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十倉志茂町(とくらしも)
京都府綾部市十倉志茂町



十倉志茂町(坂根正喜氏の航空写真070719)

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京都府綾部市十倉志茂町

京都府何鹿郡口上林村十根

十倉志茂町の概要




《十倉志茂町の概要》
上林川下流右岸に位置する。集落は北部の山すそに立地。
戦国期には波多野氏傘下渡辺九郎左衛門の知行地、のち山家藩領を経て、寛永5年からは旗本十倉谷氏知行地。
明治元年久美浜 県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年十根村の一部となる。
十倉志茂町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。


《十倉志茂町の人口・世帯数》 81・31


《十倉志茂町の主な社寺など》

壱鞍神社

府道1号線から山側へ参道が続く。案内板↓


寺社調査届
       何鹿郡口上林村
              壹鞍神社
一所在地 京都府丹波国何鹿郡口上林村大字十根元十倉区小字西赤坂
一社 名 村社 壹鞍神社
一祭 神 木花佐久耶比売命
一事 由 創立ノ年代及征古ノ沿革等ハ敢テ知ルニ由ナシト雖応永三十四年六月十九日ノ夜か灼々タル光輝上林川筋ニ顕ハレ十倉山ノ麓ニ至テ止マル皆奇異ノ恐ヲナシ其翌黎明到リ見レハ奇ナル哉一個ノ神像川中ノ鞍石ト称スル石上ニアリ皆吉瑞トナシ村民協議ノ上其西側即十倉山ノ麓ニ地ヲトシ一祠ヲ建設シ壹鞍大明神ト称ス其秋九月八日洪水アリシモ幸ニモ流出セス加之減水ノ後彼ノ鞍石ニ神幟一流附着シアルヲ以テ神為トナシ彼ノ祠守ニ藏ム是ニ由リ六月十九日ノ夜及九月八日ヲ以テ祭日トナス後数回ノ神瑞神夢ニヨり大亀二年陂下即今ノ西赤坂ノ地ニ移ス当時十倉九郎左衛門入道浄金ノ所有地タり是ヨリ先本対ハ八幡宮ヲ以テ氏神トナセシカ当社ノ霊験顕著ナルニ感シ是ニ至テ終ニ氏神トナス又当社移転ノ際迄ハ阪本村ト称セシモ十倉ナル地ヨリ移シテ氏神トナスヲ以テ村名ヲ十倉ト改称ストノ文書及前記ノ神像神幟等寛政十年兵火ノ際迄ハ殿内ニ在リシ由古老ノ口碑ヲ在ス之ヲ現今ニ徴スルニ今猶六月十九日ノ夜ヲ以テ例祭ヲ行ヒ九月八日ヲ以テ中祭日トナス
又該山ノ小字ハ改称スルモ今ニ本区ノ人民倍ニ十倉山卜称スル事殆一般ノ習慣ナリ仍彼ノ昔時ノ氏神八幡宮ハ近年迄村民祭祀セシカ今ハ一信者ノ私祭社ニ属セリ又彼鞍石ハ百余年前迄ハ注連縄ヲ張リ不浄ヲ禁セシ事是亦古老ノ伝説アリ而メ永正十四年以来ノ沿革ハ右文書中稍見ルヘキモノアリ左ニ其文ヲ記ス
    十倉壹鞍大明神
夫当社壹鞍大明神ハ十倉藏石へ往昔清浄何時トナク流来テ止り和光ノ光ヲ現シ給フニヨり彼所ニ御社ヲ建立シテ壹鞍大明神ト敬尊ス彼鞍石今ニ河中ニ在り其後十倉ヨり阪下ヘ発光度々阪下ヘ移シ奉ツレトノ御夢相重ナル故是故無拠十倉九郎左衛門入道浄金ト申人ノ代ニ阪下ニ移シ奉リ崇ン又其後御社末社迄悉焼亡スト申伝ナり抑今ノ神社ハ十倉九郎左衛門貞理ト申仁ノ代永正十四年丁丑三月廿五日ヨリ御普請始リ同十六年巳卯卯月廿八日ニ成就シ崇ル大工ハ江洲東阪本九郎貞国ト申者ニテ御座候其後文禄貳年癸己三月十五日ニ御上葺仕候此本願人ハ当村高貴山如是寺住持藏主也但シ米貳石出ス其時ノ領主石川備後守様ヨり永代壹石貳斗ノ所御寄進同貳石備後守様ノ上様同貳石御代官後藤又兵衛其子勝太郎親子寄進シ今ニ御内陳ヨリ書付御座候       以上
元禄七甲戊年二月初八日



壱鞍神社(綾部市十倉志茂町西赤坂)
国道27号、綾部市山家を北上して上林地区の十倉志茂町の左山麓に鎮座する古社。背後の山を惜景にして素晴らしい景観の神域が目に入る。創建時は応永元年(1394)。
現在の社殿は大政6年(1823)。一間社流れ造り。
祭神は木花佐久耶毘売命(コノハナサクヤヒメノミコト)向拝には宝珠をしっかり握り、珍しく髭は木で作られている小型の竜がまず目に入る。すぐ上には力士が梁を持ち上げている。木鼻は唐獅子と象がしつらえられているが、ここでは本殿の周りにも8頭の象が元気よく並んでいる。手挟みはなかなか手の込んだ牡丹の彫り物である。2頭の唐獅子も目に入る。本殿左右の上部には、長寿を祈念する鶴と亀が躍動している。さらにその上部には牛と馬(龍馬すなわち麒麟)が彫られてる。兎の毛通しの鳳凰も立派だ。左の脇障子は虎の上に乗る仙人、右のそこには昇竜と仙人が見てとれる。6代目中井権次橘正貞の秀作。


一鞍大明神    十倉村 産神
祭ル神    祭礼 六月廿日
拝殿 一二ノ鳥居 森凡一町四方
(『丹波志』)

壹鞍神社。口上林村字十根小字赤坂にあり。村社にして木花咲耶姫命を祭る。現在氏子一五六戸、十倉区の全部之の属す。例祭は十月八日。
(『何鹿郡誌』)

壹鞍神社
一、所在地 何鹿郡口上林村大字十根小字西赤坂(志茂)
一、祭 神 木花佐久耶毘売命
一、事  由 創立の年代及往古の沿革等は敢て知るに由なし、應永元年六月十九日の夜灼々たる光輝上林川筋に顕はれ、十倉山の麓に至りて止まる。皆奇異の思をなし、其翌黎明に到り見れば、奇なる哉一個の神像川中の鞍石と称する石上にあり、皆吉瑞となし。村民協議の上其西側即十倉山の麓に地をトし、一祠を建設し、壹鞍大明神と称す。其の秋九月八日洪水ありしも幸にして流失せず。加之減水の後彼鞍石に神幟一旗附着しあるを以て神為となし、彼の祠中に藏む。是に由り六月十九日の夜及九月八日を以て祭日となす。後数回神瑞神夢に由り文亀二年陂下即今の西赤陂の地に移す。当寺十倉九郎左衛門入道浄金の所有地たり。是より先き本村は八幡宮を以って氏神となせしが、当社の霊験顕著たるに感じ、是に至って終に氏神となす。又当社移転の際迄は阪本村と称せしも、十倉なる地より移して氏神となすを以て村名を十倉と改称すとの文事及び前記の神像神幟等寛永十年失火の際迄は殿内にありし由、古老の口碑に存す。之を現今に徴するに今猶六月十九日の夜を以て例祭を行ひ、九月八日を以て中祭日となす。又該山の小字は改称かるも今に本区の人達俗に十倉山と称すること殆ど一般の習慣なり。扨て彼昔時の氏神八幡宮は近年迄村民祭祀せしが、今は一信者の私祭社に属せり。又彼鞍石は百余年前迄は注連縄を張り、不浄を禁ぜしこと是亦古老の伝説あり。而て永正十四年以後の沿革は古文書中稍々見るべきものありたるに付き其の文を記す。
   十倉壹鞍大明神
夫れ当社壹鞍大明神は十倉鞍石へ往昔清浄何時となく流来りて止まり、和光の光を現し給ふにより、彼所に御社を建立して壹鞍大明神と敬尊す。彼鞍石今に河中に在り其後十倉より阪下へ発興度々阪下へ移し奉つれる、御夢相重なる故是故無拠十倉九郎左衛門入道浄金と申人の代に阪下に移し奉る。又其後御社末社迄悉焼亡すと申伝なり。抑今の御社は十倉九郎左衛門貞理と申仁の代、永正十四年丁丑三月二十五日より、御普請始まり同十六年巳卯卯月二十八日に成就し畢る。大工は江洲東阪本九郎貞国と申者にて御座候。其後文禄貳年癸巳三月十五日に御上葺仕候。比本願人は当村高貴山如是等住持藏主也但米貳石出す。其時の領主石川備鎮守様より永代壹石貳斗の所御寄進、同貳石備後守様の上枝、同貳石御代官後藤又兵衛其の子息勝太郎親子寄進し、今に御内陳より書付御座候。   以上
   元禄七甲戌年 二月初八日
寛政十庚申十月二十三日御殿焼失、古宮殿棟札之写
大工江洲東阪本九郎貞国
根元宮殿焼失に付永正十四年丁丑三月二十二日より御普請始同十六巳卯四月二十八日成就
本願人九郎左衛門入道浄金の男十倉九郎左衛門貞理
内棟左の桂  西の柱  内棟戸平
貞理女子大安の上様 貞理男子小市 河畑源兵衛上様
貞理女子、 同野の上棟 表の柱 同戸平
五百文、日円寺、眞理男子、民部公 十倉新上様
裏の柱  西の柱 面こうし
貞瑚男子 宮寿丸 貞理女子 小物
酉の年谷の父
五百文、 同上棟内棟右の柱
百文、日円寺東坊 貞理男子 布市 孫一郎
同貞理女子有福上様
永禄貳癸巳三月十五日上葺成就高貴山如是寺米貳石出す。
御領主石川備後守様より氷代壹石貳斗の所寄進貳石同上様
    貳 石   御代官   後藤又兵衛
           子息     勝太郎
右寛永七甲戌二月七日棟札御改に付指上る写也
           庄屋    理 兵 衛
           庄屋    孫三左衛門
 当御領主谷主永様へ上る
右二者を対照するに永正十四年以降の沿革略相似たり。只前者は永正十四年三月二十五日より普請に着手すると云ひ後者は永年十四年三月二十二日となす何れが是なるを知らずと謂僅か三日の差異而巳。又上葺は前は文禄二年癸巳三月十五日となし後は永禄二癸巳三月十五日となす之を按ずるに文禄二年は干支正に癸巳にして而め永禄二年は巳未なり依て文禄二年なること判然たり。扨寛政十庚申十月御殿床下より出火内陣悉失し、所伝の神器神像古文書皆灰燼に帰す。是より先き後藤又兵衛の所作なりと伝説する木像の神躯あって但に奉祀せしが、失火の際も独是のみ焼失に至らず、纔に頭部及片袖を失ふ其他焼く損すと雖全く其形を失はず、是に於て新に神像を彫刻して以て祀るべしや否や、神慮を伺ふも焼損の儘斎くべしとの託宣により、之も奉斎すること古書に散見す。此り神像今猶存在せリ。後文政六年癸未六月再建工事竣工の由なり。現存する社殿は此時の建築に係るものなり。是より先文化元年十一月十三日神祇管領ト部退連にて官職のことあり。明治十六年社寺御調査の節、村社壹鞍神社となる。又彼石川備後守の寄進に係る田面は今猶当社の所有にして維新の際迄は免租の地たり。又西赤陂今の社地は寛永十四年三月十一日村内の共有地と交換せし由、証書今に残れり。又鳥居に掲げる所の額面神号は佐々木岸柳の墨迹なりと伝説す。而め古く正一位壹鞍大明碑と号せり。(以上記録元文)
一、建物
社殿 梁行七尺五寸 桁行六尺 此坪数壹坪二合五勺
 文政六年六月建築
境内末社大神宮 梁行二間一尺 桁行二尺七寸 此坪数九合七勺
 文亀二年創立 文政六年六月建築
同 八坂神社 梁行二間一尺 桁行二尺七寸 此坪数九合七勺
 文亀二年創立 文政六年六月建築
同 若宮神社 梁行一尺八寸 桁行一尺五寸 此坪数七勺
 建築年代不詳
休憩所 梁行二間 桁行七間半 此坪数 拾五坪 昭和九年取こわし
社務所 梁行三間 桁行七間 此坪数 貳拾壹坪 昭和九年建築
一、境内地 地種官有地第三種 坪数貳千貳百五拾九坪 位置山麓
一、境外所有地
田反別壹反四畝〇五歩 地価参拾四円四拾九銭八厘
畑反別四畝拾歩    地価  五円七拾八銭七厘
山林反別壹反二畝貳拾五歩 地価 拾九銭八厘
(現在農地法による処分済)
一、例祭日  十月八日
一、氏 子 壹百五拾八戸
(『口上林村誌』)




鞍岩
壹鞍神社の元々の鎮座地で、境内に案内板がある。

鞍岩(くらいわ)の伝承
凡そ今より六百年の昔応永元年(一三九四)六月十九日洪水の夜、壹鞍神社の神様が濁流に押し流された。ところが幸いな事に川の中にあった馬の背の形をした岩のところでやつと止った。神様ははい上がろうとして岩に生えていた『うらじろ』をつかんだが、抜けて上がれなかった。そこで神様は『ささ』をつかんで岩の上に上られたと言い伝えられている。
村人は岩の上にあった神像を十倉山の麓に祠を建て壹鞍大明神としてお祭りし、此の神聖な地を鞍岩と呼び、しめ縄を張り不浄を禁じたのである。
昭和五十四年七月十九日  氏子総代謹書


鞍が石
大昔、大洪水があった其の時、壹鞍神社も浸水して流された。ところが幸ひ鞍石(今僻ほ存す)のところに止った。其の時、神様は、岩にあるうらじろをつかんで、上らうとせられた。すると其のうらじろが抜けたので上れなかった。神様は今度は笹をつかんで上らうとせられた。笹は抜けなかったので上にあがられた。それから後は此の村には裏白がどうしても育たなく又他から移植しても育ちません。笹はどこへ行っても多く繁茂してゐるのであると、伝えられてゐる。
(『口上林村誌』)

少し川下の上林川中にあるという、行ってみようかと思うが、途中の道には鹿除けの鉄柵、さらにチェーンで林道は封鎖してあるという。万里の長城なみの厳重さのようだし、仮にそこまで行っても鞍石が見えるのかも不明なので行くのはやめた。
左岸側には古墳もあるし、「不動滝」があるという、高さ10メートルで、『口上林村誌』は「新綾部に唯一の滝として名所となるであろう」としている。


臨済宗東福寺派高貴山如是寺

府道1号線(若狭街道)の「下十倉」というバス停の山裾。大きな赤い屋根が目に留まる。要塞を思い起こすような石垣がある。十倉谷氏の菩提寺である。案内板がある。
臨済宗東福寺派高貴山如是禅寺
本尊 延命地蔵尊
開山 安国寺第五世雲林如仲禅師
         応永二十四年 (一四一七年)
本堂焼失嘉永六年(一八五三年)九月四日
    三年後現本堂再建立
境内ノ案内
十倉領主 谷 圭計之墓
      明治元年(一八六八年)十二月二十五日没
     谷 衛久娘之墓
      慶応四年(一八六八年)七月十五日没
代官 道家家及岩本家之墓
砲術師 神田省三之墓
      鳥羽伏見の戦いにて傷つき、当地に帰り
       慶応四年(一八六八年)一月十五日没



高貴山如是寺 禅宗安国寺末 十倉村
本尊地蔵尊 鐘アリ
(『丹波志』)

如是寺 口上林村字十根なる十倉区にあり、高貴山と号す。臨済宗にして、東福寺末なり。応永二年の開基と伝へ、嘉永八年の再建にかかる。十倉谷氏の菩提所にして、寺背に谷七代の主及神田省三の墓あり。
(『何鹿郡誌』)

如是寺
一、何鹿郡口上林村大字十根小字遅谷(志茂)
一、禅臨済宗東福寺派一等地 現住職 武内洪基
一、事 由 応永二十四年東八田円村安国寺第五世前南禅雲林妙仲七大和尚創立、其後桂岩和尚中興せり。然るに嘉永六年火災に罹り、同八年大桂和尚再建す。今現存するものが之れである。
一、本尊 延命地蔵菩薩
もと恵心僧都の作で立像であったが、嘉永六年火災の際烏有に帰し、基後座像と更め京都の人山本某の作にして安置されてゐる。
一、建物
方丈 壹棟 梁行八間 桁行五間 此坪数四拾坪
庫裡 壹棟 梁行五間半 桁行三間半 此坪数拾七坪貳合五勺
 土蔵 壹棟 梁行三間 桁行二間 此坪数六坪
 納屋 壹棟 梁行一間半 桁行二間 此坪数四坪五合
 土蔵を除いては皆嘉永八年建築に係る。併し土蔵は焼失を免れ天保八年建設のものといふ。
一、境内地は山腹にして民有地第一種である。其坪数貳百参拾八坪
一、宝物
 涅槃像  壹幅  画工不詳
 出山仏像 壹幅  狩野安信筆
涅槃像は檀家渡邊伝兵衛寄附に係り、出山仏軸物は其伝来の由緒不詳であるが共に寺宝として尊重されてゐる。
一、境外所有山林 凡を一町二反
(『口上林村誌』)


水位塔

府道1号線(若狭街道)のすぐ脇。↑青い線まで水が来た。背丈より50センチは高い。後の赤い屋根は如是寺。
碑文に
昭和二十八年九月二十五日西紀の暴雨近畿の大半を浸す。特に渓谷上林森林地帯の雨量五五〇粍に達し、延々七里の上林地区は狂濤奔澤一面の泥流と化す。十倉区に於ても流失家屋五戸、床上浸水五六戸、流失橋梁三、埋没耕地四〇町歩流失井堰二、其の他水路、農道、林道等温古の郷土一瞬にして壊滅に帰す。
区民荒涼たる廃土に立ちて一時は呆然自失せるも旺盛なる愛郷心と四ヶ年に亘る臥薪嘗胆の努力は遂に災いを転じて福と成し、此郷土を復興す。
よつて記念として之を建つ
昭和三十三年五月  綾部市長 長岡誠 撰


川下側は先行谷のような地形で両側から嶮しい山が迫る狭い谷間になっている、あそこで山が崩れるとかで川をふせぐとダムになって、これくらいはすぐに達するのでなかろうか。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


十倉志茂町の主な歴史記録




十倉志茂町の伝説


長者が成る
本村の山家村に近い境の上林川の傍に、今は荒廃した小屋跡がある。人呼んで「長者が成る」、といふ。伝えいふところによると。昔近所の百姓二人が、一夜同地に黄金の埋れる夢を見た、しかも二人とも全く同じ夢であったので、二人で心当りを堀つて見ると、黄金でなくて二つの壺が出た。ふたをとって見ると朱水が充満してゐた。二人はつまらぬと思って朱水を川に流して壺だけ家に持ち帰つた。
ところが、その前夜山家に泊ってゐたある商人が朝洗面に川へ下りたところ、一面の赤い水に驚いてよく見ると朱であるので、大急ぎで持参の白木綿を水にしたしたところ、非常に美しく染つて、大いに利を得たといふ。二人は後でこれを聞いて、大いに残念がつたといふが。その壺の出た處を、「長者が成る」といふ、多分に大昔可成の長者が住居して、黄金を埋めてゐたものではあるまいか。
(『口上林村誌』)





十倉志茂町の小字一覧


十倉志茂町
境 才ケ谷 丸尾 懸行 大畠 橋ケ迫 桑迫 山谷川 肘谷 宮ノ前 野田 小仲 風呂谷 遅谷 細田 竹ケ鼻 九文田 廻り 下川原 十倉川原 後家分 下折戸 上折戸 下嶋 大農 折戸 前田 中山 千原 潰水迫 菅撓 大地ケ迫 西ノ谷 波知神谷 押ケ尾 下嶋迫 境ノ奥 赤坂 西赤坂 峠ケ谷 滝ケ谷 大栗 赤道 台ケ成 公事山 寺ノ上 十倉川原 下嶋

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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