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丹波の

戸奈瀬(となせ)
京都府綾部市戸奈瀬町


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京都府綾部市戸奈瀬町

京都府何鹿郡山家村戸奈瀬

戸奈瀬の概要




《戸奈瀬の概要》
綾部市の一番南。由良川東岸段丘上にある。すぐ西は由良川の急崖に接し、東側はすぐ山地である。南は和知町に隣接。由良川沿いに国道27号が通じる。由良川はこの辺りで最も深く谷底をうがち流れ、井坪と対岸下替地の間には「井坪滝」があったが、大正11年の水力発電所建設によって変貌している。丹後国由良湊と山城国嵯峨を結ぶ、由良川-大堰川水運計画が元禄13年(1700)、享保10年(1725)、宝暦9年(1759)、天明6年(1786)、天保元年(1830)と相次いだが、この辺りにはいくつもの滝があって、それが水運の障害になった。天保元年には井坪の岩盤掘削に着手していた、現在もこの付近の由良川河床に堀川とよぶ痕跡が残っているという(ダムの底だが)。

戸奈瀬村は、江戸期~明治22年の村。はじめ山家村のうち、のち分村独立した。山家藩領。明治4年山家県を経て京都府に所属。同22年山家村の大字となる。
戸奈瀬は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ山家村、昭和25年からは綾部市の大字。同28年戸奈瀬町となる。
戸奈瀬町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。


《戸奈瀬の人口・世帯数》 87・28


《戸奈瀬の主な社寺など》

立岩(たちいわ)

戸奈瀬側から見る立岩だが、頭しか見えない。川面が見えない。対岸は上村だが、あちら側からならさらに見えそうにもない。
国道27号線に旧国道跡のように少し広くなっている所がある、そこがビューポイントのようである。何鹿郡内の名勝とされる立岩は上原村の由良川河畔にあるが、見るのは対岸の戸奈瀬側である。

案内はいくつか建てられている。
名勝『立岩』
ここに立つ高さ三〇メートル、周囲五〇メートルの巨岩は、和知川(由良川本流)の浸蝕にによって形成され『立岩』と称される。頂きに老松茂り、脚下に『巨人の趾痕(あしあと)』や『産盥(うぶだらい)』『蟠龍(ばんりゅう)』等と言い伝える奇岩怪石を配し清流に屹立する姿は一幅の文人画を思わせる。
阿々惜しや和知の河原の崖の間に
 衛門正しく孤り立つ岩 (京の歌人一鶴翁が詠す) 綾部観光協会


立岩        上原村
同村氏神ヨリ京道二丁半斗上リ左エ二町斗下ル川辺 八間岩トモ云 高サ八間廻リ三十間斗 上ニ松木生シ有 続テ別ニ川中簿白クシテ磨タル岩也 此岩ノ段々ノ平ニ往古アフシト殿ノ産ノ跡ト云 産ノモタレ石 タキ石 着座ノ跡 子ノ寝跡 産タライ坪スリハチト云 其数多シ 諸見ル所ナリ
(『丹波志』)

立岩(所在上原町的場川原、観光所戸奈瀬町下尾、釜輪町出合の合地)
河水幾千万年の浸蝕の力の偉大さは、奇岩怪石をこの峡谷に生み天下の絶景をなす。即ち高さ二十m周囲五十mの岩上には老松雑木蔦覆い足下には、アフシト殿の産の跡といい、モタレ石・タキ石、着座の跡・子の寝跡・産だらい・坪スリ鉢・蟠竜石等の寄石をふまえ面白い姿を見せ一幅の文人画を見るようである。昭和五十七年国道ぶちに立岩レクリエーション広場をつくり、京の歌人一鶴翁の歌碑を移築した。
「阿々惜しや、和知の川原の崖の間に、衛門正しく孤り立つ岩」
(『山家史誌』)


山家駅前にこんな案内板がある。


立岩開発
昭和五十五年から立岩開発の陳情を行い、種々の困難を状況の中で「水力発電周辺地域助成金」をも充て同五十七年三月国道二十七号添いに立岩広場として完成。眼下に立岩の景勝を一望でき、京都交通のバス停と併設して乗降客、ドライバーの休憩所として大いに利用されている。ただ、惜しむらくは「立岩」の本当の姿が見えないことで、将来の開発計画の中で、由良川の岸辺まで降りて、奇岩と老松を仰ぎ見る日の一日も早いことを願うものである。
(『山家史誌』)


天清三神(あますがさんしん)神社
探せども見当たらず、写真はなし。この社も斎神社であったという。
四級社天清三神神社 祭神大日霊貴尊、素盞嗚尊、月夜見尊 戸奈瀬町(戸奈瀬)段ノ尾五 境内七六〇㎡
祭日旧九月五日。御神鏡銘には廷喜二〇年(九二〇)の年号あるが不詳。寛政元年(一七八九)斎神神と言っていたのを天清三神大明神の称号をうけた。明治二十年社殿再建。明治二十七年鳥居改築。大正三年燈籠を氏子中で奉献。大正十二年広瀬浩義兄弟で狛犬奉納。昭和十一年三神殿(天満宮・八幡宮・厄神武内宿祢)を奉祀する。昭和三十五年社殿篭堂瓦ぶきにする。昭和六十年社殿鳥居参道の修復をする。一月十八日厄神祭を行う。
(『山家史誌』)


その他の神社
○御神神社 祭神玉之至命 戸奈瀕町(井坪)家ノ後七〇-一 境内三六六平方m 祭日旧九月五日
縁起不詳だが初め川上大明神と称して、井坪最寄の氏神として祀る。寛政元年(一七八九)神子屋建替。
昭和八年鳥居石段玉垣建設し山の神をまつる。昭和三十五年屋根ふき替え。
○弁財天宮 祭神女神弁才天 戸奈瀬町(井坪)弁天橋横 祭日さのぼりの日
和知川七福神のはなしでは、下山の毘沙門天、才原の恵美須神はあるが後は不明。寛文元年(一六六一)山家第二代藩主谷大学頭衛政公この他に遊び、雄滝雌滝の井坪滝を背景に川中の松岩島の絶景を賞し、この岩島に弁才天を勧請し祭ったといわれている。この島を弁天島と言ったが、大正十一年由良川発電所の一大ダムが建設され、昭和二十八年の大洪水により堰堤の危険状態から、弁才天宮を現在地に遷し岩島を爆破して取除いた。
○不動社 祭神不動明王 戸奈瀬町(井坪)永迫一ノ三 境内二〇〇㎡ 祭日二月十六日
縁起不詳。社と言っているので神社に入れた。お不動さんのお水と言って、はやり病に霊験ありという。
〇稲荷神社 祭神倉稲魂命 戸奈瀬町(栗林)丸山四六ノ一 祭日二月初午・六月九日 境内二六六㎡
稲荷山と呼んでいるが昔館(山城)跡ではないかと思われ、館神としてもお祭りしたのかと思われる。伏見稲荷の勧請。昭和三年御大礼記念に林武平治金幣奉納。昭和二十八年忠霊塔建立。昭和二十九年神殿倒壊により御殿改築、篭堂を廃し国道沿いに栗林集荷場とする。末社として愛宕神社・秋秦神社を祭る(火伏の神迦具土神)
○山の神 戸奈瀬町(栗林) 火の谷
(『山家史誌』)



臨済宗妙心寺派心宗山興源寺(廃寺)
心宗山興源寺 禅宗山家覚応寺末
                戸奈瀨村
(『丹波志』)

△心宗山興源寺 禅宗臨済宗妙心寺派覚応寺末 戸奈瀬町 (戸奈瀨)寺ノ下二 此除地五八六㎡
本尊釈迦牟尼仏。昔は曹洞宗徳泉寺と言った。開基は道元助公禅師で応永二十一年(一四一四)八月二十五日に死す。その後禅宗で心宗山興源寺と称して、開山を芳萼祖英禅師で寛文九年(一六六九)正月四日死すとなっている。安永年間堂宇焼失し覚応寺の助けをかり、安永九年(一七八〇)十二月四日再建する。
昭和十五年九代住職鈴木興山師舞鶴へ出稼ぎにより無住となった。檀家四〇戸では維持困難となったので、昭和十九年一月廃寺手続し、二月梅林寺興源寺担徒総会で合併を決議す。昭和二〇年十二月京都府指令第九六一号により合併認可を受け、昭和二十一年一月十日梅林寺に合寺した。

△薬師堂 戸奈瀨町(井坪)家の後七〇の乙  六三㎡
 宝暦年中一一七五一~六三) には1二間四面のお堂に小さな厨子あり」と丹波志にのっているが薬師そばの地名が残っているだけである。
△観音堂 戸奈瀬町(栗林) 観音尾二ノ七  三一〇㎡
本尊の観音像の行方については、照福寺とか観音寺(福知山市興)とかいわれているが不明である。釜輪町古峠に「となせくわんのん」の道標があり由緒あったものと思われるが不明、今はただ「観音尾」の地名と堂跡の平地と手洗鉢を残す雑木林となっている。
〇二子谷供養塚  戸奈瀬町(井坪)永迫二(旧京街道縁)一〇㎡
「奉納大乗妙典六十六部日本回国、為道悟行者菩提也、世話方当邑治郎兵衛、天保四癸巳年(一八三三)一月吉日」の石碑がある。言伝えによると近所に六郎行者の行き倒れがあり、その人は沢山の全子を持っておった。村人は哀れに思って埋葬し供養したということである。昭和六十一年七月三重県の憎の自殺事件もあった所。
「大乗妙典一宇一石供養塔、丹後与佐郡温江村常栖寺請、願主智光禅尼」の石碑もあるので、常栖寺を尋ね住職的場哲道師に調べてもらい、それらしき尼の墓所「智光貞心尼首座」の石碑も案内してもらったが、くわしいことはわからない。
〇登尾口供養塚 戸奈瀬町(栗林) 登尾二 一三㎡
明治二十年頃綾部市場線の府道工事が計画されてより、京街道の半六坂登り口緑にあった塚を当時庄屋の土地に移せというので林株の祖先銘石板入りの石厨子と共に現在地に移され、石厨子、地蔵、五輪等多数あり。「奉納大乗妙典六十六部日本回国、文政九年(一八二六)二月吉日、当村住人林清良兵衛」の大石碑が建立されている。
(『山家史誌』)


《交通》
由良川-大堰川の水運
由良湊より京嵯峨までの通船
江戸時代初期、封建支配体制が確立するにつれて、大坂・江戸へ人口が集中し、それにともない年貢米の大坂・江戸への廻送の必要が高まってきた。ことに西廻航路が開かれるにおよび、奥羽・北陸の物資が大量に大坂方面へ運ばれるようになり、また京大坂の先進地の商品が、北国方面へ販路を広げるようになった。
そうした情勢の中でさらに有利な物資輸送路として、由良川・大堰川を結ぶ交通路が考えられてきたのである。

大堰川は慶長十一年(一六〇六)角倉了以によって通船路が開かれ、角倉役所の管轄のもとに丹波の物資を京都に送っていた。幕末には上流の殿田村に九艘、世木中村に六艘、と川舟をもって輸送にあたっていたことが記されているから、寛永のころには殿田あたりまで水路が開かれていたものと思われる。(南桑田郡誌)
一方由良川も江戸時代初期から、福知山より下流の舟運が相当に発達していたと思われる。この由良川と大堰川を結ぶ通船を願い出た最初は、元禄十三年のことである。「綾部藩役所日記抜書」によると
   元禄十三庚辰年
   当地川舟通し之願ニ付 辰四月江戸御屋敷へ すわ町半左衛門 駒かた彦三郎 横山弥兵衛 罷越以
   口上書奉願覚
   乍恐以口上書御訴訟申上候
 一、丹後国由良湊ヨリ京嵯峨迄之川舟通路之事 先年ヨリ数多願申上候者共御座候へ共 此川通之事ハ田地懸
    り水之為所々ニ井堰をヒ仰付ヒ差閊闘候二付 出舟通路之義不ヒ仰付候段奉存承御尤ニ奉存候御事
    今度拙者共奉願候ハ 秋八月ヨリ二月迄田地用水入用無御座間 いせきを明 小舟之通路為仕度奉願候
    二月ニ罷成候ハ拙者共自分入用金を以いせきを如本之仕立 御領内懸水手支無御座跡様ニ仕立可申候
    尤何程之御入用御座候共 百姓中 心ニ叶申候様仕立可串候御事
 一、右奉願候通ヒ為仰付ヒ下候ハ 為御運上壱ヶ年ニ金三百両宛 舟働仕候内向ヶ年ニテモ毎年上納可
   仕候 其上川通シ村々へも相対仕 百姓中勝手ニモ罷成候様可仕候 ヒ仰付ヒ下候得ハ京大坂ハ不及
   申諸商売人其外万民之御救ニモ罷成可串儀と恐ながら奉願候 ヒ為仰付ヒ下れハ難有可奉存候 以上
     元禄十三年辰四月廿八日
                            訴訟人仲間
     御地頭様御内
      御役人衆中様
①秋八月より二月まで井堰水不用のときだけ井堰を明けて舟を通したい、井堰は自分の方で元通りにする。
②この通船を許可されたら、運上金を一年に三百両宛上納する。川通しの村々へも百姓中の都合のよいようにする。
という要旨である。
綾部藩としてはあまり乗り気でないようすで、園部・山家の両藩同様に、重役は会わず大庄屋に会わせてようすを聞かせている。実現の可能性について疑点があったのかもしれないが、それにしても運上金が年三百両とは大金である。福知山一七軒の株舟持が合わせて年に銀拾枚の上納であるのに比し、あまりにも大きい気がする。しかし一面、台頭した商人層の大きな事業家的意欲が見られるともいえよう。
   享保十乙巳年
   丹後由良湊ヨリ嵯峨迄川筋通船之願人有之由ニテ 大津御代官桜井孫兵衛様ヒ仰付 川筋見分有之由
   先達御通り之道筋ヨリ段々人足等之義申来候
   依之近辺聞合ニテ取斗候様 大庄屋へ申付候
享保十年にもこの計画があったことがわかる。この通船路について最も具体的に準備が進められたのは宝暦年間の京都商人長柄屋治兵衛によるものである。長柄尾治兵衛は宝暦九年(一七五九)に綾部藩に通船について願いでており、それより各関係者と折衝を重ねたものとみえ、宝暦十一年には川筋村々の承諾をとりつけるところまで運んでいる。野田町朝子氏蔵の資料によると、計画は嵯峨川筋-船井郡殿田まで舟運、それより陸送を同郡黒瀬村まで、黒瀬より由良湊まで由良川舟運、という経路で、其間の村々に対する諸条件、井堰・綱引道・船着場から船頭の行い、怪我等にいたるまで細かい配慮を示している。それに対して沿岸村々の庄屋は、さしつかえないと次の承諾書を長柄屋に出している。
     通船為取替証文之事
 一、此度丹後国由良湊ヨリ山城国嵯峨川筋迄通船ヒ成度趣京都御奉行横江御願ヒ成候由ニ而 当所川筋村々
   対談致候処 其元ヨリ御差出し請取置候 為取替証文表之通ニテ指障等も御座有間数ヒ存候ニ付 川筋村
々納得仕候 (中略)
 右之通外ニ指支等も無之被存候ニ付 京都御免被為 仰付候上ハ御勝手ニ通
 船可被成候 為後日為取替証文仍而如件
    丹波国何鹿郡綾部村之内 野田村 年寄 重右衛門印
                 同  庄屋  宇兵衛印
                新宮村 年寄 助右衛門印
                  同  庄屋  利兵衛印
宝暦十一巳六月十三日      味方村 年寄 庄右衛門印
                 同  庄屋 武右衛門印
                青野村 年寄 太郎右衛門印
                  同 庄屋 四郎右衛門印
                井倉村 年寄 六右衛門印
                 同     仲兵衛印
                坪ノ内村 年寄 小兵衛印
     長柄屋         大庄屋  勘兵衛印
       治兵衛殿      同 町年寄 利兵衛印
                   大庄庭 半右衛門印
この大計画もついに実現しなかったが、理由はどこにあったのか明らかでない。資料の中から感じとられるのは、自給自足を本体とする封建体制の中で適当でないとして、京都奉行の方で許可しなかったのではないかと思われることである。
しかしこの通船計画は後にもうけつがれ、願書が出されている。
 「綾部藩役所日記抜書」によると、
   天明六丙午年(一七八六)
   舟廻し丹波辺願人 東叡山領武州豊嶋郡三河嶋村百姓三郎兵衛方ニ居候与惣右衛門義 丹後国由良湊
   ヨリ丹波国黒瀬村迄右川筋新ニ通船相始 諸荷物引受 黒瀬村ヨリ殿田村迄陸送致 同国殿田村ニテ角倉
 鍋八郎家預高瀬舟へ再積いたし 城州嵯峨迄為積登(中略)
 先荒〃右之通申来候ニ付 郡万へ写しヒ差遣候
武州の百姓がどうしてこういう通船計画を願い出たかはわからないが、長柄屋の計画を受けついでいるように思われる。
『綾部町史』によると、文政十三年より天保三年にかけて、由良川上流の戸奈瀬村井坪の川の開さくをしたと記され、現にここと和木のところに開さくのあとが残っている。山城への通船計画の一部が実施されたことをしめしている。
ともあれ、元禄十三年より天保三年までの一三〇年間に、四回もこの計画が立てられ進められかけたことは、水運史上特に注目されるところである。
(『綾部市史』)


《産業》


《姓氏・人物》


戸奈瀬の主な歴史記録




戸奈瀬の伝説


『山家史誌』(イラストも)
杵が転げる
昔からこわいものとして「地震・雷・火事・親爺」があげられてきたが、戸奈瀬町では、子供がぐずると「山から杵がころげる」といって、「つちのこ」が尻尾を咥えて、丸くなり、山からころげて襲ってくると怖れられた。また東山町では「すきのとこ」(鋤の床」とも伝えられる。







戸奈瀬の小字一覧


戸奈瀬町
井坪谷 一ノ谷 上ケ成 下ケ成 家ノ後 浅黄尾 寺ノ下 孫三谷 西ノ小田 道ノ上 道ノ下 木坂 四ツ町 迫ノ手 丸山 ニッ石 小屋ノ木 松原 野田 シボラ 小松尾 永迫 段ノ尾 戸奈瀬谷 火ノ谷 込山 登り尾 観音尾 井坪大畑 込太後峰 知功畑 流尾 伊良谷 地蔵側 新治屋敷 水梨 中尾

『山家史誌』
戸奈瀬町
戸奈瀬村、昔に渡無瀬と書いた文書あり、字の如く渡る瀬もない山峡の村だった事からこの地名が付けられたのでないかと推測される。


関連情報






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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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