猪鼻(いのはな)
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京都府船井郡京丹波町猪鼻 京都府船井郡瑞穂町猪鼻 京都府船井郡瑞穂村猪鼻 |
猪鼻の概要《猪鼻の概要》 三ノ宮から三和町の大身へ通じる道路沿いの一番奥で、天田郡との境になる。土師川支流猪鼻川の源流域になり、まさにイノハナで、地形的には天田郡側になるが、川に並行して府道26号(大身下山停車場線)が貫通する。川沿いにわずかに耕地が開け、集落がある。 猪鼻村は、江戸期~明治22年の村。旗本の柴田氏および河野氏知行地。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同22年三宮村の大字となる。 猪鼻は、明治22年~現在の大字名。はじめ三宮村、昭和26年瑞穂村、同30年からは瑞穂町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。 《猪鼻の人口・世帯数》 96・46 《猪鼻の主な社寺など》 熊野神社 熊野神社は、現在は10月15日が例祭日。明治19年火災に遭い古記録の多くを失った。創立は不詳であるが、往古よりここに鎮座し熊野大権現と称したと伝えられる。元文5年(1740)樋口氏寄進の神号一軸、明和9年(172)樋口・坂本両氏寄進の縁起書などを蔵するという。 『郷土史三ノ宮』 熊野神社 祭 神 伊特諾尊 創立鎮座年月日 1、熊野権現 天正三年(一五七五)三月三日 2、日本第一熊野大神宮 嘉永五年 社 格 村社 明治六年六月公定 境内神社 金比羅神・秋葉神 合祀 明治二十三年 所在地 字猪鼻小字宮の下壱番地 由緒又は由来・伝説 … 氏子数 五七戸 年間行事 1、新年祭 2、春季祭 3、秋季大祭 社 宝 一、華表 安永初年のものと推定 二、石燈籠 壱対 天明四年(一七八四)三月吉日 若連中氏子中 その他 1、境内の東に稲荷神社あり、建立は能野神社再建と時を同じくすと伝えらる。祭神は食稲魂神 2、狛犬 明治三十年(一八九七)酉三月吉日 壱対 大身の住人 願主宇太郎 西村作右ヱ門、西吉兵衛、熊谷儀八、西山角右ヱ門 この狛犬は阿吽対にして、台に牡丹を彫る。仏式の形を取り入れている。能野権現に対する寄進の念を表すものであろう。 3、境内右側に石が祀ってある。これを木之本さんと称えている。この人は熊野権現社の守り人であったという。猪鼻の災害時に救済に努力した人であると伝えられている。 稲荷神社 曹洞宗願王山地蔵寺 曹洞宗禅立寺末の地蔵寺 『郷土史三ノ宮』 願王山 地蔵寺 所在地 猪鼻小字上村十八番地 開 創 承安二年(一一七二)真言宗 延宝四年(一六七七)曹洞宗 開 基 大阿舎利義辨比尼 宗 派 曹洞宗 本山 永平寺、総持寺 本 寺 禅定寺 所在地 綴喜郡宇治田原定禅定寺一〇〇 本 尊 地蔵菩薩 歴代住職名 … 由緒・由来 往昔猪鼻村は山内の庄今里村と称し、今より八百年前承安二年真言の僧位従二位大阿舎梨義辨比丘この地に草庵を結び、随僧興遷比丘と協力し、大船若六百軸の経巻の浄字を発願し、興遷比丘は諸方勧進し筆残の料を集め、村人は三時の食事を供艱し、四年の月日を経て安元二年に浄字し完成大願成就を記念し、早庵を地蔵院と改めたりと般若経末文に記しありたり、其の後正治三年の頃琉崇なる僧地蔵院に住し、華厳経涅槃経等四百卷を浄字しありたり、これなる経典は地蔵寺として大切な寺宝其他十大弟子の木像十六善神涅槃像古画及古文書等伝来し来れり、其の後年移り住持なき寺となり荒廃其の極に達し、其他の寺宝地獄画図十六羅漢等散逸せるもの数多くありたる古文書により承知致しおれり、其の後延宝四年 (一六七六)曹洞宗名僧月舟宗胡禅師を請じて開山とし、地蔵院を地蔵寺と改め、曹洞宗と改宗せり、それ迄は猪鼻小字下村陣屋の上にありたるを、上村に移築再建し三世絶学和尚四世真空道明和尚の二代にて完成、道明和尚は私財を投じて田畑山林を買い取り、雲水修行の道場とし、幾人かの修業僧の安居したること文書に記しありたり。その様な寺も廃仏棄釈の余波により二十世和尚より四代に亘り修理もせず荒廃のまヽ拾ておかる見る影もなく、二十五世泰隆昭和四年住持となり檀中と協力し、寺内興隆に尽せし甲斐あって、本堂の修理、庫裡新築等、備品調度も完備し檀徒と共に喜び居りしに仏天の加護空しく、昭和三十九年(一九六四)八月十一日午後二時頃檀徒飯屋七五三之助宅より失火、二十日以上の干天続きに水不足にて、その上強風のため見る間に隣家に類焼、吹き上げる火の粉のため寺に類火し、見る間に火の海と化し、住持一人にて如何ともするすべなく、本尊、地蔵尊の仏体と観世音と毘沙門天の三体のみ搬出したるも、宝物一切持ち出せなかったのは遺憾の極みなり、その時類火に逢いたる家は七戸であった。 其後地蔵寺に於ては毎夜の如く集会し、再建について協議を重ね大方の寄進を乞い、大身大工西山寅一氏が頭領となり、昭和三十九年(一九六四)十二月二十二日落慶法要を修行大願成就せり、然れ共歴代相承の寺宝を焼失せしことは終生の痛恨事である。(野原泰隆記) … 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 猪鼻の主な歴史記録猪鼻の伝説『郷土史三ノ宮』 冠石 字三ノ宮小山より字猪鼻に至る両区を通ずる猪鼻峠(冠石峠ともいう)の頂上に大石あり、之を昔より冠石と称していた。底巾八米に六米高さ五米の巨石で、冠状に凸凹のある優雅な岩で、枝ぶりのよい太い小松が上の方に生えていた。岩の大きな割目に夏は太い蛇がこゝに入り、蛇の腹の銀鱗が太陽に映えて怖しかったという。この岩より三米下に、畳三枚欷位の平な岩がのたっており、下駄の歯のような跡や、馬の蹄のような跡があった。源頼光が大江山鬼退治の時本村を過ぎこの冠石に休息し其の冠をこの岩の上に置いてから後この石を冠石と名付けたと言われている。又一説にはこの岩が冠によく似ていたため、頼光が冠石と名づけたとも言われているが確かな事は不明である。 この岩は昭和三十二、三年(一九五七)頃峠の頂上切下げの道路改修工事の際取除かれて現在はない。 姫大蛇の池 今から約三百年余の昔、どこからか猪鼻に、母と娘の親子二人が移り住み、本当に細々と暮していた。娘は年過ぎて妙齢の美女と成長した或時、母親は、娘が夜中になると家を忍び出て、帰って来るのは明け方になるのを不審に思い家の廻りを調べてみたところいつも濡れた草履がおいてあるので益々不思議に思い、或夜ひそかに娘の後をつけて行った。 すると娘は猪鼻曽都田の東にある池の本の大池のそばに立っていた。母親は息をこらして見ていると、娘はこの大池に入るやたちまちにして大蛇と化し水浴を始めた。驚いた母親は直ちに帰り娘に外出した理由を尋ねると、娘は化身の露見したことを察し大池に走って行き大蛇となって水中に没したといわれている。 母親はその後間もなく死亡し、その墓地は本谷の東方にあると伝えられているが詳しくはわからない。その後年を経て明治四十年の大水害により猪鼻曽都田の山が崩れ一大湖水となった。村民がその対策を湖水の傍に立って協議している時、湖水より天に向って白雲が立つや、一匹の大龍が天に向っで昇天した。 この大池は大正十三年道路河川の改修により排水され、現在では田ぼとなっている。 杉地蔵と代官 昔冠石峠の三ノ宮寄りに大杉二、三本あり傍らに杉地蔵と呼ばれる小さな石の地蔵さんがあった。旅人や近隣の人がこの地蔵さんの前を通る時杉の小枝を折ってお供えし旅路の安全や家内の無事を祈ったという事である。 何百年かの昔猪鼻ヘー人の病気にかかった旅人が通りかかり、代官に「私の命はもう後いくらもないのでどうかこの土地に住まわせて下さい」と頼んだ。代官は病気が村人たちに感染するのを怖れ猪鼻村に住む事は許さないと、拝まんばかりに頼む旅人を引立て、杉地蔵の見える冠石峠の頂上迄やって来た。 旅人は大地に座り込んでどうかこの村に住まわせてほしいと必死に頼み、代官ともみ合ったが代官は最後まで許さず三ノ宮村へ追立てた。 その後この代官はこの旅人の病気が感染したものか、ついに病気になり、家族の者まで一人残らず死んでしまったということである。 猪鼻の小字一覧猪鼻(いのはな) 上村(かみむら) 冠石(かむろいし) ケウン 小屋谷(こやだに) 堺畑(さかいばた) 左曽良(さそら) 下村(しもむら) 僧都田(そとだ) 段(だん) 段ノ迫(だんのさこ) 中村(なかむら) 西ケ迫(にしがさこ) 火打石(ひうちいし) 日代(ひしろ) 前田(まえだ) 真迫(まさこ) 宮ノ下(みやのした) 深山(みやま) 焼尾(やけお) 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『船井郡誌』 その他たくさん |
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