丹後の地名プラス

丹波の

於与岐(およぎ)
京都府綾部市於与岐町


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京都府綾部市於与岐町

京都府何鹿郡東八田村於与岐

於与岐の概要




《於与岐の概要》


舞鶴の南隣の村、舞鶴市の池下から大俣峠や見内峠を越すと、綾部市於与岐で、弥仙山の南麓一帯に広がる農山村である。
伊佐津川最上流に位置し、その谷合に近世以来の大又・中川原・下村・見内の4最寄(もより・集落のこと)からなり、それぞれ自治会を組織している。
中心は中川原で技村として下・大俣(股・又)・見(箕)内の三ヵ村があり、合わせて於与岐四箇ということがあるという。
地名は寛正2年(1461)9月10日の何鹿郡所領注文に「於与記」と見えるのが早い(安国寺文書)。中世の八田郷に属し、その東谷(東股)の北部域にあたる。
於与岐村は、江戸期~明治22年の村。枝郷に大股(大又)村・中河原村・下村・見内(蓑内)村がある。
慶長4年(1599)88月、荒木勘十郎に「およき村」200石が宛行われている(毛利家文書)。次いで同6年の御知行方目録(山家藩庁文書)にも同高「およぎ村」と記される。江戸初頭は山家藩領、寛永5年(1628)旗本梅迫谷氏領となる。幕末に枝郷4か村はそれぞれ独立した。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、京都府に所属。同7年分村した4か村が再び合併、於与岐村に復する。同22年東八田村の大字となる。
於与岐は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ東八田村、昭和25年からは綾部市の大字。昭和28年於与岐町となる。
於与岐町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。


《於与岐の人口・世帯数》 239・114


《主な社寺など》

弥仙山(みせんさん・みせんやま)

於与岐の象徴の山、釈迦ガ嶽・金峰山ともいう。舞鶴市街地の南東約10㎞、綾部市北部の於与岐町との境にある山で、美しい姿は舞鶴からも見える。標高664m、地質は閃緑岩からなるそう。だいたい花崗岩のような石だが、少し深い所でできたものなので、鉱物は多いかもの知れない。
トンガリ帽子の尖頂を有し、古来、信仰の山として開けた。聖武天皇のとき僧行基が開山したとも伝えられる。麓と山腹と山頂に社があり、それらをつないで参詣道がある。途中にこんな案内板がある。

弥仙山案内図」大きな画像は、ここからダウンロードできます。

当山や周辺の高山は山岳修験道の行所として開かれた、村とは本来はあまり関係はない。それにしてもさっぱりわからない。長い時代にいろいろな要素が習合したものか。

郷土の修験道の遺跡
修験道は真言密教と深く結びつき、いま綾部市内にある真言寺院の多くが、山地の高いところに創建された由緒をもっている。これは修験道の行場・宿坊的な役割をもっていたものと思われる。特に古い由緒をもつ君尾山光明寺は、役小角がここで修業し、理源大師が中興したと伝えている。この君尾山を起点として、口上林の東照寺・日円寺、東八田の蜂ケ峯の西照寺・施福寺を経て、於与岐の弥仙山へと一連の雄大な修験道場が展開されていたようである。君尾山の東方、丹波若狭にまたがる頭巾山も青葉権現をまつる霊場であり、丹後の青葉山と相応じている。この外にも各地に行場が設けられており、そこには熊野権現や大日如来の忿怒身の化身とされている不動明王、来世の仏である弥勒菩薩、そのほか虚空蔵菩薩・青面金剛・蔵王権現など、いろいろな仏像がまつられ、いまもそこでは滝に打たれる行などが行われたりしている。
(『綾部市史』)

金峰神社
弥仙山の頂上にある神社。吉野金峰(きんぷ)神社を勧請したものか。私もずいぶんと昔に登ったことはある、当社の写真も写したはずだが、フィルム時代のことであり、もうカビが生え、変色しているだろうから、探してみることもしない、もう一度登るのもたいへん、登っても眺望はない、写真がない。

金峯神社
東八田村字於與岐区小字大又なる彌仙山上に鎮座、無格壮にして木花咲耶姫命を祭る。古くは修験道の練行地たりしものゝ如し。明治初年迄は女八禁制の霊地にして、麓なる三十八社籠神社より上部は此の麓を侵すもの一人もなかりき。参拝人は麓の谷川にて石を拾ひ、(己が年数だけの石を拾ふ)山上に運びて祠辺に積み、祈願すれば、願成就すと言伝へて、此の風習今も存す。毎年卯月八日は賽客殊に多し。三十八社籠神社は安産の神といひ伝ふ。  (『何鹿郡誌』)

金峰神社 所在地 於与岐オナル八十九番地ノ一
一 祭神 木花咲哉姫尊 金峯山蔵王大権現と祢す
一 祭日 五月八日
一 氏子地域戸数 於与岐一村 一五〇戸
(一)由緒沿革
当社は人皇二十四代仁賢天皇の御宇に、村民合議して、地神四代彦火火出見尊の母木花咲哉姫尊を鎮奉し、其の後四百年を経て両部山と称していた。その後人皇六十二代村上天皇の御宇天暦元年(九四七)に至り役の行者祭祀弥仙山蔵王大権現を尊崇し、共の守護の為上杉小字施福寺の施福寺を当てた。東照寺、西照寺、於久保寺、於成寺、喉取寺、高屋寺等典山脈に建列し、これを称して七堂伽藍と言い、依って本殿維持の為として禄高壱万石を下賜せられたのである。上り口左に三十八社の堂字が?
を釈迦如来蜂といい、山入本道は古跡となっている。
(二)伝説と由来
弥仙山は標高六七四米で郡内第一の高峰で、高山植物が密集し、丹波富士として丹波国の霊山として有名である。丹波の三山と呼ばれ、往昔霊山の主はその高さを互いに競い給う、という伝説から青葉山、由良岳、弥仙山の高さを若狭、丹後、丹波の国の石で頂上を高くするから、この悲願を是非叶えしめ給えと立醸した老若男女の積み上げた石が現在もそのまま残っている。
弥仙山の開山は文武天皇大宝年間(七〇〇-七〇三)ともいわれ、僧の行基菩薩が入山し金峰神社を奥の院として、蜂覆坊堂寺等の七属坊の古跡があり、殊に東西両寺の七堂伽藍は行基菩薩が開基で、空也上人が再建したのである。頂上の奥の院金峰山には、釈迦、文殊、普賢の三尊を奉安し、金峰山大権現と尊称して女人禁制であった。丹波方面から入山するには山家村の字山入とあるは、弥仙山の山入りのことである。また東照寺西照寺の仁王門は綾部の味方にあったので、今でも仁王田といっている。その他道筋に古跡のあるのをみるが当時如何に、隆盛であったかを知ることが出来る。
その後戦国時代にはいって、明智光秀が丹波の国を攻略した時、僧徒達はその命に服さなかった。その為光秀は怒って、ついに社殿各宿坊をことごとく焼払ったのであった。その為に一時廃山の姿となった。慶長十七年(一六一二)相談して、石の唐戸で仮祭祀し宝永五年(一七〇八)現在の所に神殿を奉祀し、その後屋根を銅葺とした。明治五年の神仏混淆を制止せられたので当初の守護神木花咲邪命に祝祭して、大正九年認可を待て講社を造り、祭日を五月八日とした。その後大本教の出口直子刀自がこの霊域に参籠して霊感を受けた。
出口直子は霊感により教義を体得したとのことで信徒の尊信篤きものがある。又本社の復興には大本教主の力が大であった。
役の小角が入修業した伝承がある。明治末年までは斧鋸を知らぬ原始林で、村人は神罰を恐れて椎茸わらびなどの天然産物を目前に見ても、敢えて獲る者はなく、霊山一帯を神域として尊厳し、その境界線をさへ明確にする者は無い位であったが、社殿の修覆も頻々と繰り返され、森林資源の開発から林相も更新していった。
(三)沿革
一、天正年間(九四七)から弘化(一八四七)年間迄は村内の者が役行者を鎮奉し、共の信徒者は一年交代に社務を司どっていたが、明治になって字安国寺の上田藤助が社務を司り、二十五年頃より大字於与岐相根久兵衛が後任となっていた。
二、建物建築等年代 弘化四年(一八四七)再建、本殿銅屋根葺、梁二間桁行一間半三、境内地  官有地第一種六十一坪
四、山岳   地形は境内の中央より次第に低い
五、基本財産 建物を永続維持の為、村内協議の上各等差に依り、出し合してこれを維持し、当時内金七円であった。この成立は字見内 滝花丑太郎、相根久左エ門の二代の寄付で蓄積した。
右は明治二十五年古書に依る神職相根久兵衛の記録を中心に三十一年頃口伝によったものである。 (『郷土誌 東八田』)


於成神社
弥仙山参道の中腹にある神社。
オナリと読むのか、オナルなのか、地名的にはオナルのようである。「○×殿のオナーリー」のオナリでなかろうか、オナリ道という参詣道の神社という意味か。彦火火出見命(山幸彦)は木花咲耶姫の子。

於成神社 所在地 小字オナル八十九ノ一番地
一 神社名 於成神社
一 祭神  彦火火出見命
一 祭礼  五月三日
一 本殿(内陣) 〇、六坪 桧材 神明造
一 上仮殿 欅材(七、五坪)
一 由緒
弥仙山の中腹にある於成神社は俗称蔵王権現が鋲座するため霊山は女人禁制の神域と言い伝えられて昭和初年まで女の人は水分神社までしか行けないのが慣例であった。老人や子供の足弱では麓の宮を拝殿代わりにし弥仙山のお祭りにも参拝客の半数位が此処までで婦るので大正時代は「奥の宮祭り」と称して水分神社の祭りが別に秋賑やかに行なわれた。
頂上に祭祀する金峰神社と中腹に祭祀する於成神社、山麓に祭祀する水分神社とした形式は奈良県吉野連峰の山上岳を縮図したものである。  (『郷土誌 東八田』)


水分神社
ここは大又の登口の駐車場からすぐだから、簡単にお参りできる、神額には「水分神社」とあり、その下横に「三十八社」と小さく書かれている。
水分神社(綾部市於与岐)

水分神社 所在地 於与岐町宮ノ口二ノ一番地
    (別名 三十八社大明神) 通称 三十八社籠神社
一 祭神 天ノ水分大神 国ノ水分大神
    伊佐那岐命 伊佐那美命 御子神
一 祭礼 五月八日
一 本殿 七、五坪  社務所 十二坪
一 由緒
別名を三十八社大明神と唱え、八社さんで通っている(本殿は別棟)が、子育ての神、子授けの神として名が高いこの祭神は「子供を三十八人出産して育て食物については苦労はあったけれど何とか日は送れたが、衣服には困り果てた」と嘆いたそうで、これに同情する女の人々が小さな玩具のような子供の衣服を作って献納するとその子の成長を守護して下さるとの伝説がある。又子供が欲しいと望む人がその神供えの衣服を拝借して身辺に付けていると子供を授かると言われ借りた衣服に御礼の一枚を添えて御礼詣りをするので衣服が益々増え三十八枚本殿に何千とブラ下げてある。  (『郷土誌 東八田』)

水分はミクマリと読む、それが御子守(みこもり)と訛り、子守神社などとして各地に見られる。吉野修験道系の神社と思われる。
信仰も途絶えたか、幼児の衣服などは何もなかった。
三十八社は舞鶴油江、加悦町香河、峰山町荒山にもあるが、その由来はやはり吉野金峰神社という。「三十八社神社」参照。



於与岐八幡神社




←上杉町鳥居野公民館の脇に立つ石柱「於与岐八幡宮第三号鳥居古跡」とある。

当宮は於与岐村総社で、初めは谷口の一ノ瀬に鎮座し八田郷の惣社であったといい、当社の三の鳥居は上杉の鳥居野に(石柱が残る)、二の鳥居は淵垣村、一の鳥居は味方村にあったという。当社は当郡で唯一という宮座を持つ。当社祭礼は宮座の伝統をよく残し、神事芸能が四ヵ村の百姓株によって分担されている、という。


境内に案内板がある。

八幡宮(綾部市於与岐町田和)
当社は、社伝によると和銅三年に九州宇佐八幡宮より分霊を勧請し、於与岐の→人口、一ノ瀬に鎮座、もとは味方村以北七ケ村の総社であったが、天文十九年(一五五〇)の大洪水で社殿等悉く流失、また、嘉吉年中にも火災で焼失、正徳五年(一七一五)に現在地に再建され 以後、於与岐村の氏神となったと。
本殿は京都府下では例のない六間社流造の建物で、平面で見ると中央に柱がたつので、三間社を二つ並べた形とも見られる。
身舎・向拝の蟇股は足元が大きくふくらみ、松、菊、牡丹などの彫刻を入れ、向拝部にも唐獅子牡丹の欄間彫刻をはめ込んでいる。
大工棟梁は、若狭大飯郡日置村一ノ瀬作太夫で、彫物師は桑田郡余野村一ノ瀨弧之助である。
当社に伝わる祭礼芸能は、氏子の株組織と密着して宮座の形式をとって伝承されてきたもので、獅子舞、鼻高および田楽から構成される。獅子舞は二人立ちで伎楽系のもの、鼻高は天狗の面を着け、鈴の着いた木鉾を持って舞う王舞、田楽はビンササラ一、、太鼓三の編成で、神輿の御旅を囃しながら先導する。
 いずれも風化が著しいが、王舞、獅子舞・田楽をセヅトとするこの祭礼芸能は、鎌倉時代に京都を中心に盛行したその形を伝えでいて貴重であり、無形民俗文化財に指定されている。
指定文化財
 京都府登録文化財八幡宮本殿一棟
 京都府登録文化財於与岐八幡宮の祭礼芸能(無形民俗文化財)
 京都府決定八幡宮文化財環境保全地区
  平成五年十一月
       綾部の文化財を守る会


もうひとつ
於与岐八幡宮
 祭神 応神天皇
当社は和銅三年(七一〇)宇佐八幡宮より勧請し、於与岐一の瀨に祀るを初めとすると伝えられる。その後天文十九年(一五五〇)洪水にあい、それより現在の地に移る。今の壮麗な社殿は領主谷氏の保護を受け正徳五年(一七一五)再建されたものである。室町期には八田郷一円の総氏神として広く尊崇され神威を誇っていたといわれる。大祭は十月十五日に行われ、氏子の株が禰宜、鼻高、獅子、庭雀、御饌、御輿、古袴等の諸役に分かれて祭礼を執り行い民俗的な意義の深い宮座形態が今も尚残っている。
京都府綾部市観光協会 綾部の文化財を守る会

さらにもう一つ
皇紀二千九百十三季十二月二十三日金鶏暁を報し
皇儲降誕あらせ給え九千万斯民歓喜抃舞せさるなし吾か郷亦記念事業を企画し謹みて其の頌意を表し奉らむとす胥謀るに吾か八幡宮の修築と幣殿神饌殿社務所の新築とを以てするや満口一辞議輒ち決す時非常に属せしも奮つて貲を醵し財を投し翌年冬工を起し越えて昭和十年十月十五日其の功を告し伏して惟るに吾か八幡宮は和銅年間の鎮座に在し綾部町以北於与岐村に亘る旧七箇村の崇敬を鐘められしか天文十九年故有りて分離し爾来於与岐村の氏神として崇敬更に篤く以て今日に至り時四百載を閲し殿宇方に修築の要に逼るれりしかも此の議適其の佳辰に興れる者是れ豈敬神崇祖の念自ら冥感せる所以に非すや頃日之を石に勤せむとし主唱者八幡宮社掌書を寄せて文を余に徴す固辞すれとも得るい乃ち其の事由を叙し以て来者に?くと云爾  昭和十一年三月吉辰 従四位勲二等白井八百蔵 謹撰

八幡宮
一 神社名 八幡宮  所在地 綾部市於与岐町田和二十八番地
一 祭神 八幡大菩薩 応仁天皇(誉田別命)配祀 武内宿祢
(一)沿革
創立年代 古文書記録無きも元明天皇の御字、和銅三年(七一〇)九州宇佐八幡宮より分霊を拝受し、当村一ノ瀬の里に鎮座す、と伝えられている。
当時何鹿部味方村以北七ケ村産土神社として創立し、其氏子の跡として、第一鳥居が味方村にあり、第二の鳥居が淵垣村に跡があり、第三の鳥居の跡が上杉鳥居野に残り、例祭には於与岐八幡より神輿の渡行祭礼があった。
天文十九年(一五五〇)大風雨洪水が起こり、御輿は破壊流失した。これから七ケ村は分離して於与岐村一村の産土の神として尊崇し、一ノ顔より現在の田和に鎮座し正徳五年(一七一五)に再建した神殿である。
一 氏子地域戸数 於与岐村一村 一五〇戸
一 社殿 一間半に縦五間八尺、六社作りで別に薬師堂があり、社地凡そ二町四方といわれている。
一 宝物 境内の薬師堂に仏像本尊薬師如来、多聞天、特国天の三体を祭っている。
一 祭日 夏祭り七月十五日 大祭十月十五日
一の鳥居は大字味方小字道ノ越にあった、二の鳥居は大字淵垣に、三の鳥居は大字上杉小字鳥居野に各古跡があって、於与岐八幡宮の鳥居場と称し、社殿鳥居等が残っていた。例年陰暦七月晦日午後十一時頃於与岐八幡宮より、社掌鼻高の面を冠り注連縄を持って行き、其殿に引き渡した。また鳥居野は往古淵垣村二ノ宮より、例祭八月十五日本社は神輿渡御の時御休憩の地であったから、今も小字を鳥居野と言いつたえている。
人皇百二代後花園天皇の嘉吉年間(一四四一)に、神殿火災に罹ったが幸いに神霊は無事であった。このとき清和の源氏裔吉田義継という者を、山家村より迎えて吉田七郎兵衛の養子とした。義継の時に、当村の中央田和という処の好地で元馬場の奥という処に仮殿を設けて遷座し奉った。しかし未だ仮設であるため、改めて社殿の建立を審議し、直ちに工を起こし二年を経て竣工しここに鎮座し奉って今日になる。よって嘉吉年間より維新に至るまで祢宜と称する者二名が神を司っていたが明治に至り村社の号を賜り、上田藤助社掌となり明治二十五年より相根久兵エ後任となった。
谷領主は常に当八幡宮に信仰厚く、毎年八幡料として神饌を供え、田辺を寄付した。古文書によればもとの社一ノ瀬は天文十九年(一五五〇)吉田弥助に渡した証書が残っている。現存する一ノ瀬の旧祀所としてある祠は、御旅所の小社の装置を鳥居野から移築したものである。上杉トリノ祭主、吉田利兵衛殿と書いた物が残っている。盗難に会うた鼻高面の代替えとして新しく製作して、祭礼に使用している。
(三)八幡宮の渡行祭礼
八幡宮が於与岐の一ノ瀬に鎮座してから、毎年八月十五日の例祭の時の渡行列を描いたものを八幡宮の古文書の宝物として保管されているもので、その当時の華やかさを見ることが出来る。
明治二十五年古書取り調べにより提出したものを明治三十一年神職相根久兵衛が謹録したものである。
(図略)
(四)文化財登録
八幡宮本殿の建造物は
昭和六十年五月十五日京都府より
有形文化財として登録された
六間社流造、銅板茸  附 陳札 二枚
元禄十五年、正徳五年 の記のあるもの
於与岐八幡宮祭礼保存会は
昭和五十九年四月十四日京都府より
無形民俗文化財として
八幡宮の祭礼芸能は登録された
(五)造営記念碑 昭和八年十二月二十五日八幡宮拝殿を造営し境内に記念碑を設けた。造営は本殿の修築と同時に弊殿、神饌殿、社務所であった。翌年十年十月十五日落成した、これの記念碑の碑文を本村出身東京市在住白井八百歳に依頼したものである。
境内に祀る支社は左の通りで、八社ある
大神宮社 祭神 大日霊命
三柱神社 祭神 宇津彦命
一宮神社 祭神 伊邪那美命
二宮神社 祭神 大己貴命
稲荷神社 祭神 供食命
春日神社 祭神 天児屋根命
聖 神社 聖 命
日吉神社 大山命
(六)薬師如来堂と仏像
八幡宮境内に薬師如来堂があって、堂内に本尊薬師如来を祀リ脇仏として右側に多聞天、左側に持国天を祀って、八幡宮では宝物としている。
堂及び仏像についての由緒は詳でないが、八幡宮が此処へ鎮座される前に、下村で祀っていたもののようで、下村にあった栖龍寺が管理していた。本尊薬師如来は古く寛正四年(一四六三)のものと伝えられている。
本尊薬師如来像は、像高五五、五センチであり彫眼であり、螺髪も彫り出している。相好の豊満な感じと胸の肉どりの豊かさ衣文の彫りの翻波式を用いる点など平安初期的な様式を残している。しかしそれらが、極めて型式化していて、鎌倉末から室町期に平安初期の古仏を模刻した地方的作品とおもわれる。尚像内に寛延元年(一七四八)の修理書がある、と専門家は評している。
(『郷土誌 東八田』)

八幡大菩薩     下村 中川原ノ間ニ
祭ル神        祭礼 八月十五日
於与岐四ケ村ノ惣杜 壱間半ニ竪五間八尺六社作 一二ノ鳥居 長屋 別ニ薬師堂 社地凡二町四方
下村 中川原村 大俣村 見内村 是ヲ於与岐四ケ村ト云 往古中ノ鳥居ハ上杉ノ鳥居野ト云町並脇鳥居塚有リト云 一ノ鳥居古跡綾部三方村田ノ中ニ塚アリト云  (『丹波志』)


於与岐八幡宮の祭礼
祭礼芸能に王の舞(鼻高)・獅子舞・田楽が伝わる、中世のものという。 芸能は宮座や株内の形で伝わるという。





古い獅子舞だから、地味で大神楽のような見ていて面白いといった演出ものではない。いつ始まるのかと待っていたら、もう終わった、という感じである。
田楽はない、その道具をもった子供達がこうして巡行に加わる。






宮座や株内は舞鶴あたりでもある、昔からのものとしてある、というだけで、特にはたいした機能を、村の神社の実際の祭礼において、果たすというわけではないし、そうした実力も失っている、昔はもう少し強い慣習だったようだが、本当はどうだったかはわからないが、今は名だけ、昔はそうやったようや、というだけで実際の祭礼には、そうした古いことを言い出してもどうしようもない、というのが、実際かと思われるし、昔のものをそのまま現在の村に持ち込むとチト封建的、チト民主的でない、それってサベツとちゃうんのようにも受け取られ、氏子ほかの反撥を招き、協力を得られないかも、とあまり持ち出したり、言い出したりはしないようである。
於与岐八幡の祭礼では、昔がそのまま崩れながらも残されているという。こういう所だから過去が保存されてきたものか。

宮座が複雑華麗によく発達したのは近畿地方であるが、一般の祭礼組織のように氏子が均等の権利義務をもって神祭に参与するのでなく、神社をめぐる氏子の間で輪番に、あるいは特定の家々が独占的に神社の祭祀に常に重い職能と責任をもつ慣習的組織で、一族または同族集団によって世襲されている。綾部地方では宮座の存在をうかがわせるものがあるが、多くは消滅しているなかで、於与岐町八幡宮の祭礼は宮座の形をあきらかに残している。
於与岐八幡宮は古文書をほとんど紛失しているが、伝承によれば和銅三年に於与岐小字一ノ瀬に宇佐八幡宮を分霊したのにはじまり、於与岐村外八か村の惣氏神であった。嘉吉年中、火災(一説には天文十九年の水害)により於与岐中央の現地に遷座したという。諸伝承を総合して考えると、東西八田村の総社から後に於与岐村のみの神社となったらしく、かつては一の鳥居が下八田に、二ノ鳥居は淵垣、三の鳥居は上杉にあったという。
於与岐八幡宮の祭礼には古来より六役がある。それは祢宜役(神主役)・鼻長役・獅子役・庭雀役・御饌役・御輿役であって、それぞれの役を神事芸能のカブとして、同族の株内を単位に分担し、株親家が宮カブをもつことを原則としており、祭礼には鳥帽子素袍で厳重な座礼を行ったという。
於与岐の村落集団は氏神をめぐる整然たる宮座組織と、同族的結合を構成原理とする株内が、重層的に祭団群を構成していることが特色である。他村では、氏神祭礼を全戸がつねに全くの平等な資格・権能・責任をもって行う村座といえるものであるが、それとことなっていることは、村の歴史的な社会構成をあざやかに反映していると考えられるものである。
於与岐村は、綾部地方における惣村制の展開を史料的にはじめてのべたと思われる寛正二年の安国寺文書に、「於与岐」とある地名が初めてである。一般に宮座は中世初期からあらわれるものとされており、惣村という自活・自衛的村落共同体の展開と関係が深いとされている。宮座的なものは近世以来の各村にみられるものである。前に述べた梅迫領政で於与岐村の行政が村落共同体として地縁・族縁的な関係が後世まで強いことをのべたが、伊佐津川流域村として地域的に限られていて、このような祭祀慣習が今日まで残っているのであろう。  (『綾部市史』)


先祖祭り
丹波の株講
京都府の丹波高原の村々には、「株」とよばれる同族組織が分布している。おなじ丹波でも、亀岡盆地や園部盆地などの条里の遺構がみられる開発の古い地域では、山域盆地や大和盆地の村のような集村が通例であるが、山間の村は散村の形をとり、農家はそれぞれ適地をえらんで散在している。こうした村では、本家・隠居・新宅・閑居(かんきょ)・新家(あたらしや)などという分立の順番を示す屋号をもった家が、小さな谷間の奥のほうから本流筋の谷に向かって順に点在している例さえある。これなどは、その地の開拓と定住がとくに新しい時期にはじまったことを物語っていると思われるが、それほどでなくても、こうした山間の村の大多数は中世を通じて入住と退転がくりかえされ、開拓が進むにつれて定着者が身内を分枝独立させながら、しだいに現在のような姿になったものと考えられる。
「株」とよぶ同族組織と、「株構」とよぶ同族ごとの祭祀は、このような山間の村に多く行なわれてきたが、一例をあげると、現在では綾部市に編入されている旧何鹿郡東八田村於与岐の大又は、向坊の吉田株以下の八株からなり、それぞれの株は株親とよぶ本家を中心に三軒から七軒ほどの家で構成されてきた。このうち庄屋筋とよばれるものは向坊の吉田株、西谷の吉田株と、吉崎株の株親の家で、八株はまとまって村落共同体を構成し、共有の山林や田地をもつほか、村氏神の於与岐八幡の祭礼には他の部落と並んで参加し、株ごとに神事芸能を分担した。
こうして株とよばれる同族組織はそれ自身が一つの家としての機能をもち、村落を構成する基礎単位をなしてきたが、村の家々は株ごとに株親の屋敷を中心にまとまって存在し、株ごとに墓地や共有の山林と田地をもつほか、春先に稲籾を漬ける種池も株親の家の近くにあって、株内のものが共用してきた。山間の村のため、温い水の湧くところが限られているからである。また、昔は株親の家にはオオタ(大田)とよばれることがあった。これは田植え盛りのうちの特定の日に、株内一同が集まって一日に一枚の田を植付けてしまういわゆる大田植えの行事で、どこそこの家の大田といえばその家の持田のうちの一番広い田で、オオタの行事はそこですることに定まっていたという。
そして八株のうちの四株が吉田姓を名乗り、吉田四株の開祖は紋兵衛といって、宇多源氏末裔の落人として来住したと伝え、鍋師株とよぶ一族は、もと鋳物師であったのが入村して定住し、帰農したものといっている。しかしこうした伝承によるまでもなく、以上のような株のありかたをみれば、それがこの地の開発過程と深い関連をもつ生活共同体に発しているのは明らかであろう。村落における同族組織は、けっして本家・分家という系譜関係だけでつながったものではない。それは開拓者とその子孫が事業を推進するなかで一族身内を周辺に配置して独立させ、そのことによって構成された生活共同体であって、それ自身が一つの家としての機能をもつものであった。したがって「株講」などとよばれて同族ごとに行なわれる祭祀は、どの村でも今はほとんど形骸化し、衰滅しっつあるが、本来はこのような生活共同体を維持し、確認するためのものであったのは明らかであろう。
仏壇と神棚
上記の大又の八株では、株ごとに墓地をもつほか株荒神とよぶ小祠をもち、年間定期に株講を営んできた。たとえば、安田の吉田株では三月三日と九月二八日の両日、株内で「吉田家地主荒神」と書いた荒神さんの掛軸を順に送り、当日は早朝にそろって株荒神の祠に詣ったのち、当番の家に集まる。このとき会費と米を持参し、床の間の掛軸に洗米と水を供え、一同が会食する。また、山口株では六月二四日と一〇月二四日に同様の講を営み、ここでは「大山祇神」と書いた掛軸に玄米でつくったオシロイ餅(粢)を供えるが、こうした行事はもともと生活共同体としての株の結合を確認しあうものであったから、本来は株親とよばれる同族本家でなされ、本家主人の主宰で営まれたものであろう。したがってこうした同族によって定期に行なわれる祭祀は、古い時代の祖先祭祀のありかたを、それなりに示しているといえよう。
というのは、現在では祖先祭紀といえば祖先に対する供養であり、それは故人の祥月命日や盆のときの墓参によってなされ、家の仏壇に祀られている位牌に対してなされる。しかし家ごとに墓をもって墓碑を建てるふうは、近世に入って農民家族の自立が進み、ようやく一般的になったにすぎない。次章でのべるように、もともと死者の霊魂は肉体から遊離したのち、一定の期間は生前の個性を保持するが、その後はしだいに個性を失い、それとともに穢れを去って浄化し、阻先の霊としかよびようのない漠然とした没個性的なものに習合してしまう。そしてこうした祖先霊は、子孫の生活を守るという意味で一種の神性としての性格をもち、年間の定められた時期に子孫のもとを訪れ、祭りをうけるというのが本来の形であった。いつまでも個人を記憶し、墓碑を建ててながく供養しようとするふうは民間では近世になってようやくはじまったものである。また、仏壇は神棚と並んで家庭祭祀の祭壇であり、本尊仏や祖師の像のほか、かならず祖先の位牌が祀られている。しかしこうしたふうが一般化しはじめたのも、近世になりてキリシタン禁制とともに寺檀制度が施行され、国民のすべてが仏教諸宗派のいずれかに所属することが規定されてからであった。
現在の仏壇の原型である個人の念持仏を安置する厨子は、法隆寺の「玉虫厨子」をはじめ仏教伝来の当初からあった。しかし祖先の霊を祀る場所は、一般の神祭と同様にその時にあたって設けるのが本来の形であった。たとえば平安貴族たちは、いずれも邸内に持仏堂をもっていたが、仏事によって近親者の霊を弔い、狙先の供養をしようとするときは、彼らの邸宅の正殿である寝殿を開放し、その正面に臨時に仏像を安置して荘厳し、一族参集のうえ僧侶を請じて法会を営んだ。このことは、もともと寝殿は家長が日常起居すると同時に家の神を祭り、祖先を祀る場所であって、彼らはそのたびに臨時に祭壇を設けてきた習俗を、仏式によって表現したものといえよう。日常起居する家屋の一部に常設の祭壇を設けて神や仏を祀るふうは、中世的な信仰様式として貴族や武家の屋敷、僧侶たちの住房からはじまり、民間に普及するにつれて形が小さくなり、神棚・仏壇とよばれるものになった。しかもこの間にあって中央地方の有名大社の神官・神人たちの活動が盛んになり、神棚は彼らの頒布する神札類の奉安所となったため、祖先祭祀の祭壇の機能はもっぱら仏壇のほうに受継がれることになり、位牌を安置して祖先を供養することになった。それゆえ、年間の定まった日に同族が集まり、講を営むことのほうに、かえって古い時代の神祭り、したがって祖先祭祀の姿が残っているといえよう。
家の祭りの原型
「御先祖」さんということばにもっともよく表現されているように、祖先の霊は子孫の繁栄を約束するというだけの、まことに没個性的な霊格であるから、しばしば他の神格や仏格と容易に習合する特質を備えてきた。先の株講の実例では「地主荒神」とか「大山祇命」と書いた掛軸を祭祀の対象にしているが、各地の同族による祭祀の事例のなかには、八幡とか稲荷といった特定の神を祭ったり、大日如来とか薬師如来といった仏を祀りながら、これを先祖祭とか先祖講とよんでいるものもある。けれども、こうしたもののなかで、イワイジン(斎神)とかウェーデンサマ(祝殿様)といった「祭られる神」というだけのものを祀っている例は、同族の祭祀のもっとも素朴な姿を残しているといえるだろう。同族組織はもともと本家・分家の系譜関係によって構成された緊密な生活共同体であったから、そこでの祭祀の対象は、ことさら特定の名前をつけて他と区別する必要のない、祭るものにとっては自明の霊格であるのが本来のありかたである。したがって、祭るものからみてこれほど親しい神性といえば、それは神であるとともに子孫を保護する祖先の霊であり、同族の祭祀はもともとこうして神とも祖先の霊とも判然しない素朴な霊格を祀ることからはじまった。だからこそ、それはしばしば他の神格や仏格と容易に習合し、それによって代位されてきたと考えられる。
正月には新しい年の神を迎えるため、神棚とは別に恵方棚とか歳徳棚とよぶものを設け、盆には仏壇を飾る以外に精霊棚とよばれるものをつくる。「棚」というのは臨時の祭壇であり、これらは盆の行事がもっぱら仏教に管理された祖先供養のためのものに転化し、正月が年始を祝う行事に変質する以前の古い神祭の姿をとどめ、春のはじめと秋のはじめという年間の二期に祭壇を用意し、神であるとともに祖先の霊であるものを迎えて祭った時代の名残りとされている。家ごとに神棚と仏壇をもち、あわせて祖先の祭りを行なう現在の家庭祭祀の原型は、以上にみた同族の祭祀のなかに求めることができよう。けれども、現在の家庭祭祀の中心がしだいに祖先供養に移行した結果、それが文字どおり家の行事として相互に孤立してなされているのに対し、かつての村落における同族団の祭祀は、けっしてそのように孤立したものではなかった。というのは、すでにのべたように一村一同族という例はきわめて珍しく、たいていは数個以上の同族が集まって村落が構成され、同族の祭りの上に村の祭りがあるという重層的構造をもっていた。先の綾部市於与岐町大又の八株もその一例であり、大又の部落は他の三部落と並んで於与岐八幡宮を鎮守の村氏神として祀り、部落の若者組は祭礼に幟を立てて狂言をしたり、盆には株ごとにわかれている墓地を廻って鉦を打ち、地蔵念仏を唱えた。一村一同族でないかぎり、村落の同族団は他の同族団との共同を前提としており、この点では武士をはじめとする支配者たちの、村落を越えた世界における同族団とは原則を異にしている。
(『宗教以前』)


臨済宗東福寺派法雲山栖龍寺

弥仙山へ続く府道沿い、この高いところにある。
もともと於与岐には2つお寺があったが、それが1つにまとめられたものという。
栖龍寺 所在地 於与岐町安ノ坂六二
  元所在地  於与岐町下村田和
(一)山号寺号 法雲山 栖龍寺
  一 宗派 臨済宗 東福寺派
  一 本尊 観世音菩薩
  一 開山 安国寺第二世 無外妙方禅師
(二)由緒沿革
開山は安国寺第二世無外妙方禅師であって正平十五年(一三六〇)の創建である。見内下村が壇家であった。創立後応仁の乱で武家の政治内乱のため沿革は詳でない。元禄年間(一七〇〇頃)安国寺二十四世大雪周全和尚を請して中興とした。天保年間(一八四〇頃)至山和尚の時移転して再建したいという気持があったが不幸にして遷化された。その為に弘化年間一八四四年から四七年迄無住となったのである。その後歴代の住職を経て寺運の推移にともなって於与岐区内二ケ寺を合寺する議が起り協議の末元の吉祥寺跡の堂宇へ移転することとなった。茲で檀家は於与岐区内四ケ地区が一円となったのである。時に明治四十三年十二月である。現住は前住平田厚宗寂し十四代の住職となったが、引続いて昭和六十年転住された。 (『郷土誌 東八田』)

吉祥寺歴
   明治四十三年栖龍寺と合寺  寺跡 字中川原出合
(一)山号寺号 元臨済宗東福寺派 勝福山吉祥寺
  一 開山 安国寺第二世無外妙方禅師
  一 創建 栖龍寺と同時
(二)経過
於与岐区の中川原、大又を檀家として歴代の住職を経て明治四十三年十二月に至り当区内二ケ寺を合寺の結果吉祥寺は高知県香美郡野市村へ移転しその堂宇はそのままに存して、栖龍寺をここに移転した。跡地は畑地である。 (『郷土誌 東八田』)


《交通》


《産業》


《姓氏》


於与岐の主な歴史記録


於与岐下村
家致五十軒であった。和銅三年(七一〇)に一の瀬に八幡宮を祭った。また栖龍寺を同地区においた。クツ峠向の谷を右へ見内村の道がある。
中川原村
家数五十軒あり。於与岐地区他村と何様御旗本梅迫領である。
大俣村
家数四十五軒で奥の丹後峠を経て丹後に通ずる。間道に牛馬道がある。
見内村
家教四十軒で村口から梅迫へ一里あり、左へ田和峠となっている。  (『郷土誌 東八田』)


伝説


『何鹿の伝承』
於与岐の禰仙山
 「綾部市弘報」第七号昭和二十八年十一月十五日によると、何鹿郡の霊山、丹波富士といわれる、弥仙山の所在地、東八田村字於与岐(オヨギ)は、同年十二月一日から於与岐町と改めました。まことに、時代の進運は、明治五年まで、女人禁制の霊地として、麓にある大又の三十八社籠神社(八社さん)より、上には登れなかった弥仙山を、もっとも近代的な、「平和都市」を宣言した、綾部市の一角に、閃緑岩の山骨たかく、そびえることになったと、いえます。

 わたくしは、むかし、むかし、そのまた、むかしの猿むかし、禰仙山が、丹後の由良ケ獄の神さんが、小供、小供しい、背くらべ競争をされた時代の、お話をしてみたいと思います。
 大むかしは、どこの山の神さんでも、腕くらべやら、ときには、恋のだて引まで、しられたものであります。大和の国の、三山といわれる香具山と、耳梨山の神さんが、女山である畝火山をとりやつこされて、戦争までされたことは、有名な話しであります。『万葉集』という、日本のもっとも旧い歌の本のなかに、「大化の改新」(六四五)の大立者、天智天皇が、まだ、中大兄(ナカチオホエ) といわれた青年のとき、有名な宮庭の情熱歌人、額田王(ヌカダノオオキミ)を弟の大海人皇子(オオアマノミコ)と、とりやいして、それは、ついに「壬申の乱」(六七二)の原因とまでなったものですが、そのときの恋歌からでもわかります。

     中大足(後の天智天皇)三山の御歌

  香久山は畝火を愛しと、耳梨とあい争ひき、神代よりかくなるらし、古もしかなれこそ、うつ
せみも嬬(恋人)を、争ふらしき。

     返   歌

  香具山と耳梨山と会戦しとき、立ちて見にこし印南国原。
  わたつみの豊旗雲に入日さし、こよいの月夜、明らけくこそ。 (万葉集 巻ノ一)

 橘千蔭の『万葉集略解』によると、香具山を女山とし、畝火と耳梨を男山として、畝火か負けて、香具山と耳梨が、逢引(ランデブー)をたのしんでいると、いうように解釈していますが、かかるせんさくは、ともかくとして、弥仙山の神さんは、さすが恋げんかまでは、しられなかったようだが、由良ヶ獄(加佐郡由良村)の神さんと、背くらべの競争を、猛烈に、されました。しかし、わるいことには、どちらの神さんも、背だけは、甲乙のなかったことでず。それだけに、また、一寸でも高くなって、相手を負かしてやろうと、それは苦心されました。これをみかねて、麓の人々は、麓の谷川から、小石をひろって、すこしでもお山を高くして、神さんを喜こばせようと、セッセセッセと、小石を山の頂に運びをした。
 この名残りか、いまでもつづいて、禰仙山の参詣人は、自分の年数だけの小石をひろって、お山の頂上の祠(金峰神社)に積む、ということです。

 太古ウッソーたる原生林に、とざされていた時代、丹波の国はじめが、この禰仙山脈から開けたことは、この伝説からも推しはかれる。「狩獲経済時代」から、つぎの時代「氏族制時代」の豪族は、山を征服したものからうまれる。四道将軍の一人、彦坐の命が、丹波を征伐にきて、(前八八年より)ここを一つの拠点として、丹後の青葉山を中心としていた、豪族「土グモ」賀耳と対戦したのも.ここと伝られている。
 山嶽信仰は、あらゆる信仰に先行する原始信仰である。山嶽地帯のオヨギ一帯が、ずつと後世国土統一なってからも.一番はやく、神仏習合のせり合の場となったことは、自然のことだろう。文武天皇、大宝のむかし(七○一、七○三)人民の英雄.役の小角や、さらにくだって行基、さらにくだって空也等によって、ここら一帯が、仏教を思想的武器とした、文化の中心となる。「修験道湯は大和より古い」と、いう麓の人々の傳承は、うなづかれることができる。
金峰神社を奥の院として、麓には東照寺、西照寺あり、奥保寺、高屋寺、於成寺、向坊、蜂覆坊などはいづれも、奈良、平安時代の盛観であるが、武士の時代になって、これらは、天正七年(一五七九)を最後として、兵火に焼かれてしまい、いまは、法城ヶ谷・高野谷、宮谷・宮ノ口などの地名に、その名残りをとどめているだけだ。
 また、オヨギ 一ノ瀬にある八幡宮は、元明天皇 和銅三年(七一○)の創建と伝られており、(この年に都を奈良に移した)オヨギはもちろん、味方、下八田、淵垣、中村、安国寺、梅迫、上杉、八ヶ村に及ぶの総社であったことは、一の鳥居が、いまなお「綾部市味方町」に跡をとどめていることによってもしられる。
 最後につけ加えたい傳読がある。禰仙山には、むかしから龍がすんでいた。それをオヨギの吉崎権平が討とり、その上アゴが、地元の栖龍寺にあったが、同寺は焼けて今なく、下アゴが梅迫雲源寺に伝られているということだ。
 参考文献「何鹿教育」昭和三年七月 三宅中二 「於与岐区誌」昭和八年 相根久左ェ門 吉田紋兵エ、吉崎久兵エ、同鹿蔵、相根丑之助 「丹波史年表」昭和十二年 松井挙堂 「史林」一九五三年九月 竹田聴州).

『舞鶴の民話』
弥仙山のだけくらべ (池内)
 山が背くらべをしたという民話は全国に数多くあるが、例えば、台湾の奥地霧頭山と大武山とは兄弟山である。
あるときこの二つの山が高さくらべした。
弟の大武山が兄の霧頭山をだまして、すくすく成長して兄より高くなった。近江の国では伊吹山と浅井が岳と高さくらべをした。浅井岳は伊吹山の姪であったが、一夜のうちにのび、叔父の伊吹山をおいこそうとした。それを知った伊吹山の多々美彦はおこって、大剣をぬき、浅井姫の首を切り落とした。首は転々ところがり潮に落ちて島となった。
その島が今の竹生島で、びわ湖にぽつんとあるといい伝えられている。
私は舞鶴にもこんな民話がないかとあちこち歩いた。
今でも山に登るとき石をもってあがれねばならないという話を開き、池内の古老をたずねた。
綾部市と舞鶴市の境界に、弥仙山という山があり、一年中美しく彩られて村の人達のじまんの山がある。
年中行事で弥仙山参りという風習が残っている。
これは村人たちの楽しみで、ごちそうを作って山に登り宴をするのです。その年の豊作のお礼をし
たり、家内安全、四海の平和を祈るのです。
明治の初めまでは、女人禁制の霊地でもあったのですが、いつのまにか、だれでもあがれるようになった。この山の北方に富士山型の山がある。この山は福井県と京都府の境にあり、青葉山という。
霊峰で若狭、丹後の人たちの信仰の山である。弥仙山は青葉山より低く、朝日のあたるのもおそく、夕日のあたるのも早い、いくら弥仙山が背のびしてもだめなのです。
ある日、弥仙山の神様が、村人で最も信仰の厚い太郎兵衛のまくらもとに立ち、
  「これからは、この山にあがるときは、必ずこっそりと小石をもって来てくれぬか」とたのんだ。
太郎兵衛はこの事を村の寄合いのとき話した。それからは村人はこの山にあがるときは、小石をもって、自分の年だけ風ろ敷に小石をつつんでいこうと決った。
こうしていけば、いつか弥仙山も青葉山より高くなるだろうと考えた。
村人は春夏秋冬このことを実行し山の頂上に小石を積んだ。持ってあがった小石に願いごとをすれば必ず成就するという。もしこの山の石を持って帰ると、災難かふりかかるという。
弥仙山の頂上には大きい石、小さい石、色とりどりの石が積まれている。高さの差は約百米、いつの日にか追いつくだろう。願い事のある人は、必ず願をいいながら登るといいそうだ。今でも子ども達の遠足で山にあがる時は、必ず石を持ってあがっている。

古老は弥仙山をあおぎみなから真剣な顔で語ってくれた。.






於与岐の小字一覧


於与岐町
遊里 ユリ上ノ坪 猪ノ奥 田和 段 雨川 ソラ 谷ケ布 中通 北谷 谷 トノ坂 ヒモノ谷 コロツ子 紙屋 市ノ瀬 下ノウ 木戸場 カジヤ ノテ 遊里 猪ノ奥 田和 段 コウ田 ナル坂 才ノ元 カイシリ 金又 柳谷 迫田 迫田奥 迫田下 出合 出合ノ上 安ノ坂 地谷 ヲカ 大岩 中山ノ下 奥ケ一 畔ノ谷 滝谷 横台 上ナル 下ナル 弥谷 宮ノ下 深山口 山ノ神 滝谷 ヨコザ 安ノ坂 森ケ尾 金又 柳谷 深山口 奥ケ一 大谷川 西谷山 西谷 中田 宮谷 宮ノ口 ミセン 宮ノ谷 木戸ノ元 竹ノ下 孫谷 大谷 福井 安田 赤道 向坊 中山 上行 ヲナル 細迫 大谷 小谷 丹後谷 宮ノ口 西向北 中山 宮ノ谷 下市ノセ カゴ迫 ミ迫 ノダケ アラボリ ウリウネ ミナミ 森ノ下 レダニ 下ノ谷 カリヤバ カミノ谷 ナカマ アザミ谷 峠 合ノ尾 松尾 向山 下山 日向山 峠 仲山口 滝谷 ナカマ


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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