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丹波の

鷹栖(たかのす)
京都府綾部市鷹栖町


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京都府綾部市鷹栖町

京都府何鹿郡山家村鷹栖

鷹栖の概要




《鷹栖の概要》
JR山陰本線の山家駅があるが、由良川を挟んでその北側の集落、東綾小学校↓や東綾中学校↓のあたりである。

国道27号から北ヘ上林方面へ入る府道小浜綾部線(1号)線が分岐する交通の要地で、南は山家大橋を経て国鉄山陰本線山家駅へ通じる。鷹巣とも書き、上林川・由良川右岸の台地に位置する。

鷹栖村は、江戸期~明治22年の村。はじめ山家村のうち、のち分村独立した。山家藩領。
当村の当地あたりは町分と呼ばれ、山家藩1万石の城下町、坂町・上町・馬場町を形成して旅篭屋・人足駅問屋があった。また若狭街道・綾部街道が分岐していた。
地内北部の集落は裏番と称し、山家藩陣屋の裏手の番にちなむ。明治4年山家県を経て京都府に所属。同22年山家村の大字となる。
鷹栖は、明治22年~昭和28年の大字。はじめ山家村、昭和25年からは綾部市の大字。同28年、裏番は旭町、町分は東山町、残余は鷹栖町となる。
鷹栖町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。



《鷹栖の人口・世帯数》 279・94


《鷹栖の主な社寺など》

三神神社

 天満宮↑          三神神社↑
四級社 三神神社 祭神天照大神・大国主神・猿田彦神  鷹栖町探池   境内三、三四六㎡
祭日旧九月八日 人皇第五十三代淳和天皇の御代、天長七年(八三〇)九月に神霊代写しあり。(四方功家文書) 正徳三年(一七一三)八月二十八日の文書に神祇道管領吉田神道より、正一位三神(社)大明神の社格を授けられた。(「宗源の宣旨」「その祝詞」の文書あり)
寛文四年(一六六四)十一月二十二日再建、安永四年(一七七五)鳥居建替、寛政七年(一七九五)内陣建替え。
末社 八坂神社 牛頭天王(除疫の神)を祀り、その化身として八幡薬師の板絵像ありという記録があるがはっきりしない。垂迹説により八坂神社の祭神素盞嗚尊を祭っている。祭日旧六月七日、十一月二日
末社 天神神社 元は長瀬満門に祀ってあったもの 祭日旧二月二十五日
(『山家史誌』)


その他の神社
○天満宮 祭神菅原道真 祭日二月二十五日  鷹栖町(長瀬)満門
人皇第六十代醍醐天皇の御字、延喜元年(九〇一)一月菅相丞道真、筑紫太宰府へ左達され、延喜三年(九〇三)二月、五十九才で亡くなる。四方氏が菅公の臣下として奉仕していたので、当地に鎮守として祀る
と云う。(四方功家文書)
現在は三神神社の社地に祀るが長瀬住民は旧地を清浄し祀っている。
○稲荷神社 祭神倉稲魂命 祭日初午  鷹栖町浄前
寛政五年(一七九三)十月建替え
○水天宮 祭神応神天皇、安徳天皇、建礼門院 祭日四月十五日 鷹栖町東田仲(山家大橋詰)
山家鮎は、大正昭和の両御大典の時献上の栄に浴したもので名声を博した。船人の守護神とし名高い九州久留米市瀨下町の水天宮の分身を勧請して奉斎する話が昭和の初めに在り、昭和八年四月十五日神殿を建設し奉斎の儀式を坂牧組と漁業組合で執行された。水難防止と安産の神として祀り、現在では四月十五日に近い日曜日を祭日に定め坂牧組で行っている。
○愛宕神社 祭神雷神 祭日四月二十四日   鷹栖町奈留(愛宕山)
奈留地区では時々火災があり、大正末期にも火災があった。地元の協議によって、京都愛宕神社の分身を勧請する事に決定し大正十三年三月に祀る。爾来毎年四月二十四日には、京都愛宕神社に代参を行うと共に、山上に於て盛大な祭典を行い参拝者も多い。
○秋葉神社 祭神火彦霊命 祭日三月二十三日(旧三月廿三日)鷹栖町猪才山(秋葉山)境内二四三平米
静岡県周智郡春野町の秋葉神社(鎮火・防火の守護神)の分身を勧請し祀る。
・末社 金刀比羅神社 祭神金山彦命 祭日十一月十日  同所
香川県琴比羅町の金刀比羅宮の分神を勧請し祀る。
○山の神 御神体磐座と神木  鷹栖町浄前
(『山家史誌』)


臨済宗妙心寺派南泉山照福寺

東綾小学校の隣にある。文安年間に山家城主和久氏により、東の広瀬村の甲ケ峯に建立されたと伝えるが、和久氏が滅ぶとともに廃れて、寛文2年(1662)領主谷衛広によって、この地に造営された。
国指定名勝の照福寺庭園は天保14年(1843)に住職仙裔が作庭したもので、枯山水の庭。作庭の経緯を記した「含勝堂仮山記」(山東隠士無住稿)が伝えられ、作庭当初の姿をよく保っている。含勝堂というのは仮山記に「形勝万状鐘於一堂含裹極矣」とあることにちなんで命名された仙裔の室名で、現在の書院座敷。
南泉山照福寺 臨済宗京妙心寺末山家町
境内除地 鐘アリ 別ニ観音堂四間四方 郡巡礼札所ナリ
(『丹波志』)

南泉山照福寺 臨済宗妙心寺派直末一等地二級 鷹栖町小丸山三三  此除地二、〇六六㎡
本尊釈迦牟尼仏、地蔵菩薩、達磨大師、聖観音
何鹿郡三十三所霊場第三番 綾部西国霊場
御詠歌 「登りぬる山は南の泉とやふだらく山の流れなるらん」
文安二年(一四四五)八月和久山家城主の菩提寺として、広瀬町甲ケ峯(城山)に創建された。万山全重和尚-享徳二年(一四五三)八月七日寂しを開山とした。ところが明智光秀は丹波平定のとき寺でなく城塞だと云って、天正五年(一五七七)和久城主を誘殺したため、和久一族は滅亡し四散した。二世玄遊師の時馬場町に転居造営された。(今も照福寺ケ成と云って城山の一峯に寺跡を残している。) 初代領主谷衛友は安国寺に所属する妙音寺を、領主の菩提所にと云っていたが、寛文二年(一六六二)二代衛政公及息女死亡のとき、三代衛広公は焼香導師を、覚応寺開山菊雄師に命じた。これに対し、安国寺は怒り争ったが、家老佐原与左衛門が調停に尽して、妙音寺は退転、寺領は安国寺に引取り、檀徒は照福寺となるよう、公儀より沙汰仰せ付けられた。寺領を黄金十枚で買い取り、そこに照福寺を移築した。延享二年(一七四五)焼失し、同四年三月再建した。
文化五年(一八〇八)には、方文表八間裏五間、庫裡表七間半裏四間、観音堂四間四面、鐘楼一間半四方に改修した。なお、梵鐘に寛延四年(一七五一)の銘がある。鎮寺秋葉権現旧記には天王堂一間四面、当時檀家四百六十戸とあるが、現在は三〇〇余戸となっている。
昭和五十一年十一月七日島根県仁方町の宮大工棟領により、本堂改築の落慶法要が行われた。附帯工事として高塀改築、参道整備、外便所新築をした。八月十七日の観音祭、十二月五日の達摩講が有名である。
△小丸山庵 照福寺の裏庭の後方に小丸山がある。昔ここに庵寺があって照福寺の隠居寺であったが今は栗園となって道側に石牌を残すだけである。
(『山家史誌』)

国指定の名勝 照福寺庭園

これは本堂前の庭↑
名勝  照福寺庭園 綾部市鷹栖町 面積二一六七・〇三平方メートル  昭和四十五年九月十七日指定      (口絵参照)
照福寺は妙心寺末の寺で、文安年間(一四四四ころ)山家城主和久氏によって建てられたと伝えている。この庭園は、天保十四年に当寺十二世の仙裔和尚によって作庭されたことが、当寺に残された「含勝堂仮山記」に記されていて明らかである。この「仮山記」には、仙裔和尚が僮僕とともに土を運び石をひいて作庭したことが記されており、このように確実な作庭の資料は珍しいとされている。
この庭園は「仮山記」の説明によると、
「石組の雄偉 立石 伏石の妙は衆目を驚かし 庭木に珍木 奇花 異草を植えて その植えようも疎密濃淡に巧みで 花も紅あり白ありて 四季を楽しませる」とあり、当時からなかなか評判であったようである。
現況をみると、庭は方丈の北面に作られ、方丈裏座敷と書院から眺めるようになっており、東西に長い庭である。形式は築山林泉式の枯山水庭である。築山の西によって高い山を築いて雄大な滝口をつくり、東に向かってゆるやかに下った庭の中央部に低い滝口をつくり、その下の渓流に石橋をかけている。大小両滝の間には盛り上って岬のように築山が突き出て、ひば・五葉の松が植えられ、配石が巧みになされていて、幽すいな趣きがある。流れの手前には飛石が打たれ、方丈の裏座敷と書院をつないでいる。石組みは山石を多く用い、かなり多数の石である。渋い色調のきびしい姿の山石や、渓流の石を巧みに調和よく組んでいる手法は、江戸時代末期の作庭手法をよく表している。
綾部市内の各寺院には、それぞれに土地の状況に合わせて趣向をこらした庭がつくられており、岩王寺・宝住寺などの庭は古い由緒をもつすぐれた庭として知られている。そのなかで照福寺の庭園は、丹波・丹後に完全な形で残された古い庭園がないことや、作庭当時の確実な文献が残されていることから、庭園史の上で貴重な存在と考えられている。
(『綾部市史』)

*ふるさとの社寺を歩く〈100〉*照福寺(綾部市鷹栖町)*素朴な手作り庭園*
 由良川にかかる山家大橋を渡ると、山家地区の集落が開ける。綾部市の中心地から数㌔、山並みのふもとのわずかな平地を切り開くように広がる棚田が、静かな風情をたたえる。
 戦国期の天正五(一五七七)年、明智光秀の丹波平定に伴い、滅亡した和久一族の悲運の歴史が、この地に伝わる。寺の始まりは、その一世紀以上前にさかのばる。山家城主だった和久家の菩提寺として、文安二(一四四五)年に創建された。
 本堂を裏手に回ると、枯れ山水の庭が広がる。「含勝庭」と名付けられたその一角は、昭和四十五年、国の名勝に指定された。
 寺に伝わる「含勝堂仮山記」によると、庭は天保十四(一八四三)年に造られた。当時の仙裔(せんえい)住職が、自分で石を運び込むなど造営作業に携わり、築山林泉式の庭を完成させた。古庭園を残していない丹波・丹後で、作庭年代が明らかなうえ、当初の形態をそのまま伝える責重な存在だという。
 庭は、向かって右手の築山に枯れ滝口を表し、東に向かい徐々に低く連なる。左手側にもうひとつの滝口があり、石橋が渓流の上を渡っている。正面に広がる枯れ池には、カメとツルをかたどった石組が設けられ、築山のすそから、海原に長く突き出した岬の姿を連想させる。地元産の石をふんだんにあしらった「小宇宙」は、木立が連なる素朴な周囲の自然と徹妙に調和している。
 和久弘昭住職(六八)は、庭の奥の生け垣を指しながら、「かつては生け垣がなく、向こうに広がる竹林や、さらに奥の山並みをも借景としていたようです」と話す。線が張り詰めたように森閑としたモノトーンの世界も、サツキが花開く春先、紅葉が色づく秋には、華やかな彩りを準える。
 市街地の騒々しさから離れ、ゆったりと流れる時間に身をゆだねていると、近くの小学校の子供たちが奏でるのだろうか、柔らかな笛の合奏の音色が心地よく響く。「禅の境地」とは、趣がやや異なるものの、落ちついた風情に心が洗われる。
(『京都新聞』(96.7.9))


《交通》
京街道
何鹿郡東部の交通の要衝だが難所、道路や鉄道の以前は、川の道もあったと思われる。舞鶴あたりなら、京都方面へ行くには、必ず通らなければならない所である。
近世、田辺から京へ通じる街道は、梅迫村から横峠を経て塩谷村に入り、鷹栖村の町分を通り、上林川に架かる肥後橋を渡り、広瀬村から舟で上原村へ渡り、南行して草尾を経て船井郡桧山へ出るものであった。
『舞鶴市史』は京街道を、藩内の真倉から先、
黒谷・梅迫・横峠・山家・(由良川を渡る)立木(現船井郡和知町)・草尾峠(現同郡瑞穂町)・粟野・檜山に達し、ここで福知山からの京街道と合して園部(現同郡園部町)・亀山(現亀岡市)・老ノ坂を越えて京都に入る。この街道は、田辺藩主参勤交代の道筋でもあった。
としいる。田辺の殿様もここを通った。
近世以前の交通路については詳かでないが当時は主に山の尾根が利用されていたらしい。戸奈瀬町には徳右衛門屋敷、新治屋敷という尾根に近いところに地名が残っており、尾根をつたって往来のあったことがわかる。
文化の流れや、村と村との交通のために、また年貢を送ったり、軍隊を通したりするための道のあったことはたしかである。
人家が次第に増えるにつれて、道は尾根から山すそにうつるようになった。徒歩か馬の背に乗る方法しかなかった時代であり、道もできるだけ近道になるよう、また、田畑をつぶさず山のふもとを通るようつくられていた。
当地区は南と北の山が高く谷が深い。したがって平地が少なく、自然道路は狭く曲折し急坂が多い。加えて由良川の急流が中央を東西に貫流して、南北を分断し、北部はまた上林川によって二分され、地区の産業の発展・土地の開発に大きく支障をきたしている。
しかし明治維新以前よりこの地は京街道の要路で、当時東八田村境より横峠・裏番(現在旭町)を経て、町に入り肥後橋を渡って廣瀬から船で上原に、下替地を通って船井郡に入る道があった。維新後もこの道を利用していた。
明治二十四年(一八九一)京都舞鶴街道(鷹栖以東から下和知村界に至る)がまた二十五年(一八九二)鷹栖以西の福知山高浜街道が改修され、府道綾部市場線として由良川右岸を東西に開通してから、横峠道は自然通行も減り山道同様の姿となった。
古老によると当時の乗物として人力車があり、今の農協あたりに車夫が四、五名たむろして、将棋をさしながら上林・和知・綾部への客待ちをしていた。和知から綾部に向う客があると、これをうけついで客にわからぬ暗号をつかい客をとり、綾部に着くと山家ゆきの客を拾って帰ったとったえられている。
山家本郷線は山家停車場から若狭本郷に通じた道路で明治二十年(一八八七)にその一部、二十四年(一八九一)鷹栖以北が開通、現在の府道山家停車場線は四十三年(一九一〇)山家停車場の設置、四十五年(一九一二)山家大橋の架設によって全線開通した。
大正年間の乗物として人力車のほかに馬車があった。中上林の八津合から山家まで台車にホロをかけて、客を乗せ、馬につけた鈴を鳴らしながら往復する風景は子供心をかきたてたものである。馬車や人力車は嫁入りにも使われ、花嫁は人力車で馬車、人力車をつらねての嫁入行列は沿道の人々の祝福をうけた。
山家停車場の設置にともない、ひしろ側道路(綾部市野田町境より船井郡和知町に至る)の改修に沿道住民の熱望が高まり、村当局は大正四年から九年まで和木町地内の改修、十二年度は下原、十三年上原地内いずれも府の補助を得て改修をおこない地区民の要望にこたえた。
(『山家史誌』)

田辺の寺院の末寺が多い。


《産業》
山家藩から幕府への献上品に丹波山椒があった。その調達は鷹栖村(彦兵衛)と和木村(九右街門)によって行われている。
 「丹波志」は山家の名物として山椒をあげ、「鷹住村支山入ニ和木村 右二ヵ村名物ナリト云」
山入は、今は旭町になる。

《姓氏・人物》


鷹栖の主な歴史記録




鷹栖の伝説


袖ぼぎの伝説
鷹栖町小字奈留と船谷に通じる道(現在市道)は昔より嫁にゆくときは通らないことになっていた。それは昔、嫁にゆくときこの道を通ったところ花嫁の着ていた晴着の袖が取られて無くなっていたとか、また重箱にご馳走を入れて通ったところ、家に帰ってあけて見ると空になっていたともいう。


おとら道
山家城を谷氏が築いた当時であると云い伝えられる。その頃「とら」という女性あり、生来能や舞の上手、また歌にも秀で城に催しあるときには駕の迎えが来たことからおとら道といわれるようになった。大正の初めの耕地整理により原形を失ったが、奈留から東山町へ通ずる駕の通れる広い道であった。
(『山家史誌』)





鷹栖の小字一覧


鷹栖町
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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