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十倉中町(とくらなかまち)
京都府綾部市十倉中町


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京都府綾部市十倉中町
京都府何鹿郡口上林村十倉

十倉中町の概要




《十倉中町の概要》
上林川下流の右岸段丘上および山すそに位置する。沼ケ段の山頂に地侍渡辺氏の山城跡、集落内「元陣屋」に旗本谷氏の陣屋跡がある。戸谷川が本流の上林川に合流するあたりの段丘には張田遺跡があり、縄文時代の石剣・石斧などが発見されている。
十倉中町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。
戦国期には波多野氏傘下渡辺九郎左衛門の知行地、のち山家藩領を経て、寛永5年からは旗本十倉谷氏知行地。
明治元年久美浜 県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年井根村と合併して十根(とね)村となる。


《十倉中町の人口・世帯数》 85・24


《十倉中町の主な社寺など》

張田遺跡
『綾部市史』(図も)
昭和二十四年に、十倉中町張田の道路工事中に発見された石棒が再検討されるようになった。この石棒は、教本がまとまって地下一・二メートル位のところから、獣骨片などとともに出土したといわれるが、惜しいことには一本だけを残して他はすべて埋められた由である。その一本の石棒は、粘板岩を研磨して作られた長さ二〇センチメートルのもので、変った形の石器であることはわかったが、用途や時代については全くわからず、当時の研究状況の中ではそれ以上に追及されなかった。近年になり、綾部市内でも縄文時代の遺物が確認されるにしたがい、その石棒があらためて注目されるようになった。そこで専門家に調査を依頼したところ、形状・出土状況等からみて、縄文時代晩期の石刀であるとされた。石刀は、「むら」の統率者が呪術的に用いたと考えられるものである。この石刀の発見によって、綾部市にも約三〇〇〇年前に「むら」らしい形ができていたことや、「むら」の内部に身分的な差が生まれはじめていたことなどが考えられるようになった。

張田遺跡
この遺跡は十倉中町張田にある。昭和二十四年道路工事のため土を取ったとき、地下一・二メートルのところから数本の石の棒が発見された。発掘状況は明らかでないが、いま残っているのはその中の一本だけであり、この石の棒は縄文時代晩期の石刀と考えられている。石質はうすい青味をおびた粘板岩で、先端部と基部を欠損している。現在の長さ二〇センチメートル、断面は鈍い楔形をしており、最大長径二・六、最大短径一・六センチメートルである。埋めもどされた石の棒も石刀であったと思われ、縄文晩期の集落を考える上で貴重な資料である。
(『綾部市史』)


十倉陣屋と貞享越訴
十倉陣屋図↓(『綾部市史』より)

今の様子。
府道1号線(若狭街道)に綾バスの「下十倉」パス亭がある、その山側あたりである。写真中央の竹林の↓所が陣屋の心臓部でなかろうか
左手の赤い↓大きな屋根は如是寺。このあたり一帯の小字名は「元陣屋」。

近寄って見る、黒い屋根↓のお宅も含む裏山↓の一帯でなかろうか

坂根正喜氏の航空写真070719↓この中央あたりの山か山麓か


江戸初期は山家藩領であったが、寛永5年(1628)山家藩主谷衛友の孫衛清が2000石を分封され十倉の中村に陣屋を設けた。これを十倉谷氏とよび、その所領は十倉村のほかに志賀・金河内・内久井・幾見(小呂・干原・高倉)・位田・勢期の9ヵ村にまたがる。谷氏は旗本で江戸詰、十倉谷氏領の支配には道家・岩本などの士分と在地の渡辺家などがあたった。
十倉陣屋は若狭街道沿いの丘陵端に設けられた。天保年間の十倉陣屋図によれば、街道の北に一段高く長屋門を設け、その北にさらに一段高く陣屋を構え、周囲に士分の居宅や牢屋・米蔵などが配されている。いまもこの一角を元陣屋と呼ぶ。
十倉領政については岩本家文書に詳しく、なかでも貞享越訴(志賀甚兵衛強訴)は有名で、貞享元年(1684)十倉谷氏領の江戸奉公人144人が滞納年貢の減免等を要求し幕府に直訴したが、結果は死罪7人(うち十倉村5人)、追放137人と連判人全員が幕府により処分され、妻子ともに324人が追放になった。これは年貢滞納を江戸奉公で決済させるという圧制に対する不満が爆発したもので、追放された農民は42年後の享保11年に所帰参を願い出たが、一揆参加者は不許可、妻子のみが帰村を許された。という。


陣屋趾(中筋)
寛永四年、山家藩主谷氏、其の手衛清に分知して此の地二千石を授け、爾後明治に至るまでの同陣屋を置きたるのところである。明治戊辰の役旗下の故を以て徳川氏の麾下に属し、各地の戦役に従ったが、徳川氏遂に政権を奉還するに及んで、領地に帰り、一応邸宅を構えたが間もなく他に移り、邸宅も亦取払はれ、倉庫一残存して居たが何れも大正の初期に腐朽して遂に取払はれた。尚、大悲山弘誓寺跡は観音堂として、僅にその俤を留めてゐる。
(『口上林村誌』)


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》
十倉谷氏
谷 衛久
谷衛久は十倉の領主であった。何鹿郡十ヵ村二千石をうけて徳川幕府に出仕した。祖は谷出羽守衛久と言い、父を主計衛浄淳といふ、衛久幼名を鉄之丞といひ江戸に生れる。始め藏人と名のつたが、後任官して土佐守となる。元治元年六月十七日下野へ出陣して豪士の乱を鎮め、一度江戸に帰ったが、再び七月末日出陣、常陸方面の鎮撫に当って所々に転戦した。慶応二年七月十七日江戸城に召され、歩兵差図役頭に任ぜられ、月々十五人扶持給与され、小川歩兵半大隊を預けられる。当時歩兵半大隊の人員は七百六十名であった。次で小倉に出陣の命をうけ、部下を率ひて英国軍艦に乗り、神奈川を出帆、小倉に滞在したが当時物情騒然として寧日なく、各藩の態度容易に定まらなかつた。次で安芸の廣島を治め、後伊予の松山を鎮めた。十月十八日同地を引上げて、十一月二十一日江戸表に帰着した。翌慶応三年五月砲兵頭に任ぜられ、七月十八日上京して三條寺町の屯所にあって王城の地を守る。次で徳川慶喜に従ひ十二月十一日大阪城に退き、二十八日土佐守に任官した。慶応四年正月慶喜、会津藩主松平肥後守容保、桑名藩主松平越中守定敬に擁せられて、上洛せんと大阪を出発した。衛久先供に加はり、二日夕大阪を出て橋本に入ったが鳥羽伏見の戦が始ったので之に参加したが武運つたなく敗軍となった。此の時衛久肥馬に跨って幕軍を指揮し、弾雨の中に従容として活動した態度は世人の今尚語り草として残つてゐる。一旦大阪に退き、七日其の地を去って和歌浦へ遁れ、此所より日本船にて志摩の鳥羽港に出で次で米国船を雇って二十七日江戸に帰った。二月徳川家より、関西に知行があるから上京勤王相つとめよとの命を受けたので、江戸を出立し四月二日上京五月十五日参朝したので本領安堵の御朱印を拝領した。六月四日衛久の一族、主従江戸を出発し、衛淳夫婦並に家来一同七月六日当国に入国した。衛久は一行におくれて八月朔日十倉村に帰着してゐる。十一月東京定府仰出されて、旧旗本は東京に住すべき命があったが、折柄父大病にて京都在位を願ひ出たが許されず、止むなく東海道を下り同月二十六日東京に到者した、しかるに之より前二日即ち二十四日附を以て、兵学校御用掛を命ぜられてゐた。翌三年四月練兵教授二等として大阪に勤務を命ぜられ、其の後栃木縣那須町に退いた。
(『口上林村誌』)


神田省三
神田省三は六太夫といひ九洲の人である。J初め小倉藩主小笠原壹岐守の臣であったが、蘭学に堪能であった故を以て、何鹿郡十倉領主谷藏人衛久に知られ、砲術のために抱へられた。当時衛久は徳川幕府の砲兵頭をつとめてゐたからである。慶応四年正月二日夕刻省三主従徳川慶喜の先鋒となって大阪を出発、橋本に到着した時合戦となったから之に参加して、大に鳥羽畷に戦ふた。六日この戦に高所に在つたにも係はらず、銃弾命中して右足大腿部に貫通銃創をうけた因って領主と共に大阪に退いた。衛久傷の軽からざるを見て、仲間豊肋(十倉区向最寄の人)を附けて所領十倉村に帰らしめた。豊助乃ち省三を負ひ、或は釣台に載せなどして、能勢の妙見の間通を本梅谷に出で、正月十一日の夕刻十倉村に帰着した。大阪を出たのが七日なれば前後六日を費してゐる。途中省三は傷次第に重くなったが釣台の上に刀を振廻して大言壮語した。豊助危険なるを慮って、其の刀を隠したといふ。十倉村に到着後は陣屋に接近した。西隣の民家渡邊某にかくまつて介抱したが、言語不明にて容態六ケ敷く種々手当をつくせしも甲斐なく十四日午後二時遂に死亡した。十五日如是寺後山に葬る。時人佐幕の故を以て顧る者もなかったのは彼の為にさびしいものであった。現今一基の墓碑あり、法名を俊心院雄嶽全英居士といふ。
(『口上林村誌』)
如是寺の奥に墓があるという。


十倉中町の主な歴史記録


山家藩領
上林郷九ケ村の越訴について
綾部史談会  辻本 不二男
はじめに
江戸時代、山家藩に属して上林郷の僻地に在った九ケ村の農民代表は、宝永七年(一七一〇)六月、訪れた幕府の巡見使に対して、在地支配者の横暴、苛政により、質地として取上げられた田畑の返遷や、年貢減免を求めて直訴した。尚その年の秋十一月から正徳二年(一七一二)十二月にかけて、江戸幕府に三度も越訴をくり返して同様の訴えをした。僅か二年余りの短期間に、延べ三十五名にも及ぶ多数の代表を江戸へ送り、弾圧の危険をおかしての三度にわたる越訴は、訴え先も、巡見使、藩主邸、奉行所、老中宛と、回を重ねる毎に権力の中枢に迫る等、執拗とも云える激しいものであった。上林の中でも僻地に点在した小さな村々の取組みであったゞけに、後世の私たちに大きく目を見瞠らせ、特別の関心をよびおこさせるのである。

史料と伝承
これ程大きく、投獄のギセイ者まで出した「上林騒動」も、伝える史料は至って少なく、伝承は皆無であった。その後の強い政治的圧力が、故意に証拠を隠滅させ、語りつぐ口を封じた結果と思われるが、数少ないこの史料は、幕末時の廃藩まで、山家藩庁に保管されていたと思われる訴状と、顛末の口上書である。ちなみに、特別に厳しい処刑で、旗本谷氏の十倉領民に、廃滅的な打撃を与えた貞享一揆(一六八四)は、代官家文書から知らされ、また僅か百二十五年前、当地方で空前の大騒動と云われた徴兵反対を軸とした明六一揆(一八七三)でさえも、京都府庁の保管資料の中から発見され、双方とも全貌が明らかにされたのは、戦後もかなりの年を経てからであった。権力により「悪」の烙印が押された史実を、後世に伝えることが、一般民衆にとっては、如何に困難であったかを痛感させられる。

農民の分解と上林郷の一揆
当時は全国的に、幕藩体制強化の政策が相ついで施行された。その中心となったのが、農民に対する収奪の強化であったゝめ、俄に押しつけられた重い年貢の負担に、戸惑い喘ぐ農民や、田畑を失った転落農家が急増した。その反面では、労せずして土地を集めた僅かの農民も出現して村内は激変した。またそれに反撥した農民たちによる百姓一揆も多発していた。狭い上林郷の中でも、九ケ村の一揆以前の僅か二十余年間に、次のごとく一揆が頻発していた。
(一)延宝九年(一六八一)旗本 藤懸領
 佃村等の五三名が、代官宛強訴、五右衛門、弥七等、四名が処罰をうける。
(二)貞享元年(一六八四)旗本 十倉領
 江戸屋敷奉公人一四四名が連判し、代表十四名が幕府評定書へ直訴 死罪七名、南口追放七名、国元追放は、連判人とその家族合せて三二四名に及ぶ。いずれも家屋田畑は没収(三)貞享三年(一六八六)旗本 藤懸領
 忠村に傘形連判状を保存、詳細は不明
(四)宝永五年(一七〇八)旗本 藤懸領
 武吉、佃、忠村の三義人による金比羅強訴
守護神への感謝と、義人顕彰の金比羅講を盛大な祭事として現代k引継ぐ
(五)宝永七年(一七一〇)   山家藩
 九ケ村の越訴 略


幕府の対応
これらの農民に対する幕府の刑罰は、当初の厳罰主義から、急速に軽い処罰の実施へと変り、転換期の試行錯誤を窺わせている。また諸国を歴訪した巡見使への指示も、「公事、訴訟、目安、一切講取るまじくの事」(寛文七年一六六七) から、正徳二年(一七一二)には、「百姓共訴訟の事も候はゞ、少しも差控えず訴状を以て右面々へ申しいで候様に是又申しつけらるべき事」、と大きく変更された(綾部史談一一七号)。
一見奇異にも映るこれらの方針転換も、体制強化を目指す幕府にとっては、民衆から寄せられる怨嗟の高まりを鎮め、「下々の声」を聞くことにより、重い課税にかわった農民の、新しい反応や、各領主の支配能力等を見定めるための緊急措置であったと思われる。


九ケ村の概略
さて主題の上林郷九ケ村は、若狭国(現大飯町)を境にした五ケ村と、丹後国(現舞鶴市)に接した四ケ村からなり、その石高は六〇〇石余で、山家藩総高の六・五%にすぎない飛地であった。
貞亨四年(一六八七)山家藩では、一斉検地を行い、朱印高一万石余を、一万七千石余の新検高とした。七二%の増高である。以後幕末まで変ることはなかったが、上林の九ケ村は殊に上昇率が高く、平均三・九倍で、中でも市之瀬村は十倍にも及ぶ高率であった。
山家藩の成立は、天正十年(一五八二 本能寺の変の年)と歴史が古く、戦国未の慌しい世情の中では、僻地の石高把握も杜撰で低かったのに加え、新検地では古検に洩れた奥地や、新たな開拓地が限なく精査された結果、異常に高い倍率となったものであろう。
九ケ村では、この貞享検地を契機に、実権を委ねられた大庄星の波多野三郎太夫と、代官浅香瀬兵衛が結託して、苛酷な施政運営を押し進めることになった。以後二十四五年の間に、村民の生活は根底から揺さぶられて窮乏者が激増し、急場凌ぎの金策として、大庄星へ入質した田畑も、返済不能で取上げられ、潰れ百姓に陥る例が相次いだ (田畑の売買は田畑永代売買禁令により許されなかった)。追いつめられた農民が、最後の打開策として取組んだのが、村の総力をあげての越訴であった。以下はその経緯と概略である。


九ケ村の越訴
(一)巡見使への越訴
犬公方と云われた将軍綱吉が他界して、六代家宣が就任したのに伴い、幕府は恒例の諸国巡見使を派遺した。山家を訪れたのは、伏見主水、山本八右衛門、大久保平左衛門の三名であった(宝永七年六月)。
訴願に対して「訴えごとは江戸でせよ」との回答であったゝめ、農民には江戸への越訴に、大きな希望を抱かせたのかも知れない。
(二)第一回越訴
初回の訴えは、九ケ村より二名宛、十八名の代表が江戸に下り、その内の七ケ村、八名の連署で奉行所宛に初の訴状を提出している。(宝永七年十一月)、小仲、大唐内の両村は訴訟人に名を欠いているが、十八名の中に含まれていたのであろう。全領的な一揆であるが、帰村後市之瀬村の安右衛門は籠舎(入牢)、他の全員は村中預けの刑により処罰された。
次に掲げるのは、そのときの訴状である。
 乍恐以書御訴詔申上候(第一回)
一、谷播磨守知行丹波何鹿郡上林九ケ村之百姓申
 上候 播磨守知行所弐拾五年以前惣検地入候
 九ケ村之元高六百石之処 今高弐千三百石余
 ニ罷成候 依之百姓困窮仕候 願者元高之御
 物成ニ而 被納候様ニ御了簡被為遊何とそ谷播
 磨守百姓仕候様ニ奉願候(イ)
一、百姓段々なけき 申候事代官大庄屋ニ相滞少茂
 御上へ通シ不申 夫故百姓皆々つふ連 迷惑仕
 候 先御代官御公儀様江桑請年貢上納仕来り
 候付 畑廻り桑仕立置候処ニ桑之根迄打詰被
 成候ニ付桑下之作も仕付不罷成候処ニも畑御
 年貢上納仕候故百姓迷惑仕候(ロ)
一、山之儀者山御年貢差上申上ニ切畑仕置候処山
 之峯迄被打詰 切佃と申者二三年作り候へ者
 土下り作も成不申荒地罷成候処ニも御年貢上
 納仕夫故百姓潰迷惑仕候 田方者阿勢きし迄
 被打詰 上々田壱石七斗より下々迄弐斗下り
 畑方上々畑壱石四斗より下々迄弐斗下り 切
 畑者三斗(ハ)
一、百姓段々困窮仕身上相潰申侯節者先規ハ御吟
 味之上 未進米来十月迄ニ上納被仰付被下候
 間 妻子ヲ売亦者親類等ヲ相頼利安之借用ヲ
 仕田地ニもはな連不申候様ニ仕候処ニ大庄屋三
 郎太夫手前之勝手ニ能故ニ御代官瀬兵衛殿と
 申合殊ニ大分之金銀所持仕候ニ付 末進米霜
 月廿日切ニ手前之以金銀御公儀前勘定相済
 扨為下末進と百姓方江元米壱石ヲ壱石弐斗ト
 致元利共ニ其五割六分利米相掛ケ被取申候
 此儀難儀ニ存瀬兵衛殿へ御訴訟仕候者瀬兵衛
 殿被申候ハ人多キ故ニつふ連 百姓出来申候
 百姓共つふし人数ヲへらし可申と被申漬百姓
 之田畑家財諸道具共不残取上ケ大庄屋三郎太
 夫へ被渡 則其場より何方へ成共立のき可申
 と被申付候へ共色々わひ事仕 漸伏屋ヲ借り
 妻子ヲ差置御当地江御訴訟ニ罷下れ申候
 此儀も今度順見様御廻り被成候節 願書差上
 ヶ串候へ者 御順見様方被 仰出候者御江戸へ
 罷下り願申様ニと御申被成候ニ付今度罷越直
 ニ御順見様へ此由申上候へ者 先地頭播磨守へ
 願可申様ニと被仰付 夫より播磨守江参段々
 願申候へ共役人中一切取上ケ無御座 無是非
 御 公儀様江乍恐御訴訟申上候
 右之通御慈非ニ御取上ケ可然様ニ被為 仰付
 被下候ハ者難有奉存候 御地頭様ニ者何ニ而も
 御非道者御座有間敷候得共 大庄屋三郎太夫
 代官瀬兵衛両人ニつふさ連迷惑仕候 願者右三
 郎太夫江相渡シ申田地元々江帰シ申候而 永
 谷播磨守百姓相勤候様ニ被為 仰付被下候ハ者
 難有可奉存候 以上 (ニ)
  宝永七年(西一七一〇年)
   寅 十一月
      市野瀬村百姓惣代
        訴訟人     角左衛門
        同村  同断  市兵衛
        水梨村 同断  仁右衛門
        光野村 同断  徳兵衛
        市志村 同断  勘助
        辻村  同断  太郎兵衛
        市茅野村同断  作左衛門
        栃村  同断  三太夫
   御奉行所
 なん度も息をのみ、ためらいながらも読み終えて呆然となる訴状であるが、以下僅かの補足や、私見、解説を交えながら要約してみよう。
 谷播磨守の領地である丹波何鹿部上林郷の百姓が申上げます。山家藩では二十五年前、総検地が実施されました。九ケ村合せての元高は六百石でしたが、今は二千三百石余に増加しましたので、百姓は重い年貢を課せられ困窮いたして居ります。どうか検地前の年貢高に戻して頂いて、殿様の下にお仕えする百姓として、永続きできます様にお願いします。
(ロ)百姓の生活は、段々と苦しくなり、困惑していますが、殿様への実情報告は全くされず、すべて代官と大庄屋によって握りつぶされ、そのために、転落農家が増え、迷惑しています。
(ハ)山家藩では、桑年貢は自藩のものとせず、毎年京都奉行所へ上納する義務を課せられ、反面、山年貢については、自・他領を問わず何鹿郡内のすべてを受納できる特権を持っていますが、双方共不法な二重課税で百姓は潰され、また田は、畦や岸までもその対象にされた上、課税の査定も従来の田畑共に上・中・下の三段階方式から、新たに上上田(畑)と下下田(畑)を加えた五段階とし、切畑の三斗も加えて増徴をされています。
(ニ)百姓が生活に苦しみ、年貢上納に窮したとき、検地以前には来年の秋まで延納を許され、その間に妻子を売り、親類等から低利の借銀をすることで田畑を手放さずに凌げましたが、今では大庄屋三郎太夫が、代官瀬兵衛殿と結託して、延納を認めず、収納締切日も十一月二十日と指定。納期に遅れた分は、裕福な大庄屋がすべて立替上納し、借方の百姓に対しては、あくどい方法で高い金利を取り、私腹を肥しています。困った百姓が代官に訴えたところ、代官は「村の中に人が多いために、潰れ百姓が出来るのである。もっと潰して人数を減らさなければ」と、つぶれ百姓の田畑、家財諸道具を残らず取上げて、大庄屋へ渡した上で、何処へなりとも立去るよう仰せられましたが、色々とお詫びして漸くボロ家を借り、妻子を住わせた上で、江戸までお願いに来ました。
 私たちは先づ「訴えごとは江戸で」と指示された巡見使様へ願い出ましたが「殿様(山家四代目藩主、谷播磨守照憑)に頼め」と相手にされず、それではと殿様邸に参上したところ、役人たちは殿様へは取次いでくれず、また代って耳を傾けることもなく、門前払いにあいましたので、やむなく奉行所へ訴えに及んだ次第です。
 この件について、殿様は何の非もなく、悪くありませんが、大庄屋三郎太夫と代官瀬兵衛の両人により、潰れ百姓とされ迷惑しています。
 どうか大庄屋に渡っている田地を、それぞれ元の百姓に戻し、殿様の下に仕える百姓として、永続できる様に仰付けて下さい。以上 この訴えに対して奉行所は「相対済まし」の裁許を下した。当事者でよく話し合って解決せよとの意であるが、事実上、上林の殿様として恐れられていた大庄屋との話し合いは、絵に画いた餅のごとく困難であった。
 (三)第二回越訴
再訴は正徳二年(一七一二)二月、市之瀬村を除く八ケ村、八名の代表が八ケ村惣百姓中の名で老中宛に訴状を提出している。質地回復の要求に変りはないが「相対済まし」以外による打開の裁きを期待してのものであった。市之瀬村の不参加は、落伍ではなく、前回投獄の受難に遭った村であり、他村から寄せられた特別配慮の結果と見るのが至当であろう。また第一回よりも代表者が少ないが、前回の大量派遣からまだ日が浅く、資金の調達に限度があったのではないかと思われる。
 訴状は非常に長文で、第一回のときの三倍近い文字で綴られ、十四の項目に分れているが、その殆んどは大庄屋と代官による悪政を悉く暴き糾弾した内容である。
 横暴・冷酷・狡猾な支配の具体的な列記は、その一つ一つに憤りを覚え、驚きの連続であるが、次の項目には絶句した。
「三郎太夫申され候ハ 両谷(九ケ村)之田地や十年ハあらし申候ても我等方より年貢ハ斗(立替て一括上納の意)殿江さゑ御損かけるハくるしからす 又両谷之百姓はしころし(餓死)てもかまいなしと申されめいわく仕候事」。
その他の記述で注目されるのは、村々の庄屋たちの動揺ぶりである。従来から百姓と一体であり、その代弁者であったのが、大庄屋の恫喝と、懐柔により、次第に大庄屋側に傾きつゝある様子が窺える。
 紙面の都合で、原文転記ができないが、概ねたどたどしく、時には感情的とも思える文面が、最終的には木に竹を接いだどとく流麗な文章に一変している。「当時の江戸には、訴状の代書人が居た」との識者の教示を裏づけるものであ
ろう。
 遺憾ながらこの訴訟の結末も、前回と変らぬ相対済しの裁許に終り、百姓の失意、落胆の程が偲ばれるが、咎人が一人も出なかったのが、せめてもの救いであったと思われる。
 (四) 第三回越訴
第二回に続いて同年十二月中旬以降か翌年(正徳三年 一七一三)正月早々、市之瀬、水梨、辻の三村から九名の代表が江戸へ走った。既にこのとき九ケ村は、騒動収拾の段階であったゝめ、三村挙っての支援体制ではなく、二十六人による同志集団の代表であった。
 この様子を伝えるのは訴状ではなく、各村々の庄屋と年寄十八名が、連署して代官に提出した「返答口上之覚」である。上林騒動も一件落着と信じていた代官が、又々の訴人出発に驚いて、各村に説明を求めたのに答えた報告書である。
騒動収拾には、質地回復の要求放棄が前提とされたため、到底承服できず、あくまでも田畑の取戻しを求めた集団であったが、越訴の結果は全く不明である。
いっぽう村内では、騒動収拾のため、上林郷内の他領から招いた二人の曖(アツカイ)人も交えて(園部藩真野村 源内、旗本藤懸領井根村 藤兵衛)、終未処理に当っていた。
農民たちが大きな期待をこめ、村の総力をあげて取組んだ越訴であったが、なんら報われることなく、心ならずも余儀ない幕切れとなったのである。
その原因として先づ考えられるのは、予想以上に厚い権力の壁や、資金と動員力が、限界に達した訴訟疲れであるが、各村庄屋たちが農民から離れ、事実上では、支配機構の末端要員として、農民に対し「諦めて鉾を収める」説得をしたことが、最も大きな原因であろう。たとえば籠舎にある安右衛門の釈放や、村中頭け十八人の、赦免についても、「土地返還を諦めれば、嘆願書の提出が可能かも知れない」と説いて懐柔の具にしている。大庄屋に籠絡された結果と思われるが、次に抜粋転記の「返答口上之覚」の末尾には、その変身ぶりが端的に現われている。「今度又々御上をも憚らず違変之御訴訟申上られ候百姓廿六人之者共心底不屈ニ存奉り候此之外相残ル百姓ハ段々私共差図之通り承引仕り 御救米頂戴仕り有難く存奉り、何之申分も御座無く罷在候 以上」


終りに
籠舎の安右衛門や、村中預けとなった十八人の後日については、何も伝っていない。それにしても、最後まで強い姿勢であった二十六人は、その後どうなったであろうか?、好結果を得たとは到底考えられず、後々までも村内に対立や、感情のしこりを残したのではなかろうか。また、江戸へ大量派遣した代表のため、異常に膨らんだ経費の調達には、どんな方途があったのか、窮状打開のための出費が、その後の村の疲弊に、一層の拍車をかけたことであろう。
ともあれ、この越訴は、年貢の減免、その他を求めながらも、基本的には「質地返還要求の一揆」として把握すべきであろう。
全国的にも、農民の土地ばなれが、雪崩現象となり、村内の階層分化が著しい中で、各地に一揆が多発したが、殆んどが同質のものであった。ちなみに、この第三回越訴の僅か十年後には、越後や出羽の国に、周知のごとく、「超弩級の質地顔動」が勃発したのである。 以上
(『両丹地方史』(1998.10))



十倉中町の伝説


薬師如来の伝説
十倉の中筋にある薬師如来は、元は今の所でなく向の方にあった。或る時薬師如来が善兵衛と言う人をしきりに呼ばれたので、善兵衛は不思議に思ってゐると、其れは夢であって、ふと目が覚めた。それでもおかしい事があればあるものだと思って、河原の方に行くと一人も乞食が薬師如来様を負って逃ようとする所であった。善兵衛に発見せられて持って逃げる事が出来ず、河原に薬師如来ょ捨てゝにげて行った。善兵衛がそばによってよくよく見ると、今までこの薬師様の特徴であった目り上に立派な金のほくろが入れてあつたのに、其の乞食がとったものか無くなってゐた。それから今の場所に祭ったのであるが、乞食のとつたと言ふほくろのあとは今も残ってゐる。
(『口上林村誌』)


薬師と善兵衛   綾部市十倉中町
綾部市十倉中町森に、小さなお堂がある。中には薬師さんがまつられており、お堂の周りには、穴のあいた石がたくさん針金や糸でつるされている。お堂の中の薬師さんは、ひたいと頭のところにぽっかり穴があいている。この穴のいわれは--。
昔むかし、十倉村(いまの綾部市十倉中町など)に善兵衛さんという「名は体を表す」の見本のような善良なお百姓さんがいた。
村のはずれには昔、薬師なる(成)といって薬師堂があり、立派な薬師さんがおまつりしてあった。信心深い善兵衛さんは、いつも欠かさずこの薬師さんをお参りし、毎日仕事に精を出していた。
ある晩「善兵衛、善兵衛」とまるで自分に助けを求めているかのような薬師さんの叫び声。善兵衛さんは、ハッと目が覚めた。
「ああ夢だったのか」
善兵衛さんはホッと胸をなでおろしたが、どうも何かひっかかる。雪が降りそうなはだ寒い夜だったが、善兵衛さん、ひとりで村はずれのお堂を見て回ろうと寝床を抜け出した。途中、河原に差しかかると、向こうの方になにやら金色の大きなものが、ススキの中をスタコラ横切っていくのが見える。月明かりを通して、よく見ると、それはまぎれもなくお堂の主の薬師さん。善兵衛さんはびっくり仰天。しかし、よくよく見ると、一人の男が薬師さんを背負っているのだった。
「こら待て、ドロボー」
善兵衛さんは、自分でも驚くほどの大声を出して、真っしぐらにドロボーの後を追った。ドロボーは、一目散に逃げようとしたが、大きな薬師さんを背負っているので、思うにまかせない。とうとう薬師さんを捨てて、脱兎のように逃げ出した。善兵衛さんも追っかけたが、その逃げ足の早いこと。とうとうあきらめ、薬師さんのところへ引き返した。
「ああ、もったいない」と、薬師さんを拝むと、薬師さんのひだいと前頭部の真ん中にある、白毫と肉髻を表した水晶玉が無くなっている。お痛わしや-と、あたりをくまなく捜したが、どこにも見当たらない。
あくる日、善兵衛さんは村人とともに、薬師さんを、元のお堂に再びおまつりした。その後、お堂の場所はあちこち変わったが、いまもお年寄りたちの信仰を集めている。
このお堂の近くに住む渡辺融さんは、「私が子供のころからお堂のわにぐちをたたく音をよく聞いたもんです。春、木の芽が芽ぶくころ、田楽を供えて祭りをしました。耳の霊験があらたかといい伝えられており、耳の不自由な人が耳を形取ってるんでしょうか、穴のあいた石をそなえていました。いまも、その石がお堂の周りにたくさん残っていますよ」と話してくれた。
〔しるべ〕善兵衛さんは実在の人物らしく、このお堂を所有・管理している俊久家の系図には三人の善兵衛の名が見える。このうち最初の渡辺善兵衛秀綱がこの話のモデルらしい。寛文十二年(一六七二)四月没という。
(『京都丹波・丹後の伝説』)


十倉のみこ桜。口上林村字十根十倉区のみこ谷にあり。地方みこ桜と称し、名木とす。開花の頃は美しけれど、山谷なるを以て観客なし。幹の周囲三・一米突。樹勢盛んにして郡内屈指のものたり。
(『何鹿郡誌』)


十倉のみこ櫻
口上林村十根十倉区のみと谷にあって、地方でみこ桜といふ、名木としてゐる。開花の頃は見事であるが、山谷であるから観客も尠ない。幹の周囲三・一米樹勢尚盛んなもので郡内屈指の桜である。
(『口上林村誌』)





十倉中町の小字一覧


十倉中町
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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