旧・瑞穂町(みずほちょう)
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京都府船井郡京丹波町 京都府船井郡瑞穂町 京都府船井郡 |
旧・瑞穂町の概要《旧・瑞穂町の概要》 瑞穂町 面積10・02平方キロ。 船井郡の北西端に位置し、東西約10キロ、南北11キロ。西は天田郡、南は兵庫県多紀郡、北は船井郡和知町に接する。瑞穂町は全体として日本海斜面で、由良川の上流にあるが、水系的地形的には二分される。町域の4分の1にあたる南西部分は西流する土師川の上流域で、中・下流方面の三和町や福知山市と関係が深い。東部から北部にかけては東南に流れる高屋川・和知川の流域である。大部分の地域が標高500メートル前後の山地である、平地で海抜170.5~198m、最高峰は667.8mの三峠山で、南東部には小さな檜山盆地がある。これらの河川の流域に耕地が開けているが、山地が町面積の90%を占めている。地質は秩父古生層からなる。 鉄道は通らないが、古くからの山陰街道の要衝にあり、今は京都縦貫道が通り「京丹波みずほインター」があり、また国道9号が町の中央を東西に横断し、国道173号が南北に通り、町内で交差する。 明治22年(1889)町村制施行により、中台・橋爪・大朴・井尻・八田・小野・和田・井脇の8村が檜山村、阪井(坂井)・水原・鎌谷下・鎌谷中・鎌谷奥・東又・下大久保・上大久保の8村が梅田村、保井谷・粟野・妙楽寺・三ノ宮・猪鼻・質志・戸津川・水呑の8村が三ノ宮村となった。この三村と質美村が昭和26年合併して瑞穂村となり、同30年町制を布いた。当時の人口は5,906人。町名の由来は公募によった。 瑞穂町となって50年が経過した平成17年10月11日。周辺の丹波町・和知町と当町の3町が合併し、京丹波町が誕生し、瑞穂町は解消した。 《沿革》 原始・古代 当町域の遺跡は15か所を数えるが、京都府遺跡地図(昭和47年)によると、縄文時代から古墳時代にかけての遺跡として、桧山に中台遺跡があり、散布地・集落跡の可能性もあり、縄文・弥生土器片、土師器・須恵器・磨製石斧片も出土している。また中台中島には円墳1基、中台桜池には須恵器登り窯跡群がある。奈良前期から平安初期の遺跡で、古墳が8基確認され、いずれも後期のものと推定されていて、うち7基が円墳で、また5基が横穴式石室である。三ノ宮に横穴遺跡1か所が確認されているが、半壊し、時代など不詳である。 「京都府遺跡マップ」 律令制下の行政区画では、船井郡11郷のうち出鹿郷・須知郷・鼓打郷の3郷が当町域に属すと見られる。 式内社は酒治志神社(三ノ宮)があり、もと三宮社と称し、内陣から弘仁4年(813)正月21日付の宣旨が発見され、式内社に比定された。 寺院は鎌谷中に天台宗薬師寺(現臨済宗)があり、寺伝によると、弘仁元年(810)伝燈大阿闍梨白明大僧正の開創とし、七堂伽藍を備えていたといわれる。境内に軒平瓦・布目瓦・焼窯壁片を出土する平安期の寺院跡・窯跡が確認されている。 質実には石清水八幡宮宿院極楽寺領があり、治安3年(1023)の宮寺僧兼清解案に質実荘が初見し(石清水文書)、保元3年(1158)12月3日の官宣旨は質実園と記している。以後、戦国期まで同寺領として相伝される。近世には質実荘村と記している。 中世 〔山内氏の本拠地〕承永の乱(1221)の後、丹波の守護は北条時房-時盛-時益、南北朝期に仁木頼章-頼夏-義伊などで、室町期には山名時氏・氏清、次いで明徳3年(1392)以降は、細川氏が8代にわたり当地を支配した。こうした中で地方豪族層の出現があり、和田の城山、井尻の旗鉾山、坂井の城山、水原の城山や鎌谷城跡・橋爪城跡・三ノ宮城跡(東西両所)など、中世期の山城城跡が確認される。 橋爪城は山内一豊の祖父久豊の居城で、山内氏は当地に早くから勢力を有していた。山内伊豆守憲邦(1282年没)、山内越後守憲方(1331年没)などの居城は三ノ宮城で、西の城跡には井戸・濠を残している。 鎌谷城は細見河内守の居城で、波多野家臣の勢力が進出している。水原城跡周辺には武士谷・しょうぷ谷・陣屋ケ谷などの地名を残しているが、それら諸城は天正6年(1578)の明智光秀の丹波攻略により没落した。鎌谷は細見将監が明智光秀によく応戦した激戦地であった。 この期の寺院は、延文2年(1357)創建の徳善寺(質実、開基足利尊氏)、貞和年間(1346~60)夢窓疎石開創の長楽寺(上大久保)や養徳寺(井脇)・西方寺(水原)・光明寺(質志)・無動寺(粟野)・妙行寺(井尻)・洞現寺(質実)などが創建され、禅宗・日蓮宗が伝播している。 神社は梅田春日神社・鎌谷春日神社・東又春日神社・猿田彦神社などである。猿田彦神社は正中3年(1326)創建で、梵天帝釈天開帳は大福光寺(丹波町)の出開帳によった。境内に薬師堂・地蔵堂・観音堂など諸堂をもつ宮寺があった。 近世 〔錯綜する知行人〕当町は幕府・旗本・寺院・園部藩・亀山藩・綾部藩などの領地で、かなり入り組んでいた。北久保・下・上野・中の各村および和田・井尻の各一部は幕府領で代官小堀数馬、水原・下大久保両村は幕府領で代官松平九十郎、井脇・大朴・坂井の各村および中台・橋爪・井尻・猪鼻の4か村の一部は旗本柴田七九郎、八田・小野両村は旗本川勝左衛門、保井谷・粟野・妙楽寺の各村および三ノ宮村の一部は旗本島藤左衛門、水呑村の一部は旗本水野長左衛門、水呑・猪鼻両村の一部は旗本河野二十郎がそれぞれ支配した。中台・質志、三ノ宮3か村の一部は綾部藩領、鎌谷下・鎌谷中・鎌谷奥・東又の各村は亀山藩領、上大久保・水呑の両村の一部は水野壱岐守、橋爪村の一部は武田兵庫頭の所領であり、戸津川村は等持院領であった。船井郡131か村、2万715石余を領した園部藩は、当町域では幕末期の調査では中台村の一部に124石余を有するのみであった。 「元禄郷帳」によると、当町は26か村、総村高7,541石余である。最高は質実村の607石余、次いで井脇村が520石余、下・橋爪・中台・井尻・和田・水原・上大久保の7か村が400石台、400石未満200石以上は大朴村など9か村、200石未満は8か村を数え、最低は戸津川村の35石余である。田畑石盛を井尻村に見ると、上田1石3斗盛、中田1石2斗盛、下田1石1斗盛、上畑屋敷1石盛、中畑8斗盛、下畑6斗盛であった。主産物は米麦であるが、ほかに林産物として薪炭・松茸・栗など。 〔万延の百姓一揆〕 水原・鎌谷奥・東又などには郷蔵が設置され、その地名も残存しているが、頻繁に起こった飢饉による農民の生活苦は当地もその例外ではない。天保元年(1830)2月に保井谷で打毀、万延元年(1860)11月13日には上大久保村で一揆が起こっている。万延の一揆は米価の高騰が原因で大久保村の数名が豪家への強談を企て細野峠に会合したのが発端となり、上大久保の酒屋、水原の呉服屋をはじめ、保井谷・粟野・妙楽寺・三ノ宮・和田・院内など10数か村を襲い、動員数2,000人で須知村(丹波町)に至り亀山藩の追手に撃退され、4日間の騒動は終っている。 山陰街道は参勤交代の要路で、街道沿いの当町は助郷の夫役にあたったとみられる。下大久保には本陣が置かれ、旅篭屋・腰掛茶屋などがあり宿場町として栄えた。近辺には札場(東又)・市場(水原)などの地名を残している。 寺院では福寿寺・西岸寺・竜福寺・長楽寺・常願寺・地蔵寺・不断寺などがあり、徳雲寺(園部町)末あるいは洞光寺(兵庫県多紀郡城東町)末の曹洞宗寺院や常照寺(真言宗)、千手寺(単立修験系)が創建された。 神社では熊野神社・二宮神社などが創建され、質実八幡宮は山車・屋台を繰り出す大祭が伝えられている。 近現代 〔行政区画の変遷〕当町域は明治維新ののち、久美浜県・篠山県・豊岡県・綾部県などに分属したが、明治4年11月、京都府所轄となり、同5年区制によって第12区から第14区に分かれた。明治7年質実上・質実下・北久保の3か村が合併して質実村が成立、同12年4月戸長制で第7組となり、同17年の連合戸長役場制で桧山と梅田地区、質実と高原地区の連合および三ノ宮地区の連合にそれぞれ分かれた。明治22年の市町村制施行により、中台・橋爪・和田・井脇・大朴・井尻・八田・小野の8か村が合併して桧山村、坂井・水原・上大久保・下大久保・鎌谷下・鎌谷中・鎌谷奥・東又の8か村が合併して梅田村、保井谷・粟野・妙楽寺・水呑・三ノ宮・質実・戸津川・猪鼻の8か村が合併して三宮村が成立。昭和26年4月1日、桧山・梅田・三宮・質実の4か村が対等合併して人口8,382人、31区からなる瑞穂村が形成された。法定議員数は22人である。昭和30年、瑞穂村は町制施行により瑞穂町となり現町域が確定した。 〔盛んな林業〕当町の主産業は農業であるが、明治19年山陰街道(国道9号)の改修で木材の運搬が容易となり、林業が脚光を浴びた。明治43年桧山村は村有林統一をなし、ついで三ノ宮村・梅田村での統一もなり、大正期には山林保護管理体制が確立し、林業が軌道に乗った。昭和26年の合併時に4か村協定で財産区が設立され、条令を制定し財産区有林の管理運営を行っている。財産区繰入金は町財政の財源として重要な役割を果たしており、その額は昭和26年以来25年間で7億2,000万円余といわれる。 当町の交通は、明治43年の山陰線園部~綾部間開設が当地を迂回したため、もっぱら道路に依存している。国道9号を幹線に、国道173号、府道桧山丹波線・大身下山線・上野水原線・遠方瑞穂線が通じている。 昭和38年秋からは松茸・栗狩りで観光客の誘致がはかられ、翌39年11月からは有料猟区が設定され、山林を利用した観光開発が促進されている。丹後みづほ松茸の増産を目ざして町の木アカマツ林の手入れがなされている。また昭和41年府下初の山林振興法の指定を受け、府営の開拓パイロット事業が始まり、皿引野(大朴)一帯に栗園を造成し、同44年に完成、75haに3万本の栗が栽培されるなど、農業近代化事業も促進されている。通勤や出稼ぎ(丹波杜氏、昭和53年1月現在40名程度に減少している)で兼業農家が多いが、大都市近郊の農業地域として、また宅地開発・工場誘致も行い、自然と調和のある町づくりが促進されている。 旧・瑞穂町の主な歴史記録関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『船井郡誌』 その他たくさん |
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