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丹波の

小畑(おばた)
京都府船井郡京丹波町小畑


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京都府船井郡京丹波町小畑

京都府船井郡和知町小畑

京都府船井郡下和知村小畑

小畑の概要




《小畑の概要》
小幡とも書く(丹波誌)。本庄の由良川対岸南側で、JR山陰本線が走る。河岸段丘上に集落と耕地が開ける。由良川を堰止めた和知ダムがある、その南側である。
小畑村は、江戸期~明治22年の村。元和5年から園部藩領。明治4年園部県を経て京都府に所属。同5年から同17年まで、本庄・小畑2か村の連合戸長役場を設置した。同22年下和知村の大字となる。
小畑は、明治22年~現在の大字。はじめ下和知村、昭和30年からは和知町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。


《小畑の人口・世帯数》 167・65


《小畑の主な社寺など》

鎮守は本庄の阿上三所神社
若宮神社

龍福寺の車用参道途中に鎮座。左の道を登ると龍福寺。

曹洞宗高貴山龍福寺


高貴山龍福寺(曹洞宗) 字小畑小字ダン三一
寺伝によれば、当寺は元、真言宗であったと言われる。『寺社類集』には、「禅宗下新江村籠穏寺末、高貴山龍福寺、正保年中、僧周福開二基之一、万治年中以二龍穏寺八世鉄船和尚一為二関山一」と見え、さらに「本堂四間半ニ七間」「隠寮三間ニ三間半」と記されている。従って当寺は、正保年中(一六四四~四七)開基僧周福によって創建され、万治年間(一六五八~六〇)に、龍穏寺八世鉄船舜良を勧請開山に仰ぎ、二〇世代に伝法を継ぎ法地を起立している。
本尊は釈迦如来像で、現在の本堂は、文化七年(一八一〇)、三世卍瑞慧雲による再建である。境内の観音堂には、如意輪観音を中心として、大日如来・薬師如来・青面金剛明王の諸像が合祀されている。往昔、金撃山寺にあったもので、同寺が兵火により焼かれて廃寺となったので、五重塔の中心仏であった大日如来・薬師如来の各像は、堂元の大日堂に安置していたが、明治七年(一八七四)小畑の火事のとき類焼に遭い、仏像だけを観音堂に預かり合祀したものである。  (『和知町誌』)


小畑万歳


村の中にこんな石碑が建っている。
案内書に、
小畑万歳
3人のコンビが最高のパフォーマンスで「お祝いに花」を
小畑万歳は、小畑(京丹波町小畑)に伝承されていますが、起源については定かではありません。小畑万歳の関係者であった故尾池忠夫氏の記録によるものしか残っていませんが、それによると、その当時は、播磨の加西地方から、正月から春にかけ三人一座の万歳が数組み当地を訪れていたと言われており、それが小畑万歳のきっかけになったのではと思われています。小畑に万歳の衣装と鼓が残っていたため、それを使って昭和9年に耕地整理の竣工式に祝意を表して万歳をしたのが小畑万歳の初演と思われます。特徴は、「三味」「才蔵」「太夫」の三人で演じ「エー、始まりましては 誠に芽でとう候いける ソレ 水も湧き出る 木の芽もめだつ 金の塗蔵白蔵」が定形表現で、その他の表現は、その場の雰囲気や内容にあわせたものとなっています。平成13年には、京都府無形民俗文化財に指定されました。

小畑万歳
由来と伝承
現在、町内の小畑に伝承されている「小畑万歳」については、文書などに基づく明確な記録はない。本稿は小畑区民でかつ関係者の一人尾池忠男(元消防団長)のメモや記憶に従って、伝承のいきさつをまとめたものである。
 かつて小畑の尾池運太郎(故人、現在後継者は京都市)の宅に万歳の衣装と鼓(いずれも伝来不詳)が残されていることがわかっていた。これは日露戦争以前のことであったが、特にそれを使って万歳を演じたという記録も話も伝わっていない。ただ、その家にはかつて芸達者な人があったという話は残っている。
 当時の風習としては、正月から春先へかけて播磨(兵庫県)の加西地方あたりから、三人一座の万歳が何組か当地を訪れては、あちこちの集落を門付けの芸を披露して回る姿がよく見られたという。あるいはその人たちと何らかのつながりも以前はあったのかもしれないが、詳細は不明のままである。
たまたま、昭和九年(一九三四)に安栖里区の耕地整理事業の竣工式が行われた際、当日の祝賀行事として小畑から曳山とともに万歳も繰り出して祝意を表したことがあった。
これが近代での小畑万歳上演の第一歩である。出演者は太夫尾地政治郎・才三梅原伊平・三味線樋口市之進(いずれも故人)の三名で、前記の衣装をまとって播磨流の万歳を演じた。その後、昭和三十年の和知町合併祝賀、および昭和四十二年の鐘打金比羅神社百年祭などにも出演したことがきっかけとなって、「小畑万歳」として近辺にその名を知られるようになった。

小畑万歳の復活とその特徴
下って昭和四十八年(一九七三)夏、この小畑万歳に関心の深かった尾池忠男・渡辺正之・尾池和喜(故人)の三人が、当時病臥静養中であった尾池政治郎に特に伝授を請うて修業を頼み、同年九月の区内敬老会に初めて出演し、これが小畑万歳の本格的な復活のきっかけとなった。一年後に太夫の尾池和喜が交通事故のため急死、後継者に尾池忠明を迎え、このトリオは昭和六十三年ごろまでに延べ四十数回に及ぶ公演を続けてきた。
平成に入って新たに尾地主次・尾池紀男・梅原英男の三人が三代目を継ぎ、現在に至っている。
(上演の台詞) (特に定型表現)
○エー、始まりましては 誠に芽出度う候いける ソレ 水も湧き出る 木の芽もめん立つ 金の塗蔵白蔵-
 今日はめでたいお祝い日 (これより以下は、その都度の行事、催し物など、その内容に合わせた即興句を挿入する)
 ○お決まりの文句
  山から材木、千把に松茸、しめじにワサビ、わらびにぜんまい
  畑の方では、大根カブラに青ネギ玉ネギ、ニンジン・ゴボウ、広い田圃に稲植えて、秋になったらお米の
  お金、親爺の月給があっちからゾロリ…こちゃらへゾロリ
 ○「結びの文句」は、その場の状況に応じてこれも即興的に締めくくる。
 以上のような演出型態を持っているが、この小畑万歳が比較的各地で好評を得ている理由の一つに、公演先の地域の様子・名物・名所その他をアドリブ(即興表現)として織り込んでゆく手法が挙げられるかもしれない。
 現在の三代目の人たちは年齢も若く意欲的であり、鼓・三味線なども新調され、今後の活躍が期待される (以上、小畑・尾池忠男の「資料」による)。

小畑万歳の上演例(昭和五十四年八月の和知駅鉄道開通記念「ふるさと祭」上演の台本より抄出)
太夫
才三 エー 始まりましては まことにめでとう候いける 水も湧き出る 木の芽もめだつ キンノニヤホヤ
 シラクラシラクラ
太夫 きょうは めでたい(マダラト)お祝い日(マダラト) 鉄道通じて六十余年(マダラト)商栄会は申す
   に及ばず(マダラト) 和知町のみなさん(マダラト) 近郷近在善男善女(マダラト) 多くの方が集ま
   りなされて(マダラト) お祝いなさる(マダラト) まことにめでたい
  才バコめでたい
才三 めでたいこっちゃわ 太夫さんめでたい(マダラト) 楽しいこっちゃわ皆さんの前で(マダラト) 俄づ
  くりの万才舞うて(マダラト)
  お祝いできるは これ又 めでたい 太夫さん めでたい
 (一部 省略)
太夫 めでたいこっちゃわ 才バコめでたい(マダラト)   道は舗装で街灯もついて(マダラト) チョットひねれば水も出る(マダラト) どこの家へも電話がついて 話かわすも訳はない(マダラト) 色つき(カラー) テレビで(マダラト) 艶歌に万才浪花節(マダラト) 楽しい毎日(マダラト) これ又 めでたい
   才バコめでたい
才三 めでたいこっちゃで、太夫さんめでたい(マダラト) 山から材木 センバに松茸 椎茸しめじにワサビ
   わらびにぜんまい(マダラト)
   みなさん御承知 丹波の名産味のよいよい和知の栗(マダラト) どっさり出来て誠にめでたい(マダラト) 伊勢には外宮さん 内宮さんの五穀(マダラト) 江州にゃ多賀さんの五穀(マダラト) 出雲にゃ
   大社さんのソレ五穀(マダラト) 京都は伏見のお稲荷さん 和知では阿上三所の神社へ五穀 ところど
   ころの神様へ 五穀お供え申して お祈り申せば (マダラト) 和知はますます繁昌で まことに めで
   たい 太夫さん めでたい
   (中略)
太夫 めでたいこっちゃわ 才バコめでたい(マダラト) 清い流れの和知川で(マダラト) 泳ぐはアユかはた
 鯉か(マダラト) 釣糸垂らすは浅川で(マダラト) 深い淵には橋架けて(マダラト) 山の奥まで道が  つく(マダラト) 走るは自動車オートバイ(マダラト) 往来するのも訳はない(マダラト) 開けた世の
  中 これ又めでたい
  才バコめでたい
才三 めでたいこっちゃわ 太夫さんも見なされ(マダラト) そーれ足の又なるしょうびんが(マダラト) お
   とちゃんも喜び おかちゃんも喜ぶ おとちゃんの金蔵 おかちゃんの豆蔵(マダラト) フウワリ合わ
   せて おとちゃんが上から おかちゃんが下から 両方合わせて フウワリ フカフカ
太夫
才三 ピョコピョコ モコヒョコ
   キンノニヤホヤ シラクラシラクラ
太夫 才バコ出来たぞ(マダラド)
   開通してから六十余年(マダラト) 語り伝えてとこしえに(マダラト) 皆で祝おう 今日の日を(マダラト) 何はなくとも みなさんは(マダラト) 心一つに力を合わせ(マダラト) まめで達者で お蔭
  にされりや(マダラト) 神ノ神までころげ込む(マダラト) 家内ますます御繁昌(マダラト) 商栄会
  も発展で(マダラト) これまた和知町も
太夫
才三 ばん、ばんざーい
太夫 ツルは御門に(マダラト) 巣をかける(マダラト) カメはお庭で(マダラト) 舞を舞う(マダラト)
太夫
才三 鶴は千年亀は万年 合わせて壱万壱千年
   キンノニヤホヤ シラクラシラクラ
             (完)  (『和知町誌』)


《交通》


《産業》
和知ダム

国道27号線から見える。
和知ダム
和知ダムの概要
ダム地点における流域面積は573.0平方キロ、計画洪水流量は2、640立方メートル/s、ダム地点の無害放流量は約300立方メートル/Sと定められている。ダムの諸元は、表一3 及び図示のとおりであり、総工費8億9、000万円を要した。
このダムは、4門のクレストテンターゲート(高さ12.0m、幅9.0m、うち1門は高さ2.0m、幅4mの流芥ゲート付)が設けられている。
このダムは、昭和35年頃から計画されたものであり、河川法上申請については、関西電力株式会社より行なわれ京都府知事より、昭和40年12月17日付で許可されたものである。
昭和41年2月19日より工事に着手し、昭和42年7月20日完成の予定であり、昭和42年5月20日には、近畿地方建設局長に対して完成検査申請書が、昭和42年5月17日には、大阪通商産業局長に対して、湛水検査申請書が、それぞれ提出され、昭和42年6月26日に発電所を除く部分についての検査が実施された。
2)和知ダムの事故
関西電力株式会社は、昭和42年6月27日より和知ダムの湛水を開始し6月30日には、常時満水位に達せしめた。その後は、その水位を維持すべく主として、第3号ゲートを最大50㎝程度までの比較的小開度で操作し、流量の調整を行なっていた。
事故当日の7月2日は、前日の降雨により流量がやや増えてきたので、第3号ゲートの開度を0.2m~0.3mとして流量の調整を行なっていたところ上流から流木および塵芥が右岸に集積してきた。それゆえ、第4号ゲートの流芥ゲートを操作し流木等を流下させ、さらに放水口附近の堆積土砂を排除するため、第3号ゲートを全閉し、第4号ゲートの捲上げを行なおうとしたとき2日11時15分頃、第3号ゲートが異常音を発し破壊し流失したと報告されている。
このため一時に大量の水が流失し、ダム下流は急激に増水し、綾部市戸奈瀬地先の関西電力株式会社由良川ダムでは、午後1時頃約2mの水位上昇をみ、福知山市では、午後4時頃約1mの水位上昇をみたと報告されている。
関西電力株式会社和知ダム建設所では、ゲートの破壊を直ちに下流に通報すると共に関係市町村に対しても通報を行なった。
一方、和知町、綾部市、福知山市、園部警察署ならびに建設省福知山工事々務所においても職員を動員して、住民や釣客、砂利採取業者等に対する警報の伝達に努力した。しかし、日曜日であったことや、突然の事故であったため、相当の混乱があり、徹底を欠いたため、午後0時40分頃、和知ダム下流約15㎞の綾部市鷹栖町長瀬附近でアユつりをしていた釣客2名が濁流にのまれ1名はついに行方不明となった。死体は翌3日朝、綾部市野田町柳崎に流れついたのを発見した。
下流地区の被害としては、田畑、家屋等の浸水は皆無であったが、河原に置かれていた小舟や農機具等に若干の被害があった。…
(『由良川改修史』)

和知ダム
   和知町・和知第一小 六年 野間千里
これは、おじいさんから聞きました。今から七十年ほど前の由良川は、水もすきとおり鐘打鉱山からもよどれた水も流れてこなかったそうでした。魚も小さなびくをもって行くと一時間ほどで、一ぱいになるくらいたくさんつれて、その魚も何倍か大きかったそうです。でも、ダムのない時はいい事ばかりでなかってもよいのにと、思いました。
でもやはりくろうもあったようです。坂原は、昔、せんぼつ橋はなく大きく太い木を三本置き、その上に板をしきつめて、みんなでわたったようです。でも大水の時なんかは上に置いたしき板が水にながされるのでみんなで板をとり、また水がひいてくるとみんなでとりつけるのでした。でも強い流れになるとその板が流されていきます。そんな時は坂原の男の人総出で、まる一日かかって板をしきつめるのでした。ダムができる前は、よかったこともあれば、またくろうもすることがよくわかりました。
それからもう一つ私たちは毎日「ダムは、和知町の」と言いますが、和知町だけでなく綾部、福知山の人たち約十一万人の人たちに役立っていることに気が付きました。これからも十一万人の人たちに役立つ和知ダムであればいいなあと思います。
(『由良川子ども風土記』)


タングステン鉱山
地内小字脇の谷でタングステン鉱が発見され、昭和12年大谷鉱山株式会社が採鉱を開始したが第2次大戦後閉山する。同45年から鐘打鉱山のカドミウム汚染による公害問題が起こり汚染田3haの耕土の入替えにより解決したという。



《姓氏・人物》
寺島道一
寺島道一は大字小畑の眼医なり、文政十一年彦根藩侯井伊直中眼疾を患へ、道一を召して治療せしむ、道一刺鍼の術を施し日ならずして全癒の功を奏せり。直中感賞し大小刀各一振、銀製花瓶一個等を賜ひ、且二十人扶持を給せしが、道一辞して受けず、園部藩主之を聞き十人扶持を賜ひで子孫に伝へしめたり。子孫世々眼医たり、曾孫寺島素悦今園部町字若松町に住す。 (『船井郡誌』)




小畑の主な歴史記録



小畑の伝説





小畑の小字一覧


小畑(おばた)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
『和知町誌』各巻
その他たくさん



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