広瀬(ひろせ)
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京都府船井郡京丹波町広瀬 京都府船井郡和知町広瀬 京都府船井郡下和知村広瀬 |
広瀬の概要《広瀬の概要》 舞鶴あたりの人にはなつかしい所ではなかろうか。「あー、ここ走ったなぁー」などと思い出されることかと思う。通称「犬もどり」と呼ばれるところで、犬も引き返したという難所、道路は昔の国道27号線で、上流側から下流側を向いて写している。由良川との高さの差が小さく、けっこう長く低い、川が増水すれば、川は道路の上も流れて、通行止めになった。「犬戻りが通行止めで京都ヘ行けん」「京都から荷物が遅れる」などと言っていたことを思い出す。 今はこの部分にはバイパスが出来ているし、高速もあるので、もうここはめったに走ることはなくなっている。今は府道59号となっている。 集落は、この右手の山の中、河岸段丘の谷にあり、道路からはほとんどが見えない。 広瀬村は、室町期~戦国期に見える村。「北野社家日記」文明7年5月2日条、延徳3年9月8日条、明応2年8月9日条などに見え、室町末期には北野社が知行していた。 文明8年9月には松月庵桂厚が、寛正5年12月に買得した「丹波国船井郡広瀬村為久名田九段卅代」を売主一宮備後守が違乱したとして訴えており(親元日記3)、明応6年8月には北野社僧盛輪院が「丹波国広瀬久富(留)名内年貢米弐拾石」について中沢又次郎を訴えている(蟻川家古文書14・後鑑4)。 戦国期には久我家の知行するところとなったらしく、「久我家文書」中に、天正15・16・17年分の広瀬村年貢算用状が残されている。そ その後文禄4年10月2日付の豊臣秀吉朱印状に「丹波国船井郡湖摩畑村、為替地同郡広瀬村内拾六石」と見え、久我家は当村16石の替地として湖摩畑村を宛行われている(同前328-6)という。 近世の広瀬村は、江戸期~明治22年の村。元和5年から園部藩領。明治4年園部県を経て京都府に所属。同22年下和知村の大字となる。 広瀬は、明治22年~現在の大字名。はじめ下和知村、昭和30年からは和知町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。 《広瀬の人口・世帯数》 93・43 成瀬神社 どこにあるのか、と探さねばならない。
曹洞宗養久山福昌寺
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『船井郡誌』 『和知町誌』各巻 その他たくさん |
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