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丹波の

延(のぶ)
京都府綾部市延町


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京都府綾部市延町

京都府何鹿郡中筋村延

延の概要




《延の概要》
安場川の下流、鉄道が通る一帯。府道福知山綾部線(8号)と広域農道の間、だいたいはタンボだが、長源堂の前を通る街道筋に民家がある。
延村は、江戸期~明治22年の村。綾部藩領。中筋組5村の1村。はじめ大島村の枝村、のち分村独立した。大島村の枝村7か村のうち宮・談寺・新庄は当村に包まれる。
明治4年綾部県を経て京都府に所属。同22年中筋村の大字となる。
延は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ中筋村、昭和25年からは綾部市の大字。同28年、地内南部の新庄・菅・旦寺の地域が上延(うわのぶ)町となり、残余が延町となる。
延町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。


《延の人口・世帯数》 276・103


《主な社寺など》

向かって左から、大将軍神社、浦島神社、大川神社。向きが変わるが、稲荷神社、天満宮。延町内のすべての神社というかホコラがここに集められているよう。
大将軍神社・大川神社・浦島神社
広域農道から日東精工(株)制御システム事業部西の市道を、南に100m入ると右手に4棟のやや小型の上屋が見える。その東端の上屋に大将軍神社が鎮座している。延町の鬼門除けの神である。創建は不明であるが、文政10年(1827)に再建されている。この社は江戸後期から明治年間3代に亘って名工と言われた延の宮大工の租・桑原直八の作である。子の兵右衛門も名匠で、父直人とともに当地方の近世の名建築と言われる高津八幡宮を8年かけ建築している。その他綾部並松の熊野神社、綾部八幡宮、大原神社も彼の作と言われている。兵右衛門の子直右衛門も名工で、綾部の若宮神社本殿や杵ノ宮は彼の代表作である。
この地には、以前大将軍神社のみ鎮座していたが、町内各所にあった小社が集められて整備された。昭和24年頃南在家の北端の森にあった稲荷神社と天満宮が森の除去により遷座、また平成3年の由良川改修で堤外地となった、浦島神社と大川神社も遷座し全ての小社がここに遷された。
大川神社は、当地で赤痢が流行し大変困ったので、昭和2年に老人会が舞鶴の大川神社より勧請したもので、祭神は須佐之男命であろうと思われる。8月1日の祭礼には千巻心経が上げられる。
浦島神社は、棟札には「浦島神社建立 天保12年(1841)大工は安場の加藤平兵衛と幸助、延の桑原直右衛門」とある。文政4年(1821)の浦島神社銘がある石灯篭があり再建とわかる。『中筋村誌』には「牛の神の信仰がある」という。かって当地方で牛の健康祈願のため、美しく飾った牛を連れ参拝する祭りで有名だった、由良川下流の福知山市戸田に鎮座する浦島神社がある。歴史上の背景などから戸田から勧請したと考える研究報告もある。また、『中筋村誌』は「江戸時代に社前で草相撲の奉納があり、飛び入りした綾部藩士を投げ飛ばしてうっぷん晴らしをした。延には力持ちが多く阿弥陀力と呼ばれ、延に祀られた阿弥陀如来のおかげである」と紹介している。その後は子供相撲に代わり昭和30年代には行われなくなったが、祭礼は従来通り9月6日夕刻に行われている。
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)

大将軍神社
大将軍神社
由縮沿革
部落鬼門よけの神である。文政十年再建。毎年十二月二十二日こうどあり、参拝者ににぎりめしを出すという。
(『中筋村誌』)

大川神社
大川神社
由緒沿革
昔延に悪性の赤痢が流行し非常に困ったので後昭和二年丹後の大川神社の分霊を勧請して祀ったのが始めである。
(『中筋村誌』)

大川神社
 所在地 綾部市延町北在家
 祭 神 保食神(生命古宰神)
 由緒沿革  丹後大川神社は、鎮座1500年前と云われ、氏子は由良川筋で35字、舞鶴湾で7字あり総鎮守として、古くから尊崇の篤い大社であり2000有余の氏子によって祀られている。明治5年(1872)郷社に列し、大正8年(1919)6月7日府杜に列せらる。五穀豊穣、養蚕及病除、安産の守護神として近隣に有名である。
昔、延に疫病(赤痢、コレラ)が流行し区民が非常に困った由で、此の疫病除けを祈願する為、昭和2年(1927)時の老人会長泉作左ヱ門が世話方となり、社祠を建立し(老人会員の寄進に依る)丹後大川神社の分霊を勧請し、9月吉日祀ったのが初めである。又丹後大川神社の境内社として病除神社(祭神・建速須男命)が祀られている。祭日、毎年9月7日、当社は由良川改修に依る用地提供の為、鎮守地芝添19番地より、北在家の大将軍横へ平成元年7月26日、移転遷座した。
(『ふるさと中筋』)


浦島神社
浦島神社
由緒沿革
創建は詳かでないが、社前に文政四年に建てた石燈籠がある。この土地ではこの神社を牛の神として信仰し、九月六日の祭礼には社前で草角力が催され、江戸時代には綾部藩士も参拝し、角力に飛入りして反って農民のうっぷん晴しの的になって投飛ばされるものもあったと云う。昔から延のアミダ力といって力の強い者が多かったと伝えられているが子供の頃から角力が盛であったからだとの説がある。御神体は円鏡(藤原重勝作)であるが櫛が添えてあるのが診らしい。
(『中筋村誌』)


長源堂

安場川の東側土手の下、高木橋のたもと。
高木山長源寺   右同村 在中
本尊阿弥陀如来座像三尺斗 堂二間四面 境内四方 小庵アリ 福寿院古跡字高木ト云所ニアリ 田字ニ福寿田ト云アリ
(『丹波志』)

長源堂
本尊 阿弥陀如来
由緒沿革
創建の年代は詳かに出来ない。昔は庵主があったが現在無住である。嘗て東光院に属していたらしく、住僧の名がその過去帳に載っているが、現在は慈音寺の所管である。
元禄年間羽室氏が延に居住するようになってからは特に崇敬深く、多くの田地を寄附して堂の維持をはかったものである。
藩記に、阿弥陀堂弐間に弐間半、高木山長源寺、境内拾間四方、本尊弥陀如来座像三尺と云、高木に立つとある。今から百二十年程前屋根を瓦葺としたが、その時慈音寺の和尚作の真源堂の御詠歌を唱え、旗を立てて寄附を募って廻ったと伝えている。
明治初年一時住職を置いたが死後無住となり、庵は部落の集会所として利用していたが、大正十三年改築して現在公会堂となっている。
(『中筋村誌』)


《交通》


《産業》


《姓氏人物》
豪商羽室家

長源堂の反対側(西側)土手の下にある。
羽室嘉右衛門
嘉右衛門は安政三年の生れで綾部の名家延の羽室家七代目を継いだ人であり、郡是の波多野鶴吉の実兄である。
元来羽室家は九鬼氏が綾部藩主として入部して陣屋、城下町創設の頃に綾部に来り九鬼氏の創業に力を尽した家で、嘉右衛門の家は元禄十一年延に移住したものである。町の羽室家と共に代々大庄屋を勤め、政治、経済の上に重要な役割を果して来たものである。代々酒造業を営み、小作米千石と云はれたものである。その後享保の頃二百石づつの小作田を分けて東、西羽室家が分家した。
嘉右衛門は早くより産業開発の為製糸業に目をつけ、明治二十二年従来手挽や座ぐりでやっていた製糸法を改めて汽缶を購入して機械化し、同二十九年弟の鶴吾等と共に郡内小製糸工場を合併して郡是製糸会社を創立し、初代社長に就任した。その他農工銀行の重役や明瞭銀行の頭取にもなった。尚公職については明治二十二年初代中筋村長に就任、難民救済の法として「元捨勘定」という方法を講じたことがあり、又京都府農業会長、府会議員などに連出されたが、明治三十五年八月衆議院議員に当選した。).

波多野鶴吉
延の羽室家六代嘉右衛門の次男で安政五年の生れである。慶応二年九才の時母方の分家中上林馬場の波多野弥左衛門の養子となる。この頃栗村の郷学校広胖堂に学ぶ。
明治八年勉学を志して郷里を出で、京都や大阪などを遍歴すること七ヶ年、その間学問に精進すると共に一面放蕩をつくし、養家の財産も使いはたしたという。その間著書啓蒙方程式を自費出版したり、教理研究義塾を開いたり、貸本屋などもやっていた。
明治十四年郷里に帰り、妻と共に生家の羽室家に寄食することになったが、翌年遵義校(村の小学校)の代用教員として勤める傍ら、蚕糸業に興味を抱き、遂に十九年教師を止めて伺鹿部蚕糸業組合組長に就任し、後世蚕糸業界の先覚者となる第一歩をふみ出したのであった。
明治二十九年郡是製糸会社創立に力をつくし、取締役となり三十三年社長となった。
又明治二十二年キリスト教に入信して以来終生信仰の年活に入り、郡是製糸の経営に信仰と教育を基盤とした、所謂生糸会社の郡是方式を確立したことは、近世資本主義会社経営に一時代を劃したものとして史上に残るものである。大正七年二月綾部女学校に於ける何鹿群在郷軍人会の総会で、「大和魂と宗教」なる講演中脳溢血で倒れ、六十一歳を以て死去した。
(『中筋村誌』)


延の主な歴史記録


沿革
延は江戸時代まで上延と共に延村であったが、昭和十八年四月分離して俗称下延が延区となったのである。
戸数は昭和二十五年六十戸となっている。小字名は鳥居、船田、柳、高木、魚梁、弓場、堂浦、知連田、芝添、北在家、南在家、蓮花、六反田、庭刈、野上、野上畑、小丈子、名小路などがある。
延は中世以降に嘗て由良川の湿地帯であったこの地が新開拓地として集落が発達したのではないか。延いう語感の外に、隣接の新庄が本荘から新しく分れた開拓地の意味であるのと同様、元村から移住して来たと考えられる土地である。区民の苗字などから見ても古来からの土着の民家でなく、近郷にその源流があると思はれる。然し以前大将軍神社の附迄北在家から土錘土師器などが発掘されているから、古代既に住民が居住していた処もあったと思はれる。
明治二十年四月三十日大火災があって二十一軒が焼けた。当時綾部の旧藩士が職を求めて阪神方面へ多く移住した頃で、空家があったのでそれを買って移築した者が多かった。延の火災は近郷で有名になっていたので、火がよく燃えないと「延(のぶ)々」といったという。
(『中筋村誌』)

丹波のダイジゴ
まえがき
 数年前から、若狭や近江のダイジョーゴが注目されている。今までの資料では、ダイジョーゴは祖神的な性格のものや、地神的な性格のものなど区々ではあるが、祖霊信仰につながる興味ある問題であることはたしかである。この問題の掘り下げのためにはより多くの資料の集積が必要であると考えられるので、ここに丹波地方(主として綾部市を中心とした中丹地方)のダイジゴの資料の若干について報告してみたいと思う。
この地方のダイジゴには、もっぱら「大将軍」どいう漢字が当てられている。この地方の大学毎、所によっては小字にあるのが普通である。今は地点名として残存しているだけで注意もされず、もちろん信仰も失われ、正確な位置さえも伝えられていないものもある。小祠が残っているのはよい方で、区有の空地として残されている例もある。ダイジゴの名称もすでに失われ、他の名称に置きかえられたと推測されるものもある。
 この地方のグイジゴの共通した性格は、その位置が、その部落、あるいはその部落の古い家群、すなわち村の草分けと考えられる家筋の宗家、又はその屋敷跡のウシトラの方向に当っていることである。その土地の鬼門の守謹神的な性格を持つものであるとの伝承が、今も古老の心意の底に根強くのこっていることはたしかである。
 なお、注意したいことは、ダイジゴと称せられる土地、あるいはその小祠の付近からは、土器の破片などが出土する例の多いことである。

廷のタイジゴ
 綾部市延は旧何鹿部中筋村であるが、この延部落の東北隅の一角に、通称ダイジゴの薮がある、そこにダイジゴさんの小祠がある。近い頃、他の個所にあった天神様と稲荷さんの祠とをこのダイジゴさんの境内に移したので、今はダイジゴの祠のほかに、この二つの祠がある。
 このダイジゴの薮は、由良川の沖積地帯に発達した延部落の中でも、少しく高みになっていて、昭和二十八年秋の由良川大洪水の折には、延部落の全家屋が浸水し倒壊した家屋もあったのであるが、このダイジゴの薮には、上流の流失家屋が堆積したのに、この祠はびくともしないでいた。今ダイジゴの小祠のある場所は、この部落の旧い家筋である桑原株の大本家というべき桑原直右衛門の屋敷跡に近い。この桑原家は代々地方に著名な宮大工で、その作った社は今も残っているし、今あるダイジゴの祠もその末代の作であるという。今はもう畑地になっているが、この桑原家の屋敷跡につづく付近から、漁網用の錘であった素焼のイワが出土するし、土器の破片も出るという。
 昔は十一月二十日にダイジゴさんのお祭りをした。部落で米を一合ずつ持ちよって、黒豆入りの握飯を作って子供達に配るのがならわしであった。今はこれという祭りをしないが、子供の神様だといって、子供が生れると必ずとのダイジゴにおまいりするし、夜泣きをする子供のためにもダイジゴにまいる。
 今は十一月二十二日にコードをするが、この時、区長の指図で当番の組で黒豆の握飯を作って子供に配るのはダイジゴさんの祭りの名残りである。コードという行事については別に報告を持ちたいが、この話をしてくれた土地の古老、桑原庄吉さん(八十二才)が、コードは「土地の誕生日」のようなお祭りだといわれたのは印象的な言葉であった。
 なお、このダイジゴの位置は、延部落のウシトラの隅にあるので、土地の鬼門を守る神様であるとも考えられている。

井倉のダイジゴ
 綾部市井倉部落の東北隅、小字名を大将軍という地域の一角にダイジゴさんの小祠がある。この大将軍には、古屋敷といって、井倉では古株の安村株の宗家の屋敷跡があり、先年もこの古屋敷の付近の畑の中から土器が出土したという。
 ダイジゴの祭日は十二月二十四日で、今はただ、付近の人達がささやかにまつるだけであるが、昔は井倉全体でまつったという。古くは必ず田の落穂をひろって、これで団子を作って供えたものであるという。ダイジゴさんは稲の穂を盗んで食べられたので、この日雪が降ると足跡が消えるので、必ず雪が降るのだとも、ダイジゴさんは足がすりこぎで、この日雪が降ると日本に恕られるが、降らぬと天竺へ旅立たれるのだとも云い伝えている。
 又、この井倉のダイジゴさんの境内には、萱が茂っていた。正月十四日のカヤの箸は、必ずこのダイジゴさんの萱で作るもので、朝早く無くならぬ間にそれをいただきに行った。このカヤの箸で、十五日のオカイ正月のオカイを祝ったものであるという。
 井倉のダイジゴも、井倉の土地の鬼門除けの神様である。

上延のダイジゴ
 綾部市上延部落は旧何鹿郡中筋村分であるが、この上延から段寺部落への道が、安場川を渡る所にダイジゴ橋がある。小さい橋で橋には大将軍橋と刻されている。橋の近くに今、樫の木の少しばかりの茂みがあるが、昔はこの森にはもっと大きな樫の木があって、そこにダイジゴさんの小祠があったということである。古老に聞いてみても誰もダイジゴについては何も知らない。ただ前年この橋の東側の台地を、道路を改修するために工事をした時、土が崩壊して村人の一人が大怪我をして、それが原因で死んだことがあった。この台地付近を村人連は祟るといっておそれてはいる。村の中心には、村の古い株である上原林の家群がかたまっているがタイジゴ橋は大体村の中心からウシトラの方向に当っている。
 なお、上原株には株荒神を持っていて、この株荒神の位置は、上原株の大本家の上原太郎兵衛の屋敷に近い処にあり、この株荒神のある谷を宮の谷といい、この谷は株内の持山で、株内で分家があるとこの山を分けることになっているという。

小呂のタイジゴ
 旧何鹿郡吉見村大字小呂は、今綾部市に編入されている。小呂部落の中心家群の東北に対する谷迫にダイジゴという所がある。小呂部落には、二つの梅原株があるが、その株の一つである梅原喜代蔵さんの家が、ダイジゴにあるので、土地の大方は梅原さんの家のことを、ダイジゴの喜代蔵さんと呼んでいる。二つの梅原株の中でも喜代蔵さんの方は古いといわれている。
 梅原さんに聞いてみてもダイジゴのことは全く不明で、、ただ前年梅原さんの家の上の台地に塚らしいものがあって、ここから土器が出土したことがある。又、土地の人はダイジゴともいうが、訛って、ダイジゴー、ダイジーグーともいうとの話であった。

大島のダイジゴ
 綾部市の西郊、旧何鹿部中筋村大字大島のダイジゴもすでに忘却の一歩手前にある。位置は綾部-福知山間の鉄道線路の北側、由良川よりの畑の中の、区有地だという礫石の集積した十坪位の一区画である。明治二十九年の由良川大洪水の頃までは、欅、桧、松などの巨木があったというが、今は全くない。古くあったという小祠も失われて長い。二十九年の大水に上流の岡(地名)の某が家共に流されて大島のダイジゴさんの大木にかかって助かったという話がある。
 昔、大島の部落の周囲にはワダノモリ、オカノモリ、ウメノモリ、イナリノモリ、ダイジゴノモリなどの小宮があったが、今残っているのはイナリノモリだけなのだという。イナリさんの森は今も繁っていて、近年まで周り一丈もある欅が幾本もあった。イナリさんのお祭は初午で、小豆の握飯を作って祝うのと、十二月八日にイナリコードといって村人がお詣りする位である。別に稲荷さんにはお詣りはしないが、村の古い株の大島株では同じ十二月八日に株講があるという。

その他のダイジゴ
 この地方のダイジゴはこれらのほか、旧小畑村中のダイジゴはシタガワ垣内でまつるもので立派な小祠がのこっている。於与岐のダイショウグンは当地に残されている検地帳に「大上こんのむかい」という記載があり古くからあったようで、今は下村中川原の境、於与岐八幡宮の東側に小さい敷坤にまつられている。旧口上林村浦入にもダイジョウゴンという地名が残っていて、此処にはかつて欅の巨木があったが、それを伐って祟りがあつたと伝承されている。旧豊里村川面にもダイジゴさんの小祠が残っていて、川北株の祖神的性格をもつものではないかと考えられる伝承の残存があるように感じられる。その他、上八田、上杉などにもダイジゴの小祠があるというし、旧物部村西坂、天田郡旧川合村台頭、福知山市前田にも大将軍という地名が見出されるようである。

あとがき
 以上丹波地方のダイジゴの若干の資料について報告したわけであるが、まだこのほかにも注意してみると、この地方にはこれと同系のいくつかの資料を指摘出来るようである。御承知の通り、本家を中心とする同族団の結合は、地方により、村落により多少のちがいはあるが、その分布はほぼ全国的であって、この同族集団が日本の農村社会の基本的なグループ形態であるとせられている。このことはわが国の村落成立の多数が「家」を単位とする同族グループの定着開拓によって始ったものであることを物語っているのである。
 いうまでもなくこの地方に見られるいわゆるカブ(株)は、この同族結合の一つの形であって、久しい歴史的な変遷をたどり、分家、別家などが派生したり、後からの移住家族や、移住同族のそれぞれの間に、さまざまな文化的・政治的、経済的な関係をもみちながら、一つ一つの家は興亡の歴史をたどって来たものであった。これらの株は、現在においては、その組織と機能はくずれつつはあるけれども、本家を中心とする社会的な基盤の上にたって、相互扶助の働きを示しつづけている。とくに株内の婚礼や葬礼の時の協力には大きな役割をはたしている。
 それぞれの株は、株講と称して、ある特定の日に集合して飲食を共にして、共同祭祠を行うのが普通である。株講の形式は土地によってまちまちである。株荒神と称する同族共同の小祠を持つもの、先祖の画像を中心に祭りを取り行うもの、先祖の法名を記した軸を床にかけて祠るものなどであるが、一種の先祖祭であることにかわりない。丹波地方における株および株講については、すでに竹田聴州氏の貴重な幾多の論考がある。
 同族神は、東北、九州南部では「ウチガミ」と称せられ、関東、中部、近畿では「地神」といわれ、中国、山陰地方では「荒神」「荒神森」と呼ばれるものなどが同質同系のものと考えられている。同族神の類型の種々相については今後の調査研究にまたねばならないだろう。ここに提供したダイジゴも、今後多くの事例の分析によって、その性格の解明が期せられるわけであって、今の段階では決定的な何も言えないというのが答えであろう。(一九五五・六)
(『丹波の話』)


伝説





延の小字一覧


延町
高木 弓場 鳥居 柳 船田 小丈子 紫間 口花 庭苅 野上 知連田 六反目 魚梁ノ上 北在家 南在家 紫添 名小路 堂浦 岩鼻 野上畑


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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