京都府綾部市西町
京都府何鹿郡綾部町・綾部村
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西町の概要
《西町の概要》
市街地の中心的商業地域の一つ。かつて北部の3丁目にあるグンゼや神栄電機の工場の発展につれて繁栄してきた町で、綾部商工会議所、金融機関、小売店などがある。再開発され道路幅を拡幅しアーケードを新しくし、路面をカラー舗装している。2丁目を府道8号(福知山綾部線)が東西に横断。3丁目をJR山陰本線・舞鶴線が通る。
西町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。1~3丁目がある。もとは綾部市大字綾部町・綾部村の各一部。
《西町の人口・世帯数》 317・141
《主な社寺など》
顕本法華宗本光山了円寺
アーケード街に山門がある。
本光山了円寺 臨済宗京妙心寺末 綾部町
本門派円学院日真聖人開基 高一石除也
(『丹波志』) |
了円寺(北西町)
宗派 顕本法華宗妙満寺派
本光山と号す。
記録によれば綾部の紅屋柏原九郎兵衛、弟上杉の治良兵衛の両人が大島(中筋地区)にあった法華寺が廃寺の如くなっていたのを藩主隆李に請ひ、承応二年(一六五三)九月綾部に移し、深く帰依していた船井郡大乗寺の日覚院日真上人を中興開山として建立したものである。寛文十二年藩主より屋敷内に於で高一石の寄進を受けた。その後文化二年の綾部の大火に全焼し、旧記を悉く焼失した。現在の建物は文化十年頃再建されたものである。
(『綾部町誌』) |
《交通》
《産業》
《姓氏・人物》
西町の主な歴史記録
田町・西町界隈
今の綾部のビジネスセンクー、西町筋と本町通りの交互T字路は大正十二年(一九二五)頃までは東から北に直角に曲っていた。城下町特有のいわゆる「ますかけ」になっていた。この曲り角の一角、今の銀座マートの位置が素封家、羽室九左衛門の邸で、今のメリー洋裁店から白波瀬洋服店にわたる四百三十坪の宏大な屋敷で、古く油屋をやっていた。メリー洋裁店の位置に荒い格子戸がはまって、そこが油しぼり場であったことを記憶している古老も多い。この東隣二百五十坪の屋敷が羽室荘治邸で、ここは作り酒屋であった。直角に曲った道路の西の突当り、今本通りの道路になっている位置の三百坪に近い屋敷は遠阪酒店で、質屋を兼業した大きな店舗は道行く人の目をひいていた。
明治十二年(一八七九)頃作成の字割図によると、当時南西町には東側に、羽室邸の高塀につづいて六軒、西側に遠阪部外十五軒の民家が軒をならべている。南西町から広小路に折れる角に防火用の八十坪程の用水池があった。北西町は東側に二十八軒、西側は了円寺まで十九軒大体みな藁葺きの小農家だった。了円寺の北は道路に面して墓地になっていた。南、北西町には何れも町筋の両側に溝が流れていた。西本町通りは北側に羽室邸から東に十一軒、東本町との境に北にはいる小路があった。南側には田町の通りまで、四軒、それから東に十四軒の屋並みがつづいて東本町に接している。
梅垣虎雄翁は、明治十七年(一八八四)に今の志賀郷村西方にあった金声校から大試験の受験に綾部にはじめて出てきて、その当時の印象を次のように記している(梅原氏手記)
『先生に連れられて白道路の峠を越え、里の渡しを舟で渡り、川の大きいのに驚く(渡し賃三厘)。今の郡是の所に士族の授産場がある。機を織り紙すきをして居るとのこと、白紙の張った板が立てならべてあるのも印象的である。授産場から町まで道の東側、菜畑の中に大きな桑の木が立って居り、西側は低い田圃で麦が播いてあった。今綾部銀座といわれる西町筋もきたない百姓町で、店前に肥桶や藁や薪など置いた家があり、又蓆を広げて干物をして居る家もあった。宿は田町の小西屋で、先着の物部校の生徒十余名と同宿である。(中略)
田町の突き当りは土手で行き詰って居り大きな松の老木が立っている。今もその中の一本が残って居る。道は土手を迂回して行くようにまがって居るこの辺一帯は竹やぶであった。田町が直通したのは郡役所の建つ時である。』
(この松は昭和三十年(一九五五)十月松食い虫がついたため伐り倒された)
この頃の郡役所は、明治十二年(一八七九)頃作成された「丹波国何鹿郡本宮村標木地位道路里程全図」によると、田町の突当り高台に位置している。建築様式は洋館風のしゃれたものであったようである。今、この高台にあるぼくの家の屋敷にある巨松は、当時の郡役所構内の南東の隅にあったものだということである。正面は石段になっていて段の下の向って左、今の登記所の位置に警察分署、その向側に戸長役場があった。いわゆる御家中への道路は郡役所の東側竹薮を通っていた。
その頃の田町は今より家並みもそろっていて美しかった。西本町との境界に、今も流れている小溝には石橋がかかっていて、そのほとりには秋葉さんの石の常夜燈があった。この石燈籠は今、隆興寺の上のお稲荷さんに献燈されている。石橋を渡って西側の城屋清水孫六商店は醤油味噌の製造の店舗を構えていた。今の山田医院の位置は山崎屋こと大槻酒造場で、古風な大きな家構えは昭和初朋までそのままであった。この山崎屋では、いわゆる田町のシューズを使って銘酒「松の花」を醸造していた。そのすぐ向いは今もある大内屋のホリハウスで、主人堀勘七(重助氏先代)について「綾部の話」に度々紹介したが、初代何鹿郡長宮崎清風が「気豪才俊竭力貨殖、開物利用益公無嗇」とたたえた優れた人物であった。このホリハウスのモダンな洋館は、今もそうであるように田町界隈に明治新文化の新風をただよわせていたのだった。明治十二、三年(一八七九)頃まで此処が綾部郵便局であったことも前に記したことがある。店には書籍文房具筆墨類などの卸小売の他、京都府直属の御用商人として、種々な企業に関係していた。そのならびに古い呉服屋の大島長兵衛の店があった。田町を新町に曲って、今の農協の所に近理という家号の大きな造り酒屋大槻理三郎の屋敷があったが、これはその後、郡の蚕糸同業組合事務所の建物に建ち変った。その西隣りは梅垣英二郎氏の先代、梅垣虎之助の、鋸大工道具、特に理髪用具の特約店であった。西本町分になるが、石橋の西本町側の西側は、大槻久次郎商店の先代が今と同じ商売を手広くやっていた。その様の小路を西に入る通称庄屋には二、三の民家があり、今田中邸の所に医師田中好熙のハイカラな洋宅習時館があった。この邸の前は一面の田園で、今聞く絃歌の音など夢にもきこえる場所ではなかった。この洋館はその後、明治末朋まで大槻熊吉が旅館花月亭を経営していたが今はその跡かたもない。ただ笛甫の筆になる習時館のある古びた門が昔のままに残っている。田町の石橋の手前を東にはいる小路は俗に「せんだ町」といったが、この道は曲って今の一藤旗館の横の道に連絡していた。この道の入口、西本町側の今の高山荒物店の所は「まからんや」という安達小間物屋があった。この小間物屋の前に綾部最初の銭湯があった。ほんの小さい風呂屋であったが、この風呂屋のことを知っている古老はすでにすくない。「せんだ町」には大島景僕の関係した徹桑園があった。種々クラブの会合に使われていた。「何鹿郡衛生会第二回録事」によると明治二十四年(一八九一)十月十七日、此処で第二回例会を行っている。日露戦争後ほんの一時町役場にも使われたことがあった。大島景僕については稿をあらためて書きたい。
明治三十六年(一九〇三)一月一日発行の綾部商店の広告集には田町の店舗として、大島元助呉服店、野村菓子舗、丸庄こと大志万煙草店、花月旗館、安達小間物店、大槻酒場、堀重助商店、平井印判店、小西屋旅館、堀利三郎商店などの名が見え、明治三十九年(一九〇六)発行の広告集によると、平井印判店、森田活版所、花月旅館、大西久治郎商店、旅館小西屋昌盛楼、大槻藤太郎酒店、大志万煙草売捌所、御料理大槻楼、堀利三郎商店、堀重助商店などの広告が出され、明治四十五年(一九一二)発行の『何鹿郡案内』の広告には、堀利三郎商店、野村和洋菓子店、大島反物店、村上仙吉米店、大槻藤太郎酒造場、平井文正堂、森田享寿堂、長沢医院、小西屋旅館、花月旅館などの名が出ている。
本町角の西羽室、東羽室の両家は共に明治三十四年(一九〇一)の綾部経済恐慌の影響でその富力を失った。西羽室は一時農具店を経営したらしく、明治三十四年(一九〇一)の雑誌広告に「特許除草器専売、東本町羽室九左衛門農具店」というのが見える。西羽室の古風な家構えはそのまま亀嘉旅館がこれをひきついだ。その後亀嘉はここで綾部第一流旅館として賓客を迎えていた。東羽室はその後、ながくその古い家構えを大正末期まで残していた。西本町通の田町角の寺小下駄屋の所は、伏見屋という飲食屋があった。今の並松の伏見屋旅館の前身だったが後、家をいれ代って寺小履物店になった。この店の、大きな下駄の形の看板は人目をひいた。四角は西村庄兵衛、伊藤宗一郎共同商店で醤油干物石油など売っていた。その西に続いて吉田勇助荒物店があった。曲り角の遠阪質店の大きな店舗をはじめ南西町の店舗はさすが綾部代表的商店街の名にはじない老舗ぞろいである。明治三十年(一九〇六)の広告集には遠阪質店、豊島酒舗、藤村時計店、坂本商店、片山元助、森本薬店、高木銀行、吉田仏具店、羽宅寅吉商店、大鳥嘉助商店、高倉平兵衛商店、山口五兵衛商店、紅屋料亭、明治三十九年(一九〇六)の広告集には、遠阪質店、豊島酒店、藤村時計店、坂本雑貨店、片山元助商店、田中呉服店、村上呉服店、羽室寅吉商店、高倉平兵衛、紅屋、おすし時しらず、などの名が見える。個々の店舗について記したいこともあるが、それは別の機会にして紅屋料亭について記したい。今飯田理髪店のある広小路の角には用水池があって此の付近を堀端といっていた。その堀端に柏原九郎兵衛の経営する紅屋があって人々の記憶に残っている。
前記の『何鹿郡案内』の広告には、中島繋商店、高木銀行、まつや雑貨店、石碑位牌の吉田久之助商店、漆器砂糖の羽室寅吉商店、しもたやの森本徳兵衛、大道医師、呉服石油の大島嘉助商店、蚕具度量衡の高倉平兵衛商店、生糸繭問屋の山口五兵衛商店、西側では遠阪質店、長谷川堂菓子店、豊島酒店、吉田呉服店、伊藤正美堂、藤村時計店、坂本自転車店、片山陶器店、森本金物店、天冶旅館、森本博愛館、田中呉服店、田中小間物店、よしみや片山小間物店、関三十郎タバコ玩具店、塩見紙印刷所、村上呉服店などの店名が見え、北西町には明治三十六年には林田由蔵ランプ店、大工道具の出口富五郎商店、加藤茂吉商店、村上鶴蔵古着店、明治四十五年には吉田藤吉海産物氷店、角屋こと加藤果物店、柳田印刷所、一井履物店、土木建築請負業上田吉五郎などの名が見出される。
明治四十五年(一九一二)の商店街の写真を見ると、西本町通りには南側に、西町筋には西側に真新しい電信柱がならび、どの店舗にも当時はやりの外燈と自転車が店頭を飾って、明治末期の綾部文化を表徴している。
(『丹波の話』) |
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