京都府綾部市田町
京都府何鹿郡本宮町・本宮村
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田町の概要
《田町の概要》
本町3丁目から南ヘ府道中山綾部線(709号)を入ったところ。
写真中央の道路は709号府道を北向きに写す、狭い。右手の二階建ての建物は田町公民館で、その裏側に「田町のしょうず」がある。
市街地の南部で、府道中山綾部線が南北に貫通し、沿道に商店・住宅・旅館・事務所がある。南部の上野町との境界に近世以来の名水といわれる「田町のしょうず」がある。
田町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。もとは綾部市大字本宮町・本宮村の各一部。
今の府道中山綾部線の田町あたりは↑、かつて若宮神社の馬場であったものが大手門と本町を結ぶ主要街路となったもので、フツーによく言われる大手通りにあたった。写真を写している所あたりに大手門があったものと思われる。
坪ノ内村(つぼのうちむら)。江戸期~明治9年の村で、当地あたり、今の綾部市田町・新町・新宮町・本宮町・本町あたりにあった。
上野台地の北麓にあり、東は新宮村と接するが、田畑反別石高其他(沼田家文書)に「入会ニ付仕訳出来かたし」とあり、その境は不明である。北は本郷綾部村(町分)、西は神宮寺村。綾部郷12ヵ村の1。上野に九鬼氏の居館が移築されると、綾部村(町分)とともに城下として田町・上町・新町などの町分がつくられた。
明治9年に東隣の新宮村と合併し本宮村となり、明治14年に村内の町方を割いて本宮町を分立している。
藤山の東麓に若宮神社があり、家中の崇敬が厚かった。現在も厄神祭が有名である。
《田町の人口・世帯数》 98・53
《主な社寺など》
田町のしょうず(若宮清水井)
ちょっとわかりにくい場所。田町公民館の裏側(東側)にある。今は利用することもないのか、ここへ通じる道らしい道はない。
上野町台地と呼ぶのか、台地の上の右側の建物は「せんだん苑南こども園」という、笛の猛練習中の様子であった。
「若宮清水井」と書かれている。南の台地の下から湧いているよう。
内部の様子。『綾部町誌』(昭和33発行)にある写真と同じよう。
飲んでみたろか、と思うが、汲む容器がない。
下に溜まっている水は誰も飲もうとはしない、蛇口でもつけてジャージャーと流れていて、もう少し汲みやすいようにすれば利用者があるかも…
若宮清水井
田町の大手坂にある京都地方法務局綾部出張所の裏手に古い泉がある。恐らく九鬼氏が城下町を作る以前、田町附近が淋しい農村部落として民家が散在していた頃、唯一の飲料水となっていたであろうと思はれる良質の泉である。江戸時代藩主が茶の湯に用いにのもこの泉で、毎年何がしかの維持費を出して保証していた。嘗て田町の酒造家大槻藤左衛門の銘酒松乃花も、この泉から造られたのであった。又由来は判らないが昔から田町には元伊勢信仰があって、毎年四月二十三日代表者がこの泉の水を持って河守の元伊勢に参拝し、その日は町民全員が弁当など作って八幡平まで出迎へると云う風習があった。
(『綾部町誌』) |
皇后坂
大手門前のこの坂(大手坂)は「皇后坂」と呼ばれる。
案内板がある↑↓
皇后坂 大正6年11月16日、貞明皇后の綾部行啓は郡是生糸の工場の視察と共に、上野町の農林省・蚕業試験場綾部支場の御視察も行なわれた。
当時の田町の大手坂は道幅が狭く急坂であった為、人力を集めて御召の馬車が通行できるよう切り下げ工事を行なっている様子である。
写真は完成した田町の坂を金色の皇后旗をひるがえして進む近衛師団、騎兵隊が先導する様子であり、この日を記念して「皇后坂」とも呼ばれている。綾部駅からの綾部行啓には一万四千人の奉迎の列がつくられた。
《交通》
《産業》
《姓氏・人物》
田町の主な歴史記録
綾部の水
人間の生活にとって、清水が如何に必要欠くことの出来ぬものであるかは、清水の所在を示す井(イ)という日本語が、そのまま居住を示す居(イ)という言葉と同じ語で示されている一事からでもうなずける。
綾部という集落が何時如何にして、発生したかということは、早計に断定することの出来ぬ大問題であろう。だがどんな場合にも、人間の営みが飲料とするべき清水を中核として形成されたであろうことは、はっきり言えるのである。そうした意味で、ぼくは綾部における古い清水に注意してきたが、その第一に注目したのが田町のシュウズ(清水)であった。この清水についてはこれという記録は見出されないが、古老の口伝によると、その来歴はきわめて古く、神の授けたまわった霊泉である、と伝えられている。このシュウズは、おそらく想像以上に長い間、こんこんと清らかでゆたかな水が湧き出て、この土地の人々の生命を養ってきたのであった。今、田町の一部、上野台地の下一帯に若宮下という地名が残っている。現在の若宮神社は、藩主の九鬼氏が上野の高台にその居城を改築した時、守護神として今の位置に造営したもので、その以前は今の西福院付近にあったといわれ、又、シュウズの近く、今、登記所の辺りにあったとも伝えられ、若宮下の地名はここから起ったものであるといわれている。名のある清水の辺りに鎮守の神輿を迎えて祭を営む例は諸国に多い。いずれにしても若宮様とこの清水の関係は深い。昔は若宮神社の祭礼には、この霊水を神前に供えたものだという伝承も残っているし、シュウズの辺りに馬場があって、明治初年までシュウズ下の屋敷跡に、大樹の切株が残っていたとも伝えられている。このシュウズに関する伝承の二、三をひろってみよう。
○綾部から元伊勢に参詣する人々は、必ずすこしでもこのシュウズの水を持参してお供えしたものである。
○藩祖九鬼降季が志摩から綾部に移封された時、このシュウズが名水であることを発見し霊水であるとの賛辞を呈し、永く保存するよう命じた。代々の藩主もこの水を愛用し、茶席には必ずこの水を用いたという。そしで清水井の修理には、藩から費用が差しつかわされたものといい、年に一度の八月七日の水替え掃除には、お酒を賜ったものであるという。
○田町の素封家であり、酒醸を業としていた大槻藤左衛門氏の酒醸用の水はこの水で作った。大槻家の酒は灘筋にも名の通ったもので、毎年寒中にこの水を汲み、数十石の銘酒が作られていたことは著名なことである。
○井戸の竪穴掘技術が進んで各家に井戸を持つようになっても、横町、本町、西町、広小路などの古老達は、二十数年前までは遠近をとわず夏冬の別なく、このシュウズの水を汲みに来たものである。茶の湯はいうまでもなく、この水で煮たきしたものは、長く腐らず長持ちするといわれた。病人が飲めばよく病傷はいえ、長寿息災の素因を作る名水であるといわれていた。
要するにこの町のシュウズは綾部第一の名水であったことは確かである。この田町の水に次ぐ綾部の水として忘れることの出来ないのは幸通りのシュウズである。このシュウズは今は全く汚染されて昔の面影はないが、この清水もかっては八幡様の御輿を迎えた神の清水であったようである。綾部の名水として、東に田町のシュウズ、西に幸通りのシュウズがあり、共に神の水として人々の崇敬愛護の中心であったのである。そしてこれらの綾部の共同水源として、人々の生活をうるおしていたものであることは明らかである。大きく言うならばこの土地の人間生活の一結節点として重大な意義をもっていたのである。
綾部の町は次第に膨限し人口も増加するにしたがって水の需要も多くなり、堀井の技術も進んで堀井戸の数が増していった。しかし掘井戸の普及したのはずっと後代のことであって、用水はおもに由良川の水を使用したものであろう。由良川の流路も現在の状態になるまでには度々の変遷があったものと思われる。綾部の用水として注意すべきものは、田野川の水を並松の正歴寺の下でひいて上町、若松町に流した用水路で、とれは今まで私が見た綾部の古地図には必ず明記された重要な用水であった。
堀井戸の数が多くなるにしたがって、水質も種々雑多なものになっていった。現在の綾部の水質については、昨年(一九五二年)八月、綾部高等学校理化クラブの生徒達によって、行われた記録すべき資料がある(「綾部市街地の井戸について」由良河城綜合調査会研究報告)。ここではその詳細を記す余裕はないが、科学的な方法で選択された一〇〇個所の井戸について、その水質調査を行ったものであった。塩素イオンの値による汚染度の調査をはじめ、カメレオン液によって過マンガン酸カリ消費量を計測し、硝酸性窒素の多少を検出して有機物質の所在を験し、又、水素イオン濃度によって酸性度の検定、その他、硬度、鉄分等を克明に検べあげた。この調査の結果、市街地をA群(郡是、青野、綾中、並松地区)、B群(西町を中心とする家屋密集地区)、C群(山の手地区)、D群(宮代地区)の四群に分類したが、A群は酸性が大きく有機物の分解が活発で、田畑からの影響が考えられ、B群は下排水による汚染度が大きく、C地区は地下水の循環不足で水質の変動が多く、D群は四尾山地下水系で水質は若いが無難であるという結論が出た。
この調査によってみても、綾部の水は、市街地が発展し、戸数が増加し、人口が稠密になった今日においては、地下水によっていたのでは危険が多いという結果が出てきたわけである。この時にあって、市が上水道施設を完成しょうと計画し、その実行に着手したことは、文化史的に見ても当然のことではあるが、万難を排してこの事業を前進させた長岡市政に心から敬意を表するに吝であってはならない。われわれは近日中に現代科学の力による神の水が、われわれの命を養ってくれるよろこびにひたることができるのである。清浄な飲料水を恵まれる文化の福音に感謝しなければらない。
わが国においては、水への感謝の心は水への素朴な信仰の形として伝えられた例は多い。聞くところによると田町区の有志の人々によって、郷土の祖先達の生命を養いつづけた綾部第一の名水、田町のシュウズの保存のことが計画されているそうである。科学的に処理された上水道の水の恩恵に浴そうとするわれわれが、素朴なシュウズを通じて、水への祈りを捧げるということは人間的な美しい行為だと思う。それはそのまま科学への祈りに通ずるだろう。私は田町の人達のこの計画に双手をあげて賛意を表したいと思う。 (一九五二・一二)
(『丹波の話』) |
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