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上大久保(かみおおくぼ)
京都府船井郡京丹波町上大久保


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京都府船井郡京丹波町上大久保

京都府船井郡瑞穂町上大久保

京都府船井郡瑞穂村上大久保


上大久保の概要




《上大久保の概要》
町の西部。山間を土師川が蛇行して西流し、その川沿いに耕地が開ける。国道9号線が東西に通る。

上大久保村は、江戸期~明治22年の村。はじめ幕府領、のち上総鶴牧藩領。万延元年(1860)11月13日、当村を中心に複数領域で2,000人の農民が参加した一揆が起こる。一揆は当村の酒屋金右衛門らが酒価と酒造時の米価をつり上げたことを契機に発生し、米価引下げ、質入物の無償引渡し、下作年貢の半減を要求した、当村の半左衛門をはじめとした参加者は細野峠に集結し、水原・井脇・保井谷・粟野・妙楽寺などの都合10数か村で酒屋・高利貸・地主宅を打毀した。4日間に及んだ一揆も隣接の亀山藩・綾部藩に取鎮められて幕を閉じた。明治4年鶴牧県、豊岡県を経て京都府に所属。同22年梅田村の大字となる。
上大久保は、明治22年~現在の大字名。はじめ梅田村、昭和26年瑞穂村、同30年からは瑞穂町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。


《上大久保の人口・世帯数》 226・93


《上大久保の主な社寺など》

唐鞍神社

唐鞍(からくら)神社は、参道を国道9号線に断ち切られたような姿で、国道の切り通しの上のほうに鳥居が見える。水原村の春日神社の分霊を合祀したといわれる。
案内板がある。
唐鞍神社
一、鎮座地 瑞穂町字ウエ大久保
二、祭神 武甕槌神 経津主神 天児屋根神 毘売神 天照大神 須佐之男神
三、例祭 十月十五日
四、由緒、その他
1、創建等 創立年代は全く不詳である。伝えによると水原の春日神社より御分霊を奉祀したのに初まると言う。祭神に春日の四柱の大神の外、天照大神・須佐之男神を併せ祭るのは、江戸時代までは本殿の上屋内に皇大神宮社・八坂神社があったのを明治初年にこれを本社に合祀したためである。
2、旧社格  村社
3、境内坪数  一三〇五坪
4、社殿 流造唐破風付  八坪四合
  上屋    二〇坪二合
5、境内神社  八幡神社  稲荷神社 大山祇神社
6、氏子戸数  九十戸
7、例祭式後御輿渡御を行う



『梅田村史』
唐鞍神社  字上大久保小字宮ノ馬場に鎮座
祭神  武甕槌神、経津主神、天照大御神、天児屋根神、毘売大神、須作之男神
創立年代は全然判らない。明治二十八年に上屋の再建、同三十九年四月五日正遷宮の式典を行っている。本殿は流造りの唐破風付建築で彫刻も立派である。



臨済宗天竜寺派寿福山長楽寺

貞和年中の創建で夢窓疎石の開創と伝える臨済宗天竜寺末の寿福寺山長楽寺。どこから行けるのか参道がわからないので、遠くから写す。当寺は境内雑木山2町余を寺領として、いね谷に下田25歩、長谷に下々畑9歩などを有している。また同寺には東雲庵・不動堂があるそう。
『梅田村史』
長楽寺
寺号 寿福山 長楽寺       所在 字上大久保小字寺垣内
開創 弘安八年十一月       開基 不詳
宗派 禅宗 臨済宗 天竜寺派   本寺 京都嵯峨天竜寺
本尊 釈迦牟尼仏(文明十七年源武蔵法眼作) 住職 細川彰道 第二十五世
仏堂 本堂 庫裡 観音堂 薬師堂 地蔵堂 山門(前門中門奥門)鐘楼 八幡社
檀徒数 百四十五戸
 本堂は元、真和元年三月建立したが、兵火にかかり、元禄年間に再建したと云う。
 この寺の由緒沿革は詳かでないが、弘安八年十一月臨済宗天竜寺の開山夢窓国師が道場として創立した寺で、その後に国師は本山天竜寺を開山したと伝えられるから長い歴史を持つ古刹である。
 本堂には東山院上皇(百十三代天皇)中御門院上皇(百十四代天皇)樹町院上皇(百十五代天皇)の御尊儀(三位牌)を祭っているので昔は勅願寺ではなかったかと云われる。又東照大権現の位牌もある。裏面に元和二辰四月十七日(徳川家康死去の日)とあり、傍に盛春院殿王栄楊淋大師覚霊(寛文壬寅年四月廿九日)の牌がある。いづれも徳川氏の縁族であり、この寺が徳川氏との関係もまたよほど深かった事を物語っている。
 薬師堂に薬師如来の座像が祭ってある。作者は不明であるが古仏で国宝の価値があると云われて内務省の調査を受けにこともでるが、宝永年間に蓮台の修理をした記録もあり、その時の修理の什方が悪くて蓮台が国宝的価値を失ったとの事であった。
 この寺の大釣鐘は太平洋戦争に軍需供出に応じて今は姿を消したが、この大梵鐘の刻銘から察すると昔は規模が極めて大きく、堂塔伽藍も多く建竝んで由緒ある名刹として、近郷に誇り、信仰の中心であった事がわかる。天正年間に明智光秀が丹波挙兵の際焼かれて以来再興が出来なかったものか、広い境内には昔を偲ばせるものがある。水原の住民も元はこの寺の檀徒であって、西方寺を建立して独立したとの事で古い過去帳もこの寺にある。



万延百姓一揆の記録

『船井郡誌』
萬延の一揆
萬延元年十一月十三日上大久保村に一揆起り、同村酒屋辻金右衛門方に押寄せ亂暴狼藉を極め、忽にして同家を破談したり。北時同勢益々加はり、東に向ひて水原村に至り、同村の呉服商菊屋に押入りて之を破度し、翌十四日百町越にて并脇村(今檜山村)に出で、旗本柴田領の掛屋なる西野又兵衛方に亂入し、家財道具建具柱の別ちなく、槌又は斧を以て手當り次第に撃ち毀ち、天井を突き破り、蒲團を引裂き、銀札を押切にて刻むなど狼藉を極めたり。夫より北に向ひ保井谷村(今三宮村)粟野村(同上)妙樂寺村(同上)を席捲せしが、三宮村には綾部藩の九鬼氏より追手を出し、防備怠りなかりし爲め進むを得ず、更に元来し路に引返し、南の方檜山を襲へり。此時一手の暴民は出口より和田村に入り同村に住せる中丹波の総代中尾定治郎方に突入し、隣家中尾彌一郎方と共に忽ち破壊全滅に歸せしめ、轉じて油商上田忠左衛門方を襲撃し、檜山勢と合せり。暴民の数無慮二千人、簔を着し、笠を被り、手に手に、斧、竹槍等を携へたり。沿道の商家は災害を兔れんが爲め焚出しをなして之に酒食を供し、低頭不身して其歓心を求めたり。斯くて暴民は二手に分れ、一は中臺村(今檜山村)院内村(今須知町)を過ぎ、一は橋爪村(今檜山村)紅井村(今高原村)を經て須知村に合し、益々狼藉を逞くせんとせしが、須知には亀山藩より多数の藩士出張して防禦に勉めたり。暴民之を聞き途に竹槍を造る、深志野の籔、忽にして尽くるに至りしといふ。然れども亀山藩の追手の爲、散々に撃退せられ、巨魁敷名捕縛せられしかば、流石の暴徒も勢大に挫け、退きて西に向ひ、井尻村に押寄せて塙仁輔、荒木茂兵衛兩家を破壊し、それより四散して踪跡を晦したり、騒動四日に互り、被害の地域十敷村に及び地方に稀なる大事なりき。巨魁は孰れも細野峠に梟せられ、京都東町奉行所より罪状の高札を掲げたり。其の文に依れば一揆の原因は上大久保村酒屋金右衛門の酒價高くして酒造の時節には米價をも糴上ぐるを惜み上大久保村半左衛門外三名發企して強談を試みんとし、細民を煽動して細野峠に會合せしめたるに、人気意外に引立ち、かゝる大事に至りしなりき。.

『梅田村史』
…一度飢饉に襲われると、雑穀類はおろか木の実(じだい、椎の実)や、木の芽(りょうぶ)草の葉や芽、笹の実など、いやしくも口に入れて食べられそうなものは全部食糧として命をつないだと聞いている。まだ穀物のありそうな村々の親類縁者を頼って求め歩いたと云うことだが、こんな年にはどの村でも食物一切の村外持出を固く禁じていたので容易に手に入らなかった。飢饉の年には一家心中があったり夜逃げをする者もよくあったと古老が語り伝えている。
 飢饉の年を「がしん歳」(餓死の年)といっていた。
 米騒動や百姓一揆が全国各地に起きたのは天明年間である。丹波地方にも天明七年十一月に、現在の南桑田郡(亀岡市)、船井郡東部に亘る大規模な一揆が起っている。これが天明打ちこわし騒動と云われている。当地方では天保元年二月に、保井谷に百姓打ちこわしが、又万延元年六月に船井郡の一部に、同年八月福知山方面に起きている。
 この村に最も関係の深い強訴は万延元年十一月の百姓一揆で、可なり大きい騒動であった。
 万延元年十一月十三日に大身村に一揆が起った。道々住民を集めて東に向い、上大久保村の酒屋辻金右衛門方に押寄せて乱暴狼籍をきわめ、忽ちのうちに同家を破壊此の時同勢が益々加わり、更に東に向って水原村に至り、呉服屋菊屋に押入ってこの家を破壊し、翌十四日は百町(井脇町田)越で井脇村に山て、旗本柴山領の掛屋である西野又兵衛方に乱入して家財道具、柱の別なくや槌斧で手当りしだいに打ちこわし、天井を突き破り、また蒲団を裂いたり銀札を押切りで刻むなど狼藉の限りをつくした。それより北方に向い、保井谷村・粟野村・妙楽寺村を襲ったが、三宮村には綾部藩の九鬼領主が追手を出して防備していたから進むことが出来ず引返して南方の桧山を襲った。此の時一手の暴徒は出口より和田村に入り同村の中丹波の総代中尾定治郎方に突入し、隣家中尾弥一郎方と共に忽ちのうちに破壊全滅さし、更に転じて油商上田忠左衛門方を襲撃して桧山勢と合した。暴民の数は約二千人ほどで簑を着、笠をかぶりまたは赤い布で鉢巻・たすきがけといういでたちで手に手に鍬、斧、竹槍、かきや(槌)などを携えていたと云われている。沿道の商家は災害を免るために焚き出しをして酒食を供するなど、平身低頭してその歓心を求めることに努めた。次で一揆の勢は二手に分れ、一手は中台村・院内村をすぎ、一手は橋爪村、紅井村を経て須知村で合した。ここでも狼籍を極め、米、酒屋を襲おうとしたが須知村には既に亀山藩から多数の藩士が出張して防禦につとめていた。これを聞いた一揆勢は亀山藩士と争うために竹槍を作った。このため深志野の籔は忽ちのうちに伐りつくされたと伝えられている。けれど亀山藩の追手のために散々に撃退されて首謀者等数名が捕えられて流石の暴徒も勢が大いにくじけ退いて西に向い井尻村に抑寄せて塙仁輔、荒木茂兵衛両家を破壊しそれより四散し踪跡をくらましたと云われている。騒動は四日間にわたり襲撃の地域も十数ヶ村に及ぶ地方稀な大規模な事件であった。首謀者たちは何
れも細野峠(三和町中村菟原峠)で梟せられ、京都東町奉行所より罪状の高札が掲げられた。一揆の原因は当時米価が高いのをいとい大身村半左衛門(熊谷)甚六(横田)茂助(熊谷)等発企して豪家に至り強談しようと細民を煽動して細野峠に会合さしたが、人気意外に引立ち、こんな大事に至ったと云うことである。

『和知町石の声風の声』
万延一揆
百姓一揆はその発祥地は丹波地方であると言われているが、現在その史実の明らかにされているのは殆んどない。大正四年船井郡教育会発刊の船井都誌によれは、万延元年(一八六〇)十一月十三日上大久保村に一揆が起り同村酒屋辻金右ヱ門方に押し寄せて乱暴し、同家を破壊した。その勢をかって水原村(現瑞穂町水原)に来て、呉服商菊屋に押しかけ同家をつぶし、明くる十四日には檜山に出て、旗本領の掛屋西野又兵衛方に乱入、槌や斧で手当り次第に家具道具をこわし、さらに三の宮粟野妙薬寺などの地方に押しかけ乱暴を行った。この時の暴民は二千人を超える多数で、ミノを着笠をかぶり、手に手に鍬斧升やらなどを持っていた。沿道の商家は災害をまぬがれんため、焚き出しをして酒食を与えみんなペコペコ頭を下げて、暴民の気に入れられようとした。やがて暴民達は二手にわかれ、一手は瑞穂町檜山須知を過ぎ、他の一手は同じく檜山から高原村(現丹波町)を通って須知に出て、ここで合流、さらに勢に乗じて狼藉を働こうと企てたが須知には亀山藩から多数の藩士が出張して防衛に当っていた。血気にはやった暴民は、竹やりを急造して藩士達と一戦を交えたが、結局散々に撃退され主謀者等数人が捕えられたため、さすがの暴徒も四散、四日間にわたった騒動も漸く落ちついたと記している。然しこの騒動による被害地域は十数ケ村に及び、数々の流血を見た惨事であった。この当時としては地方にては珍らしい事件であった。主謀者は網野峠で何れも露とその命は消えたのであった。京都東町奉行所が罪状の高札を掲げたその高札文には、一揆の原因は上大久保村の酒屋金右ヱ門の酒値が高く、酒作りの時節には米の値段も上げたのを憎み、同村の半左ヱ門など三人が強談しようと計画、農民を煽動したのが大事になったと書いてあった。
ところが同じ万廷元年の六月二日、この和知町に於てもあたかもこの一揆の先駆とでもあるかのように起きいるのに驚いた。それは園部藩の物産係の須知の山崎某か、悪徳の暴利を貪っているのを怒って、奥和知の方から暴徒が立ち上がって、仏主に於ては、生糸及茶問屋岡本喜功宅を襲い、塩谷の某家、酋河内某宅に押し入り乱暴を働いた。下之方本庄では酒屋長左右門宅を打ちこわし、与左ヱ門宅へ押しかけたが、役人衆の鎮圧と話合いで漸く退散したか、連絡不充分のため、広野大簾方面の一派は、広野村庄良浅七、年奇嘉左ヱ門宅へ押しかけ乱暴を極め、勢を待て草尾峠を越えようとしたが、園部藩士に鎮圧されたと云う。主謀者は座敷牢に入れられたと云う。何か此の時代に於て藩と農民との間に存在した特種な搾取階級が農民を苦しめたのではなかろうか。酒屋油星呉服商生糸問屋茶問屋等がその階級と見られもする。




《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


上大久保の主な歴史記録




上大久保の伝説








上大久保の小字一覧


上大久保(かみおおくぼ)
一ノ谷(いちのたに) イヤノ谷(いやのたに) 岩谷(いわだに) 大安場(おおやすば) ヲダ谷(をだたに) 北山(きたやま) 呉谷(くれだに) 桑ノ木(くわのき) コウノ コウヤ垣内(こうやかいち) 蛇谷(じゃがたに) 下地(しもぢ) 下地山(しもじやま) 杉垣内(すぎがいち) 竹ノ谷(たけのたに) 田中ノ下(たなかのした) 塚ケ谷(つかがたに) 寺垣内(てらかいち) 寺谷(てらたに) トチ砂(とちすな) 堂山(どうやま) 峠尻(とうげしり) 峠西(とうげにし) 鳥居段(とりいだん) 流レ谷(ながれたに) 西谷(にしたに) 西ノ谷(にしのたに) 野竹(のだけ) 橋本(はしもと) 東谷(ひがしたに) 樋口(ひぐち) 船谷(ふなたに) 船谷山(ふなだにやま) 坊ケ原(ぼうがはら) 豆カチ(まめかち) 南山(みなみやま) 宮ノ馬場(みやのばば) 向山(むかいやま) 向垣内(むこうかいち) 元垣(もとがき) ヤナガ砂(やながすな) ヤナ谷(やなたに) ユブレ谷(ゆぶれたに) ヨシ谷(よしたに) ワシ尾(わしお)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
その他たくさん



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