京都府船井郡京丹波町角 
         
         京都府船井郡和知町角 
         
         京都府船井郡下和知村角 
         
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        角の概要
         
         
         
        広瀬の次の(東)のやはり由良川右岸の河岸段丘上の集落。当地は斜面が少し緩やかか、川沿いに府道59号(旧国道27号)が走る。旧下和知村の行政の中心地であった。中世は和智庄の地。 
        角村は、江戸期~明治22年の村。元和5年から園部藩領。檀那寺は広瀬村の曹洞宗福昌寺。鎮守は八幡神社。明治4年園部県を経て京都府に所属。同22年下和知村の大字となる。 
        角は、明治22年~現在の大字名。はじめ下和知村、昭和30年からは和知町の大字、平成17年から京丹波町の大字。 
        明治40年村役場を大字中から移転し同43年下和知尋常高等小学校も中から移築された。同校は昭和40年本庄に移転するまで58年間当地に所在した。 
         
        《角の人口・世帯数》 58・29 
         
         
        《角の主な社寺など》 
         八幡神社 
          
        ちょっとわかりづらい所。 
        
          
            
              八幡宮(角) 
              『寺社類集』には、 
               八幡宮社   四尺四面 
                 勧請年歴知ラズ 
                右境内四十間ニ六十間 
              と記されている。神社の境内は二四〇〇坪で、現在の境内と比してかなり広大である。先に触れた地頭片山重親寄進状にある八幡宮は当社と考えられる。 
              同寄進状には、八幡宮の年中行事として、 
                この年貢(一反の収穫量)にて、正月より三日の御酒、同十五日法師達に心経三巷、尊勝陀羅尼経二十一遍、観音経一巻を読ませ申して、斎酒(ときざけ)にもてなす。これは毎月十五日毎にかくの如くとりさだめること。 
              このうち節供には、巫女、神人にて御神楽をまいらせ、三月三日より五月五日、七月七日、八月十五日は放生会とし、又九月十日は田楽洒一桶、白米一升、枝豆一束を供進すること。 
              御酒御殻は精進をよくし、火を忌みて取沙汰すること、なお、正月十九日、八月十五日は巫女、神人にて、御神楽を奉納し、法師達に正月十九日は大般若経一函を読ませ、八月十五日には心経、観音経、尊勝陀羅尼経を読ませること。 
              重親の子孫として跡を継ぐ者は、この旨を些かなりとも違えたならば不孝者である。 
              と定めている。中世にはこの伝統が引き継がれていたものであろう。 
              近世になって、天和三年(一六八三)新しく神殿を構えたが、宝暦十一年(一七六一)七月十四日出火し、翌十二年閏四月五日建築した。さらに、嘉永二年(一八四九)二月六日夜、社殿が焼失したため、安政二年(一八五五)十月現社殿を再建した(同社社記)。 
              祭神は応神天皇。毎年九月十九日の例祭を放生祭という。 
              (『和知町誌』) | 
             
          
         
         
          
         釜石と雨乞 
        
          
            
              釜岩と雨乞 
              釜岩と聞いてから、何か曰くありそうな岩であると思って、その在り場所を聞いたが、久しくわからなかったが、或る老人により聞き知ることが出来た。角の旧下和知村役場跡の下方の由良川の流れの中に、水か相当増した時でもその尖端を出している岩がある。その岩の根本に捧一メートル深さ二メートル余りの穴があるそうだ、それで釜石と呼ばれ、昭和の始め頃までは、早の時は、此の岩を中心に雨乞の行事があったと聞く。 
              或る老人はその模様を次のように話した。比の岩の上流を土俵で堰き止めて穴の水を汲み出し、その底にある十二個の石を取り出して岩の上に並べ周囲に多く裸ローソクをともして、雨か降るよう村人一同が揃って祈念するのだと聞いた、 
              そうする比の十二個の石が乾いて水を呼んで雨となると云う信仰によるのだと云う。科学の進歩した昨今此のようなことを信ずる人はないだろう。従って雨乞の行事も忘れられている。併し長い間雨か降らず、折角植え付けた稲も枯れようとしていても、どうすることも出来ず、来る日も来る日も只天を仰いで雨を待っても降らず、遂此の近年まで、此の川の流れをせき、穴の水を汲み出し、底の石を取り出し燈明を上げて、村人揃って雨を降らせ給えと、天に向って祈った真剣な真情には同情しないでおられない気特になる。 
              (『和知町石の声風の声』) | 
             
          
         
         
         
        《交通》 
         
         
        《産業》 
         
         
        《姓氏・人物》 
         
         
        角の主な歴史記録
         
         
         
        角の伝説
         
        
          
            
              化けくらべ  (中 藤山幸治郎) 
              昔々、角の八幡さんに、大層よう化ける狐がおった。それから中村の寺の上にも大変よう化ける狸がおった。ある日、この二人が山で会うて、 
              「お前は大層よう化けるそうな」と。 
              「いや、あんたも上手に化けるそうや」という話のあげく、 
              「そいじゃあ一遍二人が化かしあいをしてみようか」という話が出来て、 
              「明日は。そんなら角の八幡さんへ朝ま来てくれえ。そこで化かしあいしょうじゃあないか」という相談が出来て、あくる日になって中村の狸が、角の八幡さんへ行ってみたとこが、一向にその辺に狐はおらんし、こりゃあ結局わしがだまされたかと思うて、まあ、うろうろしておると、八幡さんの御殿に、狸の大好物の小豆御飯がお供えしてあったと。まあ、狐どんはおらんし、これは先いいただいとこということで、狸が御殿の小豆御飯を食べようと思うて。よいっと囗をもっていったとこが、 
              「これこれ狸どん、そうはならんぞ」と言うて化けとった狐が現われたと。これで、この日は中村の狸が負けたと。 
              「それじゃ、しやない。明日の朝中村の寺の上へ来てくれえ。あそこでもう一遍やろう」ということになって、あくる日に、角の狐が中村の寺の上へ行ってみたところが、狸がおらんと。 
              「ああ、こりゃあわしが来るのが早やかったかなあ。一杯だまされたんかなあ」ということで、うろうろしておると、中村のお稲荷さんのお社に、狐の大変好きな油揚げが供えてあったと。 
              「まあ、こりゃあ狸どんが来んうちに、まあ一枚いただいとこう」ということで、それをかぶってやろうとしたら、化けとる狸が現われて、狐がこの日は負けたと。そいでこの勝負、負け勝ちなしに、あいこで済んだと。 (『丹波和知の昔話』) | 
             
          
         
         
         
         
          
         
         
        角の小字一覧
         
        角(かど) 
        井ノシリ(いのしり) 前(まえ) 谷田(たにだ) 岡田(おかだ) 釜岩(かまいわ) 下千原(しもちはら) 上千原(かみちはら) 堂坂(どうのさか) 東(ひがし) 清水(しゆうず) ノテ 西(にし) 申ケ戸(さるがと) 下林(しもばやし) 門前(もんぜん)  
         
        関連情報
          
         
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