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八津合(やつあい)
京都府綾部市八津合町瀬尾谷・山田・馬場・石橋・日置殿・西屋神谷


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京都府綾部市八津合町瀬尾谷・山田・馬場・石橋・日置殿・西屋神谷

京都府何鹿郡中上林村八津合

八津合の概要




《八津合の概要》
上林谷の中央に位置する。上林川の沿岸に耕地が広がる、南北の山すそに集落がある。

八津合村は、明治7~22年の何鹿郡の村。瀬尾谷・山田・馬場・石橋・日置殿・西屋神谷の6か村が合併して成立。同22年中上林村の大字となる。
八津合は、明治22年~昭和30年の大字名。はじめ中上林村、昭和30年からは綾部市の大字。同年八津合町となる。
八津合町は、昭和30年~現在の綾部市の町名。


日置殿(へきどの)
八津合では最も川上側の集落。上林川の中流域北岸の若狭街道筋で、上林小中一貫学のあるあたり。東は大町村、南は上林川で瀬尾谷(しょうだに)・山田・馬場・石橋の各村、西は寺町、北は笹尾(ささお)山を越えて於与岐村に通ずる。
中世は上林庄の地。文明2年(1470)の川北奥太夫覚状(川北家文書)に「日置谷」とあるのが初見。天文年間の勧進奉加帳(光明寺文書)にも「日置谷」「殿村」とみえる。
日置殿村は、江戸期~明治7年の村。日置谷と殿からなりそれぞれに庄屋がいた。殿村に枝村片山がある。
旗本城下藤掛氏知行地。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、京都府に所属。同7年近隣の7ヵ付と合併して八津合村の一部となる。
『何鹿郡誌』
日置殿(中上林村字八津合小字日置殿)古くは一村をなす。日置はへきとよむ。応神天皇の皇子大山守命より出てし一族ら幣岐(ヘキ)君あり。此の族党の住居せし所ならんか。姓氏録考証にも「承平二年、丹波多紀郡国老日置公、検校日置公、擬大領日置公」とあれば本郡にも住せしか。
日置(ひおき・へき・ひき)は、あちこちに見られる古代地名だが、その系統はいろいろあって、当地の日置はどれにあたるのかはわからない。元々は単に柵(城)ということでシキ・スキと同じ村のことかも知れない、敢えて意味づければ枝村か、日置と書くのは当字か。ヘキは古い本来の読み方のようである。

片山の段丘に古墳があり、付近に弥生-古墳時代の遺物散布地がある。
集落北方の山上に本城とよぶ古城跡があり土塁・櫓台・竪堀などが残る。本城は日置谷城、枝城が片山城であろうか。
日置谷城
片山城
城の殿様が住んでいたのが殿村であろうか。


臨済宗南禅寺派永龍山上林(じょうりん)禅寺


殿の臨済宗南禅寺派上林禅寺。枝垂桜がご自慢、きれいな花のお寺。写真は少し賞味切れの時期のもの。
永仁元年(1293)開創と伝える大了(だいりょう)寺(のちに大龍寺)が馬場村の永勝寺を昭和43年に合寺したもの。
案内板
永龍山 上林禅寺
      臨済宗南禅寺派
当寺は、永仁元年(一二九三)天月窓白和尚の開創による天地山大了寺(のち乾坤山大龍寺と改め)と、寛永五年(一六二八)上林領主藤懸永重が父の永勝を弔うため馬場に建立し、藤懸氏代々の菩提寺であった永勝寺とが昭和四十二年に合寺されたものです。
現在の本堂は永勝寺のものを移築したもので、堂内の襖絵は、寛政三年(一七九一)吉田元陳の作で、獅子・四季花鳥・竹林七賢など三十四面が綾部市指定文化財に指定されています。
平成五年三月一日
綾部市教育委員会


大龍寺 八津合字殿  臨済宗南禅寺派
本尊 釈迦牟尼仏
天地山大了寺と称した。永仁元年創建(一二九三)天月窓白和尚を請じて開山とした。天月窓白は天龍寺夢窓国師に法を嗣ぎ、暦応元年九月示寂、開山示寂より中興本淵祖白の正保二年迄の事象は不詳、爾来十五世連綿として今日に至る。現大龍寺の寺名は嘉永年間大鑑和尚により改められ、又乾坤山の山号は明治元年に改められた。当寺はもと今日乾坤と称する丘陵に建ててられてゐたと云ふ因縁によってこの称に改めたと云ふ。十一世周乙和尚願を起し十三年後嘉永六年十二世大鑑和尚により本堂再建。明治六年廃仏毀釈の風潮に遇ひこの本堂建物を地方小学校として強制使用せられた。その間二十一年寺門は庫裡の一隅に閑居の有様であったが、小学校新築と共に修繕前形に復し、更に昭和十年敬宗和尚開山六百年遠諱奉修を記念して面目一新したが、昭和二十八年九月台風十三号により裏山崩壊によつて本堂は倒壊した。爾来本堂再違計画がなされてゐる。
門脇に枝垂桜の大樹があり、春開花季節は門景更に景観を呈してゐる。
檀徒数 一三〇戸
現住職 湖海玄昌

永勝寺 八津合字馬場  臨済宗南禅寺派
本尊 観世音菩薩
従五位 藤懸永勝公を開基とす。宝永五年藤懸永重この寺を建立し、藤懸山と号し光岳禅師を開山した。光岳座元は若州の人、奥上林庄金剛、慈慶に住し、霊叟禅師に印可を受く。寛文五年藤懸永俊再建修復。藤懸公より寺領十四石を付せられ明治廃藩まで継続されていた。裏山には藤懸家累代の塔所及日本三大仇討にて有名なる石井半蔵の墓所も在る。
本尊 正観音菩薩  丈三尺五寸
明和八年洛東真如堂より波多野玄茂請受け寄進した。
石井仇討の大脇差
銘 完粟以鉄宗栄信士作之下河氏虎眠沢睡居工指之(指表但利加羅不動)
檀徒数  五十七戸
現住職  杉田元亭
(『中上林村誌』)

天地山大了寺 臨済宗京南禅寺末  日置村
本尊 釈伽如来 開山天月和尚 暦応元寅年 寛政辰ニ四百六十一年ト云 建立ハ永仁元年ニシテ五百五年ト云

藤懸山永勝寺 禅宗   馬場村
寛永五戊辰年当領主藤掛永重建立
本尊 聖観音恵心作 石井宮内久亮墓有リ
(『丹波志』)

浄土真宗西本願寺派西方寺

西方寺 八津合字片山  真宗西本院寺派
開基は裕名治平、釈名を了然と云ふ。庵室を結んでゐたが宝暦二年寺号の公許を得て門徒衆の信仰篤く今日に至つてゐる。
檀徒数  二十八戸
現住職  佐々木恵雲
(『中上林村誌』)


西屋神谷(にしやこうだに)
西屋神谷村は、江戸期~明治7年の村。上林川中流の北岸側、若狭街道沿いに位置する。旗本城下藤懸氏知行地。当村は西屋・神谷からなり江戸期を通じ各々に庄屋がいた。
明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年瀬尾谷・山田・馬場・石橋・殿・日置谷・西屋・神谷の近隣8ヵ村が合併して八津合村となった。

八幡神社

案内板がある。
八幡宮(綾部市八津合町西屋)
当社は、旧の郷杜であったが、現在は八津合十一町区の総氏神である。
八幡宮の主祭神は応神天皇で、社伝によると、建武二年(一三三五)に元八幡の地よりここに遷座して再建、本殿は文化十二年(一八一五)、領主藤懸永恵の命によって再造営された大形の一間社流造の建物で、前面に唐破風造の拝所を付設しているのが特長である。
棟札によると、大工は播州来住村の兵右衛門で、拝所や本殿に飾られている象、獅子、雲、鶴などの動植物の彫刻は、丹波・丹後に多くの建築彫刻を残している、氷上郡柏原の彫刻師、中井政忠によるものであることが本殿脇障子の刻銘によっても明らかで、この本殿は文化の頃特有のおおらかな装飾感覚をもつ建物本体に、上述の優秀な彫刻群が調和して優れた建物となっている。また、八幡宮一ノ鳥居は、旧若狭街道に面して建てられた大型の木造両部鳥居で、親柱を礎石の上にたて、前後の控柱で支える形式の鳥居で、文久二年(一八六二)の建立である。笠木の勾配の取り方や全体の美しさ垂厚さは抜群である。
一方、八幡宮の境内地は街道から直線軸に主要社殿を配し、周囲の老杉や植林樹が一体となって「鎮守の森」の形態をとどめており、こうした境内地の景観を保全するため文化財環境保全地区に決定された。
指定文化財
京都府指定八幡宮本殿一棟
京都府登録八幡宮一ノ鳥居一基
京都府決定八幡宮文化財環境保全地区
  平成五年十一月
         綾部の文化財を守る会

八幡宮
一、所在地 八津含町神谷六十四番地
一、祭 神 応神天皇  主神
       伊邪那伎神  側神
       伊那那美神  側神
一、創立 建武二年(一三二五)乙亥
一、祭礼 十月十四日、十五日
  夏期祭礼は七月十五日に行はれている御旅所を石橋に設けて神輿を中心として氏子中総出で御供をし幡を数十本列べて永くあでやかな渡御行列をするのである。近辺に稀な珍らしい形式の祭礼である。
一、境内小社  神明宮社(伊邪那岐伊邪那美神)
          大川神社(興津彦命・興津姫命)
          稲荷神社(倉稲魂神猿田彦命)
一、由緒 往古応神天皇の皇子大山守命の裔である。幣岐君の一族此の地に来て土地を拓き祠を建て祖神応神天皇を奉祀したものであって、今尚此の土地を元八幡と云ひ伝えている。現在の神域に遷座したのは建武二年(一三三五)で伊邪那岐神伊邪那美大山祇神を合祠し、其の後慶長六年(一六〇一)藤懸美作守永勝、丹波国小雲より上林郷に移封されるや累代の領主尊崇すること厚く、領内の住民は総て氏神として崇敬して現在に至る。現今甲社殿は文化十二年(一八一五)の造営である。明治六年(一八七三)村社に列し大正十年(一九二三)十月十五日神饌幣帛供進指定神社となり、昭和八年(一九三三)十月二十五日郷社に昇格した。現在は法の定める処により宗教法人となっている日置谷村中六十七番地に鎮座の村社神明宮(左殿石殿)弐棟は明治四十二年に合祠されている。
(『中上林村誌』)

八幡宮   西屋村 産神
祭ル神       祭礼 八月十五日
拝殿二間ニ七間 長屋 一二ノ鳥居 森凡三十間ニ百間 氏子八ケ村 西屋 殿村 日置谷 石橋 馬場 山田 瀬尾谷村 宮本西屋村 八幡移シ煉札ニ建武元年ト有
(『丹波志』)

神明宮
日置谷にあった神明宮が移されている。

神明宮 両宮二社   日置谷村
祭神     祭礼 三月十六日 九月十六日
拝殿二間六間 鳥居 境内地頭ヨリノ制札有 当社謂明暦元乙未年 当谷藤掛殿江戸芝ノ神明宮ヲ信シ勧請ト云 神主当谷弓削村ニ往古ヨリ住スト 中興同社エ来ル 神子神主家者先祖宇多源氏定綱ノ四男氏伝ノツリ也 石野宮内ト云
(『丹波志』)

宝珠院
神谷村分に真言宗君尾山光明寺里坊がある。光明寺ははじめ23坊あったが、享保18年に全焼し6坊のみ再建され、幕末には4坊となった、という。
宝珠院  八津合字神谷  真言宗醍醐寺派
本尊  不動明王
聖徳太子開創にかゝる君尾出光明寺九十九坊の一坊であって、縁起その他不詳、この他寺町の名はもと光明寺盛んであったころ、坊所が連なってゐたものゝ如く所々にその痕跡が残ってゐるが、今日ではこの寺一寺のみとなり名残りを止めてゐる。
現住職  松尾空然
(『中上林村誌』)
地図には当寺がある、今は大きな屋敷跡のような感じの建物である。寺院としては今はもうないのかも…。今でも寺町と呼ばれる一帯で、このあたりには光明寺の里坊がたくさんあった。上林城の城下町のような所であったのかと思われる。


瀬尾谷(しょうだに)

上林川中流南岸の段丘に位置する。東南は山がめぐり、西は山田村の竹原。
瀬尾谷村は、江戸期~明治7年の村。天正17年(1589)の光明寺文書再建奉加帳に「瀬尾 出羽守」とあるのが初見。旗本城下藤懸氏知行地。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年瀬尾谷・山田・馬場・石橋・殿・日置谷・西屋・神谷の8ヵ村が合併して八津合村となった。


山田
上林川中流域、南岸の段丘に位置する。南は大栗(おおくり)峠(大国峠) 越え船井郡粟野(和知町)に通ずる。東北は瀬尾谷村、西北は馬場村。
中世は上林庄の地。村名は勧進奉加帳(光明寺文書)の天正17年(1589)分に「山田 こゑたわのうは」とあるのが初見。江戸時代は旗本城下藤懸氏領。
山田村は、江戸期~明治7年の村。枝村に竹原村がある。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年近隣の7ヵ村と合併して八津合村となった。

浄土真宗西本願寺派平等寺
平等寺 八津合字竹原  真宗西本願寺派
本尊  阿弥陀如来
寛保三年 惣道場建立、宝暦十四年寺号公称今日に及ぶ
檀徒教 一三戸
(『中上林村誌』)


馬場
上林川中流南岸、城山の南麓に位置する。南方山麓に馬場古墳群がある。
中世は上林庄の地。村名は文明2年(1470)の川北奥太夫覚状に、「馬場村 道谷ゑほし岩よりおくは立筈也」とあり、当村と浅原・石橋・弓削・西屋・念道5か村の入会について定めているというのが初見。天正16年(1588)の馬場村由来書には、
 一馬場村ハ元名ヲ波葉村ト申シテ丸山ノ段より風呂
 谷近処へ懸テ御座候処、天正二年七月頃明智光秀
 様ノ御家来仁木久兵衛様ト申御方様上林奉行トシ
 テ此上林庄へ御越被成此節丸山ノ段ヲ馬場ニ差上
 ヨト厳敷御仰被付無拠其場ヲ立退キ今此上之地へ
 屋敷替へ致シ候者ニ御座候
と記しているそう。
天正2年、村西北の城山に拠った上林氏の退転後、織田氏配下の武将によって城地が拡張されていった様子だそう。慶長6年(1601)藤懸永勝入部後は石橋村・山田村・瀬尾谷村と併せ城下四箇とよぶことがあった(丹波負笈録)。旗本城下藤懸氏領。
近世の馬場村は、江戸期~明治7年の村。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年八津合村の一部となる。

村内に永勝寺跡がある。同寺は寛永5年(1628)領主藤懸永重が父永勝を弔うために建立し、菩提寺とした。昭和43年、日置殿の大龍寺に合寺され、上林禅寺となる。


石橋
神谷から上林川を越えて、城山の西南麓に位置する。東は馬場村、南は浅原村。旗本城下藤懸氏領。
中世は上林庄の地。文明2年8月日の川北奥太夫覚状に「一、石橋村 五札谷在立目也、但シ日置谷ハ石橋村之下ニ付也」とあるのが初見。当村のほか浅原・馬場・弓削・西屋・念道など5か村の入会について定めている。
近世の石橋村は、江戸期~明治7年の村名。村内の城山は中世末期の土豪上林氏の居城と伝える。慶長6年旗本藤懸永勝が入部し、山麓に陣屋を構え代官に領政を行わせ、ここを城下(しろした)と称した。元禄14年伊勢国亀山で仇討ちを果たして有名となった石井半蔵がのち藤懸氏に仕えて代官となり、その子孫が代官を世襲した。藤懸氏はのち分知し、当村は本家の旗本城下藤懸氏知行地となる。
明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年近隣の7ヵ村と合併して八津合村となった。

上林城と上林氏


若狭街道(府道1号)から見る城山↑
上林川の大手橋から見る城山↓



頂上の「本丸」まで車で登れる。歩いて登る道もある。

頂上。
どの方向もよく見渡せる。これは城下側↓

若狭街道側↓

頂上に案内板がある。
上林城跡
古城山の名が残るこの丘陵上には、かつて上林氏の居城が築かれていた。
上林谷のほぼ中央に位置するこの独立丘陵上に構えられた城は、上林城あるいは生貫山(せいかんさん)城、蝸牛(かたつむり)ケ城とも呼称される。
上林氏は、丹波氷上郡の土豪赤井氏の一族で、足利尊氏に従って功を立てた赤井秀家がこの地何鹿郡上林庄に住み、初めて上林姓を称したという。天文二年(一五三三)の光明寺再建奉加帳には上林氏一族十一名が有力施主として名を連ねていることから、この頃までには上林氏が上林城を拠点に上林谷一帯を治める大きな存在となっていたようだ。
上林城跡は昭和五三~五六年度に発掘調査され、城の規模や構造が明らかになった。城は、丘陵頂部の本丸を中心として東西南北に廓を配している。
発掘で検出された石垣など数々の遺構から、この城が高度な築城技術による本格的な居館であったことが判明した。また、多量の出土遺物からは、この城の最盛期が一六世紀前半であることもわかった。
一六世紀後半、明智光秀勢の上林侵攻などにより、上林氏の勢力は弱まり、天正元年(一五七三)以降、上林氏一族はその発祥の地上林からの退転を余儀なくされていく。一族は各地に転出していくが、そのうちの一派は宇治で茶業を始めて成功し、宇治の茶舗上林家として有名になった。上林氏退転後、慶長六年(一六〇一)に藤懸永勝が上林に入り六千石を領した。
藤懸氏は先の上林城の麓に陣屋を築き、明治になるまでこの地を治めた。



『綾部市史』より↑↓
藤懸領の領政はいまのところ十分明らかにされていないが、領内を上・下番にわけ、陣屋を石橋におき代官に領政を行わせている。陣屋は上林川の東岸、城山のふもとにあり、石橋・馬場にわたっている。次の図は四千石の旗本の陣屋と城下の規模をしめすものとしてきわめて貴重である。城山南側の領主の邸宅を中心に塀をめぐらして城内とし、武器庫・剣術所などをおき家臣の住宅を配している。城外とは大手門より大手橋の道と通じており、この道の両側が城下町であって、町屋が二〇余軒と長屋・馬場などがある。

『中上林村誌』より↓


由良川 考古学散歩 -114- お城と摺鉢
木枯らしの吹く晩秋の夕べ、夫の無事の帰還を待ちわびつつ、ひとり静かに台所で胡麻を摺る…ああ、秋は人をもの思いにさせるなあ。
なんて、いったいどうしたの、と言われそうですね。とにかく、ひとつの摺鉢をみていたら、そんな気分になってしまったのです。
その摺鉢は綾部市八津合町の上林城跡から出土したものです。赤褐色をした素朴な丹波焼の摺鉢で、口径三十一・六センチ、器高十四・一センチと大きさも手頃なものでしょうか。内面にはいわゆる「おろし目」が幾筋も放射状に刻まれており、典型的な片口の摺鉢と言ってよいでしょう。今の私たちの台所にあるものと比べてもほとんど変らないのですが、一応これ、今から五百年近く前のものなのです。
上林城跡は、その名のとおり上林氏の城館跡で、別名「生貫山城(せいかんさんじょう)」とも呼ばれていました。上林氏は綾部の上林の地名を姓とする戦国期に栄えた氏族ですが、戦国末期には衰えて上林(城)から出ていくわけです。その後裔があの宇治茶の上林家になるのですが、その話は今日の主題ではありません。摺鉢主役なのです。
 上林城跡の発掘の結果、城のごみ捨て場のようなところから、この摺鉢をはじめ、天目茶碗、おろし皿、土師皿、青白磁など、たくさんの陶器片が出土しました。摺鉢の仲間としては、おろし皿なども見つかっています。
何を摺ったり、おろしたりしていたんでしょうね。戦国時代といえども、戦ばっかりの毎日ではないでしょうから、のんびり胡麻を摺るような牧歌的な日々もあったでしょう。あるいは、戦の前にまずは腹ごしらえ、ということで一生懸命摺っていたのかもしれません。殿様に「ゴマをすっていた」なんてことを言うのは、摺鉢に対する冒涜だと叱られそうですね。(近)
(『舞鶴市民新聞』(2003.11.21))

上林城


《八津合の人口・世帯数》 450・180


《交通》

《産業》

《姓氏・人物》
上林氏
上林荘は古代の賀美郷・拝師郷の地域で、鎌倉期には神護寺領となっていた。同荘は室町期には仁木氏領として相国寺領となっている。江戸期において宇治茶の頭取となった上林氏は、清和源氏、氷上郡の赤井氏の流れをくみ、芦田、荻野、大槻氏などとは同族で、上林の上林城の出であり、戦国末期には宇治へ移住したものである。赤井氏に攻め込まれ光明寺を焼かれたりしているが、上林氏は同族である、同族も信用できない時代であった。アメリカと日本とか西側世界のようなものか。長年の味方国も敵に廻してしまう政権がどこかの敵国と仲良くできるかは心配なことである。
栂尾にくらべて末流あるいは非茶とされていた宇治茶が、名実ともに栂尾茶を凌駕して本茶の地位を確立していくのは室町期のことという。足利義満あるいは義政をはじめ、幕府管領などの保護を得た宇治産の茶は、北山・東山文化期における喫茶の普及下に大きく成長してゆき、やがていくつかの名園を生み出していった。
越前国朝倉氏に茶を売る権利を持っていた堀氏、織田信長の時代における茶業界を主導していた森氏、そのほか山田・長者・味木・菱木・吉村など多くの茶業家に育まれた宇治の茶は、やがて豊臣秀吉・徳川家康らの強力なバックを得て、近世茶業界を統轄する上林家の登場、今も行われている「履下」という茶樹栽培の変化というか進化、そして柳営茶道の興隆という社会的背景のなかで、茶の文化の底辺をしっかりと支え、日本茶の代名詞として定着していく。
やがて江戸幕府の保護と管掌、その下で茶師上林一族によって統轄された近世の宇治茶業界、その茶師頭取が宇治郷支配を担当していた。
明智光秀に上林城を落とされ、領地を奪われた上林氏は今は当地にはまったくいない。城だけが残されている。
上林にありながら上林氏は宇治にもかなり広い茶園を所有していた、氏忠の時代という、下の資料にもある上林久重(宗印)の父だが、久重の三男に秀慶(春松)があり、その裔の上林春松本舗がある、創業450年という。そのHP上林春松本舗
自動販売機などにに置いている「綾鷹」は当店の商品。
「春松一ぷく値千金」(古田織部)
「春松は値千金の御茶師哉」(沢庵禅師)の短冊が残るそうである。


丹波から宇治へ
時の上林氏の当主は上林久重(宗印)であり、子息に長子掃部丞久茂、次男紹喜(味卜)、三男秀慶(春松)、四男政重(竹庵)がいた。また、丹波は古くから茶の生産地であり、上林一族も茶の生産に携わっていたと思われる。
というのも、上林庄にありながら、茶産地である宇治との往来があった記録が残されているからである。
 宇治における上林氏の初見は、大永四年(一五二四)の次の文書に見える。
  永代売渡申茶園之事、合壱所者字カマカハサマ四至先本券アリ
  右件茶園者両所ヲ両度に上林買得といえともよふよふあるによって現銭三貫文に本文書四つうあひそ
  え堀与三衛門方へうり渡申所也、於此下地無無諸公事若於後日いむ人あらはたう人さいくわにおこな
  わるへき者也、仍後日状如件
   大永四甲申十二月廿一日(花押)
                    (『宇治市史2』一九七四年)
 このことからも、大永年間の一五二五年頃には、丹波上林庄にありながら宇治においてかなり広い茶園を所有し、茶園の経営者として宇治との関わりがあったことが判る。
こうして丹波を去らざるをえなくなった上林一族が宇治に至るまでには数年の放浪期間があり、久重と親睦があった北近江の浅井家との関係、また江州佐々木家との因縁があったことから、一時近江にあったとされている。上林久重親子が宇治に定着した年代は定かではないが、天正元年(一五七二)に織田信長の命によって上林久重・久茂父子に槇島城管轄内における商人の交通・運輸、宿泊統制の権限が与えられたとの記録が見られ、永禄年間(一五五八~七〇)にはすでに宇治に所在していたと推定される。
(『宇治茶と上林一族』)
信長の時代は上林氏は新参者だったが、やがて秀吉に引き立てられ、千利休との交流などで、この時代の末には宇治茶業界に確固たる地位を占め、上林五家を作っていった。茶は坊さんの健康飲料だったが、茶道として政道の礼法に調えられ武家、幕府、大名だけでなく社寺・公家などにも用いられ諸国に広まっていった。
本能寺の変で当時堺にいた徳川家康を上林久茂が山中の間道を信楽まで送り、徳川との繋がりあった。やがて旗本格の茶頭取や御物御茶師筆頭に取り立て幕末までその名を連ねたという。

茶園を営んだ風雅な武将  ●上林氏の足跡
綾部市東北部の上林谷は福井県大飯郡に接する。面積は市域の三分の一以上を占めるが、大半が山林で、山国綾部のなかでもきわ立った山間地域である。
上林氏は、この上林を苗字の地とする土豪である。系譜は同じ奥丹波氷上郡の国人赤井氏の同族とする。足利尊氏麾下の赤井基家の子秀家が上林に住みこれを姓としたものという。この地域には平安後期すでに上林荘が立荘されていた。ただし広大な上林荘は室町中期には上村・下村にわかれており、それぞれに京都の相国寺領や足利氏一族の名門仁木氏の所領が混在していた。上林氏はその配下の荘官として在地の管理に当たっていたものであろう。
上林氏の存在がクローズアップされるのは天文二年(一五三三)の君尾山光明寺の再建である。先の大永七年(一五二七)の兵乱で罹災した堂塔の再建にあたり、光明寺は前年に堺で没落した丹波守護細川高国の弟晴国の助力を求めた。当時晴国は兄高国の後継者として同族の晴元と戦い、若狭方面から奥丹波一円に勢力を広げつつあったからである。光明寺の勧進奉加帳冒頭には晴国が署名し、ついで上林新左衛門尉をはじめとする上林氏一族十数人が有力な施主として名を連ねている。
ところで、大永六年から七年にかけて何鹿郡地方では光明寺以外にも多くの寺院が赤井氏の兵火に罹り焼失したという伝承をもっていて、これを「赤井の乱」ともいう。赤井氏が中央での細川両家の内紛に乗じ何度郡への本格的な進出を目指したことによるものであるが、このことにより直ちに郡内での赤井氏の覇権が確立したわけではなく、丹波の雄内藤氏との激しい相克があり、内藤氏は片や若狭丹波国境で武田氏とも睨み合っていた。
この若丹国境に位置する上林谷にあって、上林氏の居城と目されるところが八津合町石橋の上林城である。上林谷のほぼ中央部にある独立丘陵で、二〇年ばかり前の発掘調査によって、山腹から山頂にかけて山城としては極めて高度な技術が駆使されていたことが分かっている。
永禄一二年(一五六九)、この城を都随一の連歌師で、明智光秀とも交流のあった里村紹巴が若狭から天橋立を見物しての帰路に訪れている。すでに宇治に茶園を経営し、茶の世界でも知られていたであろう友人(上林加賀守久重か)は不在であったが、その古里に宿した感慨を次の歌に遺している。
 枕かす 宿なくともの 花野かな
この歌の穏やかなひびきとは裏腹に、数年後上林氏の運命は激変した。天正元年(一五七三)、近江の浅井氏が織田信長に屈服すると、浅井氏の麾下にあった久重は上林を離れた。紹巴が「風雅に心ざしあり」と称えた嫡孫下総守は「祖父ノゾンブン」として、天正二年切腹に追いやられ、その年明智光秀の家臣が上林奉行として派遣された。上林氏はやがてこの地から退転し、宇治の茶舗上林家がその系譜をいまに伝える。 (川端二三三郎)
(『福知山・綾部の歴史』)

上林氏 丹波国上林庄から出て山城の宇治茶の元祖となり、江戸時代、幕府の御物茶師の頭取りとなった上林氏は、何鹿部の上林を姓とし上林に住んでいた土豪である。
上林氏は清和源氏赤井氏流で、芦田・荻野・大槻などと同族である。「丹波赤井氏系図」によると、源頼信四代の孫家光、故あって丹波に流され、家光の子道家以来数代にわたって丹波半国の押領使となったが、朝家のとき承久の乱に京方についたため所領を没収され、為家のとき丹波氷上郡赤井野に住しはじめて赤井と称し、氷上・天田・何鹿の奥三郡を領したという。(建保三年朝家譲状)
為家の曾孫秀家は足利尊氏に従って功をたて、何鹿郡上林庄に住み、初めて上林氏を称したとあるから、秀家は室町幕府の被官で上林地方の地頭として入部したものであろう。
秀家の九世の孫氏忠のとき、山城の宇治に移住し(前代記録)茶業にたずさわったようすであり、子久重も宇治で没している。しかしその後も上林氏は依然として上林荘の支配者であり、一族は庄内各地にとどまって、在地豪族として分立発展していった。上林氏忠がなぜ宇治に移り住んで茶業にたずさわるようになったかはいまのところわからない。あるいは上林荘が茶栽培の先進地であったか、また何かの理由で上林氏が茶について特技をもっていたのかもしれない。
宇治の上林氏 宇治茶の起源は、鎌倉時代に栂尾の明恵上人が建仁寺の栄西から中国移入の茶の種をもらい、山城の宇治に分栽したのがはじめで、室町時代には足利義満が自ら宇治に茶園を設けるほどの熱心さであったので、宇治茶の名声は全国に聞こえるようになった。足利義政は銀閣寺を建てて茶の湯を盛んに行ったが、当時すでに茶園におおいを用い、良茶を生産するようになっている。
宇治茶の最も早い開拓者は堀家で、ついであらわれたのが上林家である。大永四年(一五二四)、上林氏は一度買った茶園を堀家へ売り渡して(兼見卿記)いるから、何鹿郡上林荘から上林氏が宇治へ移住して茶園をはじめたのはそれより前で、おおよそ永正年間(一五〇四-一五二〇) ではなかろうか。それより約六〇年後の天正十二年(一五八四)には上林家は宇治一番の茶園を有し、焙炉(ほいろ)四八、茶摘み女五〇〇人を使用する大茶業師になっており、当時宇治茶で有名になっていた森家をはるかにしのいで、その約三倍の規模をもっていた。(京都の歴史)
氏忠の子久重は宇治に没し、長子久茂は宇治を相続して信長・秀吉に仕えている。久茂の弟政重は天文十九年宇治に生まれ、一時、領国丹波の上林荘に住んでいたようである。元亀二年、三河におもむき家康の家臣となって一〇〇石を賜わり、岡崎城下の奉行に任じられていた。
天正八年(一五八〇)、辞して宇治へ帰り、もっぱら茶業に従った。政重は竹庵と号し、森氏の所領三〇〇石をうけつぎ、本家分家並んで宇治郷の代官家として分立することになった。本家久茂の子孫は峯順、分家政重の子孫は竹庵を名乗って代々宇治の御物茶師の頭取りとなって栄えた。
光明寺と上林氏 中世において、君尾山光明寺は上林全域に勢力をもち、領家的存在であったと思われる。そうして上林地域には、上林氏をはじめ中嶋・福井・渡辺などの土豪がいて在地を支配していた。ところが大永六年、後に述べる大永の乱がおこり、細川高国方についた上林の地域は氷上部の赤井氏に攻めこまれ、光明寺をはじめ多くの寺院が焼かれた。
高国はそのあと弟晴国に光明寺の再建を命じ、晴国は再建の勧進を許し、部将上羽丹波守をこれに当らせた。天文二年再建成ると伝えているが、完成までにはあと数年を要したのであろう。光明寺に残されている当時の「勧進奉加帳」によると、在地領主・土豪・寺院・住民等が応分の奉加を行っており、光明寺が地域において占める地位の大きさを知るとともに、庶民信仰のようすをさぐることができる。奉加帳に記されている上林氏を挙げると、
 参拾貫文 上林新左衛門尉  伍貫文   上林孫九郎
 弐拾貫文 上林伊豆守    柱一本   上林遠江守
 壱貫文  上林左衛門尉   三拾疋   上林八郎
 三拾疋  上林八郎右衛門  三拾疋   上林左京進
 五拾疋  上林大和守    壱貫五百文 上林修理進
 五百文  上林豊前守
天文二年から五年ごろまでに奉加帳に記載された上林氏は前記の一一名であるが、中には親子の分があるとしても数家は下らないだろう。上林政重が上林を出たのは元亀二年(一五七一)であるが、それ以後も上林氏の一部は上林に残っていた。たとえば天正二年、織田信長の家臣高田豊後守が若狭から奥上林に入り、生貫山城の上林下総守を降した(丹波史年表)後も、豊後守は奥上林の山内に城を築いて生貫山城を上林氏に返しているようであり、天正八年、明智光秀が山家城主和久左衛門佐を攻略したとき、取り逃したので捕えるよう和知の土豪に与えた下知状(御霊神社文書)の最後に、「猶上林紀伊守可申候」とあるところから、上林氏が光秀の配下として天正八年に存在していたことがわかる。その後上林氏一族がすっかり上林を離れ、宇治その他へ出ていってしまったのは、秀吉が丹波の蔵入地支配を除々に整理して、大名領国を定めるころと思われる。何鹿郡では天正十年に山家一万石を谷氏に、天正十五年には上林で一万石を高田豊後守に与え、大名領国に切りかえたころである。そして宇治における上林氏の茶業・茶師としての成功が、遠国知行を自然切り離すことになったのではなかろうか。江戸時代より後、上林には上林氏を名乗る家が全くなくなっている。
(『綾部市史』)

上林政重
上体政重は戦国時代の人にしで佐々木左京大夫義賢の子孫なり。本郡上林の荘に生る。因て佐々木を改めて上林氏を称す。幼名は又市だいひ成人後越前政重といふ。後山城国宇治に移りて住す。元亀二年三河に行きで徳川家康に仕へ土呂郷の中百石を食む。長久手の戦に首を獲ること二顔感状及槍一柄を受く。岡崎の町史なりしも天正八年辞して宇治にかへり茶道に志す。慶長五年秋石田三成伏見を攻むるや、政重騎十三卒百三十人を引率して桃山城を守る。鳥井元忠「貴下は茶戸なれば早く去って生命を全うせられよ。」といふ。政重従はす。「我家康公の恩をうくる大なり今危に臨みて主を捨つるは人倫に非ず。」とて太鼓丸を守る。茶筅を以て徽章とし甲冑の上に茜布をつく。小早川秀秋の軍に囲まれて敗死す。鈴木善八郎之を?す。時に八月一日にして政重五十一歳なりき。西軍首を伏見の京橋に梟せしを宇治の人之を平等院に葬る。政重生前剃髪して竹庵といふ。三子あり。
長男は林藤四郎の養子となり元和元年高木正次に隷し大阪に戦死す。
次は伊賀守と称し族を林と称、家康の子秀康に従ひて殉死す。
三男政信は父死するの年逃れて高野山の中性院に入りしが関ヶ原の役後家廉に召出されて代官となり元和中大阪の役に従ひ増地三百石を領す。前後併せて一萬三千石に知たり。後竹庵と称し宇治に宰たりしが度々将軍に召されて、関東に到る途次箱根にて落馬し家に帰り年を経て死す。政信の子は政次といひ又兵衛と唱ふ。政次三子あり、政矩、定政、政富、政富家をつぎしが早逝せし故、他家にありし定政帰りて家をつぎ四代将軍家綱よも寛文五年十一月召されて印章を賜ひ、貞享二年には綱吉より印章を拝戴す。定政元禄十二年八月朔日政重の一百年忌辰に当り林大学頭鳳岡に文を依頼して建碑す。
 (野史、宇治平等院内上林竹庵政重碑)
(『何鹿郡誌』)


藤懸氏
藤懸領の成立 藤懸氏はもと藤掛と称し、織田の一族であるという。上林に入部したのは永勝であるが、祖父長俊は織田造酒允信豊の子であり、父の永継はまた長継といい、初め永沼左馬進永政、後に織田右馬亮永継となのり、織田信長に仕えて一万三千石を領した。永勝は永継の長男で、永禄元年二歳で父とわかれ、外祖父藤掛善右衛門に育てられ藤掛と称した。十一歳のころから信長に仕え、のち従五位下三河守となり、信長の四男中納言秀勝に仕えた。天正元年(一五七三)八月、近江の小谷城攻撃に参加し、浅井長政より妻お市および三女を預かって信長の本営におくりとどけたことは、永勝の事績のなかで最も著明なことである。のち豊臣秀吉に従って氷上郡小雲で一万三千石を領した。
関ヵ原の戦で永勝は西軍に属し、田辺城攻撃に参加したため、戦後七千石を減じられて六千石となり、上林に転封されて旗本となった。慶長六年(一六〇一)に上林に入部し、石橋村の城山に陣屋をおき、これより名を藤懸美作守と改めたという。永勝は元和三年六月五日、六十一歳で京都の邸で没した。上林の庵室に葬ったが、子永重の時一寺をたて永勝寺として改葬した。

藤懸分家の創立 藤懸氏は山家藩・綾部藩と同じように一族を分知させたが、それは次の通りである。
永勝は口・中・奥上林および白道路・西坂の地域を領有していたが、長男永重に五千石・二男永元に一千石をわけ与えた。永元は二男というが、実は永勝の養子で八左衛門と称し、江州浅井家臣遠藤喜右衛門の子である。永元は豊臣秀頼に仕え、大阪の陣で戦死したためその領地は天領となり、小出吉親が出石から園部に移封するにあたって園部領となった。藤懸領と園部領の併存は、はげしい山林の境界争いを生じている。
三代永俊は、四男永久に五百石をさいて分家させたが、これが元禄二年(一六八九)に成立した小山藤懸領である。小山領は小山・井根・川原・浅原・佃の五か村で、小山に治所をおいて領内を支配した。在地の支配は川北氏があたったといい、その治政は城下藤懸領とほとんど差をみない。
藤懸氏はまた宝永三年(一七〇六)四代永次の時、七男永貞に赤目坂の大部分五百石を与えた。これが赤目坂藤懸領である。赤目坂の幕末の領主は藤懸源之助であり、在地の支配者は中野氏である。川北・中野氏の支配者としての性格については明らかでない。藤懸領は本家城下領四千石と、小山・赤目坂それぞれ五百石の三領となった。

城下藤懸領政の展開 藤懸氏代々の領主は右の通りであり、三代永俊は各地の普請奉行をつとめ、四代永次の時寄合衆となったという。
藤懸領の領政はいまのところ十分明らかにされていないが、領内を上・下番にわけ、陣屋を石橋におき代官に領政を行わせている。陣屋は上林川の東岸、城山のふもとにあり、石橋・馬場にわたっている。次の図は四千石の旗本の陣屋と城下の規模をしめすものとしてきわめて貴重である。城山南側の領主の邸宅を中心に塀をめぐらして城内とし、武器庫・剣術所などをおき家臣の住宅を配している。城外とは大手門より大手橋の道と通じており、この道の両側が城下町であって、町屋が二〇余軒と長屋・馬場などがある。
藤懸領の役人は、諸記録に石井・内田治部助・関上政右衛門・赤井伊助などの名がみえるが、家臣の構成は十倉領のように明らかでない。元禄十四年に伊勢の亀山で仇討ちをして有名になった石井半蔵が、後に藤懸氏に仕えて代官となり、子孫は代官職をひきついだ。また享和三年(一八〇三)に赤井・内田の両役人の追放のことが記録されており、幕末には代官のほか、用人として伊藤・古川などの名が記録に残っている。
(『綾部市史』)

藤掛永勝
藤掛永勝は桓武平氏の裔にして織田の一族なり。父を永継といひ祖父を長俊といふ。
長俊は従四位下侍従となり阿波守と称す。
織田造酒允信豊の子なり。
永継は長継とも書す。始め永沼左馬進永政といひ後改めて織田右馬亮永継といふ。織田信長に仕へて一萬三千石を食む。
永勝は永継の長男にして三河守と称し信長に出仕す。かつて信長より名刀「於次九」を拝受せしことあり。天正元年八月には小谷城攻撃に参加し浅井長政より其の妻お市殿及三女を預りて無事信長の本営に送付せり。後豊臣秀吉に仕へ天正十二年三月には北国に使し、文禄の朝鮮征伐には軍に従ひて大功あり。此の役に鶴羽を廻らしで旗を翻す。従五位下に叙せられ、一萬三千石を領して氷上郡小雲に治す。
関ケ原合戦には大阪方に属して田辺城を攻めしため、七千石を削減せられ六千石となり本郡上林へ知行替となる。因って慶長六年上体へ入部石橋村の城山の根張に陣屋を置く。これより美作守と改め藤懸と書す。長男永重へ五千石次男永元へ千石を伝へしが大阪落城の時永元討死せしかば其の知行他領となりぬ。
永勝元和三年六月五日京都の邸にて病死せり。年六十一。遺体を上林に葬る。墓所詳ならず。
寺町の東方長老ケ壇といひ伝ふ。後元禄十三年藤懸氏菩提所として馬場村に藤懸山永勝寺を建立するに及寺背の山腹に改葬せり。法号は永勝寺殿玄齋宗三大居士。子孫伝へて明治維新に及ぶ。
 (永勝寺記録、近世日本国民史、藤懸氏系図、淀君)
(『何鹿郡誌』)


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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