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丹波の

高槻(たかつき)
京都府綾部市高槻町


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京都府綾部市高槻町

京都府何鹿郡東八田村高槻

高槻の概要




《高槻の概要》
茶臼山古墳から北ヘ入った集落。
古代の八田郷の地に属するが、鎌倉時代は高槻保として推移。文保元年(1317)8月20日付比丘尼心会議状(安国寺文書)に次のようにみえる。
 譲渡丹波国高槻保内守清名田畠事
 右於彼守清名者、依亡父譲領知仕事顕然也、然於彼
 名田畠等者任亡父譲状、源資平限永代譲渡者也、仍
 譲状如件
    文保元年八月廿日
                比丘尼心会(花押)
また建武5年(1338)4月4日付暹快奉書(同文書)に、
    (花押)
  丹波国高槻保内守清名主職事、任下司資平之譲、領
  掌不可有相違、御年貢以下恒例臨時御公事等、更不
  可被致懈怠之由被仰下候也、仍執達如件
    建武五年四月四日        暹快(花押)
  謹上 光福寺知事
寛正2年(1461)の何鹿郡所領注文(同文書)にも八田とは別に記されているという。小さい村ながら保としての独立性をもっていたからであろうとされる。「丹波負笈録」は「西股東股の間に在村なり、両村に不附公儀一本ノ古村也」とする。
高槻村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ山家藩領、寛永5年から一部は旗本上杉谷氏知行地。上杉谷氏絶家のあとは元禄8年から柏原藩領となる。明治4年山家県、柏原県を経て京都府に所属。同22年東八田村の大字となる。
高槻は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ東八田村、昭和25年からは綾部市の大字。明治中期以降養蚕が盛んになり、山室氏が当地で仕立てた長瀬桑は丹波桑として全国的に有名になった。第2次大戦中菅谷の民家を移転させ、軍需施設がつくられたが、戦後撤去されたという。昭和28年高槻町となる。
高槻町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。


《高槻の人口・世帯数》 142・64


《主な社寺など》

高槻茶臼山古墳
高槻茶臼山古墳(綾部市高槻町)
北側から↑ 右側(西側)が前方部。
南側から↓ 木々に覆われていて墳形はわからない。
当墳は当地「高槻」地名の語源と思われる、高塚、高築の意味であろう。
高槻茶臼山古墳(綾部市高槻町)
←案内板もあるが、資料としては古いよう。
カンコーカンコー、学芸員はガン、一掃して、学問や保存よりもゼニモウケとのたまう、地方創生大臣氏とか、一番のガンはチミだ、我国から一掃しなければならないのはチミらのようなクソだ。
カンコーも学問の裏付けがなければ笑われるだけ、保存なければそもそもその元手がない、学問や保存はゼニモウケよりもカネも時間もかかるが、しかしほかには道はない。カンコーもバカが考えるほど簡単なことではない、大予算を伴う地道な長年の苦しい努力があってのことである。どこかの大学教授氏が言っていたが、歴史学の学生が集まりません、就職先がないからです。行政のヨーチさをワタシはボロクソに書くが、根にある事情はこうしたことなのである、歴史を専門に学んでも、それを生かせる場は日本にはないようなこと。カンコー立国、カンコー地域創生などは、その場逃れの口先だけにすぎず、実際はあり得ない計画だと知れる。歴史学の「空白の何十年、何百年」が今も続き、もうすでに亡びているようにことである。神仏に見放されれば、今の日本や今の地方のようなこと、どうあがいても明るい先が見えない地獄になる。

高槻茶臼山古墳は、丹波丹後では最古最大とされる前方後円墳、4世紀前半代と推定され、全長54.6mで、段築は3段、葺石埴輪なし。西殿塚古墳(桜井市・3世紀末か4世紀の初め)と相似形、その1/4に作られている。丘尾切断ではなく、大半は造り山という。発掘調査はなされていない。
出土土器から従来は5世紀末頃の古墳とみられてきたが、墳形からそれよりもずっと古いとも言われるようになっている。
こんなに古ければ、弥生墳墓もありそうな所だが今は見つかっていない(青野に前方後方周溝墓がある)、東側に高速が走っているが、その下には前方後円墳の野崎3号墳があった。この一帯は古墳が集中する。下図参照(「支配権の分割-京都府綾部市上杉4号墳の測量調査から」より)
1.高槻東山1号墳(前方後方墳) 2.高槻茶臼山古墳(前方後円墳) 3.野崎5号墳(前方後円墳) 4.上杉4号墳(前方後円墳32.8m。丘尾切断。竪穴か) 5..上杉1号墳(前方後円墳・横穴) 6.今北3号墳(方墳) 7.奥大石2号墳(方墳) 8.政次1号墳(円墳) 9.政次2号墳(円墳)。
しかしいずれも築造時期は、正確なことは不明とされる。築造順はこの番号順のよう。

4世紀前半なら、卑弥呼の子か孫くらいの時代になり、丹後も顔負けの古さになる。もっともこの時代は丹後はなく、当地も丹波(丹後)王国圏内になる。

下図の園部町の黒田「古墳」は、卑弥呼の時代のものであり、古墳時代の規格化され定式化された前方後円墳というよりも、弥生時代の前方後円形をした墳丘墓(墳墓)と見られている。前方後円墳もいきなり大和に発生したわけでなく、プロトタイプが弥生後期からあちこちに見られ、これもその一つと見られている。定型化した形状や葺石・埴輪・周溝とかの外部施設などがすべて整って初めて「大和の影響」もいえる。




最古の前方後円墳
由良川水系最古の前方後円墳は、高槻茶臼山古墳である。この古墳の築造年代については、過去に墳項部から採取された古式須恵器をよりどころに、5世紀末頃と考えられてきた。ところが最近の研究によってこれを大幅にさかのぼる4世紀前半代であることが明らかとなった。
その根拠の第一は墳形である。測量図をつぶさに観察すると、前方部の平面が三味線撥に近い形状をしめし、後円部で確認される段築平坦面がくびれ部付近で終息し、前方部へは続かないことが判明した。これらの特徴は、古墳時代前期に属する前方後円墳のなかでも、より古い時期の古墳に認められるものである。墳丘測量図を比較検討したところ、奈良県西殿塚古墳を4分の1にした形であることが解明された。
第二は埴輪を伴わないことである。全長54.6mの由良川水系最大規模の整美な前方後円墳に、埴輪がないことの意味するところは大きい。中期古墳にはなり得ないことを明快に物語っている。
高槻茶臼山古墳と同じ西殿塚古墳タイプの墳形を採用する古墳として、時代がややくだる時期に築かれた網野銚子山古墳がある。高槻茶臼山古墳が成立する4世紀前半代には、由良川大堰川ルートができていたことを示すとともに、揺藍期の丹波王権が初期のヤマト王権と深く関わっていたことを物語る。
(『宝蔵山古墳と成山古墳』(上図2枚も)(丹後郷土資料館発行・2011))

網野銚子山古墳は「浦島太郎」の古墳ではなかろうかとワタシは考えるが、浦島神社は八代にある。丹波道主命とかが被葬者と伝わる。

高槻茶臼山古墳内容確認調査報告
1.はじめに
 高槻茶臼山古墳は京都府綾部市高槻町茶臼山に所在する前方後円墳である。北西から南東へ舌状にのびる丘陵の先端部に位置している。基底部の標高は約106m。後円部を丘陵の先端部におき、西側に前方部を向ける。墳丘の基底部と付近の平野部との比高は8m前後しかない。後円部の南東側が切り崩されてはいるが、墳丘の遺存状況は比較的良好である。
 高槻茶臼山古墳の位置する小さな盆地の周辺には、前方後方墳と思われる高槻東山1号境や前方後円墳の野崎5号墳・上杉1号墳・上杉4号境、大型の円墳である政次1号墳・政次2号墳、蛇行剣が出土した方墳の奥大石2号境などがあり、狭いながらも注目すべき古墳が多くある。この小盆地は由良川の支流である八田川の上流域にあり、伊佐津川を介して舞鶴の海浜部へ通じている。
 高槻茶臼山古墳が前方後円墳として周知されたのは昭和40年代で、調査は昭和50年に行われた平板による測量調査(50cmコンター)だけである(注1)。墳丘は2段築成の整美な前方後円墳で、全長54m、後円部径34m、後円部高5.5m、前方部幅30m、前方部高3.5m、後円部平坦面径15mの規模をもつ。形態上の特徴としては、後円部径に対して前方部長が短く、両者の比高は1.5m前後を測るわりには、前方部の開きが大きいことがあげられる。前方部は側面が前端に向けて直線的に広がる形態となっている。段築平坦面はとくに後円部の北側から東側にかけて明瞭だが、前方部ではきわめて不明瞭で、かすかな緩斜面がめぐっているに過ぎない。丘陵の先端部を平坦に削平したのちに墳丘の大半を盛土によって構築している。葺石・埴輪は確認していない。主体部の構造は不明だが、石棺・石室に関する情報がないことから木棺直葬系統の主体部である可能性が高い。前方部の開きが大きい墳丘形態、墳頂部出土という須恵器片(杯・甕)から5世紀末に位置づけられている。
 その後周囲の掘削に伴う立会調査などが行われてはいるが、新たな知見は得られていない。近年になって墳丘測量図から幾つかの指摘がなされている。平良泰久氏は、高槻茶臼山古墳の墳丘が奈良県西殿塚古墳と相似形で、西殿塚古墳の墳丘長219mの1/4にあたることを2001年に指摘した。平良氏の指摘を受けた奥村清一郎氏は、古墳時代前期前葉に位置づける説を2005年に提示している。(『高塚茶臼山古墳内容確認調査報告』(綾部市教委・平28))

これが最新の報告かと思うが、採取された土器が当墳築造当時のものか、あるいは築造後二百年ほどして、当墳上に新たに小さな墓壙が造られ、そのときの祭祀に用いられたものなのか、ここがわからない。主体部の発掘調査が行われる日までは確かなことは不明のままのようである。ワタクシ的には古い方を重視したい。

文献、少し古いが、
茶臼山古墳
吉美盆地の北東約五キロほどのところに、最大幅五〇〇メートル未満の小盆地がある。この盆地の北側の山裾にある茶臼山古墳は、中丹地域最大の美しい前方後円墳である。高槻町のはずれの丘陵の端部に位置し、全長五四メートル、墳丘は二段築成で、大半が盛り土からなるものの、埴輪、葺石はない。
 過去に墳項部が採掘され、須恵器(杯・甕)が出土している。この須恵器は主体部にともなう可能性が高く、しかも石棺、石室に関する伝聞がないところから、主体部は粘土槨ないしは木棺直葬と推定されている。須恵器の型式から五世紀末ごろに属する。
 茶臼山古墳の南約一キロの位置に、全長約五〇メートルの前方後円墳、上杉一号墳があった。早くに消滅していて、くわしいことはわからないが、横穴式石室の古墳で、人物埴輪が出土している。六世紀前半代に所属し、茶臼山古墳→上杉一号墳とつづく首長墓の系列を、この小盆地においてたどることができる。
(『日本の古代遺跡-京都Ⅰ』)


茶臼山古墳(高槻町)(長さ六○メートル、高さ四・五メートル)墳頂部から出土した須恵器片や墳形からみて、完存する確実な五世紀の古墳である。  (『綾部市史』)



茶臼山古墳のすぐ南に「金里」というバス停がある。茶臼山古墳は高槻町だが、南側に寄り添うように家屋が建っている所は七百石町(上八田)の金里という集落になる。鎌倉期の古文書に兼里とも書かれるが、意味通りに書けば金里だろう、金属と関係が深そうな古墳だということになる。
『何鹿郡誌』に、
金丸親王の末孫金里宰相の志賀の里を領治せし時…
伝説上のハナシだが、この金里宰相の里でなかろうか。そうすれば、この古墳の被葬者は「金丸親王」あるいは「金里宰相」か。固有名詞も時代もアヤシイが、鍜冶屋王の古墳であるのかも知れない。
金丸親王は麻呂子親王のことだと言われる、当地一帯で言う伝説の麻呂子は聖徳太子の弟とかでなく、丹後の竹野神社系の人だとワタシは考えているのだが、竹野神社が当地一帯に入っているのかも…

茶臼山古墳だけでなく、この附近東側の高速の通る所にも古墳がある(あった)。未調査の物もあるのだろうが、高槻地籍で発掘調査されているものは…

『高槻町誌』より↑
東山古墳群


東山一号・二号墳(古墳時代前期)
高槻町の東側、楮山稲荷神社山頂付近にある古墳。高槻東山一号墳は京都府北部(日本海側)では唯一の前方後方墳である。全長約三四・五m(後方部長辺約二三m、短辺部約一七m、くびれ部幅的九m、前方部長約一一・五m、前端部幅約一〇m、後方部の高さは東側で約一・八m、西側で約〇・九m、前方部の高さは南側で約一・四mである)
前方部を南側に向ける。平成十七年(二〇〇五) に発見されたが、造られた時期を知る確実な資料はない。ただ、綾部市青野西遺跡では弥生時代の終りに造られたSX四十九周溝墓(全長約三四m)という前方後方形の周溝墓が見つかっている。「前方後方」という形が共通している。他所の地域では、前方後方形周溝墓から前方後方墳へ発展することが知られているので、高槻東山一号墳は古墳時代前期の墓である可能性が高い。
京都府北部では前方後方形の墳墓の報告例はこの二例だけで、極めて少ない状況にある。それも八田川流域だけに限られている点に注目したい。このことは弥生時代の終末から古墳時代の前期にかけて、前方後方形の墳墓を造る一大勢力が八田川流域を本拠地としていたことを示していると考えられるからである。
なお、一号墳の南側に二号墳(方墳・南北一五m、東西一一m、高さ約一・二m)がある。  (『高槻町誌』)


野崎古墳群
運動公園の方からくれば、その道が高速をくぐるあたりである。
古墳らしき高まりのような地形もまだある

野崎古墳群(高槻町野崎平)
高槻の十字路から上杉陸橋へ二百メートル程の東側で、近畿自動車道舞鶴線にあたるところで、古代の遺跡であることが知られていたので、京都府埋蔵文化財研究センターが昭和六十一年十一月調査した。古墳は六基を数え、五基が円墳で円部経十三メートル程度一基は前方後円墳で円部経二十メートル、全長二十八メートルで古墳群から出た遺物は須恵器の短頸壷、土製鏡、土製ミニチュア鉢で土師器、埴輪であった。 (『郷土誌 東八田』)

野崎古墳群(古墳時代後期)
高槻町の南側、台地にある古墳群。昭和六十一年(一九八六)高速道路の建設に際して発掘調査を行った。墳丘は既に削られて高まりはなくなっており、六基分の古墳の溝だけがみつかった。前方後円墳が一基・円墳が五基で、高速道路用地外へもさらに広がっている可能性がある。
五世紀未、最初に前方後円墳(五号墳・全長約二七m)が造られ、その後六世紀前半にかけて、円墳が寄り添うように造られていった。径一〇m前後の小型の円墳は、規模は小さいが埴輪をもつ(一・二・四号墳)。二号項と四号墳からは家形埴輪が出土した点で注目される。家形埴輪は、古墳に葬られた人物が生前暮らしていた家、もしくは死後に暮らす家を模ったものと考えられている。また、三号墳からは祭事に用いられた土製模造品(動物形・鏡形)が出土した。
埴輪をもたない前方後円墳が数多くある由良川流域なかで、野崎古墳群では小規模な円墳ながら埴輪をもつ古墳が集中する点が注目される。有力者が大きな古墳を造ることができるように、埴輪もまた限られた有力者にしか用いることができなかったからである。  (『高槻町誌』)


篠神社
篠神社(綾部市高槻町)
篠神社本殿とむくろじの樹↑
案内板↓


篠大明神      高槻村
祭神     祭礼 九月十日
舞堂 一二ノ鳥居 森ハ同村山株三十九山ノ内一ツ分
ト云 古ハ大日村迄八ケ村惣杜 今ハ村限 往古岩王
寺鎮守エ祭礼 古跡宮ヨリ西ニ当テ田ノ中ヲ馬場ト云
所一ノ鳥居跡大石アリ 字ニ石ノ本ト云
  当社古ハ手観大明神ト云伝フ 延書式神名帳ニ御手槻ノ神社トアリ此社カト云 可考  (『丹波志』)

篠神社 東八田村字高槻小字谷口に鎮座。明治六年村社と公定。現在氏子五十九戸、高槻全区之に属す。祭神は天細女命及天穂比命なり。例祭は十月十七日。この地は旧幕時代山家と柏原と分領せし所にして、当時は山王大明神と奉称し、阿弥陀を本体とせり。
 竹を神木としてゐる神社は八幡と山王とである。山王の竹は慈覚が支那の五台山から移植とたといふ篠竹である。日光の二荒山神社などにあるも、それである。(委員)  (『何鹿郡誌』)

篠 神社
一 神社名 篠神社   所在地 綾部市高槻町小字谷口壱番地
一 祭神  天佃女命、及天隠此命
一 沿革  創立年代未詳
一 祭日  十月十七日
一 氏子地域戸数  高観町六十四戸
一 標柱  昭和十二年 新川豊吉 建立す
(一)由緒沿革
鎮守の森は同村山株三十九山の内の一つである。古は大日村まで八ケ村の惣社であった。現在は高槻地区の産神である。この他は旧藩時代山家と柏原と分領していた当時は山王大明神といい阿弥陀如来を本体としていた。竹を神木とし、山王の竹は慈覚が支那の五台山から移植した篠竹であるといわれる。住古は岩王寺鎮守まで祭礼にいった記録がある。古跡宮より西に当たる田の中を馬場と言い、一の鳥居があった。そこに大石があって、字の名を石ノ本といっていた。当社は古は手槻大明神と言っていたといわれるが、古書延基式神名帳に名がある。
(二)記録
明治三十九年四月勅令第九十六号により神銑弊料供進指定神社の社格を受けた。
享保年間(一七一六-一七三五)に現在の神殿を改築したが、その時のことである位置を後方へ移動したその跡地から経塚を発見した。経塚は鎌倉時代の物と言われているが、埋蔵の年号は判明しない。本社の土蔵に御輿が或されているが、他の神社には見られない豪華なものである。
元治年間(一八六四)に四間に四間の上仮屋を造り、草茸で神殿を保護しておったが、明治三十七年の村内神社併論が起ったが取り沙汰となりかへって、拝殿、弊殿、神銑所を増築し境内の整備に力を用い、その為に森厳さは旧に数倍となった。
大正十四年二月村社の指定を受けた。
(三)篠神社の神職
…  (『郷土誌 東八田』)

竹を神木としているというのは社名の「篠」を篠竹のことと考えたからだろうが、シノはその意味ではなかろう。
西の志賀里にも篠田神社があるが、同じ社名で、シとかシノは金属だと思う。どこに鉄があるんだ、と思えるような所だが、神社がそうだし、地名がそうだし、伝説がそうだから、そうなんだろうとしか言いようはない。

早竹神社
村内菅谷の早竹神社は、節分の日に出る筍によって稲の豊凶を占う神事がある。ということである。北山や菅谷は地図にもなく、どこか集落の北のほうだろうか、わからない。

早竹神社  場所 高槻町北山 菅谷
祭神 八大荒神 帝釈天王
祭礼 二月十一日
建立 宝永五年(一七〇八)正月
再建 嘉永六年(一八五三)十二月
由緒
この神社は志賀郷町の篠田神社と同様、旧暦元旦の早朝神域内の竹林中より発見される筍三種により、早中晩生の稲の豊凶を占う、神事を有する神社である。
祠内に安置の神札二枚あって左の様に記されている。

神社のある菅谷は無住の地で、往時は民家が存し、明治二十年頃は約十軒あったという。
位置は丁度八代町を思わす様なところで、明治以後暫時民家が他に移住し、戦前には三軒になっていたが戦時中、火薬廠と火薬庫設置の為強制的に他に移住を余儀無くさせられ、遂に無住となった。この菅谷の前住者は、全員上羽姓で、この神社は株の祖先神であった。毎年一月五日に神事を行なうが、この神事は篠田神社に先行するもので、この菅谷が草分けである。また上羽株は約七百年の歴史がある。この行事は上羽三家のみ神事を行ない、近隣の人々は筍の作柄を見に来るだけてあった。
(『丹波志 東八田』)


第二火薬廠

国道27号が高速の下をくぐる所から、少し南側に「京都石灰」の工場跡がある。この写真↑は10年ほど前のもので、閉鎖になってからだいぶに経ているよう、稼働中はこの辺りは真っ白けで、屋根といい周辺の木々といい、石灰をかぶって真夏でも雪景色のように白かった。今も取り片づけるられることなく、これらの建物が残されているのが国道のすぐ脇に見える。
国道とはほぼ直角に西に入る谷があり、杉谷という。かなり深く意外と広い谷なのだが、今は途中にラブホテルが一軒と若干の田畑があるくらいだろうか。
ここへ第二火薬廠が疎開しようとした。村にも何らの詳しい説明もなかったという、詳しいことは不明。

第三火薬廠
昭和十九年大東亜政争は愈々熾烈となり、軍事施設は次々疎開して、敵機の攻撃に備えると共に益々強化を必要とする時期になって海軍は第三火薬廠をこの東八田村の地に建設することで高槻地区内の菅谷(すがたに)を中心に工事が開始された。海軍火薬廠は平塚にあり先に爆薬部が舞鶴に疎開していたが爆薬の危険を避けるため、施設第五部隊として来た。軍隊といっても軍人の数は極めて少なく大部分は全国から徴用した勤労青壮年の軍属で紹成した、勤労奉仕隊で、挺身隊の婦人が主力で、軍人の指揮のもとに工事を推進した。
工事が進むにつれ、高い煙突が立った。人員は各地から毎日百名を越えるものであるが、村内の居住者は誰もいないから内容が分からない。村長にも連絡がない。すると舞鶴鎮守府と書いた、海軍将校が来て「軍の機密であるから説明する訳にはいかないが完成してから土地の賠償等保証をする」といったままであった。高槻地区の菅谷では、河川の改修道路の新設、工事の敷地造成、がつづいている。民家は立退き、電柱は立ったままで終戦となった。
(『郷土誌 東八田』)




火薬廠
海軍の火薬廠は当時、第一火薬廠宮城県柴田郡船岡、第二火薬廠神奈川県平塚、第三火薬廠舞鶴の三箇所にあり、火薬・原料の造修、爆薬・爆薬火工兵器の造修を行っていた。昭和十九年太平洋戦争が長期化する中、敵機の攻撃が第二火薬廠周辺におよびはじめると、攻撃に備えるととともに益々強化を必要とした軍事施設は次々と疎開、第五工場(各種機銃火薬の製造・成型工場)を神奈川県荻野村(現厚木市)と舞鶴・梅迫(当地区の杉谷周辺)に、綿薬工場を敦賀市に移転が計画されて十九年秋、第三火薬廠から役場を通じその計画が高槻に伝えられた。

第二火薬廠
海軍では既に、杉谷を事前に綿密に調査し、工場の設置図面や機材の配置図等作成されていて、いつでも実施できる体制を作っていた。柴峠、鴨野、出合、口杉谷、中杉谷、奥杉谷周辺の田畑・山にかけて火薬工場を建設する計画で、土地立木を提供するよう要請があり、同地区への立ち入りも禁止された。
中杉谷に二軒(上羽儀三家・家族六人、上羽亀次郎家・六人)口杉谷に一軒(上羽虎雄家・五人)の民家があったが期限を切られ、強制的に移転が申し渡されて、高槻地内に移転した(上羽儀三家は既に上杉に移転していたが農具、家財道具等は置かれていた)。何時解除になるか解らないので地区民は急速燃牲用薪の確保に奔走する。総て軍の命令に従わざるを得なかった。移転計画は軍事秘密として詳細は不明であった。その後の記録によると、直接杉谷に疎開するのでなく近くの第三火薬廠に移転しその一部が杉谷に疎開していた。当然指揮命令は第二火薬廠が行い、翌年二月に軍人(氏名、人数等の軍人に関する資料、記録はなく全く不明である)、技術者数名が村に入り、高槻地区内の離れや役場周辺などに宿泊。後野峠(うちこし峠)付近に第五部隊本部を設置し指揮監督に当った。工事に従事する作業員(徴用工)は京阪神地区から徴用され、高槻の公民館や石灰工場、杉谷に建築された丸太小屋などで宿泊、作業に従事。柴峠には監視所が設けられ技術者、徴用工の杉谷への出入りは、ここで監視した。
七月に空き間調査(舞鶴海軍経理部)が東八田全区で行われ、増員の計画があったと思われる。
高槻は六軒から申し出がされ、五軒は蚕室で二階のみ敷物なしとなっている。これと同時期に七梅工場主任海軍技術大尉岸本哲也名で仮契約書の雛形があり、使用料は契約期間中畳一枚につき五十銭として…以下略、とあるが実際受領したかは確認できていない。
この時期、高槻には百人以上が駐留し作業に必要な工具や食料、生活用品等も拠出させられていた。
当時の高槻の記録によると(史料42-2)
五月十九日海軍軍用の為 器具(作業工具)拠出品
 長台(荷車)・一台 リヤカー・四台 ツルハシ・五個 ヨキ・四丁 ナタ・四丁 ガンド・四丁 金槌・六個 アツガマ・一丁 スコップ・八個 鉋・二個 ノミ・二個 とある。

1 靖部隊
工事は突貫工事で進められ徴用工とは別に火薬廠緊急工事勤労奉仕「靖部隊」と称し作業員の動員も要請されている。
天田隊(天田より選出)と何鹿隊(何鹿郡より選出)で組織され六月以降綾部町一〇〇人福知山町二〇〇人京都学徒七〇〇人と役場で出役表を作成し各部落に日程と動員が伝えられている。このことからして多い時は徴用工、靖部隊合わせると一日、二百人以上が杉谷で作業に従事していたこととなる。
東八田村は一世帯一人十日が割り当てられているが(基準は昨年の国民登録の八割)、郡内の各村にも同じように動員がかかっていると思われるが確認する資料はない。
作業時間は、午前七時から午後五時までの十時間。賃金は、京都府協定による 男子六円、女子四円二十浅となっているが実際に受取っているかは不明である。携行品は弁当、ショベル、鋤簾(ジョウレン)鍬、大鍬、唐鍬となっている。毎朝七時に上杉陸橋付近の広場に弁当と道具を持って集合し、河川の改修、道路の新設、工場の敷地造成が主な作業である。
終戦の八月十五日は中山地区から出役していた三十名は作業中係員に戦いが終わったと知らされた。軍人、技術者、徴用工は岸本大尉の残務処理の指揮のもとそれぞれの出身地に帰っていった。
無人となった杉谷に期間中は入山する事が出来なかったので状況、詳細はまったく判らない。終戦後初めて高槻区民は区長を先頭に柴峠から杉谷に入ると丸太小屋、倉庫、工場が立ち並び、谷や田畑は埋め立て、立木は切り出され、道路・川は拡幅や付替えられ、電柱が立ち並び電気が引き込まれ、塩ケ谷には三十メートル余りの煙突が立ち以前の様相が一変していた。これが致ヶ月前まで見慣れていた杉谷かとただ呆然と佇むのみであった。
残された建物、物資については、軍からの指示とおもわれるが八月□口付海軍技術大尉岸本哲也氏立会人として第三火薬廠長宛の払下品の引取証(目録)八通と、八月二十七日付舞設五部隊長宛の預かり証一通が残されている。
八月三十一日付で何鹿郡地方事務所・綾部警察署宛の払下物資(物品)調査票が作成されている。いずれも発行人は東八田村長高野庄右衛門で、これらの内容から推察するに詳細に調べ上げられ、しかも離散しないよう保全管理もなされている。物品は今後の利用価値を観て公共機関や細かく分配山来る物品は均等に関係地区等に払い下げられている。払い下げ品には各々単価を定め総額二七、五三一円の納入告知書が村宛に送られて来ている。これとは別に東八田地内には通信隊関係や駅周辺に、数多くの軍事施設が点在し同じように払下が行われている。
高槻は昭和二十一年八月二十二日付 区長岡安常三郎名で作業場用建物一棟、トタン五十枚、レンガ一千枚、セメント百五十袋、砂利二、五立坪、小砂一、三立坪を払い下げの申込を行っている。他の区も同じように申し込みを行い最終的にいかに決着したのかは不明である。最大被害地区として強引に主張し作業場一棟(高槻地内に移築され現在も使用中)の払下を受けた。建物の材料は総て高槻の山林で先祖伝来の樹齢五十年以上の木を切り、石灰工場に急遽建てられた製材工場で製材されたものである。

2 補償とその後
土地(屋敷、道路、田畑、山林等)使用料、耕作不能地、立木の補償等々行われたようである。東八田で総額七万四千五百七十八円四十銭、うち高槻には総額一万二千六百七十円の補償金が支払われている。この間、第二火薬廟、第三火薬廠、海軍経理課、運輸省地方建設部舞鶴連絡事務所、京都府綾部事務所、福知山管財出張所等々交渉先が変わっていて詳細は不明である。
火薬廠とは別に 海軍軍需部倉庫建設候補地選定地として後野十六、十七、二十五番地 約十二畝が候補地にあがっていたがここには建設された記録はない。
これは軍事物資の奥地に分散疎開のためのものであったと思われる。
高槻が大きな被害を被った火薬廠疎開計画も完成をみずに、終戦を迎えたが高槻にとっては非常に迷惑な疎開計画であった。また、この火薬廠跡も高槻にとっては後々まで大変な事となる。作業員が埋め尽くした田畑は耕作も出来ないし、現状復帰もできず、その後ほとんどが荒地となった。道路、河川改修もそのままであり、地元で残工事は月日をかけて完成させなければならなかった。記録にない高槻区民の精神的、肉体的苦労、苦しみは筆舌に尽くしがたい。
この火薬廠跡も柴峠から出合いにかけてはほとんどが終戦から四十六年後の平成三年開通した高速舞鶴自動車道の敷地となり、また杉谷は平成七年から十年にかけて行われた関西電力送電線工事で僅かにコンクリート基礎致基を残すのみとなった。
メモ書き等から高槻に関係のあったと思われる軍人を記す。

3 平塚市博物館提供
以下は平塚市博物館市史編纂担当関恒久氏提供の資料と、特に元第二火薬廟に勤務され二十年には梅迫工場に勤務していた人の話を聞き取り火薬廠の追想録などの編纂に携わっていた今井英雄氏の資料を基に当方で確認できた資料と照合し掲載した。
第二火薬転から疎開していた工場は梅迫工場(杉谷)を梅工場又は第五工場、舞鶴工場を鶴工場の略称で呼んでいた。梅工場に派遣されていた氏名が確認できる技術者(板金、電気、雑工、運搬員)は以下の通りである。

北村、原田、福地氏は平塚が戦災にあい、急遽家族を呼び寄せている。
昭和二十年九月付第二火薬廠引渡目録(米軍に引渡した時の目録か、米軍から引渡された時かは不明)によると梅迫上場へ以下の機械、機材器具(表46参照)が移されたことになっているが高橋氏談によると駆水機や器具類は平塚から直接梅迫駅に搬送でなく、小浜線松尾寺駅(第三火薬廠主力工場は駅近くに在った)留めとして送られているので一時、第三火薬転に搬入、その後梅迫に転送したと推察できる。器具類は現場での作業が遅れていて設置できる状態でないので一時石灰工場や道端に置かれていたとあるが、この機械、器具について、梅迫工場での戦後処理の記録は確認できていない。
…  (『高槻町誌』(図も))

今はラブホテルしかないような谷で、風紀よくないようなチト行きにくいような所なので、その分野(戦跡)に興味ある人達もまだ未調査のよう。戦争のセの字も思い浮かばないノドカな所だが、この反対側(東側)500メートルともないような小高い丘には、海上自衛隊の舞鶴システム通信隊送信所↓の巨大アンテナがある。

早くより海軍が目を付けていた地域なのだろう。
『高槻町誌』さんがよく調査されている。百戸もないような小さな村でこうした書が出せるなどエライ村だと思う。詳しくは同書を見られよ。ジャマクサイのムキへ、同書に航空写真と戦跡の案内があるので、それを引かせていただく。写真をクリックすれば大きな画面がタウンロード可能。







《交通》


《産業》


松尾鉱山
三畳系難波江層群、および志高層群は石炭を含有し、舞鶴炭田と呼ばれていた。炭層は一~一・五メートルの厚さのものが三、四枚ある。この炭層は厚さが場所によって異なり、また連続性に乏しく、形成の過程で動力作用をうけて、粉炭化し、しばしば炭脈をつくっている。炭質は半無煙炭に属す。この炭脈は綾部市の於与岐、高槻炭鉱に連続している。戦後数年間採掘され、一時は黒鉛も採られていたが、現在は廃坑になっている。 (『舞鶴市史』)


《姓氏》


高槻の主な歴史記録


高槻村
高槻村は西俣と東俟の間にある、戸数六十三戸の村なり。両村に附かない公儀一本の古村である。山家柏原両領の入り組とある。
丹波志によれば宮の前の田地の中に丸山の古城あり、西の方を城山という虫の形をした山なり、城落ちる事なしとある。
又主基風土記という古書に若月篠社の名も出て来るし、古くから開かれたところといえる。又安国寺文書に文保元寺(一三一七)比丘尼心会の譲状に「丹波国高槻保内の守清田畠は亡父より譲られた土地であるが源資平に永代譲り渡す」というものがある。
(『郷土誌 東八田』)


伝説








高槻の小字一覧


高槻町
中呂 岼 桜 丸山 深田 茶臼山 堂ノ前 狐塚 川端 土取 野崎 西谷 後野 宮ノ西 宮ノ前 荷田 下シ田 観音堂 仲田 返谷 城ノ腰 谷口 カモノ 柴峠 口杉谷 中杉谷 奥杉谷 北山 出合 裏山 北山 東山 西山 裏山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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