京都府船井郡京丹波町才原
京都府船井郡和知町才原
京都府船井郡下和知村才原
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才原の概要
《才原の概要》
京都縦貫道の「京丹波わちインター」があるあたり。南を由良川が西流し、河岸段丘に耕地が開け、国道27号が東西に貫通する。沿道に集落が散在する農業地帯。西は何鹿郡に接する。
永正2年(1505)3月7日付守護代内藤貞正施行状(片山文書)に「丹波国船井郡和知下庄(割注・除出野分 沢田分才原)事」とみえ、中世は和智庄の地。
近世の才原村は、江戸期~明治22年の村。元和5年から園部藩領。
江戸期に対岸の広野村との間は渡船で通行したが、雨のたびに通船が止まり、役所の書状を縄によって対岸に往復させたところから「状つり場」と呼ばれたという。
明治4年園部県を経て京都府に所属。同22年下和知村の大字となる。
才原は、明治22年~現在の大字名。はじめ下和知村、昭和30年からは和知町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。
大正12年当時の何鹿郡山家村に由良川発電所が設立され、そのダムが当地と山家村境に造られた。
《才原の人口・世帯数》 93・38
《才原の主な社寺など》
富士位大龍神社
富士位大竜社(ふじいだいりゅうしゃ)(才原)
『寺社類集』には
一、産神 富士大龍権現社 三尺四方
勧請年歴不考
右境内 森三十八開ニ四十間
とある。
『神社誌』によると、祭神は、大宮姫(媛)(おおみやひめ)命である。大宮姫命は、宮廷守護神として重んぜられ、神祓官御巫祭神八姪の一神で、宮内省造酒司にも大宮売神社四座として祀られている。この神を祀る大宮姫神社(式内社)が、京都府中郡大宮町周枳に鎮座し、伊勢外宮起源と関係の深い穀神・醸造伝承を伝えている。
当社も、穀物・醸造の神として当地に祀られ、里人の信仰を集めたものと考えられる。 (『和知町誌』) |
曹洞宗洞岳山曹禅寺
和知インターの近く。
洞岳山曹禅寺(曹洞宗) 字才原小字西ノ前一九
当寺は、伝承によると、王山の毛谷口に、かつて寺があったと言われ(明治初期の地図には寺屋敷として載っている)、中世は真言宗であったが、江戸時代の初期、龍穏寺八世鉄船舜良が、瑞祥寺を再建して曹洞禅を宣揚したとき、曹洞宗に改宗して洞岳山曹禅寺となった。本尊は聖観音菩薩である。さらに、寛文九年(一六六九)、龍穏寺九世月心和尚を招じて中興開山とした(『寺社類集』)。『寺院明細帳』(明治四十四年〈一九一一〉編)によると、弘化二年(一八四五)に火災に遭い、翌三年に再建したのが、現在の本堂である。
(『和知町誌』) |
《交通》
《産業》
由良川発電所
《姓氏・人物》
才原の主な歴史記録
冨士大龍権現社(原田銀之丞翁訪門記)
比の地を去る日も近づいたので秋の晴れた日、和知駅前でバスを下り、由良川べりを歩いて紅葉を賞でながら、郷土史家原田銀之丞さんにお別れの辞を述べることにした。翁を訪門するのはこれで第三回目である。第一回は昭和二十一年、第二回目は資料拝借に向った。第一回目は、翁の初孫が生れたその日だった。翁は早く奥さんを失われて独身で、孫の守りをしなから郷土の端から端まで歩いて郷土史料を集められたと其の時聞いた。それ故初孫が生れた日とてお嫁さんのお母さんが手伝いに見えて世話をして居られたので、直ぐにも辞し去ろうとしたが、御土史に就いて聞き度いとの来意を云うてしまったので、どうしても家にあがれと手をとって放してて貰えなかった。自ら餅などを焼いて喰べよ喰べよと進めながら、貴君が上和知方面を調査したなら合作で、和知峡の郷土史を書こうなど言われたのだった。その時生まれたお孫さんが十七才となって福知山の学校へ通って居られるとのこと、奇しくも和知に暮して早くも過ごした年月十八年は、このお孫さんの成長年令なのであった。翁は現在七十八才、不幸失明、過日いただいたお葉書も此のお孫さんの代筆であった。
門を叩けば、翁一人寝て居られたが、こちらの声をよく覚えて居られ非常に喜ばれ、招じられて又長い間郷土史について聞くことが出来た。翁の家の上方山の手に冨士大竜権現社がある。話は直ぐその社のことに及んだ大簾村と才原村とは大昔から深い関係があり何の意殊かわからないが、子供の頃「才原三野、舟戸の権現、大溝毛右ヱ門毛が生えた。抜いても抜いても毛が生えた」と聞いたが、此諺の中にも歴史の事実があった。それは昔丹波が湖であったころ、其の中の丘続きであったのではないだろうか。今の大簾が七百年前までは大溝と云われたし、舟戸の権現は実際にあったので、その場所へも元気であれば、御案内出来るのにと今の失明をなげかれた。
現在のこの後方の冨士大竜権現社は舟戸の権現と七百年程前に合祀したのである。今年の秋の祭りにも幟立この時一本丈全く違ったのを村人が発見して不思議がって聞きに来た。それは舟戸の権現のものであったなど、昔へ逆のぼって手繰り出される歴史話の糸の尽きる時を知らない。孫娘がいたらそれに集めた資料を出させるから、今晩は是非家に泊って明日もそれを見て行くようにと引きとめられたが、そうもして居られず、暮れ早き秋の日の西山にかくれるころまで話を聞いて、もう一度来るようにとの声を後にお宅を辞したのであった。ここに漢字制限問題について翁の考えを紹介して置かなければならない。漢字制限などは、全く日本を滅ぼすような処置だ、歴史を抹消せよと云うに等しいことだ、今に古書を読むことの出来る人が無くなってしまう。戦勝国アメリカの表面は親切に見せかけて将来の日本を亡ぼす政策に引きかかったのだと老いの身よりほと走り出るが如き愛国諭を聞いた。この間も孫娘に古い日記を読んで貰った時、友人の名の万吉の万を読めないで草冠りに白を書いてワを書いて棒を引いてムを書いた字だと目の見えない自分に聞いたのに驚かされたと話された。フト其の時自分の書いているものも読めないことを書いているのではないかとの不安に襲われたのであった。又全く翁の言われることも一考する必要があると思った。
ついでに翁自作の子守唄も紹介して置く。
「平和のみやげ」
一、ねんねんころころねんころよ
ねんねのお守りはどこへいた
あの橋越へて駅行った
駅のお土産何もろた
駅のお土産ないけれど
ぽっぽホームへ着いた時
汽車の窓から手を振って
元気で帰る復員の
笑顔を見たのがお土産よ
二、ねんころねんころねんころよ
ねんねのお守りはどこえいた
あの坂越えて局へいた
局のお土産何もろた
スタンプ捺いて貰うのよ
そんなスタンプ何になる
坊やが大きくなった時
爺やの背中におんぶして
遊びに来た日が皆知れる
この最後の一句「遊びに来た日が皆知れる」こそ翁の歴史を尊ばれる根本精神であると深く思う。
(『和知町石の声風の声』) |
才原の伝説
睦寄の小字一覧
才原(さいばら)
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