水戸(みと)
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京都府船井郡京丹波町水戸 京都府船井郡丹波町水戸 京都府船井郡須知町水戸 |
水戸の概要《水戸の概要》 国道9号線(山陰道)の須知の先、観音峠(水戸峠・水戸野峠)の登り口の集落。街道沿いに集落がある。 中原康富が文安6年(1449)6月9日天田郡の郡司のもとを訪れ、翌10日帰京の途に着いた、「康富記」同年同月11日条に「昨夜宿美都(ミト)、今朝立美都、於木崎用蓋於大江分(ヲイワケ)用昼食」と記す。「美都」は水戸であろうという。 室町時代には北野社領船井庄に含まれていた。「北野社家日記」長享3年(1489)5月26日条に載せる舟井庄11村闕所分目録に「三戸村内岡人大保一類」とみえる。延徳3年(1491)に、水戸村ほか7ヵ村の代官職に太田保定が任命されており、その補任状および請文が同日記同年3月23日条に載る。また同日記同年6月19日条には三戸村(水戸村)年貢米の請取状が次のようにあるという。 納舟井庄三戸村御年貢米事 合弐石七斗六升三合者 右且所納如件 延徳三年六月十九日 慶渟判 太田蔵人殿 水戸村は、江戸期~明治22年の村。亀山藩領。明治4年亀岡県を経て京都府に所属。学制の制定後、明治9年まで稲荷神社社務所を校舎に充用した辻村敦篤校の分校が開設された。同22年竹野村の大字となる。 水戸は、明治22年~現在の大字名。はじめ竹野村、昭和26年須知町、昭和30年からは丹波町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。 《水戸の人口・世帯数》 87・33 《水戸の主な社寺など》 稲荷神社 地図にはあるが、参道の入口がわからない。 『丹波町誌』 稲荷神社 一、所在地 水戸小字古和田 二、祭 神 倉稲魂命 三、例 祭 一○月一七日 四、由緒その他 承応三年(一二九〇)三月二日初午に伏見稲荷神社より勧請、応永一五年(一四〇八)六月神庭神殿を造営する。鰐口銘に「丹波国船井郡三戸村杉森大明神、応永十五年六月三日吉継」とあるから、当時は杉森神社と呼んだようである。正徳元年(一七一一)五月吉日社殿を改築する。その棟札に「大工大阪阿土町五丁目鳥居氏宮屋甚兵衛」と記す。昭和三九年九月一七日台風一七号により被害を受け、本殿大修理、上屋新築、昭和四一年一〇月再度の台風により杉の大木が倒れ拝殿を破壊、これを再建する。 氏子水戸区、西階区五六戸 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 水戸の主な歴史記録水戸の伝説水戸の小字一覧水戸(みと) 山崎 庄ノ下 尻江 谷 小由里 町 町裏 苗手 山田 中河原 小和田 向井 六呂 奥六呂 大坪 白次郎 廻り石 小ノ欠 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『船井郡誌』 『丹波町誌』 その他たくさん |
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