内久井(うちぐい)
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京都府綾部市内久井町 京都府何鹿郡志賀郷村内久井 |
内久井の概要《内久井の概要》 犀川流域一番奥に位置する集落。道も行き止まりになる。 山間の農業地域。川沿いに府道物部西舞鶴線(490号)が貫通し、北は舞鶴市に通じているが、市境の登尾峠(日浦峠)は車の通行は不可能。街道沿いにはず~と、桜が植えられている、というハナシは聞くが、そこにその並木らしいところが見えるが、まだ桜開花以前の頃であった。 この道を歩いて越えると舞鶴市の城屋に出る、かつてはよく利用された峠道であった、城屋あたりの通婚圏で、ワタシの母親は内久井の出です、などの話を聞く。 内久井村は、坊河内村の枝村だったが、その後独立し、江戸期~明治22年の村となった。はじめ山家藩領、寛永5年からは旗本十倉谷氏知行地。十倉谷氏の重税に抗して貞享元年当村を含む領内9か村の一揆が起こっている。東部の奥山(深山とも呼ぶ)は志賀郷全域の入会山だそうで、この入会権をめぐって享保17年から明治28年まで10数回におよぶ激しい山論が起こり、しばしば京都代官まで訴えているという。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同22年志賀郷村の大字となる。 内久井は、明治22年~昭和30年の大字名。はじめ志賀郷村、昭和30年からは綾部市の大字。同年内久井町となる。 内久井町は、昭和30年~現在の綾部市の町名。 『丹波負笈録』は面白い伝説を拾い書き残している。、 内久井村 家敷七十軒同ヒウラ峠奥山あり 志賀郷十三ケ村入込所 奥深山なり 谷氏御領所 右深山の中に蛇池あり 昔志賀に夜アラシ云地侍の娘を此蛇にとられ 後彼池へ右の蛇を捕と名乗て弓を放つ体ニで向ひけれハ小蛇出 又夜アラシ申けるハ本体をあらはすべしと云 大蛇の頭をフタ立向けるを大雁俣にて一眼を射殺す 書方質朴にしてわかちかたし 其まゝいつれにも此書様をくわへす 外皆是にならふへし 此故に夜アラシ子孫代々片眼なり 今ハ家絶たり 志賀の夜アラシとハ同所町梅原氏の士にて強力の弓とりなり 物部に分家あり 峠の向こうの城屋の森脇宗坡の大蛇退治伝説と似ているというか、共通のもののようだが、しかし当地の方が古い。片目のヘビとか、その子孫が片目とか、城屋にはない古い要素を残している。このあたりの鍜冶伝説のようである。 城屋の大蛇退治伝説研究も当地まで足を伸ばすとさらに面白いかも…。 夜嵐は「世荒らし」のことかと思われる、時の権力側からは忌まれ嫌われた神で、このように貶められた名で呼ばれたのではなかろうか。後世に土蜘蛛や鬼とか呼ばれた者たち系の呼び名でなかろうか。 ←「水戸市大串貝塚ふれあい公園」のHPより。ダイダラボウ。 本来の夜嵐は、片目で怪力の持主、怪力というか神力を持った大男、巨人ダイダラ坊系の伝説だろうと推測される。国作神であり片目の鍜冶神、当地周辺の始祖神の姿であろうか。 金河内や向田の夜嵐伝説は世が下ってから作られたものか、こちらが有名だが、本来の姿からははずいぶんと合理化されて、可愛らしい信じやすい姿になっているが、何のハナシかわからなくなってしまっている。。。 《内久井の人口・世帯数》 39・27 《主な社寺など》 《交通》 《産業》 《姓氏》 内久井の主な歴史記録
伝説内久井の小字一覧内久井町 大松 亀迫 神戸 大木ノキ 由里 福野 ツカダ 旬領田 石代 日和口 日和奥 元屋赦 上屋敷 小松口 高迫 大田 荒神ガナル 彦才 日和 奥山口 奥山奥 奥山 奥山 元屋敷 日和 彦才 福野 石代 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『何鹿郡誌』 『綾部市史』各巻 その他たくさん |
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