院内(いんない)
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京都府船井郡京丹波町院内 京都府船井郡丹波町院内 京都府船井郡須知町院内 |
院内の概要旧山陰街道(京街道)に沿い曾根村の西に位置する。地内を高屋川支流曽根川・曽谷川が北流し、東西に走る府道444号(桧山丹波線)と交差している。 院内は、曽根を冠称して印内とも書く(元禄郷帳・天保郷帳)曽根村の内部に生じた集落であったものか。広いところでだいたい平らで地割りが真四角の農地、開拓村の様子、山手は緩傾斜地。昔はこのあたりは深い原野であったものか深志(ふかし)野の呼んでいたという。奈良時代の院内窯跡があってずいぶんと古い土地のようである。 院内村は、江戸期~明治22年の村。丹波国船井郡のうち。旗本前田氏・旗本柴田氏の相給知行地。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同22年須知村の大字となる。 院内は、明治22年~現在の大字名。はじめ須知村、明治34年須知町、昭和30年からは丹波町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。 《院内の人口・世帯数》 67・28 《院内の主な社寺など》 院内窯跡 西南にある池の土手に、奈良時代後期の須恵器窯跡(院内窯跡)がある。 『丹波町誌』 本町には、院内窯跡・天が柵窯跡がありて須恵器が出土しいずれも奈良時代のものと推定されている。これら窯跡は土地造成などにより破壊されて現存していない。 熊野神社 当社の前を東西に通る道、まっすぐのようなクネクネのような道だが、これが旧山陰街道と思われる。今は町道か。右ヘ行くと役場の前に出る。一直線にまっすぐの道は今の道であって、旧街道であるわけはない。 『丹波町誌』 熊野神社 一、所在地 院内小字北側 二、祭 神 伊邪那美命 三、例 祭 七月一五日 四、由緒、その他 社名に見られるように紀伊国の熊野三山信仰の中で、丹波守護細川政元が、中世の頃山陰道ので要所としてこの地を選び、勧請したものと推測される。安永八年(一七七九)神楽殿建立、文政一二年(一八二九)八月本殿改修、当時の改修費は四四名の寄進により、最高銀七匁五分、最低一二分と記録されている。昭和二三年台風で拝殿倒壊。 氏子、院内 一六戸 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 院内の主な歴史記録安井飛行場『紅村雑記』 安井飛行場のこと 人間が大空を飛ぶことは夢であったが、その夢はガソリンエンジンの開発によってプロペラをつけ、翼をつけて始めて飛行に成功したのはアメリカ人ライト兄弟で一九〇三年(明治三十六年)のことである。わが国で飛行機で空を飛んだのは、それから七年後の明治四十三年十二月、東京代々木の練兵場で徳川好敏大尉がフランス製の複葉機で約三分間高度七十メートル、距離三千メートルを飛んだのが日本人最初の飛行である。ところがそれから十二年後大正十一年十一月(一九二二年)には、豊田小字本野、小字シミの地続きの院内(現在の幸野)に民間飛行場が造られ飛行機が飛んだのだから、この地方は時代の先端というか、珍しいことであった。 大正十年比較的平坦な原野と雑木の平地林であった土地に、京都市魚ノ棚の貿易商の二男安井荘次郎氏が約三万坪(一〇万平方米)を無償で借受け、飛行場の造成にかかった。平坦な滑走路を作るための工事は勿論唐鍬、スコップ、ジョーレンとトロッコで造成された。木の株を起す、抜根器が珍しい位であった。格納庫も建てられ、飛行機も着いて開場までに練習飛行が行われた。今まで見たこともない飛行機の飛行姿と聞いたこともない爆音が丹波の空にひびいた。飛行場を飛びたったら必ずといってよいほど豊田の上空へ旋回してきたが、麦蒔の時牛耕していた牛が爆音に驚き、犂をつけたまま跳び廻る珍事が起ったり、鶏舎の鶏がばたばたさわいだりしたものである。 安井氏は二等飛行士で助手も二名いて、整備や飛行の練習をされていた。複葉機で大体二人乗りのプロペラ機であったが、始動の時は助手がプロペラに手をかけ「コンター」という合図でカーぱい廻して、エンジンをかけたものである。開場の披露は大正十一年十一月に盛大に開催されて、飛行場の周囲は縄を張って観覧席が作られ、近郷の人々何千人かで埋った。当日は先づ八日市の陸軍の飛行機が祝賀飛行に飛来し、宙返り等の高等飛行を実演され、続いて安井氏操従の複葉機が低空飛行をしたり、一人が翼に出るとか、縄梯子を下げて機内から出て梯子を下りるとかの珍しいことを演出された。曽根の飛行場入口の方には祝賀のアーチや露店も出でにぎわった。 この飛行場が何の目的で作られたのかはっきりしないが、或は金持の趣味だったのかもしれない。大正十二年の初夏だったかと思うが、時の記念日のビラを撤くため飛び立った飛行機が突如火を吹き、現在の上豊田隣保館近くの田圃へ墜落し塔乗員佐藤、日向の両飛行士は全身火傷で間もなく死去された。この地方に於ける航空機事故の最初である。 大正十五年十一月、安井飛行場開設五周年記念の祝賀飛行が行われるというので、開場式以来の多数の人々が飛行場の周囲に集って高等飛行の披露されるのを観覧した。当日のプログラムの最後に近い頃、落下傘降下の演技をするため用意し、始動、滑走に入った飛行機が突如観覧席の民衆に向って全速で方向変換し突入した。アッという間にプロペラ、車輪、両翼でなぎ倒されるという惨事が起った。塩田谷の谷口良太郎氏外一名が即死され、多数の負傷者が出た。 全く予想しない大事故を惹起したので記念飛行は中止され、それ以後この飛行場から飛行機の飛ぶことは殆んどなくなり、安井氏自身も其の後飛行事故に遇われたとかで遂に閉鎖された。 当時の飛行機はエンジン部分は金属であったが、プロペラは木製、翼や胴体は木と絹布で作られたものであった。時速百二十粁といわれていたので新幹線の列車なみの速度だったのだろう。其の後単葉機となり軽金属製となり、種類も増え大型となり、プロペラ機からジェット機と変り航空機時代となったが、その原形がいち早くこの地に入り、新しい文明に触れることができたのは珍しいことであった。 院内の伝説『丹波町誌』 伝説 おやま(女郎衆)の首 院内小字次郎五郎に「おやまの首」という塚があった。けやきの大木が枝をはり、深い掘抜き井戸があった。 なぜそう呼ばれてきたかはっきりしないが、一説には「京の女郎が逃げてきて、追手に捕えられ、首をはねられて埋められた」とも、「女郎奉公の苦しみに耐えかねた女郎が、けやきの木で首をつった」ともいわれてきた。戦後の開拓によって跡かたもなくなっている。 院内の小字一覧院内(いんない) 谷山 鍋山 向ヒ野 市庭 南側 次郎五郎 質野 後野口 北側 岩鼻 京長 粟谷 谷山 道土 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『船井郡誌』 『丹波町誌』 その他たくさん |
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