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丹波の

西坂(にしざか)
京都府綾部市西坂町


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京都府綾部市西坂町

京都府何鹿郡物部村西坂

西坂の概要




《西坂の概要》
物部の西側、犀川支流西坂川流域の東西約4㎞に延びる谷あいの集落。主要地方道綾部大江宮津線(9号)が走り、北西の枯木峠を経て大江町南有路に通じる。また府道西坂蓼原線(493号)が西へ分岐し赤目坂峠を経て大江町南山・尾藤へ通じる。
西坂村は、明治9~22年の村。西保村・赤目坂村が合併して成立。同22年物部村の大字となる。
西坂は、明治22年~昭和30年の大字名。はじめ物部村、昭和30年からは綾部市の大字。昭和30年西坂町となる。
西坂町は、昭和30年~現在の綾部市の町名。


赤目坂村(あかめざかむら)
西坂川の支流山麓に位置し、東は西保村、西は赤目坂峠を経て丹後国加佐郡尾藤村・千原村(大江町)に至る。物部四箇の一。
寛正2年(1461)の何鹿郡所領注文(安国寺文書)に「赤目坂」とあるが、古くは西保・物部両村と一村であったと思われる。
江戸時代は旗本藤懸氏の所領。宝永3年(1706)藤懸永貞は赤目坂の大部500石を分知されて、赤目坂藤懸と称した。
九社神社は当村の氏神であった。明治9年(1876)西保村と合併し西坂村となった。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同9年西坂村の一部となる。

西保村(にしのほむら) 
東を物部村、西は赤目坂村。何鹿郡西部から丹後の由良川筋に通ずる重要な街道が当村を通り、枯木(からき)峠を経て南有路村(大江町)へ、赤目坂村から赤目坂峠を経て南山・尾藤村(大江町)に至る。物部四箇の一。
地名の初見は寛正2年(1461)の何鹿郡所領注文(安国寺文書)で物部郷・赤目坂とならぴ「西保」とあるが、「丹波志」の指摘するごとく「古ハ物部と云一村の所」とみてよいとされる。
慶長年間に旗本藤懸氏の所領となり、元和元年(1615)には園部藩領となった。明治4年園部県を経て京都府に所属。同9年赤目坂村と合併し西坂村となった。


《西坂の人口・世帯数》 320・107


《主な社寺など》

高蔵神社(式内社)

万福寺の反対側、南側の宮ケ嶽の麓に鎮座する式内社。大祭日は10月17日で、月遅れの天目一箇神の祭日。当社独特の鬼祭は3月18日という。祭神は武内宿禰となっているが、真の祭神は天目一箇神であろう。鎮座地は旧赤目坂村といい、その赤目とは砂鉄のこと。花崗岩ではないようだが、赤い堆積岩の山肌がむき出しになっいる所がある。

高倉大明神    物部村 西側ニ 惣産神
祭ル神        祭礼 九月九日
社一間四方辰向也 両脇ニ同社在 神名知レガタシ 二間四方篭家 島居有リ 境内凡三十間ニ四十間 当社往古ハ比ノ山ノ頂ニ在 当谷ヲ馬駕ニノリ通レバ馬ヨリ落者多故中興此所ニ奉移神 其古跡字ニ宮ケ嶽ト云 高倉明神 延喜式十二座ノ内高倉ノ社カ知ガタシ 可考  (『丹波志』)

高蔵神社 赤目坂村の高倉大明神を指定されたり。現今物部村字西坂に鎮座。

高蔵神社(式内社) 物部村字西坂小字宮ケ嶽にあり。村社にして武内宿禰を祭神とす。現在氏子一四八戸、西坂全区之に属す。現今例祭は十月十七日。
西保村氏神高倉大明神、境内に脇二社と荒神一社、馬宮一社、諏訪明神一社、権現一社、稲荷一社の小社五ケ所あり。(園部藩記録)  (『何鹿郡誌』)

高蔵神社(式内元村社)
本村大字西坂小字宮ケ嶽に鎮座、祭神は武内宿禰であって年月は不詳であるけれ共延喜以前の創設である。初は宮ケ嶽の頂上に祭ってあったのを中古現地に遷し祭ったものであるといふ。
 本村宛の指令は次の通りである。
          何鹿郡第三区 西坂
其村鎮座高蔵神社延喜式内に相違無之今般詮議決定候条此旨相達候事
  明治十年六月           京 都 府
高倉神社域内末社
八幡神社小祭の社伝によると昔源頼光が大江山の鬼賊退治の帰途に当社へ立寄り休憩した事があるといふので、それ以後鬼祭といふ、神事を行ふやうになったと伝へられる。其の祭典は陰暦の三月十八日氏子等が集って長さ一尺八寸の薄い板二枚を造り一枚の板には鬼の字を書き他の一枚の板には馬の字を書き之を的とする。氏子中から両親の揃った者の小児三名を選び出し半弓を以て先づ鬼を射さしめて坂を破壊し次には馬を射さしめて鬼と同様に破壊せしめて神事を終るのである。此の祭礼は今も尚伝はつてゐる。 (『物部村誌』)

高蔵神社
祭神=武内宿禰。「渡会氏神名帳考証」では高倉下命かとしている。
由緒=社殿はもと宮ケ岳の頂上にあったが中世に現地へうつされた。
境内社に八幡宮があって、旧暦三月十八日社前で鬼祭りが催される。二枚の標的に鬼と馬の字を書いて子供三人に射させる行事であるが、昔源頼光が大江山の鬼を退治して、その帰途この社に戦勝を報告したという故事から生れたものと伝えられる。
(『綾部市史』)

高蔵神社 (西坂町((中最寄・竹乃内))宮ケ嶽二十一番地に鎮座)
創祀年月日、鎮座の次第など不詳であるが、全国八万とも十万とも言われる神社の中、式内社三千一百三十二座の一つで、延喜式 巻台九(神祇の九)神名上(宮中、京中、五畿内、東海道)何鹿郡十二座の中に、高蔵神社とある。
何れにしても延喜時代(九〇一~)以前の創祀であることは間違いないと考えられる。「新訂増補 国史大系 延書式」には、高蔵神社(たかくらかみのやしろ・たかのくらかみやしろ)と二種類乃訓がつけられており、中院家本には「高蔵神社」と訓は空白となっている。社名のいわれはわからないが、今も小字名に高倉があり、律令制時代にここに食糧などを保管する高倉が建立されていたのか、その由緒から社名がつけられたものと思われる。また近世紀には大蔵大名神高蔵大明神とも称されたと言う。
鎮座地は、和名抄の丹波国何鹿郡物部町郷内に当る。社殿は南方に聳える宮ケ嶽の麓に東面して建つ。
祭神は、「武内宿弥」である。宿弥は古事記、日本書記の伝承に現れる大和朝廷の発展に尽力した政治家で考元天皇の曽弥とも言われる。ところで、何故大和の有力豪族の祖先が遠隔の当地に祭神として奉祀されているのか。この間のいきさつは全く不明で伝承もない。ところが、唯一鎮座の里の字の名に「竹(武)之内」の地名が残っていること、また一つには、宮ケ嶽の裏側に当る小畑町別所に鎮座の白鬚神社の祭神もまた武内宿弥であることなど考え合わせ、今後一層伝承その他資料等を掘り起こし、祭神の由緒を整えねばと思われる。また、鎮座の西坂町が早く古代から開拓された集落であることは、当社の近くに、円墳一基、北方に三基があること等からもうかがうことができる。
社伝によると、古来厄神と言われてきており、長寿・延命の霊験あらたかであることが伝えられている。
社伝によれば往古より宮ケ嶽の頂上に祀られていたものを中古現在地に遷して祀られたものという。毎年の国司の参詣の際余りに急峻のために度々落馬することなどあり中世に此の地に遷し祀ったとも伝えられている。(口伝丹波志にもあり)また、本社社殿の内陣に祀られている衣冠束帯の八体のご神像は、宮ケ嶽山頂に祖られていた時の社殿の礎柱を以て刻まれたものとの口伝もある。宮ケ嶽の山頂がよく望める竹之内の最寄の中央部の大門に、今に常夜灯として一夜も欠かすことなく氏子が灯を献じ続けている灯篭がある。これは、高蔵神社がかつて宮ケ嶽の山頂に祀られていた頃、ここから灯を献じ山頂のお宮を仰ぎ拝んだ遥拝所であったであろうことが考えられる。また、神宮寺は、西坂町の清福寺(真言宗)であった。今の本社の本殿は、棟の札から享保十四年己酉年九月吉辰とあるが多分再建と考えられる。
なお、社伝によると、源頼光が大江山の鬼退治の際大江山山系が一望できるこの宮ケ嶽山頂の高蔵神社に参詣し、諸願成就の上は再度参拝すると祈誓し、その前兆として鬼射の神事を執り行ったと言う。今にこの神事が三月一八日の脇宮八幡神社の例祭の日に行われている。それは「長さ一尺幅八寸の薄い杉板の一枚には鬼の字を書き、別の一枚の杉板には左馬(?)の字を書き各々を庭中に建てた的の上につるし置き氏子中の両親のそろった三人の男子の児童が半弓を以て、先に鬼の字を次に左馬の字を射抜かしむ。」とある。(社伝記録文書より)例祭日は一〇月一七日である。  (『物部史誌』)

「馬」はよく出てくるが、お馬さんはは関係なく、発音の“マ“で、マラとか麻呂子とかと同じで、溶鉱炉を意味している。左文字は何か呪術なのかわからない。
案内板もあるが、破れていたり、シワになったりして、読めない所が多い。
境内社の説明部分は読める。
八幡神社 祭神 誉田別天皇(第十五代応神天皇)例祭三月十八日
若宮神社 祭神 大鷦鷯天皇(第十六代仁徳天皇)例祭十一月三十日
稲荷神社 祭神 稲倉魂神 例祭三月一日
大山祇神社祭神大山祇神 例祭十二月八日
厄除神社 祭神 疫神  例祭一月十八日
牛頭神社 祭神 素戔嗚命(須佐之男命) 例祭 七月土用丑



諏訪神社

府道9号沿いのちょっと高い所、南面している。
境内の案内板
諏訪神社由緒縁起
一、鎮座 京都府綾部市西坂町嵩末五十四番地の一
一、祭神 建御名方富神と姫神八坂刀売神
一、創祀 建久四年(一一九四)源頼朝の命により信州上田城主(豪族)上原右ェ門丞影正が丹波国何鹿郡の地頭職に任ぜられ物部町下市の高尾(屋)に城郭を構えて居城し信州一の宮諏訪明神の分霊を祀って氏神とし領内の各所に諏訪神社を創設し祀らせた当神社もこの当時に創祀されたと考へられる氏子崇敬者の地域は西坂南一円であり村社高蔵神社末社であります。
一、境内社 太田神社(稲荷神社)熊野神社(熊野三山の熊野三所権現)
厄除神社(昭和四十四年当厄者による神殿寄進)
   長床の神殿の中には権現社、馬宮社、庚申社、清正公社が祀られているが明治十七年頃長床が火災に合い古文書等資料消失した。
一、祭儀
 放生会祭 九月十四日
   神事として祭の当日境内の中央に仮設土俵が作られて年少の子から順次勝抜で進められ終りまで勝残った二人が最後に力競べをし、わざと負ける相撲を相互に取り結びとなる放生会祭はお諏訪さまの水と司り給う限りなく尊く高き御神徳御恵を感謝し魚など放して心から神に感謝する意義深いお祭りである
 秋祭 十月十七日のお祭は高蔵神社の御輿御巡幸の御旅所でこの神幸の途次宮司が参拝し自治会長始め氏子町内のお旅の奉仕者が参列のもと例祭が厳修される

諏訪神社 (西坂町下最寄嵩松(かさまつ)に鎮座)
創祀、鎮座の次第等不詳であるが、「物部古城記」によると、建久四年(一一九三)源頼朝の命により信州上田の城…
上原氏は城下を流れる物部川を故郷に因んで犀川と改名し、また高尾山の麓の一ノ宮諏訪明神の分霊を祀って氏神とし、領内の各所にもこの諏訪神社を創建し祀らせた。〔-式内社調査報告 第十八巻 高蔵神社の部に(皇学館大学出版部)より〕西坂町のこの諏訪神社もこのようにして祀られたものと考えられる。こうして、この地方には他にも諏訪神社は多く祀られている。境内の石造物(手水鉢)に、安永四年三月とあり、また社前の灯篭一対(石段の下中の段)には寛政九(一七九七)丁己歳八月吉日とあることなどから相当に古くから篤い崇敬を集め奉斎されていたことが伺えるが火災に合い資料等残っていない。
氏子崇敬者の地域は西坂町一円であり、明治一六年、神社明細帳(西坂村戸長役場調)には村社高蔵神社の境外末社として記載されている。昭和二七年二月二五日宗教法人諏訪神社設立を公告、同年七月一一日、神社本庁を包括団体とする宗教法人諏訪神社として設立を登記し独立した宗教法人として発足した。
祭儀・祭礼 九月一四日の例祭放生会祭、伝統の「奉納 子供相撲」は古事記に記されている神話に因んでいる。神話に天照大神は、建御雷命と大鳥船命の二神を遣して早くから出雲地方を領有していた大国主命に国土奉献を勧められた。その時大国主命とその長男の事代主命は大義を重んじて快く承諾になったが次男の建御名方命(お諏訪さま)は、これを不服として、千引岩を手先に乗せて使者に力競べをいどんだ。しかしその結果は敗れて信濃国の州羽海(諏訪湖)に逃れ、ここで全く服従された。今に「子供相撲」が伝統として奉納されてきているのは、この力競べの神話にちなんだものと考えられる。奉納相撲では、氏子の子弟(小学生の男児)の全員が奉仕する。境内社として大田神社、熊野神社、厄除神社、清少公神社がある。 (『物部史誌』)


九社(くしゃ)神社

西舞鶴の九社明神を思い起こす、渡来系の古い神社ではなかろうか。近くの「枯木(からき)」という地名と合わせ考えてみるべきか。

枯木浦とか枯木神社が私の住んでいる所近くにもある、加羅村・韓村(からき)のことかと思われる。看板の背景は万福寺がある所になる。古い寺院や神社はこうした所によく見られ、九社はクシフルの転訛でなかろうか。
九社権現     赤目坂村 奥ニ
祭ル神      祭礼 九月晦日
社二間半四面南向也 別ニ弥陀堂 鳥居有り 境内凡三十間一町 同村奥口ト分レテ奥産神也 口ヲ竹ノ内ト云 高倉ノ氏子也
(『丹波志』)

九社神社  伊邪那岐 伊邪那美  不詳 明暦三年再建  大字西坂小字清水山  (『物部村誌』)

九社神社 (西坂町奥最寄の清水山に鎮座)
 創祀の年月日また往古については不詳だが、慶長二年、藤掛三河守永勝が赤目坂村を拝領しており其の後領主藤懸氏の篤い崇敬を受け明治に到る。◎長寿、延命◎縁結び結婚成就・家内安全・地域安泰のご神徳が伝えられている。
氏子崇敬者の地域は西坂町一円であり、明治一六年四月一四日調 西坂村戸長役場調 氏子一六〇戸
祭神は、伊都那岐命・伊都奈美命 例祭は一〇月一七日(高蔵神社と同じ日)
境内社に◎八幡神社 祭神 誉田別命(応神天皇) 例祭 九月一五日 ◎稲荷神社 字迦之御魂神 ◎山の神社 祭神 大山津見神 ◎愛宕神社「綾部の神社」より
なお、当社の古い歴史を物語るかのように、そびえ立つ石段わきの大杉、また石段を登りつめたところのつく羽根かしの巨木は特に立派なものであったが、残念ながら倒木のおそれがあり切り倒された(一九九六年)。また当社の森は、まだ自然林に近い樹種が多くその樹相も自然林に近い感じを受ける貴重な林であり、この森を厚く保護存続することが大切なことである。  (『物部史誌』)


高野山真言宗宮床山満福寺

枯木峠の登り口の北側山麓、ちょっとわかりにくい入りにくいところ。高蔵神社のま北。

宮床山満福寺正覚院 真言宗 西ノ保村 物部庄赤目坂境ニ
 空也上人開基 丹後加佐郡南山村観音寺末 但二王門ニ釣鐘 上ノダンニ三間四面ノ弥陀堂 但赤目坂ニ寺無シ 堂寺往古大寺 今字ニサコノ坊西ノ妨ト云所ニ有之 同字通リ堂 鐘楼堂 アカノ池ト云 池今ニ有 往昔当村ノ高倉明神ハ当寺持ナリト云フ
(『丹波志』)

宮床山正覚院満福寺 (字西坂)
 所属宗派 真言宗高野派金剛峰寺   本尊 千手千眼観世音菩薩
開基は有名な空也上人であると伝へられてゐる。上人が村内の高屋寺に巡錫申当地を行脚の砌り偶々山麓の小堂に憩ひ給ふた。後に此の堂を通り堂と称するようになった。
上人が休憩中老樹鬱蒼たる山中を見られ此の地は仏法相応の聖地であると認められて小宇を建てられた。之が当山の開創である。
当山は其の昔七堂伽藍が甍を並べ賽者は常にあとを絶たなかった。不幸祝融の災に遇ひ(年代不明)灰燼となって、次第に衰頽した。後ち淡路の国から慈潤法印が来て深く之を嘆いて檀信徒と共に勧進に努めた為め文久三年には再建を見た是が現在の本堂である。爾後八代の住職は何れも寺門の興隆に竭して今日に至って居る。(寺伝による)
梵鐘は元文三年鋳造のものがあったが大東亜戦中昭和十七年十月に供出した。然るに檀徒赤目坂塩見好郎は国運隆昌と村内安全の大願を発して焚鐘を寄進したので檀中一統も之を賛助して昭和二十四年三月二十五日鐘供養を執行した。現住職は篠畑俊道である。  (『物部村誌』)

宮床山 正覚院満福寺(西坂町)
 所属宗派 真言宗高野派金剛峯寺
 本 尊  千手千眼観世音菩薩
 開 基  空也上人
 開 山  不詳
 現 住  篠畑妙俊
満福寺
 宮床山満福寺は、平安の頃彼の有名な空也上人光勝の創建にかかる寺で「宮床山正覚院満福寺」と号する。その創建にかかる由来は、
西国三十三ヶ所観音霊場一七番、補陀洛山普門院六波羅蜜寺を創建した空也上人は、醍醐天皇の第二皇子として延喜二年(九〇三)に生れ長じて国分寺に入って沙弥となって自ら空也と称し、近畿一円から東北地方を巡って苦修練行の末天慶元年(九三八)京師に帰り、市井に住み鉦鼓をたたきお経を唱えて衆生化益に専念、時の人はこれを空也念仏、上人のことを市聖或は市上人と敬い親しんだ。
この上人、丹波地方にも度々錫を運び承平年間から天徳中間(九三一~九五七)にかけ、今田の惣持院再建を初めとして、正暦寺、岩王寺、物部高屋寺等綾部福知山だけでも一二ケ寺を創建、当時(満福寺)もその一つである。
上人、天暦元年(九四七)に高屋等を開創されそこに錫を留め近郷を巡錫の或る日の夕方、宮床山の下を通りかかり道端の小堂(後に通り堂と呼ぶ。昭和二一年の台風で倒壊)でひと休みの時、山中より鈴の音響き来たるので、たまたま通りかかった里人にたずね(以下古文書による)「この山深く繁りて、常に大いなる蛇住めり若し人これを見る時は、必ず病難を受けるが故に山中に入る人稀なり。況や住み人など居る筈なし」と語るを聞き不思議に思い里人の止めるを振り切って、木の間を分けて山中深く遊べば遥か奥なる石窟の中に白髪の翁佇み右手に宝珠左手に金鈴を持つ「先程鈴の音響きしは、汝なりや」と上人ただせば、「我は昔よりこの地を占有し、人間は云うもおろか草木鳥獣悉く我が意に叶はずという事なし、まして仏法を信ずる事等毛頭無し多くの人達をわが強欲のため苦しめて来た報なるや、近頃熱悩に煽られ全身炎の如くにして苦しみに堪えず聞けば聖さきに(天暦五年)京師の巷に悪疫流行し、多くの人次々と斃れ如何なる医薬を持ってしても熄むことなく悪病益々つのり手の下しようも無かりし時、天皇(村上天皇)の勅命を受け、自ら千手観音、梵天、帝釈、四天王を刻みて大八車に乗せ市中を曳き廻して御祈祷をなし、人々に観音信仰をすすめた甲斐あって、さすがの病魔も退散せりと聞く、願はくは聖人この山に止まり堂舎を造り、あまたの仏を供養し仏法を守護し給え、吾も又その功徳に預りて苦患を脱し、病癒えなば永久に仏法擁護の神とならん。この事まのあたり伝えたく金聲を送りしなり」この言を聞き給うた上人哀れに感じ、「吾当に汝の願いに任せ、この地に仏塔を立て、如来の教法を留むペし」とお答えになると、老翁手を合はせ上人を伏し拝んだと見るや忽ち一匹の白き大蛇と化して山中深く消え失せたと云う。これすなわち当宮床山鎮護の神なり。(昭和四年迄この地に祠あり)上人は、この夜林中に座して禅定に入り給い、翌日暁の頃里に下りて里人を集め、しかじかの由を語り給い「この言疑うべからず、吾この山におりて堂塔を造り無上の御法を留めんと欲す。汝等一同志を合はせ盛応を仰ぐべし」と、一同奇異の感に打たれ協力を約す。ここにおいて朝廷に上奏し詔を蒙り吉辰を撰んで十一面千手千眼観世音菩薩を勧請して一宇を建立されたのがその始めである。
以上が室町時代に書かれた縁起の一部であるが、その後、不幸にして文政三年(一八二〇)祝融(火災)の難に遇い、一山悉く灰燼に帰し文久三年(一八六三)今の建物が再建され現在に至る。
十二支守り本尊霊場の開創
真言密教を開いた弘法大師入定千百五〇年に当り遠忌法要行事の一環として守り本尊霊場が開創された。この霊場には、各々十二支の守り本尊を一ヶ所にまとめて信仰の場とした、このような霊場は関西地方には例がないといわれ宗旨宗派を問わず親しみをもって参詣の盛場として広く厚い信仰をうけている。
(『物部史誌』)


境内の「厄除大師」のお堂は、元は物部小学校にあった「奉安殿」を移築改築したものだそう。
奉安殿の内寸は最小で奥行85cm、高さ1.5m、幅1.2mは必要であるとされ、構造は鉄筋コンクリート造、壁厚25cm以上、片開または両開の完全な金庫式二重扉を設け、耐震耐火構造とし、内外防熱防湿のために石綿材料を施し、内部はさらに桐または檜板張りとし、御真影を奉安する棚の高さは50cmほどのところに設けることとされた、そうである。そこらの神を祀る小ホコラとはゼンゼン違う格の高い建物。
70年ほど前まではこの中には天皇皇后の写真(御真影と呼んだ)と教育勅語が納められていて、この前は最敬礼で通らねばならなかった。どこの学校にもあったが、今あるのは珍しく、過去の愚かさ(歴史学や郷土史学も含めて)を象徴する遺産として残し、史家のつもりならば、日本国民のつもりならば、たまには見ておくのも悪くはない。
またまたこれを復活させたという、うっとしい限りのバカの極まる連中ども、天下国家の大事よりも自分「お友達」を優先されせるクソ権力、都議選の「歴史的大敗北」、当然のことであろう。超時代遅れのアホはもう終わりにしないと国が亡ぶ。こんなクソどもが九条を変えるそうである、国民が、史家が油断すれば即刻これが復活することであろう。


枯木地蔵

枯木峠の頂上附近の道ブチ。そこの案内
枯木延命地蔵尊由来
昔歩いて京都へ上り下りする京街道として往来のはげしい枯木峠でありました此の峠に何時頃建て祭られたかわかりませんが此の地蔵尊が祭られ往来する善男善女が崇拝し色々の思ひ事を願かけとして御蔭をいただいた人が沢山あり有名な地蔵尊として崇敬が厚かったと聞いて居ります。今より百四五十年前道端に地蔵尊等は全部祭られぬ時代があったので其の当時庄屋が森永忠右ェ門さんで墓地へ持って行けばよいとの事で自分の墓へ移転されたそうです。其後昭和八、九年頃当地田仲吉藏氏と妻こま両名が老人で昔の言ひ伝へを話すので有志の者が亦元の屋敷(現在の場所)へ祭り戻し堂は森永家より建立され他の樹木は信仰有志が寄付されて今日になって居ります。
近頃交通も激しく事故も多いので此の延命地蔵尊を崇拝して交通事故の起こらぬやうに御守護いただいて下さい。
よく地蔵尊の御姿を御覧下さい
何とも申せぬ品のよい地蔵尊です。
昭和四十八年十二月


枯木延命地蔵尊(西坂町)
 枯木地蔵尊は、昔丹波国と丹後国を結ぶ京街道の枯木峠の頂上附近の少し綾部市西坂町側にあり、西坂から南有路に向かって右側の一段高い所にまつられている。その地蔵尊からすぐ西側には、丹波と丹後の国境を示す道標が建てられ道路の右側には「従是(これより)東丹波国何鹿郡」左側には「従是西丹後国加佐郡」明治二七年六月建之とある。枯木峠を境に南東は何鹿部、北西は加佐那大江町南有路である。
 堂内の「枯木延命地蔵尊由来」には、「昔歩いて京へ上り下りする京街道として往来のはげしい枯木峠であり、この峠にいつ頃建てまつられたかわからないが、この地蔵尊がまつられ…」とある。身高九三センチの地蔵立像は、錫杖宝珠をもち、胸もとに宝絡(ほうらく)の飾りを描くなど衣文の表現もしっかりし、特に慈愛にみちた温顔、一度見たら忘れられない顔である。作者は不明であるが、地元の石を使わず和泉砂岩を使っていることや、ここが京街道に当ること等から腕のたつ京石工に依頼したものと考えられる。高さ二三センチの蓮台に、地蔵の足部を落し込むやり方は江戸時代の特色である。四角い基礎石三面に銘文があるが、床板にはばまれて読むことが出来ないがやっと「延命地蔵、嘉永二酉年四月吉日施主森永忠左衛門」とあり、施主忠左衛門は森永本家八代目西ノ保村(現西坂町)の庄屋。嘉永二年(一八四九年)枯木峠にこの地蔵を独力で建立した。(京都石仏会長佐野精一「峠の石仏」より)
 明治の初頭排仏の嵐をさけるために、この地蔵は峠から近くの満福寺墓地に移され、そのまま七〇年の歳月がたち発起する人の提案で昔通り峠に戻すこととなり、昭和一四年三月新しい堂を建て現在に至っている。その当時の記録を保存している森永登志雄の書類によると「枯木地蔵尊は、元枯木坪にあり明治七、八年頃、都合により森永忠左衛門墓地に安置していたが、森永家の希望により元の枯木に移転することになって、多くの篤志者により移転せらる。当時の芳志のあった人達の氏名が堂内に記録されている。
 最近においては、昭和五一年に瓦屋根もふき替えられ、平成四年一一月自動車で参拝する人達のために駐車場も設けられた。いづれにしてもむかし旅の安全と、子供達のすこやかな成長や長寿を迎えるために「まつられた」枯木峠の地蔵尊が、今一五〇年を経た現在も、崇敬の厚い人々の参拝が続く陰には、この地蔵尊の護持に努める森永登志雄一家をはじめ地元地域の人達の奉賛によるところが大きい。  (『物部史誌』)


《交通》


《産業》


《姓氏》


西坂の主な歴史記録




伝説



十三墓
村内字西坂小字鴻巣山の麓にある前記上原氏落城の砌、其の家臣十三人が当所まで落ち延び遂に自尽した所であるといふ。

古戦場
上原右ヱ門之尉の居城であった城山と距ること西北方五町の所字西坂の崩谷にある上原、赤井の両軍が雌雄を決した所だといはれてゐる。十三墓とは田野を隔てゝ南北に相対してゐる。
(『物部村誌』)

十三墓再訪





西坂の小字一覧


西坂町
桜ケ坪 上ノ森 弥谷 松尾 公庄畷 迫下 森安 笹ケ鼻 亀迫 前田 宝勺 立貝 番留 黒満坪 段ノ岡 浄土寺 山王 西迫 大工谷 大ユ谷 高倉 宮ノ奥 大門 宮床 枯木岼 広畑 堂ノ岡 妹岡 宝子 尾ノ城 浦安 奥ノ谷 長町 東ノ段 門口 深田 嶽ノ下 砂 清水山 四ノ奥 堂ノ奥 鳩巣 宮ケ嶽 清水山 嵩松

『物部村誌』
字西坂
「耕地」 桜ケ坪、上之森、弥谷、松尾、公庄畷、迫ノ下、森安、笹ケ谷、亀ケ迫、前田、宝勺、立貝、番留、黒満、段之岡、浄土寺、西迫、山王、大工谷、広畑、高倉、宮之奥、大門、宮床、枯木坪、堂岡、妹岡、宝子、尾野城、滝安、奥ノ谷、長町、東ノ段、門口、深田、嶽之下、清水山、砂坪、西ノ奥、堂奥、 計四十
「林野」 鴻之巣、宮ケ獄、清水山、嵩松、 計四


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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