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丹波の

上杉(うえすぎ)
京都府綾部市上杉町


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京都府綾部市上杉町

京都府何鹿郡東八田村上杉

上杉の概要




《上杉の概要》
上杉は、国道27号を行けば、「上杉の信号機」のあるあたり、たいらな所だが、よく見れば北の伊佐津川側と南の八田川・由良川側との分水嶺にあたる。上杉郷または上杉庄七箇と呼ぶのは門(かど)村・施福寺(せふくじ)・久保・大石・延近(のぶちか)・野瀬・小嶋で、施福寺以下は門村の技村となっている。近世以来は大石・延近・門・久保・施福寺・小嶋・鳥居野・野瀬の8最寄(村落・集落を当地方ではモヨリと呼ぶ)からなり、それぞれ自治会を組織している。
上杉荘が鎌倉期の荘園名として見える。建長4年後醍醐天皇の皇子宗尊親王は鎌倉に征夷大将軍として迎えられた。このとき勧修寺重房は親王に従って下向し、その功により当荘を与えられ、以後上杉氏を称したという。当荘名はその後見られないが荘域内には上杉弾正朝定の住したと伝える弾正屋敷跡がある。また上杉氏の氏寺光福寺があり、のち安国寺となった。
南北朝期以後は「八田郷」として見え、上杉氏が領有している。当荘は八田郷に含まれ、荘名は消滅したものであろうか。寛正2年9月10日の何鹿郡所領注文には「上杉村」と見える(安国寺文書。綾部市史史料編)。
上杉村は、江戸期~明治22年の村名。枝村には大石・小嶋・延近・久保・野瀬がある。はじめ山家藩領、寛永2年、藩主谷氏の分知により旗本上杉谷氏領となる。貞享2年、同氏絶家により、旗本田中内匠・保田越前守知行地となるが、のち両家も絶え、幕末は幕府領(旧高旧領では篠山藩領)960石・旗本太田善太夫知行地317石余。旗本谷氏は陣屋を当村枝村延近に設け、佐々・坂本の両氏が代官を勤めていたという。地内鳥居野には商家があり、村内交通の要地であったという。康永3年(1344)の某宛行状(安国寺文書)に「八田郷次郎丸内鳥居野」とあるのは現在の小字鳥居野と思われるが、この鳥居野は「上杉七ヶ村中に丹後往来鳥居野と云町ハ、庄内村々より出町にて村とハいはす」「町並五十軒、丹後往来田辺へ二里半、…、古於与岐谷の八幡一ノ鳥居古跡 今に八幡祭ハ神主より改而幣を立と云」(丹波負笈録)とあり街村として発展してマチである。丹後街道の峠の頂上の茶屋が発展したマチであろうか、今もそうした雰囲気が何となく残る。
明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。明治22年東八田村の大字となる。
上杉は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ東八田村、昭和25年からは綾部市の大字。梅迫駅のすぐ北にあたる地内の大石には村役場・小学校が置かれて、東八田村の中心地になった。昭和28年上杉町となる。
上杉町は昭和28年~現在の綾部市の町名。

《上杉の人口・世帯数》 361・742


《主な社寺など》

旧石器
上杉町出土の石器
この石器は、上杉町旗投の小丘陵の東側斜面において、土師器・須恵器およびチャート剥片とともに発見された。遺物は長さ二・五センチメートルの縦長の剥片を使用しており、表面は二つの縦方向の主要な剥離がはいり、裏面はほとんど調整が加えられていない。周辺部には、裏面から表面に向かい細かな調整が加えられている。また先端部は、縁辺にそって樋状の剥離を入れようとしたものと思われるが明らかではない。この調整方法から考えて、彫刻刀状の石器ではないかと考えられる。石質は頁岩である。
(『綾部市史』)

上杉1号墳・上杉4号墳。
上杉遺跡から鉄剣形石剣1が出土とあるが、詳しくは不明。

旧東八田村 旧東八田小学校校庭にあった上杉一号墳、高槻町茶臼山古墳は独立した前方後円墳であるが、群集墳は上杉の焼森、石田神社後背部の宮ノ腰丘陵に集中している。

上杉1号墳  50m(全長)×20m(後円部直径)×5.0m(後円部高) 現状及び出土品・台地瑞、全壊、前方部南面、横穴式石室、出土品・土偶首高 28cm、冠物高さ20cm、埴輪円筒片
(『綾部市史』)

東八田地区の上杉一号古墳と呼ばれ、もと小学校の運動場で現在愛宕団地の北端で、大正時代に運動場拡張の際破壊された古墳である。これは特色ある車塚で長軸を南北に長い前方後円墳である。長さ四十五メートル高さ四、二メートルで出土品は東京博物館と京都帝大の陳列館に分けて保管され、その一部を東八田小学校と東八田公民館に陳列してある。
(『郷土誌 東八田』)

元の小学校は梅迫駅の北側の山腹高台で、今は住宅が建っている所あたり、焼森は「上杉の信号機」の東側あたりである。旗投は今の市総合運動公園があるあたり。
上杉4号墳

奥大石二号墳から蛇行剣
*府内初の蛇行剣(5世紀前半)が出土*鉄製、呪術信仰の象徴?*綾部奥大石2号墳*
 府埋成文化財調査研究センターは二日、近畿自動車道敦賀線の建設に伴い実施していた綾部市上杉町の奥大石古墳群の調査で、五世紀前半の蛇行剣(だこうけん)が見つかったと発表した。これまでに九州を中心に全国で四十二点出土しているが、府内では初めて。韓国でも一点発見されるなど日韓の盛んな文物交流を裏付ける資料でもあり、それが奥大石から発見されたことは「綾部市北部が大陸へ通じる日本海側と畿内を結ぶ交易・戦略の要衝であったことをうかがわせている」と小池寛調査員は話している。
 蛇行剣が見つかったのは、奥大石二号項(一辺約十一㍍の方墳)の二基の埋葬主体部のうち、東側の棺の傍ら。北まくらに収められた被葬者の頭の左側に置かれていた。蛇行剣は鉄製で、長さ七十㌢(うち柄の部分十四㌢)、幅四㌢。全国で一般に出土しているものより一回り大きい。全体に蛇のように曲がりくねり、さやの木質が鉄さびとともにこびりついていた。
 古墳の形や規模、副葬品の内容から、被葬者は五世紀初頭から中ごろにかけて今の綾部市東、西八田地区一帯を支配した豪族とみられる。蛇行剣が古代中国の竜蛇信仰の流れを引く祭祀(さいし)的な性格と、剣に象徴される武力的な性格を持ち、農民の呪(じゅ)術信仰と武力によって権力を維持していたらしい。
 また、同二号項のもうひとつの埋葬主体部から、硬石の臼玉が四列に並んで多数出土した。従来の首飾りと異なり、髪を結うために使ったらしい。ほかにも一号墳などから鉄剣や針、祭祀用の土器などが出土した。


*奥大石古墳群*蛇行剣府内初の出土*5世紀前半の方形墳から*祭祀用、全長70㌢*
 綾部市上杉町の奥大石古境群にある五世紀前半の方形墳で、木棺墓の被葬者に波状に曲がった蛇行剣が副葬されていたことが、二日、府埋蔵文化財調査研究センターの発掘調査で明らかにした。全国の三十六か所で四十二点が出土しているが、府内では初めて。
 同古墳は一辺が十一㍍で、棺を埋めるために掘った穴は縦三・八㍍、横一・二㍍で、丸太をくり抜いた棺は縦三・五㍍、横一㍍。棺そのものは残っていなかったが、棺と一緒にわきに埋められた剣が見つかった。蛇のように曲がっていることから蛇行剣とよばれている。全長七十㌢で、そのうち、十四㌢が手で握る柄の部分。
 蛇行剣は、九州で全体の半分にあたる二十一点が出土し近畿では、奈良、大阪で各三点出土。時期的には、五世紀ごろ、近畿や中国地方で副葬され、六世紀になって九州に広まったらしい。真っすぐの剣は、戦いで使われたと見られるが、蛇行剣は、その地域で力を持つ人間が祭祀(さいし)に用いたと考えられている。
 奥大石古墳群は、八田川の奥に広がる小盆地を見下ろす丘にあり、三十数基の古墳が点在。今の綾部や福知山と舞鶴を結ぶ中継点として交易や軍事上も重要な地域とみられ、被葬者は盆地周辺を支配していた有力者らしい。
 今回の調査は、近畿自動車道敦賀線の建設に伴い、同センターが今年五月から古墳三基八百五十平方㍍で実施。蛇行剣のほかに、副葬晶として真っすぐな剣、鉄のやじり、土師器(はじき)、櫛(くし)、髪を束ねるのに使ったうす玉などが出土している。三日午後二時から、現地説明会がある。
新聞記事↑と思われる、私のPCにあったが、日付も新聞名も不明である。
奥大石古墳群の調査で、五世紀前半の蛇行剣がみつかった。これまで九州を中心に全国で四三点出土しているが、府内では初めての逸品である。被葬者は五世紀初頭から中ごろにかけて、いまの綾部市東方の西八田地区一帯を支配していた豪族とみられている。蛇行剣が古代中国の竜蛇信仰の流れをひく際祀的な性格と、剣に象徴される武力的な性格をもち、農民の呪術信仰と武力によって権力を維持していたのであろう。韓国でも一点発見されているので、日韓の盛んな文物交流を裏付ける資料で、綾部市北部が大陸へ通じる、日本海側と畿内を結ぶ交易、戦略の要衝であったことをうかがわせる(H1、8、3京都新聞) (『西丹波秘境の旅』 )

ついでなかせら、蛇行剣は府下からはその後もう1本出土している。
*城谷口古墳群**6世紀の蛇行剣出土**1日南丹で現地説明会**九州と交流の可能性*
 府埋蔵文化財調査研究センターは28日、南丹市八木町北広瀬の「城谷口古墳群」から、6世紀のものとみられる蛇のように曲がりくれった祭祀用の剣「蛇行剣」が出土したと発表した。府内での蛇行剣の出土は2例目となるが、6世紀製が見つかったのは近畿では初めて、ほかにも、「耳環」や「管玉」などが出土しており、同センターでは、7月1日午後2時から現地説明会を行う。
同市の八木工場団地北広瀬地区開発事業に伴う調査で、5世紀から7世紀にかけての11基を発掘調査。横穴式石室の円墳8基と木棺直葬型と見られるものなど3基で、最大で一辺が20メートルを超える方墳も確認された。
蛇行剣は鉄製で約70センチ、幅数センチ、横方向に6曲している。柄の部分はなかった。出土したのは、6世紀前半に作られたと見られる直径約10メートルの円墳で、6世紀後半までの約60年間に3回以上、計5体が埋葬されているのを確認、蛇行剣は最初に埋葬されたとみられる人物の石室に直線の刀とともに納められていた。
蛇行剣は、鹿児島県や宮崎県南部などの南九州で多く出土し、国内では約60本の出土例がある。本州では大半が5世紀のもので、6世紀のものは九州に多いという。
このほか、6世紀後半に作られたと見られる周囲に溝が巡らされた直径約10メートルの横穴式石室の円墳から、須恵器や金銅製の装身具「耳環」、管玉も見つかった。古墳群全体からは、蛇行剣を含め、剣1本、刀が2本、鏃が約40個発見された。同センターは「6世紀の蛇行剣がなぜこの地域から見つかったのかは、はっきりしないが、九州との交流があった可能性などが考えられる」としている。現地説明会の問い合わせは、…
(『京都新聞』(060629))


八坂神社(飯宮)

黒石峠を越えて上林方面に行くときに通った道で、このありたは狭いところだったが、今は高速なみのずいぶんと立派な道になり、当社もよく見えるようになった。しかし案内板がない。
小嶋の八坂神社は俗に飯宮(はんのみや)といい、素戔鳴命を祀るが、丹波道主命が丹後国青葉山の土賊を平定した折に祀ったことに由来するという。同社にはかつて「永久五酉稔三月総社麻多波牟官神」との銘のある神鏡が伝えられ、江戸時代は上杉庄七箇の総社であったという。

八阪神社
東八田村字上杉小字島迫にあり。明治六年村社と公定。素盞鳴命を祀る。上杉全部之に属す。例祭は十月九日。徳川時代飯宮山牛頭天王と称し、今尚世人多く「ハンノミヤ」と呼ぶ。現在氏子二百五〇戸。

東八田村字上杉小字小島なる八坂神社には、
永久五酉稔三月捜社麻多波牟官神
の銘ある神鏡を保存せり、思ふに麻多は上杉付近の地名なること明らかにして、波牟官神は「ハンの宮神」とよむべし。大正の今日土俗「ハンノミヤ」と奉称する者極めて多く、八坂神社といふ者頗る少し。 (『何鹿郡誌』)

綾部の伝承 綾部市内には日子坐王・丹波道主命に関係のある伝承をもつ神社が二つある。その一つは上杉町の八坂神社である。祭神は素戔鳴尊・大己貴尊・少彦名命。受持之神で、昔は飯宮(はんのみや)大明神と称した。社伝によると崇神天皇の十年秋、丹波国青葉山に玖賀耳という強賊がいて良民を苦しめるので、勅命を受けた日子坐王・丹波道主命が軍をひきいてきたところ、丹波国麻多之東において毒蛇にかまれ進むことができなくなった。時に天より声があったので、素戔鳴尊ほか三神をまつったところ験があって病がなおり、首尾よく賊を平げることができた。帰途、この地に素戔鳴尊と諸神をまつったのに由来するというのである。(飯宮由来記)前に記した『丹後風土記』の記事と符合する伝説である。八坂神社には、「永久五酉稔(一一一七)三月総社麻多波牟宮神」の銘のある神鏡が伝わっていたから、平安時代には八田郷の総社であったと思われる。
 もう一つは広瀬町の伊也神社である。ここには、「崇神天皇の御代丹波道主命本郡に来り 甲ケ峯の麓に宮を築き天照大神 素戔鳴尊 月読尊の三神を崇敬し神社にまつった」という伝承がある。
 これらの伝承からみて、この地方には古くから丹波道主命父子による丹波の平定が信じられていたと考えられる。
(『綾部市史』)

八坂神社
一 神社名 八坂神社  所在地 綾部市上杉町小島迫一番地
一 祭神 素戔嗚尊 大巳貴尊 小彦名命 受持之神
(一)沿革
昔は飯宮大明神と称した。社伝によると崇神天皇の十年秋、丹波国青葉山に玖我耳という強賊がいて良民を苦しめるので、勅命を受けた日子坐王、丹波道主命が軍をひきいてきたところ、丹波国麻多之東において、毒蛇にかまれ進むことができなくなった。時に天より声があったので、素戔嗚尊ほか三神を祀ったところ験があって病が治り、首尾よく賊を平げることができた。帰途、この地に祀ったのに由来する。(飯宮由来記並に三代実録による)
丹波志によると上杉七ケ村の惣杜であって、舞堂と二つの鳥居がある、森は凡一町四方あり境外馬場があった。
遷宮 元慶四年四月(八八〇)
祭日 夏七月七日 秋十月九日
氏子地域戸数 大石五十一戸 延近二十九戸 門三十戸 久保十四戸 施福寺四十八戸 小島二十二戸 鳥居好六十一戸 野瀬二十三戸 計二百七十九戸
(二)八坂神社の由緒
破无神牛頭天王、後飯宮又は飯宮山牛頭天王とも言う。破无は基近由来記による毒蛇の神の意であって「ハム」又は毒蛇即ち破无の神、後に更に飯宮に転じたもののようで、飯宮山牛頭天王は往時両部混淆時代に、山号を付けたものと見てよい。夏祭にかぎって祇園祭と称して、飯の宮と共に今なおこれを称えて、現在八坂神社と称し、明治六年に村社となり大正十一年十二月二十五日に神饌弊料供進神社に指定された。
創建は由来記の如く、大古崇神天皇の十年(紀元八七) 秋彦坐王御子迫主命(四道将軍)と共に丹波青薬山の賊を平定の際神勅によって、奉斉せられたのが始めであって、当時殿山麓とある。現在の土地に遷宮せられたのは、元慶四年(八八〇)四月三十日破无神従五位下を授くと三代実録に記してある。尚破无神社として国史現在社である。
応徳元年(一〇八四)三月に再建された。永久五年(一一一七)三月総社麻多破牟官神の銘のある神鏡があった(但し現代に至り、何時の日にか盗難にあい紛失して現物なし)元禄十四年(一七〇一)再建した。嘉永二年(一八四九)三月十日再々建したものが現在の宮殿である。
社殿 桁行二間半一尺 梁間三間半一尺 桧皮葺 上仮屋茅葺
大正四年(一九一五)十月二十二日付拝殿弊殿 等建築出願同五年一月二十四日認可司令された。
大正五年十月二十日 上棟祭並落成式執行される。
弊殿 桁行二間 梁間二、五閲
拝殿 桁行三間 梁〃二 間
神餞所 桁行二間 梁〃八 尺
奏楽所 桁行二間 梁〃八 尺
手水舎 桁行五尺 梁〃四 尺
総工費 金四千四百円
人夫 二千二百五十人 氏子出役社殿は従来仮良ありたるを弊殿拝殿等の建築に伴い上仮屋を廃した結果桧皮葺屋根が腐朽したので、大正十二年九月十六名の有志の賛同により銅板に葺き替えをし社殿一層の荘厳を加えた。
更に昭和五年神銭所、奏楽所の桧皮葺も腐朽して銅板葺となった。
近在から太鼓の響に誘われて集まる参詣者で賑わった。維新前は此の上杉が天領だからと大手を振って、横車を押す痛快味に人気が葉まり、随分遠くからでも人が集まって来た。
本社の例祭舞楽は遠く、四道将軍丹波道主命青葉山の賊平定り凱旋の途次、当社に報賽の為の将士の歌舞を奏せしに始まると、口碑に伝えられ、中世には猿楽能に転じたることもあり、朋友若連中が次々に伝えたものの様で、当社の祭具の中に役膳と彫刻した径一尺二寸五分(約三八糎弱)の木製の盆のようなものが五六枚あるが、その一枚には飯宮御神、神舞士役膳、天正七卯年九月吉日(一五七九)と彫刻してある。祭りの当日には祭礼と呼ぶ程の行事は無く、社前で神饌弊帛を献じ祝詞を奏上し、五穀豊穣、家内安全、国家鎮護の感謝と祈願を捧げ、終とそれぞれの御輿屋台は錬込みの行列を整えて村々へ解放するのである。これも明治三十二年の頃より全く廃した。
舞堂は当時小社にも夫々大小の舞堂を持ち、舞堂則籠集会等にも用いてきた。本社舞堂は文化年間の(一八〇四年の頃)の建造で明治十八年の大風で杉の大樹が倒れた為に圧倒し、明治二十年十月再建現存するものはそれである。文化以前のものは棟札記録なく不明である。現在保存している棟札により神社年表を示すと左の通りである。

(『郷土誌 東八田』)

神鏡の永久五(1118)酉稔三月捜社麻多波牟官神の「麻多波牟」。
「麻多」は当地の古地名、江戸期には西隣の七百石あたりは西股村、当地あたりを東股村と呼んでいたという。今の西八田、東八田にあたるような地名で、当地あたりをヤタとかマタと呼んでいたものかと思われる。
「波牟」はハミで蛇。東大阪市に波牟許曽神社(河内国渋川郡式内社)があるが、ハムは蛇のことという、コソは何度も言うが神社の意味。ハモという蛇みたいに魚や、沖縄のハブ、日本語のヘビの古語、ハムは朝鮮語で蛇、現在語もそうかもしれない。
マタも渡来語かも知れない、百済王末多王とか『姓氏録』にある。天日槍のヨメさんは出石の太耳の娘・麻多烏(またお)で、マタは海人語かも知れない。
マタは今でも人間でもその股(又)のことであるが、本来の意味はマのあるトコロ、マというのは今でもマンとか呼ぶもののことである。マンやマラのあるトコロがマタということである。
マは溶鉱炉の溶けた金属が出てくる穴のことであるが、溶鉱炉の意味でも使われ、ここでは溶鉱炉を指していると思われる。マタとは溶鉱炉があるトコロの意味かと思われる。
丹後勢が当地に入った時にはすでに何者かわからないが、ハム族がいて、強固に抵抗し進めなくなった、ということであろうか。丹後勢は彼らの神を尊重して祀り仲良くすることにした、ということかも知れない。鉄資源を求めてやってきたのであったろう。
この辺りは風がよく吹く、特に北風が強いそうで家屋の北向きには窓がないそう。


上杉弾正屋敷跡と天満神社
小字小嶋に弾正屋敷跡とよぶ所があり、上杉弾正の居館跡と伝える。弾正とは上杉重房の曾孫朝定またはその子孫をさすと考えられている。現在は天満神社を祀っている。
上杉庄(荘)
上杉庄は建長四年(一二五二)勧修寺重房が当時四才であった宗尊親王に、付き添って鎌倉へいった。その功によって上杉庄を賜わったので、これより上杉姓を名のった。上杉氏は武士となり南北朝のころから戦国時代へかけては、足利氏と結んで関東管領になり、所領の上杉には居館をもっており、弾正朝定のいたという弾正屋敷跡がある。その東北の山上には上杉氏の居城と思われる城跡が残っている。
上杉重房の娘は足利頼氏と結ばれその子が家時である。弟頼重の娘上杉清子は家時の子貞氏と結婚し足利尊氏と直義を生んだ。上杉清子の兄重顕の子朝定の頃上杉ノ庄に住んでいた。
(『郷土誌 東八田』)


「上杉の信号機」から黒石峠へ向けて府道481を東へ500メートルばかりの所、府道より50メートルばかり北側へあぜ道を入った、周囲の田畑より少し高くなっている所。
このあたりは分水嶺である、写真は東を向いて写しているが、この高台の南側へ降った雨は八田川・由良川へ、北側へ降った雨は伊佐津川へ流れる。周囲は田畑だが、ここだけは雑木林のようになっている。

今は天満神社が祀られている。
案内板がある。
弾正屋敷跡
この地域は、平安時代は八田郷と呼ばれ、何鹿郡(ほぼ現在の綾部市)に十六郷があった内の一つであります。鎌倉時代から南北朝にかけて何鹿郡の荘園として記録に出てくるなかに上杉荘があります。上杉荘は現在の上杉町を中心とした地域でありますが、まもなく八田郷に含まれてしまったようです。
建長四年(一二五二l)藤原重房が、将軍として関東に下向する宗尊親王に従った功により、上杉荘を賜わり、姓を上杉としました。
上杉氏は室町時代には関東管領家として関東で活躍しましたが、所領の上杉には上杉弾正朝定(一三二〇~一三五二)が館を構えたので、この地が弾正屋敷跡と言われるようになりました。
寛政年間にまとめられた「丹波志」によれば「屋敷跡九間に九十間余(後略)」とあります。 綾部市教育委員会
タマには外人さんも訪れるとか、それは上杉清子や足利尊氏を偲びたいからであろう、その説明がまったくない、そうしたことは考えてもいない官僚的、自己満足案内である。安国寺のあたりはゴチャゴチャしていて、どうも歴史の空想像に合わない、もうちょっとあの時代が残る所はないのかのムキへ、母子はここでも暮らしたかも知れませんよ、とか書いておけば、この辺りに腰を下ろし、わざわざ遠くまで足を伸ばしたかいがあったと感動にひたってもらえるかも…
周辺の畑からは瓦や瀨戸欠けが出るというから、屋敷があったというのは本当らしい、こんなモンが畑から出ましたと、わざわざ市へ届けると、そんなモンはイラン言うてんですよ、もっとタカラモンが出たら持って来いとか、そうした物しかないのだから、それでも並べておけば、さらによいかも…
重房は清子の祖父、朝定は重房の曾孫とされるから、清子の甥、尊氏の代の人になり、清子の代にはまだ弾正屋敷はなかったのかも知れないことになるが、老いてからならあったかも知れない。新しい名で呼んでいるだけで、実際はもっと古くからあった屋敷かも知れず、清子や尊氏がここで暮らした日々もあったかも知れない。文献にはなく、土器欠けの一片がそれを決めるかも知れないので、バカにしてはなるまい。水がないところらしい、経済的な基盤も考えてくれればいいのだが…

天満宮 場所 小字小島二十一番地
祭神 菅原道真公
例祭 十月二十五日
由緒
先に述べた上杉弾正屋敷跡に祭られ熊野権現を祀っていた。例祭は旧八月二十五日である。角力が盛んであった。株桟敷といって一段高い地席があって、古来庄屋といって役員の座席がきめられ、明治末期まで続いた。ところが明治四十年社寺合併によってこの土地が売却せられ、八坂神社に合併せられてから、精巧であった宮殿も狐や兎の住いにまかしきりで、荒廃することが永かった。大正十四年九月修理再興、十月二十五日を例祭とした。当時の戸長は延近藤田久左衛門正成で、副世話方は小島村今井次兵衛家次であった。各村に庄屋がいた。大工の棟梁は荒井六兵衛であった。由緒深いところであるから現在は天満宮として祀っている。
(『郷土誌 東八田』)


天神 小嶋村
祭ル神    祭礼 八月二十五日
上杉弾正屋敷跡ニ 上杉七ヶ立合 同村鎮守新宮熊野権現 森除地 (『丹波志』)
少し南側の八幡神社(門の坪)について、
八幡社  門村
      祭礼 八月十五日
鳥居アリ 森除地 往古上杉弾正遠方へ出ル時馬上ヨリ我又出世有ラハ此杉ツクヘシト折杉ヲ社ニ逆ニサシ玉フト 其杉サカ杉ト名付大木ナリ 天正年中明智日向守福智山城普請ニ用ト云 当社サカ杉ノ宮トモ云 是ヨリ五町斗南東ニ当テスエトモノ池ト云有 此池エ夕日ニ木景ウツシタル故名トスト云 (『丹波志』)

上杉姓氏発祥之地の記念碑

鳥居野にある新しい石碑。上杉には上杉サンは1軒だけとか、全国の上杉姓に連なる人達が、この石碑を建立されたようである。
何かチトさみしいの感じもするが、当地こそが戦国の最強武将と有名な上杉謙信の上杉氏の発祥地・本貫地である。越後ではなく、ここ。もう舞鶴に近い所である。

記念碑の裏側

上杉荘と八田郷
上杉荘は上杉町を中心とした地域である。上杉系図によれば、建長四年(一二五二)藤原鎌足一九代の後裔勧修寺重房が、将軍として迎えられる宗尊親王につき添って関東に下り、その功により上杉荘を賜わったので、これより上杉姓を名のったという。上杉氏は関東に下向してから武士となり鎌倉御家人となった。南北朝ころから戦国時代へかけては、足利氏と結んで関東管領ともなり、関東・越後で大きく活躍するようになった。所領の上杉には居館をもっており、弾正朝定のいたという弾正屋敷跡があり、その東北の山上には上杉氏の居城と思われる城跡も残っている。
上杉の荘名はその後文書にあらわれないが、上杉荘は八田郷に含まれてしまい、その土地は引きつづき上杉氏に領有されていたものと思われ、南北朝ころから後の「安国寺文書」「上杉家文書」に、所領として八田郷の名はたびたびあらわれる。
文保元年(一三一七)高槻保内守活名田畠を比丘尼心会から譲り受けた源資平は、建武五年(一三三八)この守活名主職を光福寺(安国寺)に譲り渡している。高槻保は後の高槻村である。
比丘尼心会の譲状は、
  「丹波国高槻保内守清名田昌は亡父より譲られた土地であるが 源資平に永代譲り渡す」
というもので、守清名は比丘尼心会の亡父が領知していたのだから、古くから名が成立していたことがわかる。源資平は下司で、上杉荘の荘官であったものと思われる。
「安国寺文書」には、八田郷と八田郷上村に分けて記され、両者は別の地域である。八田郷については八田郷内能登房跡を光福寺に寄進する文書と、八田郷次郎丸内田二反並家敷畠二反を妙元房にあてがうとの文書がある。八田郷上村には、貞行名・兼里名・貞遠名がある。この八田郷上村は現在の上八田・七百石の地域を指すものであることは、岩王寺にある「寄進田数目録」によって明らかである。応永ころ(一五世紀はじめ)より以降は荘園と郷・保とが混在し、いずれも武士の所領となり、八田郷は仁木氏・上杉氏と安国寺・岩王寺などに分割領知されていたものと考えられる。
「上杉家文書」応永十年(一四〇三)の将軍義満御教書には、「丹波国漢部郷除原村を上杉長基に充行う」とあり、これを譲り受けた上杉憲実は、宝徳年間(一四五〇ころ)漢部村から年々百貫文の陪堂料を受けたとしている。

足利氏と安国寺
上杉氏と光福寺
前に述べたように上杉荘は建長四年(一二五二)より上杉氏の所領となり、上杉氏はここに居館を構えていた。上杉氏が光福寺(のちの安国寺)といつごろから関係をもつようになったかは明らかでないが、南北朝時代より前から氏寺であったものと思われる。安国寺と上杉氏・足利氏との関係は「安国寺文書」によって知るほかはないが、その中で最も古いものは建武元年(一三三四)上杉朝定の書状である。
   其後久不啓案内候 不定心之極候 抑八田郷内能登房跡事 当寺寄進
   申候年内不幾候 併期明春候 恐惶謹言
     建武元年十二月廿七日
                 朝 定(花押)
   光福寺方丈侍者御中
八田郷内能登房跡を光福寺に寄進するという趣旨であるが、「その後久しく案内を啓せず候」など親しい間がらであったことが文面から読みとれる。朝定は上杉氏の始祖重房の曽孫で上杉氏の嫡流であり、叔母清子は足利貞氏に嫁して尊氏・直義の兄弟を生んでいる。
伝承によれば尊氏が生まれるとき、母清子は故郷丹波に帰り光福寺の山門下にあった別邸に住んで、光福寺の地蔵菩薩(現重要文化財)に安産を祈願し尊氏を生んだといわれる。その別邸はのちに安国寺に寄進され、常光寺という境外塔頭となっていたが、大正初年に廃寺となり、今は地元の公会堂となっている。その隣に尊氏生湯の井戸と称するものが現存している。
『蔭涼軒日録』長禄二年(一四五八)十月二十四日の条に、「丹波安国寺内ニ等持院殿(足利尊氏)御髻 御袈裟座具ヲ安置シ奉ルノ事之ヲ披露御目ニ懸奉リ先規ヲ以テ御封ヲ付ラル也」
とあり、安国寺に安置している尊氏の遺品を、将軍義政に披露したことが記されている。これらの遺品はいまも安国寺に保存されている。
上杉清子
清子は亡くなる四か月まえ、甥の上杉弾正少弼朝定にあて、光福寺へ寺領寄進の消息文をつたえている。
清子はその中で、夜久郷の内で光福寺へ寄進したいと思うから寄進地を知らせてほしい。殿(尊氏)へも相談したいからとし、
(前略)「まつその程も知りかたき身にてさふらふほとに申をき候 むまれそたちたる所にて候程にうち寺にもしたく候 御心え候へとて申をきさふらふ」
  かうゑい元年(一三四二) 八月十三日  花押
   うゑすぎのせう日ちとのへ
と書いている。清子は康永元年十二月二十三日永眠しているから、これが最後の願いであったのであろう。
「生れ育ちたる所にて侯程に氏寺にしたく候」という文言は大切である。朝定は清子の希望の通り、清子の死んだ日に夜久郷の地頭に、今西村を光福寺に寄進するよう指示している。
   自二大方殿一被二仰下一丹波国夜久郷之内今西村事可レ被レ打二渡光福寺雑掌一之状如レ件
     康永元年十二月二十三日   朝定(花押)
   備後八郎殿
右の指示にもとづいて地頭源行朝は、
   自二上杉殿一任下被二仰下一侯之旨上夜久郷之内今西村為二大御所御寄
   進一所渡二進於光福寺座主一之状如件
     康永二年一二月十一日     源 行朝(花押)
    進上光福寺座主禅師
と光福寺に寄進を報じている。今西村が尊氏の寄進として施入されたことは、母清子の望郷の情によるものであろう。
この後光福寺は安国寺となり、足利氏の氏寺になっていった。延文三年(一三五八)六月廿九日には尊氏の遺骨一分と袈裟・座具を、貞治四年(一三六五)七月十六日には尊氏の妻登子の遺骨一分を、「先年帰依の由緒に就いて当寺に奉納せしむる所也」として二代将軍義詮が奉納している。いま安国寺の境内には尊氏・清子・登子の墓であ宝篋印塔三基が並んで、足利氏とのゆかりを伝えている。  (『綾部市史』)

日吉神社


日吉神社
一 神社名 日吉神社  所在地 綾部市上杉町大石
一 祭神  三王大権現 大槻右衛門尉を祀る
一 沿革  創立年代未詳
      再建  宝暦十年(一七六〇)
      石造階段築造 天保三年(一八三二)日吉神社と改名
      火災に遭う 昭和五十四年(一九七九)五月二十二日不審火により火災発生す
      再再建   昭和五十六年(一九八一)建造
(一)由緒
書き残したものは無いが、丹波志によると社名は山王権現と言い、大権現を祀る。
大石村の産神 祭礼は九月八日
江州(近江国)阪本の山王権現を移した。天保三年華表社額に日吉神社とある。
隣の西八田村の平山村高城城主大槻右衛門尉清秀が落城、自刃しその塚を山王として祀った。現在山王の宮と呼んで居る。
(『郷土誌 東八田』)

山王権現     上杉 大石村 産神
祭ル神      祭礼 九月八日
舞堂 鳥居 森除地 近州坂本ヨり移ルカ 祭前山伝
ニ古キ猿一ツ来四五日居ト云 平山村高城城主大槻右
衛門尉塚ヲ山王ト条ル神ト云
(『丹波志』)
本殿の裏側に上杉4号墳(全長33メートル、前方後円墳)がある。
この辺りが大石で、神社前の道を北ヘ行けば、高槻茶臼山古墳、途中の高速の下あたりが奥大石である。

高城

真言宗高野派集宝山施福寺

黒石峠の登り口にある。草刈りがなされているが、無住のようである。案内板がある。
集宝山施福寺由緒
  綾部市西国二十八番札所
宗派 高野山真言宗
本尊 千手千眼観世音菩薩
開山 奈良時化(七五〇)、行基大士(約一ニ〇〇年前)、この地に来遊され、地勢絶勝にして頗る清雅であるところから、庵室を構えて漸次この地を開拓し、ここに伽藍を造営し、山名を集宝、寺号を施福とされた。
その後、方々より学徒多く集まり来るようになり、八葉ケ峯(蜂ケ峰)の中腹に東照寺、西照寺その他十二ヶ寺が建立されたが、年月を経て荒廃した。よって、東照寺は井根の日円寺へ、西照寺は施福寺へと云い伝えられる。
再建 平安時代(九五〇)、空也上人、熊野三所権現を勧請し再建される。
   戦国時吋(一五二六)、兵火にかかり尽く焼失する。
   その後、江戸時代(一六八四)、四間半四面の本堂竣工。
   江戸時代(一七三六)、大洪水にて壊滅したが、時の代官小堀仁右エ門に本堂再建を願い出て、翌年、山門、本堂再建される。しかしその後、再度の大洪水により山岳崩れ、本堂は壊滅する。
   江戸時代(一八〇九)、七間四面の本堂再建され、現在に至る(約一八〇年前)。
   明治三十一年(一八九八)、檀家浄財を寄進し、夫役に当たり、庫裡建立される。
   昭和四十三年(一九六八)、トタン覆屋根に改修。
市指定文化財 木造地蔵菩薩半踟像
御詠歌 世の人も来て願うべし観音の
       御手に宝を集めたる山
平成二年一月

施福寺
    所在地 上杉町寺ノ迫十九番地
(一)山号寺号 集宝山本智院 施福寺
一 宗派 高野山真言宗 金剛峯寺 宝城院末
一 本尊名 千手千眼観世音菩薩
一 開山  行基大士 草創
一 開創年月 天暦年間 九五〇年頃
一 中興   空也上人
一 社殿建立 元暦二年 一一八四
(二)由緒沿革
当山は、四十五代聖武天皇の頃、行基大士がこの他に来遊され、地勢絶勝にして頗る清雅である所から、庵室を構えて座禅をし、漸次この地を開拓され、茲に伽藍を造営し自ら千手観音を彫刻して本尊とされ、山名を集宝、寺号を施福とされた。
これが開基の様子であった。これが為方々から学徒其の他の老多く集り来るようになり、これらの為に東照寺、西照寺、其の他十二の寺院を建立したが、その後年月を経て梵閣、高楼は荒廃してしまった。
六十二代村上天皇の時、空也上人再び伽藍を興し、熊野三所権現を勧請し、再建された。大永六年(一五二六)兵火にかかり楼閣尽く焼失した。天和三年(一六八三)四月十五、四日、四間半四面の本堂再建されたが、享保二十一年(一七三六)六月二十一日大洪水があり、堂宇は破壊してしまった。時の代官小堀仁右エ門に願出て、元文二年(一七三七)山門及本堂が出来た。その後また大洪水にて山岳が崩れ、その為に本堂は壊滅してしまった。文化六年(一八〇九)六月、七間四面、内五間半四面の本堂が再建されて現在に至ったのである。明治三十一年(一八九八)に庫裏の再建が企画され、檀家は浄財を寄進し、夫役に当たり、日成らずして落成することが出来た。
本尊は座像仏千手千眼観世音菩薩であり、脇仏として毘沙門天、不動明王が祀られている。由緒記録によると本尊は行基大士自ら彫刻されたとあるが、その後兵火の災に会っているし大洪水にも会っているので、当初の本尊と異なるのでなかろうか、左図は千手千眼観世音菩薩で左下は地蔵菩薩右下は大日如来で、製作時期は地蔵尊の背記に元文四年(一七三九)とある。調査の結果次の如くである。
地蔵尊は梅恵心之作像高八一七糎 元文四年七月二十四日奉再興地蔵尊恵心僧都 御作 住侶生国田辺円海房実栄作三十九才、再興銀二百三十日、諸入用百目元文三年秋托鉢執行諸生勧立而己五十三匁、地蔵念仏人数之者彫眼のきわめて端正な相好の仏像である。
袈裟や着衣の表現整い、よく洗練された彫刻である、くちびるの渋味をたたえ厚味の表現などは、鎌倉もかなり早期にのぼる作品と思われる、右手首の先が破損している。昭和四十五年三月市指定文化財となった。
仁王像 (金剛力士像)
山門に安置、弁法眼の作で両金剛であった。明治初年適当な修理せず柱梁の腐朽のままにしてあったのを、明治二十九年周山街道開通に伴い取り壊し、現在では両金剛とも庫裡に納めているが、破損せる顔面内部に大仏寺五条居大宮弁法眼としるされ、再興宝暦九年現住実栄のとき二躰とも前面、両腕とも破損胸部の筋肉のもり上りの表現など力強さ、一部衣文の表現のもたつき、脚の表現のまずさ等から鎌倉末期か南北初期の作と言われる。このまま放置するのは残念である。  (『郷土誌 東八田』)


臨済宗東福寺派如意山禅徳寺


禅徳寺
  所在地 上杉町延近小字森東八番地
(一)山号寺号 如意山 禅徳寺
一 宗派 臨済宗 東福寺派
一 本尊 阿弥陀如来
一 開山 安国寺第二世無外妙方大和尚
一 開創年号 文献が無く年代か詳かではないが、宝積寺と相前後して創建されたものである。
(二)寺歴
平安時代の末期は延福庵と言い東照寺に属していた。本尊は阿弥陀如来であって信仰の念地元に厚く、獅子の上に阿弥陀如来が乗っていられる所から、一名獅子座の弥陀といわれている。応安三年(一三七〇)に南禅後版職無外妙方禅師(安国寺二世)が開山し、建立して禅徳寺となる。
本尊本体は室町時代の初期のものと言われ乾漆像で光背は江戸中期に修復したものである。文中元年(一三七二)開山禅師が遷化した。
江戸時代に至って山家領主谷氏が分家して、上杉二千五百石の藩主となり、禅徳寺は上杉藩の菩提寺となったが、衛之、衛貞、衛晴の三代僅六十三年で所領没収され、ついに天領となった。
延宝年中(一六七三-一六八〇)に再建された。
その後文政十年(一八二七)に九世厚宗恵温和尚は先代八世天外霊沖和尚の発願を引き継ぎ五ヶ年にわたり再建し、造作一切金子十貫余り現在の本堂、庫裡を建てた。
明治四十年宝積寺と合寺するに当たり切嶽山禅徳寺を宝積寺の山号の加意山に改めた。大正二年十月本寺の安国寺を離末して本山直末編入となった。  (『郷土誌 東八田』)

宝積寺歴
 明治四十年禅徳寺に合寺 寺跡 字延近森東二十三番地
(一)山号寺号 元臨済宗東福寺末 如意山宝積寺
一 本尊 薬師如来
一 開山 安国光福寺二代 無外妙方和尚 応安五年(一三七二)に寂す
一 創建年月 不詳
一 再建 元禄五年(一六九二)
     明治二十四年本堂増築
     明治四十年社寺併合の令により当時無住であった本寺は禅徳寺に合寺した
(二) 歴代和尚

(三)経過
宝積寺を禅徳寺に合寺することは両寺檀家の協定に基ずくことは、勿論であって、院宇、土蔵、納屋、建具等其の他不用のものは売却し、仏像、仏具、其の他一切と現所有地は共に禅徳寺に合併した。  (『郷土誌 東八田』)

綾部市総合運動公園とあやべ球場
夏の高校野球の予選などが行われる。旗投遺跡といって古墳群などがあった。


《交通》


《産業》


《姓氏》
林田悠紀夫氏
郷土が生んだ政治家林田悠紀夫
氏は上杉門むらにて林田信丸の長男として大正四年に出生、東八田小学校を卒業し、京都府立舞鶴中学校を卒業第三高等学校に入学東京大学を卒業した。海軍主計官となり太平洋戦争終るや、直に農林省にて農林行政にタッチし、やがて参議院議員に当選した。昭和五十三年四月京都府知事選にて蜷川知事の後の三十五代目の京都府知事となった。昭和六十一年七月の参議院選挙に再び当選し六十二年竹下新内閣の法務大臣に任命された。綾部出身で郷土選出の大臣としては初めてである。…
(『郷土誌 東八田』)



上杉の主な歴史記録


大石村
往時家数は三十軒であった。大石村は、池より上方を言い、大石を中の森といった。鉄道の無い頃の話であるから、地形上、川の流れが堰き止められる形になるのであろう高槻方面や上杉庄から流れる大水の時損害を受けるので土地は悪いと記録している。
大石村は高城山の山陰となっている関係で戦国時代は諸将の陣となった。高城山の中腹に千人隠れ谷がある。日吉神社の裏には塚があった。)
延近村
延近村も同じように家数は三十軒という記録がある。
延近付は往時の土地は高所であったから水の災害少なく住宅地には適していた。古い墓地も見受けられる。山家藩が上杉へ分家したのも延近の斉田であった。
上杉庄・門村
野瀬村、小島村、施福寺村、久保村、延近村、大石村を合わせ七ケ村といっていた。後に鳥居野村が加わり一つの村となり、元禄時代には改めて上杉村となった。
門村は上杉の中で一番古く、上杉の親村といっていた。以仁王の家来十二士の一人塩尻家は門村である。家数は五十軒あったという。小掘氏が支配所であった。上杉七ケ村はもと二十四人より始まり、二十四株といっていた。
久保村
久保村は今日街道筋であって小高い峠を越して梅迫に出る。家数は二十軒あって、小堀氏の支配所であった。
施福寺村
施福寺村は真言宗の施福寺が当地に建立されてより民家がふえてきた村である。施福寺は大永六年(一五二六)の頃兵火の災にかかり廃絶したというからそれ以後、現在の村が誕生したものであろう。往時空也上人がきて土地を開き、多くの寺を建て修養道場とし、寺には楼門を建てるほどで、最初は寺村と言っていた。家数六十三軒という記録がある。小掘氏が支配所をもっていた。
小島村
小島村は家数二十軒で太田領であった。上杉庄を上杉重房が受領してから上杉に弾正屋敷が建ってから、小島は想像の付かない程発展をとげたが期間が短く戸数も増えていない。
鳥居野村
鳥居野村は方々から入り込んだ村で上杉村で一番新しい村といえよう。於与岐村の八幡宮の支配下で第三の鳥居があったところから、村の名もつけられた。
野瀬村
野願村の家数は二十軒余りである。京街道で西の入口に一里塚がある。
(『郷土誌 東八田』)


伝説






上杉の小字一覧


上杉町
大石 奥大石 渋市 大畑 宮ノ谷 家ノ谷 横縄手 蓮花坊 五良谷 石子細道 土穴 八垣 八田坪 岼ノ前 石子 檜山 遊舟 梅ノ木谷 稲干 奥山 奥山 小山 中嶋 斉市 森東 札ノ辻 菖蒲谷 西縄手 多菜田 花ノ木 大田 八幡ノ下 向ノ上 後野 今北 茨薮 小山 屋敷ノ上 庵ノ奥 後野 今北 菖蒲谷 森東 上町 下町 門ノ坪 布垣 的場 檜ケ下 三田ケ坪 丁田 竹ノ下 上町 大宝山 門ノ坪 布垣 的場 檜ケ下 由里ヶ前 久保ノ上 久保ノ下 清水奥 稲葉ノ下 坂原 坂原口 下乗替 末共 鍛冶迫 崩堺谷 藤ノ木 久保ノ上 堺谷 清水奥 稲葉 坂原 坂原口 下桑替 戸谷 クレ谷 西ケ迫 森ノ下 竹ノ越 寺谷 熊谷 寺ノ迫 出ケ下 東寺口 中寺口 西寺口 提 丈師 峠 桑替 戸谷 松ケ崎 西ケ迫 長迫 矢野谷 寺谷 熊谷 大門 中筋 峠 下桑替 小嶋 小嶋谷 小嶋口 石橋 道場 久保 井根 小嶋迫 鳥居野 鳥居野北 焼森 国木林 ?(クサカンムリに旗)投 鍵安 生ケ森 上藤重 下藤重 田井戸田 井ノ迫 ヤボセ 穴虫 本宮原 日向後 太郎兵エ山 上雉路 下雉路 岩ケ鼻 東山 中山 東山 日后 鳥居野北 本宮原 日向後 生ケ森 本宮 原谷 野瀬 杉谷 坂 陸蔵 井ノ丘 東谷 前田 沢山 清水汲 河原 津谷 中津谷 奥津谷 口沢谷 亀具 下市ノ瀬 杉谷口 後山 津谷 仮矢場 経塚



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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