京都府綾部市新町
京都府何鹿郡本宮町・本宮村
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新町の概要
《新町の概要》
大本教みろく殿の前から西向き。丹陽キリスト協会前の東西筋の両側。
市街地南部の住宅地、上野台地の麓。南は上野町、東は本宮町に、西は田町、北は新宮町に隣接。
新町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。もとは綾部市大字本宮町・本宮村の各一部。
《新町の人口・世帯数》 100・40
《主な社寺など》
丹陽キリスト協会
江戸時代にはキリスト教はきびしい弾圧をうけ、わずかに隠れ切利支丹として信仰がつづけられていたにすぎなかった。当地方では、東八田雲源寺の手水鉢や井倉八幡宮の地蔵尊に当時をしのばせるものが残っている。
明治八年、新島襄によって同志社が設立され、十年代になると同志社の教師や生徒によってキリスト教が京都府下に広められた。明治十三年には亀岡に教会が設けられ、十七年には船井郡船枝村に丹波第一教会、胡麻会堂、須知会堂の設立へと進展してゆき、京都からしだいに北へ伝わった。
綾部のキリスト教は、養蚕製糸業とともに導入された。蚕糸業を志したものは、養蚕先進地へ技術の習得に行ったが、それらの地は、貿易によって外国人と接し、わが国でははやくキリスト教の新教がひろまった地域であった。そこではプロテスタントの近代市民社会倫理と企業開拓の精神とが新しい蚕糸業と結びついて、キリスト教が定着していた。そこで技術の習得をした郷土の青年たちのなかには、いちはやくその影響をうけ、現地で洗礼を受けるものもあった。
綾部にキリスト教がもたらされた経路には二つの流れがあり、その一つは明治十九年、田野の田中敬造によるものである。敬造は明治六年ごろより天蚕・柞蚕の飼育に将来性を見いだし、企業として成立させようとしたが、養蚕業の発達にたちおくれていた当地方では技術的に多くの障害があった。彼は信州へ幾度も養蚕の視察に行き研究を重ねたが、なかなか成功しなかった。明治十九年、愛媛県へ柞蚕飼育の実情視察に行ったとき、大洲町で偶然にも東北学院の押川万義のキリスト教演説会を聞き深い感銘を受け、さっそく聖書を買い求めた。帰路、神戸で英和女学校のブラウン師らに会って教えを受け、帰村後、自分の受けた感激を村民に語り福音をといたので、村内には中山伝助や西岡富蔵らの同調者もできた。また中山亀蔵の離室を改造して教会堂とし、明治十七年に設立された船枝村の丹波第一教会より応援を得て、説明会や祈祷会を開いている。田野は六〇戸ばかりの山間の村落で、全村が真言宗千手院の檀家であり封建制も強かったので、キリスト教を広めようとする田中敬造らに対し、村民は絶交を申し合わせたほどであった。
明治二十年九月、船枝村丹波第一教会で堀牧師より田中敬造ほか二名が受洗した。これが綾部のキリスト教徒の最初であった。明治二十四年、綾部講義所がつくられ、二十六年には福知山に丹波第二教会ができて、次第に布教が広められていった。明治二十三年、綾部に就任した留岡幸助牧師が、二十四年には北海道の空知集治監教誨師として転任していったが、その勧めにより明治二十六年、田中敬造や西岡富蔵は旭川へ移住することになり、田野を中心に布教が広められていたキリスト教も衰え、翌年には田野教会堂も売却された。このように田中敬造の入信は、横浜公会派の牧師の演説会が動機であったが、田野での伝導は全く同志社系の組合キリスト教の影響をうけている。敬造らは村民たちにかなりの迫害をうけながら布教をつづけたが、やがて事業にも失敗したため、北海道に新天地を求めることとなったのである。
綾部に入ったキリスト教のもう一つの流れは、養蚕業の成功と結びつき、綾部のキリスト教の主流として発展していったものである。何鹿部蚕糸業組合長であった波多野鶴吉の指示により、高倉平兵衛は養蚕の先進地群馬県へ技術の習得に行き、福島・山梨・長野などの製糸業地を視察して明治二十一年に帰郷した。彼はこの遊学期間に、群馬県に広まっていたキリスト教の感化をうげ、帰郷ののち明治二十三年一月に園部で留岡牧師により受洗している。蚕糸業組合の書記であった新庄倉之助は、これも波多野の指示で群馬県関根の研業社で養蚕を学び明治二十二年八月に帰郷したが、遊学中に前橋で組合派不破唯三郎牧師より洗礼を受けている。そのころ波多野鶴吉は、青年期七年間にわたる都会生活の失敗を通じて人生を深く考え、魂の救いを求めており、高倉・新庄の影響をつよく受けて田野の講義所へも通っていたが、明治二十三年三月、胡麻会堂で留岡牧師より洗礼をうけた。この三人はその後も田野へ通い、信仰をたかめていくとともに、何鹿郡の蚕糸業の中心人物となり、高等養蚕伝習所や郡是製糸の創立を推進していった。
明治二十六年に創立された高等養蚕伝習所では、初代波多野鶴吉から石坪時蔵にいたる三代の所長がいずれもキリスト教信者で、初期の教師にも信者が多く、明治三十六年に綾部会堂へ赴任した内田正牧師も修身科の講師となった。このように蚕糸業界で活躍した人々には信者が多く、城丹蚕業学校の教育や郡是製糸の経営、地域蚕業の指導に、初期の時代には共通してプロテスタントの精神が流れていたといえる。波多野鶴吉の経営していた製糸工場羽室組には、旧綾部藩士の娘が工女として多く働いていたが、これらのなかには入信するものもかなりあり、風紀の悪い他の製糸場とは異なっているといわれていた。この当時から製糸業の経営とキリスト教との結びつきは深く、やがて郡是製糸の経営にも受げつがれていくのである。
明治二十四年、綾部に家をかりて講義所が設けられたが、住民の反対をうけ転々と場所をかえた。福知山の丹波第二教会は明治二十九年の大洪水で流失し、それ以後再興されなかったので、二十九年に新築された綾部会堂が、その後この地方の布教の中心となっていった。茂原茂牧師のもとに、佐藤わさ・有馬浦子両伝導師の活躍で教勢が広がり、明治二十八年には医学校を卒業して郷里で開業した物部の永井岩太郎が物部教会を中心として伝導をした。三十五年には有馬浦子と結婚し、この地で終生布教にはげんだ。この年、山家では菅井松太郎が受洗し、山家・上林への伝導をはじめた。明治三十六年九月に内田正牧師が着任し、昭和三年まで二五年間綾部で牧師をつとめ、信徒のみでなく、地域の人たちからも信頼された。とくに日露戦争の際には、郡民に戦争協力をよびかけて地域の信任を受け、教勢は急速に広まり、日露戦争後の蚕糸業の好況とともに信徒もふえ、明治四十三年には男一四七名・女一五六名、計三〇三名と信徒の最も多い時期であった。綾部教会は明治四十一年より丹陽基督教会と改称し、大正十三年に英国式鉄筋コンクリート建て、工費二万九八円で完成させたのが現在の丹陽基督教会堂である。こうした発展の背景には、波多野と郡是製糸を中心とする蚕糸業があり、郡是製糸と丹陽教会とは一体となって結ばれていた。
明治四十二年、郡是製糸に川合信水が招かれ、キリスト教精神にもとづいた従業員教育にあたった。大正七年に波多野が逝去したのち、十年ごろから川合信水は独自の教育法で社内を統一し、社訓を制定した。やがて川合はキリスト心宗を開いて社内の信仰を統制し、教会主義を排し、社外の人の講演を退け、ついには寮舎で生活する社員が社外の教会へ行くことを禁じた。これにより、会社創立以来つづいた郡是製糸と丹陽教会との緊密な関係は断たれていった。 (『綾部市史』) |
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