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保井谷(ほいだに)
京都府船井郡京丹波町保井谷


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京都府船井郡京丹波町保井谷

京都府船井郡瑞穂町保井谷

京都府船井郡瑞穂村保井谷

保井谷の概要




《保井谷の概要》
国道173号(綾部街道)が南北に貫通し、府道447号(上野水原線)が質実小学校のほうへ分岐するところ。高屋川が南流し、その川沿いに耕地や集落が開ける。
保井谷村は、江戸期~明治22年の村。旗本島氏知行地。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同6~22年当村に近隣の三宮・質志・猪鼻など計8か村の組合からなる小学校を設置、精業堂と称した。同22年三宮村の大字となった。
保井谷は、明治22年~現在の大字名。はじめ三宮村、昭和26年瑞穂村、同30年からは瑞穂町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。

元禄13年(1700)丹波国郷帳には「保井谷村」とあり、天保郷帳には「古者保井谷村」と肩書して「保井谷粟野村」と記す。旧高旧領取調帳には「粟野保井谷村」と記される。同帳によると旗本島頼母の知行地。のちに2村に分離したとみえる。


《保井谷の人口・世帯数》 85・31


《保井谷の主な社寺など》

大恩寺廃寺
『郷土史三ノ宮』
大恩寺
所在地 字保井谷小字丸山十五番地
開 創 寛政五甲年(一七九三)
開 基 徳雲寺二世 大清和尚
宗 派 曹洞宗
本 寺 徳雲寺
本 尊 薬師如来
建造物 本堂兼庫裡 一棟 堅七間 横四間半
      平屋茅葺 三十六坪七七
境内坪数 百拾五坪
檀信徒 二十四戸(保井谷村全戸)
由緒・由来
 寛政五申年の開闢にして、開基創立は本寺徳雲寺二世太清和尚である。依てこの僧を開山とす。
 往昔(年代不祥)火災にて全焼したるため、再建したが、檀中少く負債を生じたるため、寺院檀中協議の上、明治二十五年(一八九二)京都府知事、曹洞宗管長の認可により字粟野無動寺に合併する。
 当時の無動寺住職は十一世石雄和尚である。
備考
 この大恩寺の屋敷は、無動寺へ合併後は無動寺の所有地となり畑地に化したが、昭和二十一年(一九四六)の農地改革により当時の耕作者に売渡された。
 尚この寺に付設されていた小字丸山十四番地の墓地は今も尚残り、こゝに僧侶並に檀家三家の卵塔が奉置されている。



《交通》


《産業》
『郷土史三ノ宮』
鉱業
 三ノ宮地域内の鉱物で最も多いのは「マンガン」で、保井谷、粟野、猪鼻等で相当量採掘された。中でも大量の生産をしたのは保井谷大谷山のマンガンである。大正の初期から採掘が始められ、他の地方から来た採掘工夫が、最盛期には四、五人もいた程である。現場には洗鉱所も設けられてこゝに三、四人が従事し、又鉱床から穴の口迄の運搬、そこから洗鉱所迄へ架線による搬送、洗鉱された石のカマスの荷造りと、このカマスの府道迄への車による搬出と雑多な作業に多くの男女労務者が従事した。このため地元近隣の人々も多数労役に参加した。最盛期には、毎日二、三台の金輪の二輪車が、二粁近い農道を往復したものである。
 一時休鉱したこともあったが、太平洋戦争勃発に伴い、マンガンの採掘が行われたが、終戦と共に休坑された。
 又粟野及猪鼻には砥石山があって、大正年代に一時採掘されたことがあるが、長続きしなかった。
 珪石は猪鼻の深山官山から採掘されたことがあるが、之も長続きしなかった。
 又質志には、鉄があるというので業者が調査をし試験を行ったが、鉄分の含有量少く採算合わないため試掘のみで中止された。
 昭和二年(一九二七)質志に鍾乳洞が発見され、この附近一帯に石灰石が埋蔵されている事が分り、石灰がま二基をつくり石灰製造が行われたが、あまり良質のものが得られなかったようで、四、五年で中止された。
 この石灰を採掘した地点で、大理石採掘が試みられ、赤味がかった稀らしいもので有望性がうたわれた。業者はこの採掘加工を瑞穂町内の人々に働きかけ、町内有志十数名と地域外の人数名をもって有限会社をつくり、大理石採掘加工場を設置し多くの機械を導人して事業を行った。会社では昭和二十八年(一九五三)此の地域一帯の石灰岩量の調査を行うことゝし、京都大学の鉱山学教室助教授鈴鹿恒茂氏に依頼し、昭和二十九年(一九五四)その調査報告書ができた。それによると埋蔵量も多く品質も上等であることが判明したが、その経営は香ばしくなく六、七年で事業を中止して権利を他へ譲り、会社を閉鎖した。その後個人業者で昭和五十年現在に至るまで、小規模ながら採鉱が行われている。
 質志石灰岩の調査報告書は次のとおりである。…



《姓氏・人物》


保井谷の主な歴史記録




保井谷の伝説


『郷土史三ノ宮』
火が降った時に入る穴
 保井谷小字三ッ枝の総墓の隣りに、昔火が降った時に入る穴だと言われている穴があった。
 今ではこの穴は壊れてしまったが、元は巾二間(約四メートル)奥行三間(約六米)の大きさで、地下を少しく堀り下げ、周囲に石を積み上げ、天井も土で覆われていた。人口は約一間(二メートル)で高さは大体大人が立つたままは入れる程度のもので、内部には何の施設もない穴であった。
 明治の末期にはその形が残されていたが、そのうち天井も落ち始め、昭和の初めには周囲の石垣もこわれてしまった。この頃子供がここで遊んだが、その後ここに狐が巣をつくって多くの穴をあけた。
 火の降った時には入る穴ということは、昔地震や戦乱の時の避雛所ではなかったかと思うが、ほんとうの事は分らないし、何時頃、誰がつくつたかも不明である。






保井谷の小字一覧


保井谷(ほいだに)
大谷(おおたに) 大河谷(おこだに) 河原(かわら) 中田(なかた) 二本木(にほんぎ) 入道ケ谷(にゅうどうがたに) 橋ケ谷(はしがたに) 丸山(まるやま) 三ツ枝(みつえだ) 柳縄手(やなぎなわて) 岼ノ下(ゆりのした)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
その他たくさん



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