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丹波の

小畑(おばた)
京都府綾部市小畑町



小畑町(奥)。手前は鍜冶屋町

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京都府綾部市小畑町

京都府何鹿郡豊里村中

小畑の概要




《小畑の概要》

犀川支流伊路川の上流で、山間の小盆地に開けた農業地域。中・日向(ひなた)・本城奥の3自治会に分かれる。以前は中あるいは中村と呼んでいた。府道小西西坂線(489号)が南北に貫通する。

古代の小幡郷で、「和名抄」丹波国何鹿郡16郷の1つに見える。小幡郷域は現在の綾部市鍛冶屋町・小西町・小畑町などに比定されている。
旧小畑村は市内で最小面積の村であるが、古墳数は非常に多い。このうちの八塚古墳群は約一三基の円墳群であって、石室は有しない。前田古墳群は昭和四十年に調査され、七世紀前半のころのものと推定されている。他に三ノ宮古墳群・野口古墳群および前に述べた成山古墳群などがある。

小幡郷 旧小畑村にあたる。丘陵地帯で、六世紀から七世紀へかけての古墳が数多く存在しており、何鹿郡で最も古い四世紀に造られた成山古墳もある。域内の四寺院が全部奈良・平安時代の創立という密教寺院であることも、早くから開けた地域であることをしめしている。なお新庄は小幡新庄で、小幡郷から分かれたところである。  (『綾部市史』)

中世は小幡荘で、平安末期から戦国期に見える荘園。「玉葉」承安5年(1175)5月12日条の請文の註に「丹波国小幡田新庄也、国司新立庄之間、本御願領位田、依籠彼四至内、改立他所々進也」とあるのが初見という。
ずっと下って寛正2年(1461)9月10日付の何鹿郡所領目録に「小幡」と見え、安国寺再建のための棟別銭が課されている(安国寺文書)。また「実隆公記」大永6年(1526)6月26日条には「丹州小畑事、波々伯部三郎持分事有被申旨」とあり、当地が波々伯部氏の支配下にあったことが知られる。波々伯部氏は小畑城を根拠に何鹿郡西部に勢力を有した。

近代の小畑村は、明治22年~昭和24年の自治体で、中・鍛冶屋・小西の3か村が合併して成立し、旧村名を継承した3大字を継承した。同24年豊里村の一部となる。村制時の3大字は豊里村の大字に継承された。
小畑町は、昭和30年~現在の綾部市の町名。豊里村中が綾部市合併に伴い改称したもの。


《小畑の人口・世帯数》 258・96


《主な社寺など》


白鬚神社

府道小西西坂線(489号)から西北へ入る谷があり農道がついているる、府道からも遙か奥に当社の石燈籠が見える。タンボしかないので未舗装だが、車で社前まで入れる、このあたりが「別所」のよう、奥の山は「宮ケ嶽」で山を越した北側には式内社の高蔵神社がある。白鬚社は市内では奥上林にあるのと当地だけではなかろうか。人家からは離れてポコッとあって、遠く離れている現地の集落と関係があるのか、もちろん関係あるのだろう、しかし大抵は由緒不明である。もうず~と大昔に忘れてしまった遠い過去を伝えている古代の忘れ形見と思われる。スコーンと忘れられた遠い過去を何とか復元してこそ史家なのだろうが、それは否定して、考えもしないで、イヤあれは江戸時代の物だとか言って、当人は史家のつもりでいるニセ史家ばかり、まともに考えようなどする者は一人もいないご当世、そうしたセンスそのものを失っている、腐ったクソ政治屋さんでもあるまいし「不都合な真実」でもなかろう、このままでは行き先はお見事な破滅しかないのでなかろうか。


白鬚大明神    中村
祭ル神近州白鬚大明神ト云 祭礼 九月十五日
同村松原限リノ産伸  二社作一間四面辰己向 二間ニ三間半舞堂 境内凡三十間ニ五十間 小田谷ノ古社也
(『丹波志』)

白鬚神社
所在 豊里村字中小字別所
祭神 仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰
縁起
口碑によると、本社はもと本村北隅の宮ケ嶽頂上に鎮座、船並に火防の守護神として崇敬せられた。後年、参詣不便の為現在の山麓に遷座した。祭神の武内宿禰とは、明治十六年四月社寺取調の際からか、古くは猿田彦之命と伝えている。(明治十七年社寺明細帳)宮ケ嶽の地名、天狗の止り松の老木はこれ等に関係があろう。
現在の社殿は、文政二乙卯年四月の改建、境内に梵字を配した塔身あり、
境内小社
・八阪神社 祭神 素盟嗚尊 由緒不詳
 文政二年本社再建の時創祭と記録あり。
・愛宕神社 祭神 火産霊神 由緒等仝前
・山の神  もと原貝より現地に勧請
祭礼
古くは十月十五日、作田の高稲場で、後松原の白ひげ馬場で行う。現在は十月十六日。
(『豊里村誌』)

白鬚神社の本社は高島郡、琵琶湖の中に鳥居が建っている。古くは比良神と呼ばれ、比叡山の神である。ヒラとかシラ、「白日、白鬚は新羅に候」とか柳田国男も語るとおり、渡来人が祀ったものと推定されている。高句麗人も祀ったようで、関東にもよく見られる。栗町とか当地のあたりにもそれらではなかろうかと思えるような地名が残る。当地一帯の古代渡来人たちの開拓史を物語るものであろうか。

熊野神社

周囲4米の大杉がある。
二ノ宮熊野大権現   中村在中 南ノ山根ニ谷川限南分ノ産神
祭ル神    祭礼 九月十六日
社一間ニ一間半三社作 正面丑寅二間ニ五間舞堂 鳥居有 社地凡三十間ニ五十間  (『丹波志』)

二の宮神社
所在 豊里村字中小字正名
祭神 速玉男之神、伊邪諾神、事解男之神
由緒 一名熊野神社、創立年月不詳、口碑に貞観二年創立、寛文十三丑年紀伊国本宮より熊野神社を勧請し祭祀すと。御神体は、聖観音。
祭礼
 例祭は十月十六日、武大神と共に行う、武大神には御輿なく御鉾あり、二宮には御鉾なく神輿あり。祭礼音頭は、京都三十三間堂の棟上音頭という。
鳥居
 本社は両部鳥居という。真言宗・天台宗に関係ある神社に用いると。
末社
・蛭子神社 祭神 蛭子大神 創立天明五巳年
・大社神社 祭神 大国主大神 創立 仝
・八幡宮社 祭神 誉田別天皇 仝
・若宮神社 祭神 稚郎子皇子 仝
・大川紳杜 祭神 由緒不詳
境外社
・八幡紳社
 所在 字中小字作田、祭神 忘神天皇
・稲荷神社
 所在 宇中小字原貝、祭神 倉稲魂神
 創立 文久二年正月三十日
(資料として、稲荷本宮羽倉伯耆守内神役人の証二通あり。)
(『豊里村誌』)


武大神社(旧・午頭天王社)

(神額などはなく、また大杉もなく、五反には違いないようだが、本当に写真のこの社かは不明)
牛頭天王   中村 人家ノ脇ニ 同奥村ノ産神
弐尺四面ノ祠丑寅向 二間ニ三間ノ篭家有 境内凡十五間ニ三十間 白鬚明神 二ノ宮権現 牛頭天王三社ノ産神ト云
(『丹波志』)

武大神社
所在 豊里村字中小字五反
祭神 素盞嗚等
由緒 不詳 寛政十-年再建と伝う。
   境内に大杉あり、周囲五米三十
(『豊里村誌』)


高野山真言宗白仏山天王寺地蔵院


白仏山天王寺地蔵院 真言宗丹後南山村観音寺末  中村
中興ノ開基教盛僧都也 別ニ毘沙門堂鎮守 雨宝童子ノ 神体厨子入 戸扉ニ春日八幡ノ絵有 此神体ハ物部村上原ノ城ノ守神也 落城ノ後当寺ニ安置ス 並上原ノ陣貝ト申シ伝螺一口神体ト同当寺ニ納 当寺往古ハ村奥ノ山ノ字ニ天王寺ケ尾ト云所ニ大寺在 空也上人開基トモ云伝 大破シテ暫後今ノ所ニ引移 古跡字天王寺堂屋敷毘沙門屋敷ト云 石場石アリ 其毘沙門丸木仏五尺斗シヤレニ成賜テ当寺ニ納在
(『丹波志』)

天王寺(上寺)白仏山天王寺地蔵院
所在 豊里村字中小字松原
宗派 真言宗 本尊 不動明王
延喜 開創については不明、寺伝には、中興空也上人、再中興は教盛大僧都であると、
寺基はもと、金谷、天王寺ケ尾に七堂伽藍を構え、数多の塔頭を擁して、この地方の文化と宗教の中心地であったと推察される。(関連地名に護摩ケ迫・比丘尼等あり。)
戦国時代兵火により焼失、爾後災禍幾度か、檀越も四散したので、天正年中、塔頭地蔵院の住僧であった教盛大僧都が、松原の今の地に寺基を移し、再中興され現在に至つている。
什物
(1)毘沙門天像、本寺の鎮守か、何鹿七福神の一
(2)両宝童子像、五穀豊饒の神、弘法大師感得の像という。
・菊花の幕 大正年中迄当寺の紋として使用した菊花紋の大幕あり、勅願寺(祈祷寺)ではなかったか。盗難に遭い現存せず。
・五股杵 涅槃画像 本堂欄間等
(『豊里村誌』)

隣同士で2つの寺院がある、創立はどちらも超古い。金属の地(すぐシモの村名は鍜冶屋)に建てられた寺院ではなかろうか。

曹洞宗万年山高源寺


万歳山高源寺 禅宗丹後田辺桂林寺末    中村 城山ノ根ニ
開基不知 中興開山応永年中笠翁雄仙大和尚 本尊観音 郡十八番札所 鎮守庚申秋葉権現 門ニ古木松一本有 是ハ新庄村新田小兵衛大坂陣ニ立ト云遺言ニ植置松ナリト云
(『丹波志』)

高源寺 小畑村字中にあり、万年山と号す。曹洞宗にして、聖観世音を本尊とす。今の堂宇は寛永五年の再建に係る。
(『何鹿郡誌』)

高源寺(下寺)萬年山高源寺
所在 豊里村字中小字松原
宗派 曹洞宗 本尊 聖観世音
縁起 本尊薬師如来 寺伝に言う。行基菩薩の開基にして三輪宗に属せし当時堂塔伽藍規模宏壮なりしが、宗派の分裂と共に次第に衰退せり。人皇九十二代伏見天皇の正応二年永順記室禅師再興、後祝融の災に逢い、其後当山四世喚則応大和尚宝永五年伽藍を今の地に移すと。(何鹿郡史蹟梗概抜萃)
・薬師堂 庚申堂といつたこともあるらしく、祭仏は大青面金剛。創立は寛永二丑年、改築は明治二十四年。
・地蔵堂 地蔵菩薩を祭る。創立明和四亥年。
什物
(1) 聖観世音、座形木像、伝阿波屋作。
(2) 華梁霊重和尚筆の軸物
…天和二年壬戊之頃請丹後国田辺城下桂林寺第十七世華梁霊重大和尚為開山属其支院…(鐘銘による)
(『豊里村誌』)


小畑城

松原(小字)の高源寺(写真の赤い屋根)の裏山は城山と言うがそこに城跡がある。
「丹波志」は波々伯部弾正古城と伝える。室町後期に小畑中村城主波々伯部源内左街門義信なる土豪がいたことが「横山硯」にみえ、また塩見家文書(「丹波志」所引)には波々伯部三郎左衛門尉や波々伯部兵庫助などの名があり、村内に波々伯部氏が勢力を振るっていたと考えられる。
当村より西南の報恩寺村へ越える三坂(さんさか)峠には波々伯部氏にまつわる「三坂女郎」の哀話が伝えられる。
小畑城跡

篠山市に波々伯部(ほうかべ)神社があるが、元々はそのあたりの一族のよう。
横山硯云、享禄四年、京詰の折節、摂津尼崎の合戦 細川晴元管領高国を攻めしなり 日々増長せり。是によつて、細川高国より、討手に仰付られ、此時、天田郡にては、横山城主頼氏、及其子長頼、何鹿郡にては、大槻信尚、波々伯部、又、八上城主波多野両家等、各細川公の幕下に属し尼崎へ討て出づ云々。
(『天田郡志資料』)


《交通》


《産業》


《姓氏》
波々伯部(ははかべ)氏
波々伯部氏
太田亮著の『姓氏家系大辞典』によると波々伯部氏は、「藤原姓で多紀郡波々伯部より起る」とし、八木町誌では「藤原房前より出づ」としている。また六波羅下知状によると、波々伯部保(多紀都城東町)は正安元年(一二九九)祇園感神院領となり、その後、建武元年(一三三四)波々伯部保下司波々伯部信盛が領家職となっている(八坂神社文書)から、おそらく平安末期か鎌倉時代のはじめ丹波に来て、波々伯部保の下司としてその地に土着し、波々伯部氏を称したものであろう。鎌倉時代には在地領主となり、元弘元年(一三三一)波々伯部為光が居住地に波々伯部城を築き、(丹波史年表)足利尊氏の挙兵に馳せ参じ、以後、多紀郡を本拠として足利氏に仕え、のち丹波守護細川氏の家臣となった。南北朝時代に入ると間もなく船井郡に勢力を伸ばしてきたようすで、正平六年(一三五一)八月、波々伯部源次郎という者が内藤孫四郎と計って神護寺領吉富庄(船井郡)を押領し、丹波守護仁木頼章より停止の合を受けている。(丹波史年表)内藤氏は鎌倉時代以来の豪族で、南北朝時代に内藤季治が多紀郡の曾地域(城東町)に居住して(丹波史年表)以来、丹波の豪族として勢力を伸ばしていた。
正平年中、波々伯部氏は内藤氏とともに船井郡に足場を築いて八木を基地とし、内藤季治の子季継は八木城主となり、波々伯部氏はその下に属して代々家老職についたものである。室町時代に内藤元貞・貞正・国貞らは丹波の守護代となり、のちに内藤氏は波々伯部氏とともに八上城主の波多野氏につき、運命をともにしていった。

小畑城の波々伯部氏
大永より天文へかけて丹波を戦火にまきこんだ大永の乱において、丹波守護代の内藤氏は細川高国方を固め、また丹波統一の野心もあったとみえ、何鹿郡の鴻ケ嶽城(大島町)に一族の日向守正綱を、小畑城(小畑町)には重臣波々伯部の一族を置き、永禄のはじめには福知山の押えとして鬼ケ城にも一族を派遣した。
波々伯部氏が伺鹿郡に入った時期については何の資料も発見できないが、内藤氏の勢力がこの地におよぶようになった永正のはじめころではなかろうか。それより天正七年(一五七九)、光秀の丹波攻略で滅亡するまで、長くても六、七〇年ほどの間ではあるが小畑城主として威を張っていたものであろう。小畑城の波々伯部氏が、細川高国あるいはその弟の晴国に従って奥郡の土豪たちとともに活躍したことは、福知山城に残された『横山硯』や「塩見家文書」で知ることができる。享禄四年(一五三一)尼ケ崎合戦に出陣した丹波の土豪について『横山硯』は、
  「享禄四年京語の折節摂津尼ケ崎の合戦日々増長せり 是によって細川高国殿討手に仰付けらる 此
   時天田郡にては横山の城主小笠原大膳頼氏 奈賀山隠岐守長頼 何鹿部にては大槻右京太夫信高 波
   々伯部伊勢守 笹山の八上城主波多野両家等 各細川公の幕下に属し尼ケ崎へ討出云々」
と記している。この細川晴元との合戦は高国方が敗れ、高国は自殺し、丹波の土豪、足立・波々伯部・細見・牧等は討ち死、(丹波史年表)志賀郷の土豪志賀四郎兵衛尉もともに討ち死している。(志賀氏系図)次いで永禄八年(一五六五)三月、氷上郡黒井城主赤井悪右衛門直正は隣郡天田郡を押えようと、芦田・足立・久下等の族をたのみ、福知山、横山城の横山大膳亮を包囲して攻め落とそうとしたが、横山城側の計略にかかってさんざん敗れ赤井勢は退却した。この合戦に横山城主一族の姻戚、小畑中村の城主波々伯部源内義信が加勢して戦っている。
小畑城の波々伯部氏が消滅するのは、天正七年明智光秀方の猪崎城主塩見家利討減のころであろう。『横山硯』によると、光秀は四王天・木下らの武将とともに数万の軍をひきいて、横山・和久・中山の城をおとし入れ猪崎城にせまった。城主家利は、とても勝ちめなしと城に火をかけて落ちていこうとしたが、追手に打たれてしまった。奥方は親元の波々伯部の方へ逃げ帰ろうとしたが三坂峠で討たれ、「まことにあわれな次第なり」としている。このあと小畑城の波々伯部氏は滅ぼされたものと思われる。
猪崎城主の妻が遺児を抱いて三坂峠まで来たところ追手に打たれたという哀話は、三坂女郎物語としていまに語り伝えられており、このとき血に染まった太刀を洗ったという御太刀池や、明和六年に建てられた供養塔が三坂峠の上に残っている。
波々伯部氏はこうして光秀の丹波平定のかげにはかなく消えていき、生き残って帰農した一族がわずかにその姓氏を伝えているにすぎない。
(『綾部市史』)


小畑の主な歴史記録




伝説







小畑の小字一覧


小畑町
宗谷 正名 棚田 埋野 作田 下川 桜田 伊路屋 深町 杉ノ池 中村 田畑 高岸 後山 稲葉 中安 国光 芝居 宗谷 正名 別所 原貝 松原 山王 饅ケ迫 柿ノ木 六条 竹ケ鼻 別所 原貝 松原 五反 天野前 石田 大坪 吉国 長谷 深田 土取 岸ケ下 金谷 天野前



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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