京都府綾部市多田町
京都府何鹿郡吉見村多田
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多田の概要
《多田の概要》
聖塚・菖蒲塚がある集落。
古くは吉美郷のうち。室町期に吉美郷は東・西に分かれるが、吉美東の地域と推定される。
多田村は、江戸期~明治22年の村。山家藩領。はじめ幾見村のうち、のち分村独立した。明治4年山家県を経て京都府に所属。同22年吉美村の大字となる。
多田は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ吉美村、昭和25年からは綾部市の大字。八田川流域の沖積地沖田は何鹿郡内有数の美田。養蚕地帯としても栄え、村内の出口吉三郎の考案による「出口式多桑育」は有名。昭和28年多田町となる。
多田町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。
《多田の人口・世帯数》 248・107
《主な社寺など》
聖塚(ひじりづか)・菖蒲塚(あやめづか)
府道74号(舞鶴綾部福知山線)のすぐ東脇にある↑聖塚。写真左の奥に菖蒲塚↑。そこの案内板↓
史跡 聖塚・菖蒲塚古墳
平成4年5月6田 文部省指定
形状 方墳(南側に造り出しを付設)
規模 聖塚古墳 一辺 54m
菖蒲塚古墳 一辺 30m
時期 古墳時代中期前半(5世紀前半)
史跡聖塚・菖蒲塚古墳は、由良川の支流八田川が形成する吉美盆地に位置する二基の方墳である。両古墳とも築造当時の形状をよく残し、古墳時代中期の大型方墳として古くから注目されてきたものである。
昭和58年度に実施された墳丘調査により、両古墳とも、段築成され、葺石・埴輪列の外表施設を有すること、また、聖塚には幅約12m、菖蒲塚には幅6mの周濠がめぐることも判明した。さらに両古墳とも墳丘南側に造り出しが付いていることが確認され、とくに菖蒲塚古墳では、二段に突出する特殊な造り出しの形態であった。
聖塚・菖蒲塚の二古墳は、畿内的な古墳の諸要素を有しながら、墳形としては従来の方形を採用している点が大きな特徴である。特に聖塚古墳にあっては、方墳としては全国的にみても最大規模を誇り、由良川中流域にあって古墳時代中期前半の核となる古墳である。
かつて当地に、由良川中流域を治める菖蒲塚・聖塚の二代の首長がいたことを物語っている。
平成5年3月 綾部市教育委員会 |
これらの古墳は何でこうした低い所、今の水田面にあるのか、これが初めて見たときの疑問だった。だいたい古墳はちょっと小高い所にあるが、この低さは周濠に水を張るためだろうと、考えていたのだが、そのようである。水をたたえた周濠をめぐらせるために、伝統を破った位置に築いたのではなかろうか。
古墳としては、きわめて近代的というか、当時の最先端の装備をまとい、さらにたぶん最大(方墳では府下では)という、地元第一級のきらびやかな名品古墳。
形状は竪穴方墳である。高い文化力を持つが、反骨というのか、皆にならえとしないのか、王権になびかないのか、のけ者にされたのか。
周囲から削られたり、崩れたり風化したりしているうえに草ボウボウでよくわからないが、聖塚の段築は三段あるようにも見える。
菖蒲塚の造り出し部(たぶん) ↓
古墳の裾部(基底部)は1メートルばかり地下に埋まり見えない、造り出し部分も多くは埋もれていて、葺石も残されている。築造後の早い時期に土石流にのまれたようで、さいわいよく残っているよう。
案内板↑
タタはタタラのことと思われ、当地の産鉄鍜冶豪族の首長墓であろうか。
綾部市資料館にこんな推定復元図が展示されている。↓
中期の古墳の中で、特に有名なのは多田町の聖塚・菖蒲塚である。聖塚・菖蒲塚古墳は多田町天満宮の北方にある二基の方墳であって、両古墳の間は約一二〇メートルはなれており、大きい方を聖塚、小さい方を菖蒲塚と呼んでいる。
聖塚は底辺約四八メートル、上段辺約二三メートル、高さ六・六メートルの二段築成の方墳であって、全面が葺石で覆われている。方位はその対角線が方位線と一致している。上段の裾部には埴輪円筒がめぐらされていたようで、その破片が所どころに散見できる。それらの埴輪円筒は、以久田野七八号項や、同二〇号墳に見られるものより、形も小さく焼成も悪い。
菖蒲塚は形は聖塚と同形であるが、その規模は聖塚の約半分で、底辺二五メートル、上段辺一二メートル、高さ五メートルで埴輪円筒がめぐらされており、東南部に造り出しをもっている。内部構造の詳細は不明であるが、表土下約二メートルの位置に、砥石のような小割石をもって築いた構造物があったと報告されており、あるいは竪穴石室であったか、または一種の粘土槨であったと推定される。
出土遺物は、聖塚からは明治二十四年に鏡一面・勾玉一個・ガラス玉三〇数個、および兜・鎧・鉾・直刀・剣・鉄鏃などの破片が出土したといわれている。
鏡は直径一三・五センチメートル、厚さ四・五ミリメートルのボウ製神獣鏡であり、勾玉は碧玉製で長さ四・三センチメートルである。兜は板金を矧ぎ合わせて作られており、鎧は破損しているが短甲かと思われる。直刀は剣と合わせて四〇口以上出土し、長いものは全長一メートル、短いものは六〇センチメートルあまりである。
この両古墳は、規模はさほど大きくはないが保存状態がよく、平地に築かれた中期の典形的な方墳として重要な遺跡である。
方墳の発見例は近年まで非常に少なかったが、最近はその発見例も増加してきている。市内では、前述の成山三号墳・大迫古墳・高津町市ノ坪古墳や里町久田山古墳群中に見られ、中丹地区では、福知山市中坂古墳群や、宝蔵山古墳群の中にも見られるのである。 (『綾部市史』) |
『福知山・綾部の歴史』
一、五〇〇年前の四角い墓 ●菖蒲塚・聖塚
吉美の小盆地は、綾部市街地の北方約二キロに位置する。周囲を低い山並みが囲み、盆地底はゆるやかな傾斜を持った水田となっている。その中に、今もその姿をとどめるのは、菖蒲塚と聖塚の二基の方墳である。両古墳の間隔はおよそ一二〇㍍で、大小二基の古墳が相並ぶ景観は、言い伝えられてきたように、まさに夫婦塚、あるいは親子塚とも見ることができる。
この二つは、比較的保存状態のよい古墳といえる。聖塚については、明治二四年(一八九一)に地元の人によって発掘され、鏡一面、勾玉一個、ガラス玉のほか、鉄製品が出土したという記録があり、菖蒲塚も墳頂部に掘削のあとが残る。また、墳丘も周囲からの掘削を受けてはいるが、大きな破壊は免れ、今日まで水田の中の小高い塚として残されてきた。
多田町では、昭和五八年(一九八三)からほ場整備事業を行なうことになり、この古墳の周囲まで工事が及ぶことになった。そのため工事に先立ち、古墳周囲の水田部の発掘調査を行ない、周濠の存在や古墳の正確な規模を確認することになった。発掘調査は、綾部市教育委員会により昭和五八年一〇月から一二月にかけて行なわれた。
聖塚 発掘によってわかった墳丘の規模は、東西で五四・二㍍、周囲には幅約一〇㍍の濠がめぐらされ、水をたたえていた可能性も考えられる。また、この南東側には、幅一七・五㍍、長さ四・六㍍の祭祀の場所と考えられる「造り出し」が設けられていた。造り出しを含め墳丘の斜面には、葺き石が並べられていたことも分かり、また出土した数多くの埴輪片から墳丘の上にはかつて埴輪が立ち並んでいたことも明らかになった。
菖蒲塚 こちらも現状は周囲を削られ小さくなっているが、築造当時は、一辺三二・五㍍であり、聖塚と同様に南東側に造り出しを持ち、幅五㍍ほどの濠がめぐっていた。やはり築造当時は、斜面を葺き石で覆い、様々な形の埴輪が立ち並んでいたと想像できる。
古墳の時代 二基の方墳は、ともに埴輪・葺き石・段築といった畿内の大型前方後円墳に用いられる手法を取り入れ、なおかつ周濠を有するなど畿内の古墳におとらない威容を誇っていた。出土した埴輪の作りから両古墳は五世紀の前半に相前後して築造されたと考えられる。この時代の由良川中流域屈指の重要古墳と言うことができる。
二基の古墳とその周囲の水田は、ほ場整備事業の対象地からはずされ、昭和六三年度に周濠部分が綾部市によって買収され、現状のまま保存されることになった。また、平成四年(一九九二)五月には、国の史跡指定を受け、その後同八年末に墳丘部分の買収も終わり、保存と整備の条件が整えられた。 (中村孝行)).
←朝顔形埴輪 天井部がすぼまり、外へ開く口縁部が付いていたものと思われる。三段目に隅丸の窓と波状の線刻文がある。
←これはどう見ても丹後型の円筒埴輪でなかろうか。壺を乗せた姿でなかろうかと言われるが、朝顔(外へ開く口縁部)というのはこの上に乗るカザリのようなもので、あってもなくても丹後型は動かないとワタシには見える。
八田川の流域は丹後との繋がりがつよそうな地域であり、当墳に丹後型埴輪があればまことに興味引かれるが、しかしそのような論考は見当たらない。
丹後でもこの型の埴輪がある古墳はごく限られていて、ザラにあったりはしない超特殊な王墓墳だけである。
菖蒲塚→聖塚→私市円山古墳と築かれるのは、丹後でいえば、三大古墳が造営された直後あたりの時期になる。
河内の仁徳陵古墳に応神陵古墳が作られている時期で、それらの400メートルを越えるような大きさに比べれば、当墳などはかわいらしい小品である。
どちらの古墳のものなのか、この型の円筒埴輪しかないのか、サイズがどれくらいなのか、手元の資料ではまったく不明である。
←私市円山古墳の埴輪列(復元)
朝顔の中がどうなのかはこの復元埴輪では不明であるが、丹後型とは聞かない。
←加悦町明石の作山2号墳の埴輪列(復元)
隣接する作山1号墳にも同じ埴輪が立てられている。
菖蒲塚と聖塚
国鉄綾部駅の北北東約三㌔の地点、三方を丘に囲まれた小盆地の水田の中に菖蒲塚・聖塚両古墳がある。ほぼ南北方向に約一二○㍍離れて築かれた方墳であり、聖塚を後白河天皇第二王子以仁王の墓とし、菖蒲塚を王と関係のある婦人の墓と伝えているように、この二基の古墳はあたかも夫婦塚の観を呈している。もちろんこの伝説は考古学的事実を伝えているものではない。
菖蒲塚は、一辺三○㍍、高さ四・五㍍で周囲に埴輪がめぐらされている。
聖塚は、一辺四八㍍、高さ五・五㍍である。明治24年、銅鏡一面、勾玉一個、ガラス小玉三○数個、兜、鎧、矛、直刀、剣、鉄などが出土したという。銅鏡は直径一三・五㌢、厚さ四・五㍉のボウ製神獣鏡の破片で、現在京都大学に保管されている。内部主体の詳細は不明であるが、粘土槨であったと推定されている。
菖蒲塚古墳はともかく、聖塚古墳の規模は丹波地方では最大のもので、かつ両古墳とも保存状態が良く、丹波地方における方形墳の代表例として重要なものである。
(『京都考古学散歩』) |
聖塚と菖蒲塚の二つの方墳
久田山丘陵の北側に幅一キロあまりの小盆地である吉美盆地が開けている。
聖塚、菖蒲塚の二つの方墳は、盆地内の多田町の東はずれの水田中に約一五〇メートルの間隔をおいてならんでいる。両方墳の存在については、早くから世に知られていて、すでに 『京都府史蹟勝地調査会報告』第一冊に紹介されている。そして、一九八三年(昭和58)に周辺の圃場整備にともなう範囲確認調査がおこなわれ、墳形や規模などの点において、数多くの新知見が得られた。
聖塚古墳は造り出しをもつ一辺五四・二メートルの方墳で、墳丘の周囲には同一水面を確保する周濠がめぐる。墳丘は三段築成で、外表施設としての埴輪、葦石を完備するが、第一段目の墳丘と造り出しは現在の水田面下に埋もれていて、二段目以上の墳丘が地表にあらわれていることがわかった。一八九一年(明治24)、村人によって墳頂部が採掘され、ボウ製神獣鏡一面、玉類、甲冑類、刀剣、鉄鏃などが発見されている。
このとき、小さな割石を積んだような構造物があったという。また、出土品のなかに朱のついた粘土塊が付着したものがあったとのことであるから、主体部は竪穴式石室もしくは粘土槨だろうといわれている。
菖蒲塚古墳は、聖塚古墳より一まわり小さく、一辺三二・三メートルの方墳である。聖塚と同様に、埴輪と葺石をともない、同一水面でめぐる周濠が掘られているが、段築は聖塚とは異なり、二段築成であったとおもわれる。また、聖塚とおなじく墳丘の南東辺に造り出しが設けられているが、その東辺だけがカギの手に二段に突出するというめずらしい平面形をしていることが確かめられた。
両方墳の年代は、埴輪の特徴などから五世紀前半代にもとめることができる。両者の先後関係を決めるのはかなりむずかしいが、菖蒲塚→聖塚となる公算がつよい。このように、畿内型の整った最高首長墓が、造り出し付き方墳という特異な墳形をとって出現するところに、当地域の大きな特性がうかがえるのである。ちなみに聖塚古墳の墳丘の体積は約一万三千立方メートルで、丹波(京都府内)最大であることが、最近の石川昇氏の研究で明らかにされている。 (『日本の古代遺跡 京都Ⅰ』) |
天満宮
境内はゲートボール場になっている。一番手前が天満宮、次に三宮、その奥に(樹木に隠れて見えない)稲荷が並んでいる。社殿の背後に聖塚がある。
天満宮 多田村 在所野中ニ 産神
祭ル神 祭礼二月廿五日 九月九日
舞堂 鳥居 森凡三十間四方 前ニ馬場有 昔ハ外ニ一ノ鳥居アリ 山ノ手ニ三ノ宮 是ハ折々猿カ来ルトモ云 山王権現トモ云 都合二社明神也 又西河北八方大荒神有之ト
(『丹波志』) |
天満宮社 多田小字前路八二番地の二
祭神 菅原神
由緒 不詳
境内社 二社
三宮神社
稲荷神社
氏戸数 八十一戸
(『吉見村誌』) |
多田の神々
天満宮
村社 天満宮・祭神 菅原道真公…学問・雷よけの神
三ノ宮・祭神 大日霊命…御産の神
稲 荷・祭神 倉稲魂命(保食神)…農業の神
以上の三社が同一境内に祭られている。
その他、焼山に秋葉神社(火彦霊命、防火の神)、自然信仰から、山の神や荒神が祭られている。
別名「天神さん」として、その名を知られているが、もともとは菅原道真公を指したのではなく、天のカミは、水、風、海、岩など自然の中に人々がカミを感じたところから始まり、天津神の総称である。しかし、道真公の死以来、様々な天変地異におびえた当時の人々が、その霊を鎮める意味で太宰府、京都、大阪と次々に社を作り祭っていく。そして、各地の天神杜も神体を道真公とするようになる。又、北野(京都)には、古来より雷神信仰があり、道真の霊の活動が雷火で象徴されるところから、雷神信仰と結びつき、天神さんは「雷よけの神様」といわれるゆえんである。天神信仰は平安時代中頃以降、人々の間に広まっていく。特に江戸時代に、各地に末社がつくられ、天神講も盛んになっていく。
現在、その社は全国各地にあって、その数は一万一千社といわれている。今では地名になったり、童謡に歌われるなど人々の生活の中にとけこんでいる。
当町の天神さんは、いつ創られたのか、あきらかではないが、その古きを示すものとしてほ、現在も残っている「燈ろう」の天明八申年(江戸時代末期・1788年)と刻まれたものと、御手洗の石の寛政十一未年(江戸時代末期・1799年)と刻まれたもの、及び、江戸時代末期の山家藩の記録に「吉美郷多田村北野前天神、門の高さ一丈一尺、横二間、建てかえ安永九子年十一月(1780年)、社一間に五尺、上屋三間半に三間、建てかえ寛政元酉年八月(1788年)旧記。社一間五尺に一間、上屋四間に三間、又左右に小宮あり(今はなし)鳥居寛政八辰年十一月建てかえ、神子屋あり(四間半に二間)、半兵衛存じ申す」というのがあり、それ以前より存在したことは明らかである。
現在も二月二十五日には天神講が行われているし、かつては、吉美の各地区で子ども達が講に参加する一方、大人の代表が当町にある天神さんに参拝をしていた。又、七夕の日には天神社の前で子ども達が、御手洗より水をもらって、墨にて短冊に文字をしたためたものである。天神さんは道真公の業績から、学問の神、書道の神、和歌の神の性格をもっている。境内には燈ろう四基、鳥居、御手洗、後の広い森と、前面に堀がある。堀の周囲には梅が植えられるなど道真公の歌ともかかわって庭園の役目をしている。
記録は、かつては地狂言等も行われたとする。
祭礼には金幣、鉾、幟が属している。
三の宮神社
記録によると文化六年二月建てかえとなっている。かつては三つ又の大根をそなえるなど、御産の神様として信仰されてきた。この名の由来は、高倉宮を一の宮、有岡の神社を二の宮、この神社を三の宮としたところから来ていると思われる。そして、「三」が同音としての「産」に通ずるところにも何か意味があるように思われる。祭神やその古さなどが神社の格付とかかわっている面があるのではなかろうか。現在地より別に三の宮という地名もあり、記録にも宮の上にありとなっているので、神社統合をしたとき、この地に移されたと考えられる。
祭礼では鉾、幟、田楽踊人足、神子馬、大鼓、警護が属している。
神社はもと、吉美郷という一つの村落の中で、その総社として、高倉神社を祭り、又、他の神社をそれぞれ祭っていく。吉美地区住民の共通の神であったのだが、近世に到り、多田村という形で村落が細分化していく中で、その地にある神が、その地域の氏神となっていったと考えられる。吉美の天満宮が多田の天満宮になっていったのである。
その地
稲荷神社 江戸時代の記録にもあり、この地にあり、大きさも現状に近い。旧記なしとのことで、この当時できたものだろうか。
山の神は岩谷にある。山の神というのは、山からむかもる神様で神が下界にあらわれるのは山の頂きにおりてくると考えられていた。農業という仕事は厳しい自然との斗いである。人々は田植えから収穫までを神にすがった。山の神は春先、農村におりて来て田の神となり、秋までとどまり、冬近くなると山へもどって山の神になる。その山の神に感謝をこめて祭ったり、お願いしたりする。当町でもそれを行っている。
その他、神に対する感謝やお祈りをこめて、后土講(国津神、すなわち土地の神)や、秋葉神社の祭りをする。この神社については記録はないが二重池の東にある。
三の宮を中心として各皆々の修築が昭和五十六年に行われた。
(『吉見村誌その2』) |
臨済宗妙心寺派南林山円照寺
聖塚の向かいの集落の裏山の頂上、山というほどではないが、岡の上で、周囲に人家なく、大きなタヌキが住んでいるのか、参道で迎えてくれた。
円照寺
南林山と言う。臨済宗妙心寺派。観世音6番札所。
観世音立像 達磨大師像を安置
別に薬師堂あり、薬師如来をまつる。
開山は康永3年3月15日、開基養香首座。本堂建立は宇和3年1月1日。
山家覚応寺から首座が入山して修業僧も居たという。
(『吉見村誌その2』) |
《交通》
《産業》
《姓氏》
多田の主な歴史記録
伝説
多田の小字一覧
多田町
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