京都府船井郡京丹波町細谷
京都府船井郡和知町細谷
京都府船井郡上和知村細谷
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細谷の概要
《細谷の概要》
下粟野の奥で、周囲山林地帯を縫って上和知川が南流し、流域に耕地と集落が立地。右岸を府道51号(舞鶴和知線)が通る。上和知川に沿ったわずかな平坦地に位置する。
細谷村は、江戸期~明治22年の村。元和5年から園部藩領。明治4年園部県を経て京都府に所属。同22年上和知村の大字となる。
細谷は、明治22年~現在の大字名。はじめ上和知村、昭和30年からは和知町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。
《細谷の人口・世帯数》 30・15
《細谷の主な社寺など》
阿上三所神社
上和知川の左岸の山裾にあり、府道51号からも対岸に鳥居が見える。
阿上三所神社(細谷)
当社は、古くは正一位阿上三所大明神といい、南北朝時代、文和元年(一三五二)の創建と伝える。明治十九年(一八八六)二月十七日、火災により社殿とともに棟札なども焼失したが、文和期の再建年代のみを写した記録を残している。現社殿は明治二十四年、大工棟梁山下由平によって建築した旨の上棟棟札がある。
『寺社類集』には、「勧請年歴未考」と記されているだけで、当社の沿革などを知る史料は乏しい。ただ、文化五年(一八〇八)再建時の棟札が一点残されているのが、明治期焼失前の社殿の再建を伝える唯一の史料と言える。これによるしと、細谷・上粟野・仏主各村の村役人が名を連ね、棟梁は園部在住の横山某と木下某が当たっている。
当社の御神体は、写真185のように仏像三像で、神仏融合時代の名残を伝えている。明治維新の際神仏分離が行われ、慶応四年(一八六八)三月二十八日の次の布告、
一、仏像ヲ以神体ト致シ候神社ハ、以来相改メ申スベク候事。
付、本地抔ト唱へ仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口・梵鐘・仏具等ノ類差置候分ハ、早早取除キ申スベキ事。 (『法規分類大全・社寺門』)に始まって、明治期を通じて、村々の氏神から小社に至るまで厳しく取り締まりが行われたが、当社の御神体は取り除きを免れたわけである。 (『和知町誌』) |
曹洞宗白永山昌福寺
白永山昌福寺(曹洞宗) 字細谷小字細谷三七
同寺は『船井郡誌』によると、天正三年(一五七三)一空宗意の創建とするが、寺伝では次の通りである。
天正年間越後の僧一空宗意が長老山に登って修行し、長老山の一峰白永山に堂宇を建立し、阿弥陀如来と観音・勢至の脇侍を本尊として祀った。後、寛永十六年(一六三九) 堂宇を麓の現在地に移し、昌福寺と称した。和知の寺院のほとんどが、かつて真言宗で江戸初期に曹洞宗に転宗しているが(前節参照)、
当寺も同じで、『寺社類集』によると、正保三年(一六四六)に胡麻の龍沢寺二世日照弧峰を勧請開山とし曹洞宗に改めた。同時に従来の本尊を境内に建立した小堂に移し、釈迦牟尼仏を本尊とした。七世実岸慶春(一七二三没)が境内や伽藍を整備して中興とされ、明治に入って文厳宜秀(一八四三没)が法地(曹洞宗の寺格。正式の寺と改めること。前節参照)を起立した。 (『和知町誌』) |
お寺のあるこの谷が「細谷」のようだが、何とも名のとおりに細い谷で、おまけにこの前の西日本豪雨の洪水のためか道が水でめくれている。この奥に長老ヶ岳があるが、いけそうにはなかった。
《交通》
《産業》
《姓氏・人物》
細谷の主な歴史記録
細谷の伝説
摺粉木隠し 伝承地 船井郡和知町細谷
昔、山の谷の貧しい農家のうちへね、和尚さんが一人、「今晩泊めてくれ」言うて来やはった。ほしたら、その貧しいお婆さんが、「うちは貧して食べ物もないし、よう泊めることはようせん」と断った。ほんで、「どうしても泊めてほしい」「食べ物がないのでよう泊めん」て言うておったら、「食べ物は、向こうの稲木に稲がかかっとったで、それを盗んで来て、それを御飯にしてそして食べたらよいゆえ、あれを盗んで来てわしを泊めてくれ」言わはった。「けど、わしの足は普通の人とは違うでのう、足が、跡がつくで雪中に。ほんでもう、わしが盗んだいうことが分かるで、もうそれはお断り」と、固う断っても、和尚が、「それは、わしが分からんようにしたるで、泊めてくれえ」と言うてきかれんので、とうとうそえで泊めることにして、稲木の稲を盗んできて、そしてそれを籾を草履でこすって、そしてそのご飯を炊いて和尚さんに食べさした。ほして、そのお婆さんは、もう足跡が気になって非常に困ると思うとらはったら、その一夜寝た夜の間に雪が降って、そしてその自分の特殊なすりこぎの足跡が雪で分からんようになって、後で聞いたら、それがお大師さんやて、その和尚さんが言われたように、こう雪が降って、ほんでやっぱり困った人を助けたら、自分が悪いことをしてるんでも、お大師さんが分からんように隠してくだはった。
ほんで昔から十一月二十一日に、お霜月のお大師さんの日に雪が降ったら、この地方へお大師さんが来とらはるということを、この地方のみんなそう言いよった。 (『丹波和知の昔話』).
伝承探訪
霜月二十三日の夜は必ず雪が降る、とかつては信じられていた。旧暦二十三夜のこの雪をアトカクシ雪・スリコギカクシの雪と呼んでいる土地もある。かつて我々の祖先は、冬至という暦の語を知らぬ前から、一陽来復の季節を感じて、新しい神の子、即ちオオイコ(大子)を迎え祭ろうとした。村人はこの尊い神の子を歓待して、小豆粥や団子汁をこしらえて供えたのである。来訪する尊い神は、一年の収穫を終えた冬至の頃に来たって、来年の豊穣を約束してくれると信じたのである。したがってこの摺粉木隠しの伝説は、大師講の由来を説く伝承といっていい。
大師講の由来は、弘法大師に因んで説かれることが多い。巡歴の大師に進ぜる食べ物を盗みに出た老婆の足が不自由なので、それを哀れと思われた大師が、足跡を隠すように雪を降らせたと伝える。あるいは大師自身が盗みをされたと伝える土地もある。自ら畑の大根を盗んで来て汁にして食べた。大師は足指がないので、雪の足跡から露見するだろうと、宿の主人が心配すると、弘法は呪文を唱えて雪を降らし、その足跡を隠したという。
もちろんこの伝説は、歴史上の弘法大師空海とは全く関係のない伝承である。大師はみすぼらしい旅僧の姿で訪れてくる。そこには来訪神の面影がある。時を限って訪れる神々が〈ダイシ〉の名で語られ、巡行する弘法大師に付会伝承されたと五来重さんは説かれている。
地図を片手に山深い細谷の地を訪れると、聚落はまだ霧の中に沈んでいた。猪垣をめぐらした田畑で、早朝から野良仕事に励む老女に声をかけても、弘法大師の伝説は、かつて老媼から聴き伝えたものの、かすかな記憶でしかないと言われるのだ。
(『京都の伝説・丹波を歩く』) |
細谷の小字一覧
細谷(ほそたに)
井根口(いねぐち) 山根(やまね) 平ノ(ひらの) 古和田(こわだ) 細谷(ほそたに) ニイタメ 細ノ元(ほそのもと) 木古(きんご) 役谷(やくだに) 勘定(かんじょう) ヒラノ
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