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旧・山家村(やまが)
京都府綾部市戸奈瀬町・釜輪町・広瀬町・橋上町・旭町・東山町・鷹栖町・西原町・下替地町・上原町・下原町・和木町


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京都府何鹿郡山家村

旧・山家村の概要




《旧・山家村の概要》

山家村
山家は、今のJR山陰本線「山家駅」がある一帯、綾部市の市街地からなら京都方面へ向けて次の駅のある所である。
上林川と由良川が合流する付近を中心に、両川沿いに位置する。最西部の西原が最も早く開けたようで、古墳・陶窯跡も同地に限られる。地内広瀬の甲が峯には式内伊也神社や鎌倉期の経塚がある。中世、土豪和久氏は甲が峯に拠り、また天正期谷衛友氏は甲が峯西麓に陣屋を築いた。
郡内東部の交通の要地で、丹後田辺より京都に至る京街道(田辺街道)が村を横断し、上林谷を経て若狭の本郷に通ずる若狭街道の分岐点でもある。

山家は、室町期から見える地名で、寛正2年(1790)9月10日の何鹿郡所領注文に「山家」とあるのが初見(安国寺文書・綾部市史史料編)。安国寺再建に際し棟別銭が当地にも課されていた。下って天正11年(1583)8月18日の羽柴秀勝所領宛行状には「百五拾石 同(何鹿郡)山代家」とあり、赤尾孫介に宛行われている(五藤文書・大日料11-4)。当地の豪族和久氏については「東栗村戦記」「陰徳太平記」「白波瀬記」「和藤戦記」などにその活躍の様子が記されている。
近世の山家村は、江戸期の村で、「元禄郷帳」には「山家村ノ内」として、広瀬・橋ノ上・所養・鎌輪・戸奈瀬・井坪・鷹栖・塩谷・西原・上原・下ノ構内・山入・下原・和木の14か村が見える。山家藩領。同藩陣屋は広瀬村に、城下町はその上林川対岸の鷹巣村町分にある。村全体に山がちで、耕地と集落は由良川・上林川に沿ってある。段丘上の各集落は各所で小河川に寸断されていて交通の不便な地である。枝村は幕末までに分村し、当村名は解消した。しかし山家はのちも地域の総称名として用いられていて、「共武政表」には山家として戸数246・人口1、111、寺5・学校1、産物に生糸・真綿と記されている。同22年市制町村制施行により自治体名となる。
近代の山家村は、明治22年~昭和25年の何鹿郡の自治体。鷹栖・戸奈瀬・釜輪・橋ノ上・広瀬・上原・西原・下原・和木の9か村が合併して成立し、旧村名を継承した9大字を編成した。鷹栖に村役場が設置されて村政の中心地となった。
昭和25年綾部市の一部となる。村制時の9大字は綾部市の大字に継承された。

山家県(やまがけん)
明治4年7~11月の県名、廃藩置県により丹波何鹿郡の山家藩領域をもって成立した。府県統廃合により4か月で県名は廃されて、管轄地は京都府へ編入された。

山家藩(やまがはん)
江戸期の藩名。外様小藩。藩祖谷衛友(もりとも)は豊臣秀吉に仕えていたが、関ヶ原の戦で谷衛友は徳川方に帰順したため、同年本領を安堵されて何鹿郡内のうち1万6、000石余を領し、山家に陣屋を構えた。谷氏は衛友のあと衛政(もりまさ)が継いだが、弟衛冬(もりふゆ)に1、500石、甥衛之(もりゆき)に2、500石余、同じく衛清に2、000石を分知し、残りの1万82石余を知行した。のち累代の藩主は衛広一照憑(てるより)一衛衝(もりみち)-衛将一衛秀一衛量(もりかず)一衛方一衛弥(もりみつ)一衛日+方(もりやす)一衛弼(もりのり)一衛滋(もりしげ)の13代に及んで在封した。
領内の特産に黒谷の紙がある。元禄頃に藩の代官十倉十右衛門が奨励し、以後藩の保護政策により生産も高まり、京都市中などに出荷された。藩領は何鹿郡内の13か村で構成されている。
山家藩は藩領を山家・上林・八田・幾見・志賀の5郷に分け、山家郷の域内には別に町方(高83石余)があるが、高は鷹栖村分に含まれている。
明治初年、当藩の内高は表高と同じ1万82石余。同2年の版籍奉還時の江戸城中の詰所は柳の間。同4年廃藩、藩領は山家県を経て京都府に所属。


山家というだけあって、山ばかりである、何鹿郡内では当地が最も山家と呼ぶにはふさわしいような地であるが、この地が古代ではどう呼ばれていたのかは不明である。
平安時代の「和名類聚抄」には、賀美・拝師・八田・吉見・物部・吾雀・小幡・高殿・私郡・栗村・高津・志麻・文井・後(漢部)・余戸・三方の十六郷ありと記されている。これらの郷が現在のどこに当るか山家に関係あるものを記しておく。
賀美郷 カミは鏡であるとして「鏡作部のおる所」(日本地理志料)、「カミは上村で栗村庄にある」(大日本史国郡志)、「その上というより推せば山家などに当るごとし」(大日本地名辞書)、「往古は賀美、拝師郷氏神と見えたり」(河牟奈備神社由緒)、寿永三年(一一八四)東寺百合文書には何鹿郡上林の地名が出ている。
拝師郷 「図によると今上林川の貫流する山家十根の諸邑か」(日本地理志料)、「今上林の三村けだしこれなり」(大日本地名辞書)、「当社は初め拝師郷畑川村に鎮座し大室明神と称す」(室尾谷神社の由緒)。
三方郷 「味方、西原、野田、和木、下原の諸邑に亘る」(寛知集)、御県神社(県主を祀る神社)あり、県主の所在地かと伝う。
余戸郷 郷制で五〇戸に満たない郷を余戸(部)と称した。山家中東部に古墳が一基も見つからず、「山家」が出てくるのは寛正二年(一四六一)「安国寺文書」が初見である。山家地域と考えたい(綾部市史)
以上を挙げてみたが、諸説入り交って甚だ確定しがたい。しかし広瀬に伊也神社、戸奈瀬の観音山、釜輪に上寺と言う伽藍もあったと伝えられ、旭町の覚応寺も大規模であったところから、かなり早い時代に開けていたと考えられる。昭和五十年一月、平安中周の遺跡として、西原町釈丈ケ岳の道ばたで半地下式の登り窯跡が見つかり、須恵器や瓦を焼いていたことは相当の集落を意味するのではあるまいか。
平安時代になってからも、山家の地形から考えて荘国らしきものは目当らないが、霊地として見る可きものがあったのではなかろうか、例えば空也上人を開基とする覚応寺(綾部市内に十力寺に余る空也上人関係寺あり)はまた平重盛の願成寺としても伝承を持っている。古来の山岳信仰と真言密教習合の役小角を開祖とした修験道から、平重盛に縁深い熊野信仰も行われたと思う。那智山正暦寺と熊野神社のように、山家にも奥山熊野神社(高山権現)、塩谷熊野神社、西原熊野神社がそれである。昭和三十九年発見の広瀬町甲ケ峯経塚も末法思想の流行してきた十二世紀頃と思われ、庶民の生活に宗教文化の影響は大であった。
長瀬の四方家古文書(一)三神神社の神霊写し天長七年(八三〇)九月とあり、(二)菅公延喜元年(九〇一)筑紫太宰府へ流さる、この菅公の臣下であったので当地に鎮守として天満宮を祀る、(三)正暦元年(九九〇)三月廿一日多田満中公御子孫源頼光丹波に入り、酒呑童子を討ち取り、この館にて御休みになったという右三体が伝承されている。たとえ神霊上の伝説であっても、伊也神社といいこれらの事など、山家の地がその道筋であった事もうかがえる。
(『綾部市史』)


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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