佃(つくだ)
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京都府綾部市佃町 京都府何鹿郡口上林村佃 |
佃の概要《佃の概要》 このあたり上林川は山間を蛇行して流れ、その沿岸の河岸段丘上に集落が立地する。上流は忠村、下流は武吉村に続く。 佃は、戦国期に見える地名で、丹波国何鹿郡上林荘のうち。永禄5年9月7日の赤井時家折紙安堵状写に「上林庄下村之内久元番・同佃分等事」とあり、十倉九郎左衛門入道に安堵している。 近世の佃村は、江戸期~明治7年の村。はじめ旗本藤懸永勝氏知行地、のち旗本城下藤懸氏知行地、元禄2年から一部が旗本小山藤懸氏知行地となる。 明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年忠・武吉両村と合併し建田村となった。 佃町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。もとは綾部市建田の一部。旧佃村の地域。 佃煮とかあって、全国に見られる地名だが、意味は「作り田」のことで、特には中世の地名である。 中世武士たちは、その領主経済の基礎を自らの屋敷に置いていた。交通路や用水などを支配しやすい要衝の地に面して、堀や土塁で囲まれた一角を成しているものが多い。そこは「堀の内」「土居」といわれるものである。食糧や資材を入れる倉庫、主人の住まいである主屋、従者・下人などが住む小屋などが存在する地域でもある。領主はこうした資材と人を動員して直接に農業経営に携わり、また屋敷の外に点在する小百姓たちを支配したのである。 農業経営上の大切な農地は「門田(かどた)」と呼ばれ、屋敷地に付属していたものが多い。いわば直営田として耕作されていたのである。 領主直営田の一部は「佃(つくだ)」、「正作」、「御正作(みそさく・みぞさく)」と呼ばれた。これは領主自らが指導して手作地として、従者・下人などに耕作させたり、彼らに宛てて小作させたりしてその経営を行ったものであるという。 《佃の人口・世帯数》 104・40 《佃の主な社寺など》 十二社神社
金刀比羅講 宝永6年(1709)に始まるという金刀比羅講が佃・武吉・忠の3ヵ村で現在も行われている。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 佃の主な歴史記録佃の伝説佃の小字一覧佃町 柳ケ迫 野畑 薦池 南ケ久保 野口 細野 桑迫 沢田 段水 段 番上 中ノ坪 練田 坂尻 塩谷 野林 魚ケ谷 東ケ谷 書林庵 前田 鍋倉 中ノ谷 縄手 日ノ村 池尾 宮ノ上 宮ノ腰 木下 野中 土小田 殿田 奥ノ谷 ウエ山 森ノ上 岩尾 山ノ神 イヤガ谷 長迫 丸山 ウエ山 大綱 中ノ坪 塩谷 野林 魚ケ谷 東ケ谷 鍋倉 鍋倉口 日ノ村口 日ノ村 奥日ノ村 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『何鹿郡誌』 『綾部市史』各巻 その他たくさん |
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