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丹波の

市場(いちば)
京都府船井郡京丹波町市場


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京都府船井郡京丹波町市場

京都府船井郡和知町市場

京都府船井郡上和知村市場

市場の概要




《市場の概要》
国道27号から北ヘ奥和知の方ヘ入った一帯。由良川右岸の段丘沿いに位置する。和知中学や老人ホームがあるあたりも、和知ダムも半分市場である。
市場村は、江戸期~明治22年の村。元和5年より園部藩領。
明治4年園部県を経て京都府に所属。同22年上和知村の大字となる。配札と修行の途次、当地を通った野田泉光院は、「日本九峰修行日記」文化11年(1814)9月29日条に「樫原村出立、辰の刻。谷の道甚だ悪し、夕方和知と云ふ村の内市場と云ふ所の善右衛門と云ふに宿す。聾祖母と男子一人親子也。此宅甚だ静かにして宜敷宅也。此辺軒数大分の所なれども旅人に宿借す者一人もなし、迷惑の地なり」と記す。樫原村(北桑田郡美山町)から由良川沿いに当村に至ったと思われるという。
市場は、明治22年~現在の大字名。はじめ上和知村、昭和30年からは和知町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。同43年12月由良川と高屋川の合流点下流約500mの由良川沿いに関西電力和知発電所(最大出力5、700kW)が完成し発電を開始した。


《市場の人口・世帯数》 218・124


《市場の主な社寺など》

稲荷神社(子来)

子来新田の一画に開墾を記念して建立した稲荷神社の小祠がある、関電の変電所があり高い鉄塔があるがその下あたり、府道沿いである。
用水が完成した安永9年は庚子にあたるので新田は子来(ねごろ)新田と称されたという、不思議な地名だと思っていたが、ネゴロにはそうしたイミもあったのか、ししししかししかしじゃぁぁ、アタチにはイミわからん(( 。-_-。))

稲荷神社

根来用水に沿った大廻りの道でなく、丸山をショートカットして途中で越える昼尚暗いような不気味な峠道がある、妖怪も出そうな所で、その峠の頂上に鎮座する。

稲荷神社(市場)
稲荷大神(宇迦之御魂神)を祀る全国で三万余社に達する稲荷神社の一つである。『寺社類集』 には、
  稲荷社 三尺四方
元禄十四年郷民吉右衛門之ヲ勧請ス、右境内五間四方
とある。同社棟札の記によると、この地を「樹木生ひ茂り終日日を通さず、雲霧蒼く飛んで昼尚暗し」と表現して、「正保の頃(一六四四~四六)妖怪が出没するので、元禄十四年 (一七〇一)、庄屋山口吉右衛門、都より高僧を聘して妖怪退散を祈祷し、伏見稲荷より分霊を祀って郷民の安穏と五穀豊穣を祈放した。以後妖怪退散した」と、この社の由緒を伝えている。 (『和知町誌』)

太田秀大明
田植時だったと思う。或る日、田の畦で古老から面白いお伽めいた話を聞いた。大倉より市場へ出る昔の道が円山を越える右手の高所に天保十四年(一八四二)市場村の山口吉右ヱ門なる人が勧進したお稲荷さんがありその境内に天満宮と他の一社がある。この一社を地方の人は美濃神社又は太田秀大明神と呼んでいる。これは狸を祭ったのだと云う。その由来は、狐は稲荷大明神として人々は祭るのに、この狸も同類なのに人は祭って呉れぬと云って此の狸が揃って、人々の作った畑の物を荒し廻ったので当時の人が始め狸を祭って美濃神社と称えたところが又狐が稲荷大明神とあがめらるるのに狸は単に、みの神社とはけしからんと又田畑を荒し出した。そこで、太田秀大明神と改めたと云う話だった。まだその無名祠を見たこともない。どうやら古老の話も眉つばものかも知れない。狐も狸も人に化けると云われている。又稲荷大明神の祭神は狐である。俗信は遠い音からであった。狸かそれをうらやんだと云うことも古い。寛延三年(一七五〇)開版の俳書「武玉川」の中に「初午の日を狸うらやむ」の句があり、その後の川柳に「初午や狸つくづく思うよう」とある。比の雑俳や川柳の狸はまだまだ内気だが、此の市場の狸は非常に行動的で、その目的を達して太田秀大明神として祭られたと考えると興味深く聞いたのであった。
(『和知町石の声風の声』)


曹洞宗仏恵山善入寺
少し奥の方へ入ったところ。


佛恵山善入寺(曹洞宗) 字市場小字大仙一
当寺は、室町時代の中ごろの文明・永正年間(一四六九~一五二〇) に、江雪智春によって現在地に移され、佛恵山善入寺と号した(寺伝)。
『丹波史年表』には「永正元年(一五〇四)、江雪善入寺を建つ」とも見える。寛文三年(一六六三)、龍穏寺の鉄船舜良を勧請開山とした。二世以心秀伝が伽藍を修復し、三世南領祖能のとき龍穏寺の末寺となった。「寺社類集』には当寺の境内一三間に二四間とある。その後天保九年(一八三八)四月火災に遭い、伽藍・什物などを焼失したが、同十三年再建された。従って、古記録・宝物は少ないが、元文四年(一七三九)の銘記の十六善神図や同年代の大般若経二〇〇巻がある。
なお、当寺の寺号山号は、法華経初品第一の中にある「慈以修身善入仏恵通達大智到於彼岸」の「善く仏恵に入り」から取ったものである。 (『和知町誌』)


日蓮宗実相寺
旧街道沿いの山麓。

もうお寺はないようである。
(跡)(諸法山実相寺(日蓮宗) 字市場小字山ノ上
『寺社類集』に、「法華宗京妙顕寺末、実相庵、元禄六酉年郷士清水四郎兵衛開二基之一、以二妙顕寺十八世日春上人一為二間山一、享保二十卯年郷士川勝善五郎乞二官庁一而移二之山内一、二間半ニ四間」とあるように、当寺は清水四郎兵衛(一六四二~一七一三)の開基により、さらに京都の妙顕寺一八世日春が開山となっている。その後、郷士川勝善五郎(政次)の外護を受けて、享保二十年(一八三五)現在地(黒田)に堂宇を移した。後、弘化二年(一八四五)現美山町蓮乗寺(日蓮宗)に住職権が移譲され、近代になって、大正十一年(一九二二)二月、天田郡細見村(現三和町)字寺尾小字薬研九に移転した(第二巻六〇七ページ参照)。なお、同寺跡に登る参道には、三尺余りの石地蔵と供養塔があり、元禄三年(一六九〇)と刻まれている。 (『和知町誌』)


実相寺移転
上和知村字市場小字上ノ山一八番地にあった日蓮宗実相寺が、大正十年九月二日移転許可を得て、十一年二月五日天田郡細見村(現・三和町)字寺尾小字薬研九番地ノ二に移転済みになった。社寺の移転は非常に珍しい事件であった。九年十一月、京都府につぎの移転原が提出された。
   実相寺移転願
京都府丹波国船井郡上和知村字市場小字上ノ山壱番戸
  日蓮宗 実相寺
右寺従来檀家少数ニシテ、且ツ無禄堂宇ノ維持等ニ付甚ダ困難致シ居候、
之ニ反シ、京都府丹波国天田郡細見村地方ニハ本宗信徒多数有之候得共同
宗寺院無之、葬祭聞法等ニ不便ナルヲ以テ甚ダ遺憾ニ存シ居候処、今般甲
乙信徒協議相整ヒ、京都府天田郡福知山町字菱尾町栗山英智外壱名ヨリ寄
付ニ係ル同郡細見村字寺尾小字薬研九番地ノ弐郡村宅地壱畝八歩同所九番
地ノ四畑反別壱反八畝参歩ヲ境内敷地トシ、同地内ニ既設シアル妙法講結
社教会所ヲ本堂兼庫裡ニ当テ移転致シ、益々寺門ノ隆盛ヲ謀リ度候間御許
可被成下度、別紙取調書及付属書類并ニ管長副申等相添へ、関係者連署ヲ
以テ、此段奉願候也
 京都府山城国乙訓郡向日町石塔寺住職
        右実相寺兼務住職 明渡恵教(印)
 京都府丹波国船井郡上和知村字市場弐拾弐番戸
        甲地檀家惣代   清水武兵衛(印)
 仝           字石橋参拾七番地
                 梅原平太郎(印)
    仝        字市場五番戸
             川勝喜代蔵(印)
   天田郡 細見村他署名七名 (略)
 京都市上京区小川頭大本山妙顕寺住職
      大僧正       河合日辰(印)
  大正九年九月拾日
前書之適相違無之依而奥印候也
  大正九年十一月十三日
 京都府天田郡細見村長 大槻吉太郎(印)
京都府知事 馬渕鋭太郎殿

同寺の由緒によると、「延宝六年(一六七八)十一月四日ノ創立ニシテ発祀開山清水常勤後チ改名シテ当覚院常勤日休法師トナル、元船井郡和知黒田ノ庄ト云イ実相山本妙寺ト称シテ京都大本山妙顕寺末後山号寺号ヲ改メテ現今ノ諸法山実相寺トス、年月ハ不詳常勤日休ハ正徳三年(一七一三)二月三日亡ス、其後歴代詳ニセズ今日トナル、開基以来ノ建造ナリ」とあった(『史料集』(三266ページ参照)。
大正六年福知山町常然寺住職、檀家惣代、信徒惣代から木内知事に提出された嘆願書によると、六年二月二十日付けをもって寺号移転許可願を提出していたが、許可が遅れ、この間同一管内で禅宗曹洞宗久昌寺の寺号移転(天日郡雀部村から曽我井村字天田へ)が早くなっている。この裏面には他宗の反対空気があったやに見られるふしがある。日蓮が言ったように 「鳥ハ啼ケドモ涙ナシ日蓮ハ泣カネドモ涙ヒマナシ」の言葉を引いて許可の促進を求めていた。
実相寺移転後、建物は北桑田郡大野村同宗派蓮乗寺へ檀家転檀となるので寄付し、境内にあった妙見堂は移転と同時に廃止された(「寺院異動・住職・経済」大正一二、府庁文書)。 (『和知町誌』)



参道の登り口にきれいにまとめてあった。
実相寺跡とカサ地蔵
遠く由良川沿岸まで広々とし今は美田となっているが、それも余り遠い昔でない時に新に拓かれたところと聞く市場新田を見て、昔の人の努力の結果が、後世の人の喜びとなるかを現実に見て、人の生くる目的を知らされたように思い、子来井根伝いに市場の人家の密集したところ来ると、左側に井根を前にして一メートル位の丈の地蔵尊が立っている。この地蔵尊を土地の人はカサ地蔵と呼んでいる。子供が、クサを病んだ時、此の地蔵尊にお参りして供奉のために台石に彫った穴にたまった雨水を息部につけると治ると云う信仰からかく愛称で呼んでいるという。今その水を見るといつ降ったのかわからない雨水の溜ったのが澄んではいるが、ボーフラが沢山泳いでいる。今はまさかそれを心から信じている人はないだろうが、医術の進歩時代の我等の祖先が子を思う親心から、治ると聞けば、それを信じてつけたのであろう。此の地蔵尊の側に南無妙法蓮華経と例の美しい字体の供養塔が三基ある。その中で一番大きいのには元禄三年(一六九〇)建立、八十八才開眼供養と彫ってある。実は比の地は日蓮宗実相寺と云う寺跡である。比の地蔵尊の立ち給うあたりがその入口らしい。
記録によれば、元禄年間京都妙顕寺第十八代日春上人の創立で、享保二十年(一七三九)川勝善五郎が再建されたが、その後大破して弘化元年(一八四四)から美山町蓮崇寺兼務になっていて、この地蔵尊のところから少し登った場所に妙見堂ばかりが残っている。この妙見堂は元禄十一年(一六九八)に日春が創立したのだと云う。 (『和知町石の声風の声』)


《交通》


《産業》
子来用水

これはドブでなく、農業用水である。河岸段丘面は水がないのだろう、由良川本流は50mばかりも下を流れていて、そこからは水は引けない、裏山は小さく十分な水を出してはくれない。
上流の下粟野から水を引いている、こんな山谷が入り組み、傾斜の強い地形の所に水平に水路を通すのは並大抵ではない、山はトンネルを掘り、谷には橋をかけて水を引いている。この用水のおかげで新田を開くことができた。
和知町域では、18世紀後半頃から、新田開発のため井堰を築き用水路をつくる工事が行われた。その最も大きなものは子来新田の開発で、市場村の豪士の川勝善五郎が、市場・大倉・升谷・奥・篠原の5か村の百姓とはかり、殿田村(日吉町)井尻与惣左衛門、畑谷村吉田七郎兵衛らの援助を得て、安永9年(1780)に発起し、59年後の天保10年(1839)子来に開発した。井口を下粟野村小字壷井口に設け、水路は下乙見村を経て5か村に至り、延長60町23間(6、568m)に及んでいる。水路開通によって開墾された土地は、田反別で11町9反余に及び、147石余、ほかに23石余があり、計179石余が開発された。「元禄郷帳」を比較すると、当開発によって升谷村が約3倍の148石余、篠原村が3倍の185石余と増加したという。
根来井根のほか、享和2年(1802)に築かれた大迫井根、文化7年(1810)・天保3年(1832)に升谷上野の新田開発などがあり、傾斜地で水不足なところを遠くから谷水を引いて新田開発をしている。


《姓氏・人物》
川勝善五郎
川勝善五郎は大字市場の人、安永九年市場、大倉、奥、(今大字升谷の内に入る)升谷四村の百姓と図り、殿田村井尻與惣左衛門細谷村吉田七郎兵衛等の援助を得て、子来新田を開墾したり。其設計の大要は下乙見村を経て下粟野村小字壺井口迄井路筋を設け、其支路篠原村に四條の溝筋を通じ、以て潅漑に便し、市場、大倉、奥、升谷四村に亘る荒蕪地を変じて沃田となすに在り。かくて開拓せられたる土地の反別左の如し。
 井根敷 延長六十町十三間、幅平均二間半
   此反別三町一畝二歩
 井路開通の爲め開墾したる土地
  田反別十一町九反五畝廿一歩 子来新田
    此高百四十七石五斗二升五合
  田反別三町七反八畝十四歩 山開の分
   此年貫米八石七斗九升八合
  水料田十四町四反九畝二十三歩 畑を田としたる分
   此高二十三石一斗六升四合四勺三才
  合計三十町二反三畝二十八歩
子来新田の一隅に稲荷神社の小祠あり、子来新田開墾紀念の爲めに建立したる所なりと云ふ、其傍の叢中に高さ二尺余の碑あり其副文左の如し。
(表面)              御領主御武蓮長久
                  井尻與右衛門
            天保十年  川勝善五郎
                 秦廣幸
子来成就塔
                 井尻五郎兵衛
          亥已三月吉日 野間萬右衛門
                    正 理
(裏面)
           安永九子年発起
              井尻與惣左衛門
              吉田七郎兵衛
              川勝平兵衛
                廣徳
              五ケ村
          願主   百  姓  中
(『船井郡誌』)


市場の主な歴史記録



市場の伝説






市場の小字一覧


市場(いちば)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
『和知町誌』各巻
その他たくさん



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