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十倉名畑(とくらなばたけ)
京都府綾部市十倉名畑町
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京都府綾部市十倉名畑町
京都府何鹿郡口上林村十倉
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十倉名畑町の概要
《十倉名畑町の概要》
上林川下流右岸の集落。北は黒石峠を越えて上杉町に通じ、府道1号線との交差点には信号機があるが、そのあたりである。
十倉名畑町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。もとは綾部市十根の一部。
江戸期~明治7年は十倉村。戦国期には波多野氏傘下渡辺九郎左衛門の知行地、のち山家藩領を経て、寛永5年からは旗本十倉谷氏知行地。
天文2年(1533)の景綱譲状(渡辺家文書)に「十倉」とみえる。また「十倉と山家替々に卿取被成候覚」(同文書)に「十倉村」とある。
明治元年久美浜 県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。明治7年井根村と合併して十根(とね)村となる。
《十倉名畑町の人口・世帯数》 279・65
《十倉名畑町の主な社寺など》
式内社・河牟奈備神社(かむなびじんじゃ)
本殿の脇に境内社、左が阿上社、右は吉田社。
今の十倉名畑町の山腹、古気良(こけら)という所に鎮座している。社前を若狭街道が通り、綾バスの「大宮」というバス停がある。「延喜式」神名帳の何鹿郡「珂牟奈備神社」とされる。旧郷社。
祭神は天下春(あまのしたはる)神とされる。大宮一休(おおみやいっきゅう)大明神または大宮ともいう。社伝では賀美(かみ)郷・拝師(はやし)郷の氏神と伝える。一休というのは一宮のことではなかろうか、賀美郷・拝師郷の一宮か。(現在は井根町を宮元として忠町と睦合町念道の一部の氏神、十倉名畑町は壹鞍神社が氏神)。
後背の山を神奈備(かんなび)山といい、「千載集」の次の2首はこの山を詠んだものとされているという。
長元九年後朱雀院の御時大嘗会主基方の神あそびの歌、丹波神なび山をよめる 藤原義忠朝臣
ときはなるかみなび山の榊葉をさしてぞいのるよろ
づよのため
寿永元年大嘗会主基方の歌よみて奉りける時、神楽歌丹波国神南備山をよめる 権中納言兼光
みしまゆふかたにとりかけ神なびの山のさかきをか
ざしにぞする
境内に永久二年(1114)銘の石碑があり、「阿上社」として「妙法蓮華経安置所」とあり、「永久二年(歳次甲午)八月十四日 僧院暹記之」と記している。当社の周辺に円墳3基がある。
案内板がある。
式内社河牟奈備神社
祭神 天下春神
この地を今も大宮というのはかつて崇敬あつい近郷近在の大社であった故であろう。境内に数基の古墳がある。元亀天正の頃、兵火にかかり宝物記事等を焼失した。後朱雀天皇の長元九年(1036)大贄会主基方神遊の歌に丹波国神奈備山を常磐なる神奈備山の榊葉さしてぞ祈る万代のため(千載集)と詠まれているが神奈備山はこの大宮の背後の山といわれている。尚境内の阿上(アガミ)社には永久二年(1114)銘の御神体の石碑がある。現在、綾部市最古の金石文である。
綾部市観光協会。綾部の文化財を守る会。
一休大明神 井根村 念道村ノ口ニ当リ産神
祭ル神 祭礼 六月十一日 九月八日
舞堂 一二ノ鳥居 森凡百間四方 字大宮ト云 井根 念道 忠三ケノ氏神 宮本ハ井根 十倉ノ地ニ有
(『丹波志』) |
河牟奈備神社 十倉村の大宮一休明神を指定されたり。現今、口上林村字十根に鎮座。
河牟奈備神社(式内社) 口上林村字十根小字古気良に鎮座。郷社にして天下春命を祭神とす。現在氏子一一三戸、忠区、井根区の全部及念道の一部之に属す。例祭は十月一一日、徳川時代当社を大宮一休大明神と奉称したり。
常磐なる神なび山の榊葉を さしてぞ祈る万世の為 (千載集長元五年後朱雀天皇御宇大嘗祭主基方の神遊の歌 丹波国神なび山をよめる。)
みしまゆふ肩にとりかけ神なびの 山の榊をかざしにぞする (寿永元年大嘗祭主基方の歌ヨミ奉りける時神楽歌 丹波国神なび山をよめる。
口上林村鎮座河牟奈備神社境内には、阿上社 妙法蓮華経 安置所 永久二年歳次甲午八月十四日信院記之 の銘ある古碑を存す。これ郡内最古の碑にして、今阿上社の祠によりて、雨露を凌げり。
(『何鹿郡誌』) |
河牟奈備神社
一、所在地 何鹿部口上林村大字十根小字古気良
一、社名郷社河牟奈備神社
一、祭神天下春神
一、事 由 和銅年中の創立にして其由緒沿革詳ならずと雖延喜式内の神社たり。往時は井根村を氏子元として今の中上林村大字睦合元引地より以西即ち、口上林村大字十根元十倉迄八ケ村の氏紳たりしこと、古老の口碑あり。後漸く分離して今は氏子元たる本村大字十根元井根を始め大字建田元忠、中上林村大字睦合元念道の一部分の氏神となれり。宝歴三年癸酉九月上屋両建の事あ少維新後社寺御調査の節郷社河牟奈備神社となる。其後延喜式には阿牟奈備神社とあるを以て如何ならんと相伺ひしに御府より全く河牟奈備神社なること達せられたり、左に録す。
何鹿郡第五区 十根村
其村鎮守阿牟奈備神社延喜式内河牟奈備神社に
相違無之段今般詮議決定候條此旨相達候事
明治十年六月 京 都 府
往昔本社頗る崇敬厚く広く近郷の大社なりし事今以て同社を「大宮」と称するに依りて知るべし。元亀天正の頃兵焚に罹り社殿のみ僅に其の類焼を免れ旧記社宝悉く烏有に帰す。然れ共後朱雀天皇の御宇長元五年大嘗会主基方の神遊の歌に、丹波国神奈備山を詠めるとて千載集に載する
常盤なる神なび山の榊葉を
さしてぞ祈る萬代のため
の歌あり想ふに此處ならんか
又安徳天皇寿永元年大嘗会主基方の歌を詠み奉りける時わ神楽歌、丹波国神なび山を詠める。
みしまゆふ肩にとりかけ神なびの
山の榊をかざしにぞする
権中納言兼光
等あるは此の山を指せるならんと思はる。神域頗る幽邃樹木鬱蒼として老幹槎牙神燈清気社前に跪拝する者俗腸頓に一洗の思あり。(以上記録元文)尚、境内末社に「法華経安置所」なる古石碑あり年代永久二年と彫られてあるが、多少疑わしいものながら、経塚か何かであろうといわれてゐる。
又明治四年三月十日久美浜県より管下の社寺調査の節所伝の扁額(表三尺二寸五分 幅一尺五寸四分)
鈴玉木鏡(長幅共一尺五寸形外八角内円形 木鏡裏銘和銅二年六月十一日)を何の故か没収せられたりといふ。
一、建物
社殿 桁行 十尺 梁行九尺八寸 此坪敬二坪七合 建築年代不詳
境内末社
阿上神社 桁行三尺梁行二尺五寸 此坪数二合
永久年中の創立、明治八年建築
吉田神社 桁行三尺梁行二尺八寸 此坪数二合二勺
永久年中の創立 明治八年建築
休憩所 桁行 玄関 梁行 二間一尺二寸 此坪数拾参坪二合
明治六年建築
社務所 桁行五間半 梁行二間半 坪数十四坪五合 大正十五年建築
一、石碑 末社(阿上神社ある稗)長 二尺四寸五分 幅五寸より七寸に至る
永久二年八月十四日設置
一、境内地 地種民有地第二種 坪敦 千九百二拾七坪 位置山麓
一、例祭日 十月十一日
一、氏子戸数 壹百拾参戸
(『口上林村誌』) |
河牟奈備神社
祭神=天下春命 「渡会氏神名帳考証」では神魂命となっている。
由緒=社伝によれば和銅二年に創立され、賀美拝師の氏神であったとしている。元亀・天正のころ兵火にかかり、旧記宝物すべてを焼失したという。
昔から大宮一休大明神ととなえ、背後の山を「かなみ山」と呼んでいるのは、神奈備山からきたものであろう。
(『綾部市史』) |
阿上社の祠の下に石碑がある。写真に写しにくいが、肉眼で見れば砂岩系のそう固くもなさそうな石に銘が刻まれている。千年も昔の物とも思えぬ、クッキリハッキリシャープな文字である。写真より↓はずっと新しいそうな幾星霜の風化を感じさせない陰刻のように見える。
石碑
法華経石碑
市内の金石文における最古の在銘遺品であって、十倉名畑町河牟奈備神社の境内杜である阿上神社に、永久二年(一一一四)の銘をもつ石碑がある。
この石碑は市指定文化財で、
阿上社
?(梵字)妙法蓮華経安置所
永久二年 歳次甲午 八月十四日僧院暹記之
と自然石に刻まれている。この石碑については研究者の間では意見が分かれており、平安期の経塚標識とする説、江戸時代に再造立された石碑とする説があり、刻銘の形式・書体・時代的地域的背景など総合的判断が必要と思われる。河牟奈備神社は式内社であって、往昔は近郷の崇敬が厚く大社であるところから現在もこの地を大宮といっている。このような観点から、この地に平安時代の石碑が遣存していてもさして不自然なことではない。刻銘は神仏習合を如実にしめす好史料である。
(『綾部市史』) |
両丹最古の石碑
JR綾部駅の東北一一キロ、綾部市十倉名畑町古気良(こけら)(旧丹波国何鹿郡拝師郷)に鎮座する式内社河牟奈備神社の摂社である阿上社(あじょうしゃ)には、石碑が祀られている。全高九〇㌢の砂岩系自然石を用いたもので、全体に丸みをおび、下方で太くなる。平坦な一面にのみ碑文が刻まれ、梵字「?」と比較的鮮明な二九文字からなる完文を読み取ることができる。文字が上方三分の二に寄せてあるのは当初から基部を地中に埋め、立てたことを示す。碑文は、阿上社に法華経を安置したことを記念して、僧院暹が永久二年(一一一四)にこの石碑を造営したものと解釈できる。神社に経典を納め僧侶が碑文を記すなど神仏習合が定着していたことを証する資料としても重視される。永久二年は、今から九〇〇年近く前、平安時代後期の年号である。これより先の永承七年(一〇五二)に末法の世となり、また藤原氏一門の栄華にかげりが見え、応徳三年(一〇八六)に院政が開始される。保元・平治の乱、源平の争乱を経て、建久三年(一一九二)鎌倉に武家政権が誕生する。このように政治も社会も大変動した時期で、末法思想や法華経信仰が流行し、貴族も武士も極楽浄土・現世安穏などを求めて造寺造仏や経典の書写供養、経塚の築造などをさかんに行なった。京都の六勝寺、奥州平泉の中尊寺金色堂の建立はこの石碑と同じ頃である。なおこの石碑は、平安時代の年紀を持つので古くから知られていたものの、碑面の風化がないことなどから江戸時代の再刻という意見もあるが、両丹地方で最も古い紀年銘をもつ「阿上社経碑」として広く紹介されることを期待したい。 (杉原和雄)
(『福知山・綾部の歴史』) |
阿上大明神は和知町の総氏神のような神社だが、それを勧請したものか。
『和知町誌』
上林の阿上社 綾部市十倉名細町古気良に鎮座する式内社の河牟奈備神社の境内摂社の一つに「阿上社」という小祠があり、この小祠の床下に、永久二年(一一一四)銘の石碑が存在する。この石碑については、『綾部市史』上巻(昭和五十一年)や『綾部史談』No.86 昭和四十二年)をはじめ数点の研究がある。和知の四社と上林の摂社阿上社の間に何らかのつながりのあることが推定される。すなわち、和知の惣社である本庄阿上社が、農産と養蚕の神として古来和知谷において尊崇され、和知では三社に分祀され、さらに地形的に隣接する上林谷に祀られるようになったと考えることは、無理な推論ではないだろう。 |
河牟奈備神社の祭神は天下春神(下春神)とされる。
こちらではあまり聞かない神だが、『先代旧事記』に、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊が天降りしたとき、供に天降った32名の同伴防衛の1神で、武蔵秩父国造等祖とある。
32名の天降軍団の中には思兼神を父に持つ、兄の天表春(うわはる)命(信乃阿智祝部等祖)もいた。彼らが天磐船に乗り天降った所は、河内国河上哮峯という。「哮峯」の「哮」は怒り吠えたけるといったような意味の漢字だが、タケルガの峯とかイカルガの峯とも読まれていて、当社背後の神南備山こそが何鹿郡の郡名発祥の山、あるいはそうしたことなのかも知れなくなる。
そんなアホげなハナシをと思われるかも知れないが、
『丹波負笈録』に
引地村 人家三十軒 同領
此村引原武左エ門と云者 持山ヲイツシカ嶽と云低山也 古此山に五声宛鳴鹿栖けり 故にイツシカ嶽と云 是よりして 何鹿の郡の名ハ起ると云 羽振云 是好事ノものゝ云出しなるべし
引地村は隣の睦寄町である、イツシカ嶽がどこにあるのかは不明だが、近くの低い山であろうか。何か古代史が眠っているのかも知れないような記録である。
何鹿をイツシカと読み、鹿と見るのはいい方かも、今はナニシカとしか読む人はないようだし、イカルという鳥だというのである。歴史観は退化しているようなことになっている。
しかしそうはいえ、当社祭神が本当に天下春神かどうかはわからない。秩父や信濃とどう関係があったのかが不明である。ないとは言い切れないが、あるとすれば大きくは物部氏の系統で鉱山関係か。地名の古気良のケラが気になる、踏鞴製鉄の鉧(けら)かも。鉧を鍛造してスルドイ鋼に鍛えていくのだそう。そのあたり見回してもそれらしきものはない。
鳥居に架かっている“注連縄”のようなもの、ヘビでなかろうか、これこそ本当の祭神かも。。
《交通》
クチカンの中心地、欠戸というところで、十倉地域ではこれが唯一の信号機、人影は見かけない。道路は府道1号(若狭街道)下流向き。そこの信号を右ヘ行けば黒石峠で上杉・梅迫方面・黒谷。左は武吉、佃へ続く。
この上側に旧・口上林小学校がある。今は、
《産業》
黒谷和紙工芸の里
和紙を小学校跡で梳く。黒谷地元の小学校というのではなく、山を幾つも超えた里の小学校跡、黒谷和紙というのだから、まずは黒谷で梳いて欲しいと願う。
母体の村から離れては母体も伝統産業もやっていけるものなのだろうか。しかしそうとばかりはいかぬもののよう。ここは事業拡張で出張所のような新工場のようなものか。スンバラシイ国では、こうした産業が生き残るのは大変、綾部の、日本の失ってはならない宝、何とか工夫と努力を重ねて次の世代へとつなげていきたい、そう努力されている人達をそれとなく支えていきたいものである。まわりが知らん顔しているとヤバイかも。。
《姓氏・人物》
十倉名畑町の主な歴史記録
東照寺遺趾 (久瀬谷)
本村十倉欠戸より二十数町、東八田村に通ずる道を北へ登る、八十力嶺の中腹に東照寺の遺跡と伝へられるがある。聖武天皇の御宇、僧行基の建てしものと言われ、七堂完備の大伽藍にして西照寺と共に、今の於与岐弥仙山を奥の院とする。修験練行の一大道場であったが、数皮の火災にあひ、次第に荒廃し、寺領亦地方豪族の併呑に帰して、法燈遂に滅して廃絶に帰せるものと言い伝へてゐる。
(『口上林村誌』) |
十倉名畑の伝説
十倉名畑町の小字一覧
十倉名畑町
山根 正号 名畑 宝溝 真辺田 水口 薦谷 関屋 欠戸 折紙田 三ツ辻 横縄手 野坂 高租利 黒石 久瀬谷奥 鎮守ケ浦 鎮守ケタワ 西照寺 古気良谷 東大末 西大末 ハサマ ナル林 東谷奥 東谷口 大宮 桜ケ峠 ナンコウ 古気良 名畑 宝溝 久瀬谷 ナル林 ハワリ 薦谷 関屋 水口
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん
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