で川水をすくって飲んだ、ごくりとのどがなる。細長い箱が石のそばに立てかけてある、神主さんの顔が浮かぶ、「絶対開いてはいけないぞ」まわりを見廻したが人影はない、男はおそるおそる、箱の紐に手がかかった。紐をとき、桐箱のふたを両手でそろりそろりとあけた。
「ばたばたばた」と大きな音と共に、箱の中から白い大きなサギが翼を開げて大空高く舞いあがって、つばさを大きくふって姿を消してしまった。
「なんだ白サギが入れてあったのか、白サギもせまい所でさぞなんぎしただろう。」京へ登ることもいやになった男は、大の字にしばらく寝ることにした。
夢の中で神主のこわい顔、白サギの嬉しそうな姿が交互にでてきた。それでも何時たったか、あたりがうす暗くなった、今日の事は自分だけの秘密にして誰にも話さないで胸にしまっておいた。
村に帰った男は神主に迎えられ、都からの届けものはないかと聞いたが、男は何もなかったといった。
しかしその翌年から不思議な事がおこった。
今まで正月近くなると藤の宮の美しい花は一つも咲かなくなってしまった。何で咲かなくなったかは誰も知らなかった。
しかしこの男が白髪の老人になり、多くの孫にかこまれ、昔話をせがまれた時、つい口にしたのが先程の話であった。老人は孫たちに囲まれ、話をせがまれ、よしよしといいながら息をひきとったという。 (『舞鶴の民話2』) |
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