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丹波の

口八田(くちはった)
京都府船井郡京丹波町口八田


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京都府船井郡京丹波町口八田

京都府船井郡丹波町口八田

京都府船井郡須知町口八田

口八田の概要




《口八田の概要》
須知川の一番上流域。その沿岸に位置する村々。
西南は三国岳(508メートル)で多紀郡(兵庫県)の村々と境し、東南は中山峠で下新江村・船坂村(園部町)に通じる。三国岳・中山峠と東の三戸野峠(観音峠)を結ぶ線は船井郡の分水界の一部をなす。北部中央に平坦部があり、南東・南・西の方向に小河川が形成する河岸の平地がある。南への谷が笹尾村、西への谷が中畑村、南東に延びる谷が辻村で、南方にも八田村(園部町)があるためか、近世の郷帳類には3村とも「北八田」と冠される。3村とも亀山藩領。
口八田村は、明治9~22年の船井郡の村。江戸期に八田を冠称した諸村のうち辻・笹尾(さそ)・中畑の3か村が合併して成立した。同22年竹野村の大字となる。
口八田は、明治22年~現在の大字名。はじめ竹野村、昭和26年須知町、昭和30年から丹波町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。


《口八田の人口・世帯数》 367・115


《口八田の主な社寺など》

葛城神社

南ヘ園部町側へ出る道と西ヘ丹波篠山市側へ出る道の分岐点に鎮座している。境内は広く、山車が何基集まっても狭くはなかろうと思われる。
案内板がある。
葛城神社
一、御祭神 一言主命
二、例祭並びに年中恒例祭儀
   例祭 昔は「八朔祭」と称して
   十月 八月一日(新暦十月一日)であったが大正末期から十月十七日に定められた、さらに近年は十七日に近い日曜日に斉行されている。
   一月 歳旦祭・交通安全祈願祭
   二月 節分祭・新年祭
   六月・十二月 大抜祭
   十一月 新嘗祭・七五三詣
三、由 緒
   貞観元年(八五九年清和天皇)三月五日高岡小字平松に鎮座、応安三年(一三七〇年南北朝時代)十二月七日現在地に遷祀元禄十五年(一七〇一年・東山天皇)六月改修の儀起こり現在の社殿が再建された。
   境内地一、六四六㎡明治六年十二月村社に定められた。
   尚摩気神社(府社)ともゆかり深く数々の史実が伝えられている。
四、境内社
   八幡宮・貴船神社・大宮神宮・巌島神社・愛宕神社
   天満宮・稲荷神社・加藤麻呂神社・八坂神社
五、その他
   十月の例祭には、太鼓山(辻区・中畑区)囃子曳山(笹尾区)造り山(中村区)船山(下村区)御殿山(鎌倉区)夫々より賑やかに繰り出され勇壮な祭りであって近隣町村からも沢山参拝があり称賛され貴重な文化財である。
              平成十六年十月吉日


『丹波町誌』
葛城神社
一、所在地 口八田小字宮ノ本一三番地
二、祭 神 一言主命
三、例祭 一〇月一七日
四、由緒その他
 貞観元年(八五九)一二月五日、高岡小字平松に鎮座、応安三年(一三七〇)一二月七日現在地に遷祀、元禄一五年(一七〇二)六月改修の議起こり現在の社殿が再建された。昭和五〇年より五二年にわたって社務所改造、本殿上屋、拝殿屋根のトタン葺き、小宮二社の修繕が行なわれた。
なお、丹波志には「北道氏産神ハ葛城大明神ニテ境内三畝歩除地并ニ馬場一丁ヲ寄進ス社坊ハ近代ニ建ツ」とあり、また元禄年間の『宮建の事』によると、元禄一五年六月、八田神宮寺及び笹尾・中畑・辻・中・下・鎌倉の庄屋が連名で亀山藩松浦源右衛門宛に社殿改築の願書を出している。
氏子 一五○戸


屋台庫が村々に見られるから、賑やかな祭礼があるよう。ずいぶんと古い神社のようだが、なぜ当地に葛城神社があるのかは何とも不明である、元々は北道氏の氏神だったものか。

『丹波町誌』
葛城神社の祭礼
 昔は「八朔祭」といって、旧暦八月一日(新暦一〇月一日)に祭礼が行なわれていたが、大止末期より一〇月一七日に変わった。その理由は、当時農村は不況により万事節約を旨としていた。そこで当地方の祭は一七日が多い関係上同日に行なえば、経費の節約にもなると考えたからである。結果としては参拝人も少ない祭となった。
 祭礼は午前中に宮総代によって挙げられ、村人が餅などを持って参拝し、午後一二時頃から山の出御となる。山は次の六基である。
  笹尾の曳山 祇園囃し(乗子六人、笛・太鼓・鐘)
  中畑・辻  太鼓山(太鼓御輿)
  中村    作り山(鶴・亀などの祝物)
  下村    舟山(伊勢音頭で曵く)
  鎌倉    御殿山(伊勢音頭で曳く)
各山の由緒は詳らかではないが、太鼓山は明治の頃多紀郡波々伯部神社から買ってきたものといわれている。
大鳥居建て替え
この行事は古くから二〇年毎に行なわれる。
昭和五五年の例

園部町の摩気神社(名神大社)と関係深いという、マキと呼んでいるか正式にはマケ。鏡作摩気神社(磯城郡)があり、天目一箇神を祀っている、子安明神ともいう。青銅技術を持っているのではなかろうか。
マキ山が金属と関係あると見ているが、この摩気のことであろうか。


金比羅宮
『丹波町誌』
金比羅宮
一、所在地 口八田小字中筋
二、祭 神 大物主命
三、例 祭 一一月一〇日
四、由緒その他
 創建は定かでない。ただ常夜燈籠に「文化一四年講中」とある。昭和五九年一一月参道をコンクリート段に改修する。社殿の建坪約一坪、屋根は瓦葺、境内約一〇坪、氏子中畑区二七戸
.


曹洞宗笹尾山東光寺

寺号からしてずいぶん古い、周辺最古の寺院かと思われるが、この道を行けばいいようだが、狭そうなのでここでやめ。薬師に笹尾という集落で、「山椒太夫」の先祖が鉄を採っていた所であろうか。古墳があったよさそうなもと思うがそのハナシは聞かない。
『丹波町誌』
笹尾山 東光寺
一、所在地 口八田小字滝谷
二、宗 派 曹洞宗
三、本 尊 薬師如来
四、沿 革
 この寺は天正以前、尖中山の中腹に建っていて笹尾寺といった。天正の頃兵火によって諸堂のほとんどが焼失して、薬師堂だけが残った。その後、天心永祐という僧が身を寄せ、土地の人々もこの僧に帰依して薬師堂を現在の地に移し、梁舎を増築し、笹尾山東光寺と改めた。その後四代を経て園部徳雲寺一一世友山重学和尚を請して開山とした。
住  職  出原良忠 兼務
檀家信徒  九戸




曹洞宗天久山亨徳寺

葛城神社の近くにある。「天久」は舞鶴にもこの名の神社があるが、天狗のことでなかろうか。
『丹波町誌』
天久山 亨徳寺
一、所在地 口八田小字百合ノ下
二、宗 派 曹洞宗
三、本 尊 釈迦牟尼仏
四、沿 革
 当寺は、天正七年(一五七九)本々玉雲寺三四世無為守恩和尚を請して開創された。元禄元年(一六八八)本堂を改築したが、寛政一一年(一七九九)七月民家の火災によって類焼し、過去帳その他すべて焼失したので、本堂の再建についても不祥である。昭和三一年観音堂改築、同五六年書院を建立し、引き続き山門を新設して伽藍を備え現在に至る。境内に庚申堂がある。
住  職 西村黙音
檀家信徒 三○戸
年中行事 …




曹洞宗普門山大通寺

篠山街道へ少し入った所。
『丹波町誌』
普門山 大通寺
一、所在地 口八田小字奥ノ谷
二、宗 派 曹洞宗
三、本 尊 釈迦牟尼仏
四、沿 革
 応永三四年(一四二七)二月、土地の人々が、玉雲寺三世華翁禅燈和尚の徳を仰ぎ、帰依して一寺を建立し開山とした。明治四〇年(一九〇七)大降雨により伽藍が倒壊したので現地に移転再建された。境内には観音堂があり、これにかかわる「観音縁起書」が壇家に残っている。この観音の千日参りの夜は、大踊りで賑わった。
住  職 出原良忠
所家信徒 五四戸
年中行事 …


中畑城
北道氏の居城という。


《交通》
『丹波町誌』
奥山峠
この峠は昔から八田(笹尾・中畑・辻・中村・下村・鎌倉)と、おくも(大芋村現篠山町)とを結ぶもので、狭い谷間を幅員およそ二メートルばかりの山道を人やべ夕車が通っていた。
 大正七年、小林藤三郎の請負で、第一期(向掛まで)第二期(寺床まで)第三期(頂上まで)に分割して開削工事が進められ、同一二年完成した。当時の土方道具はまだ、鋤簾やスコップがなかったので、ふろ付きの大鍬で土を掘り、「あいどりもっこ」で運んだ。また、当時の賃金は、高等小学校卒で大人の六分五厘で一七銭五厘、大人の最高で一一分五厘の割であった。(一○分が約二六銭の割)
 この工事によって、べ夕車などが通れるようになり山の値も上った。しかし、管理が悪くいたみがひどくなり、地元の中畑区民が出て路面の整備や陰樹の伐採に奉仕、園部工営所のグレーダーも出て応援作業を行なった。
 昭和三七年より、従来の幅員三・五メートルを四・五メートルに拡幅、急カーブの突角部を取除き同三九年府の開発道路の指定を受け拡幅を終り、同五〇年頃には舗装が行なわれた。全長約三キロメートル、(地方道)、南方には、多紀郡篠山町大藤に至る町道の一部の大藤峠がある。



《産業》


《姓氏・人物》
北道氏


口八田の主な歴史記録


鉱山
『丹波町誌』
マンガン鉱
 丹波地方は、比較的マンガン鉱床分布の密度の高いところである。丹波町や隣接する瑞穂町・日吉町にかけて広く丹波層群の粘板岩が分布し、チャートを挟んでいる。チャートの中には、層状マンガン鉱床を多数伴い特に下山・胡麻付近に多く密集している。また、口八田から観音峠にかけて、輝緑凝灰岩が現われて東西に延びており、それにマンガン鉱床を伴っている。口八田の吉富鉱山は走向がほぼE~N五〇度Sに傾斜し、樋巾は最大二・五メートルに達するところもあり、二酸化マンガン鉱を産した。戦時中まで稼動していたが現在は採掘していない。
 丹波町の鉱山には二酸化マンガン鉱を採掘した中小の鉱山が多くあり、東西の二列に鉱床部が見られたようである。北の列には、質美の北久保・下山の白土及び木の谷、南の列には瑞穂町保井谷から丹波町豊田山内谷・富田・実勢小屋ケ谷・富谷と東西に並んでいる。現在は稼動しているところはなく鉱山跡に横坑が残っている。

磁鉄鉱
この鉱物は造岩鉱物としては、普通のもので諸種の変成岩などの副成分をなし、しばしば按觸変質鉱床または、鉱脈を形成する。機械的風化にも、化学的風化にも強く、かつ比重が大きいため砂鉄を産するものである。
 高岡林谷の鉱山は、古世層中に交代鉱床をなし、鉱塊の周縁部に黄鉄鉱を、内部に緻密な塊状の磁鉄鉱をもつ。
昭和一〇年頃まで二か所の竪穴で採掘されていたが、現在は廃坑となっている。



口八田の伝説


『丹波町誌』
くずし
 竹野中畑の山奥に、今も伝えられる「くずし」というところがある。ここはその昔、多紀郡大芋村福井に大宮神社があり、このあたりの死人はすべて他所に埋葬する習慣があって、わざわざ水流の違うこの在所の山に捨てたと伝えられ、その地を「くずし」と名づけたそうである。今は当時をしのぶ古木もなく雑木林になっているが、その辺に立ち寄ることは避けている。


八田のぼこた
旧竹野村は亀岡藩の領地で、毎年亀岡へ年貢を納めた。隣接する船坂は、園部藩下であったため、口八田とは仲が悪かったようである。常に船坂を通って園部・京都方面への出入りが多かっただけに、船坂を通る時、よくこんな歌をうたって笑われたそうである。
     「八田のぼこた 何喰て肥えた
              猪食て肥えた」








口八田の小字一覧


口八田(くちはった)
峠 鍋谷 広谷 梅ノ木谷 小峠 スベリ石 浜付場 才谷 小脇 百合ノ下 向井 宮ノ本 岩崎 沢 大室谷 中筋 奥ノ谷 今井谷 向ヒ掛谷 跨ノ谷 長尾 岩ケ鼻 一谷 ユスギ 木端 小畑 滝谷 小谷 高井尾 森ノ下 大谷 堂ノ下

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
『丹波町誌』
その他たくさん



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