三ノ宮(さんのみや)
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京都府船井郡京丹波町三ノ宮 京都府船井郡瑞穂町三ノ宮 京都府船井郡瑞穂村三ノ宮 |
三ノ宮の概要《三ノ宮の概要》 三宮・三之宮とも書く。南北に国道173号(綾部街道)と、東西に走る府道26号(大身下山停車場線)とが交差する所。三ノ宮小学校がある。高屋川上流の山あいに位置する。 三ノ宮村は、江戸期~明治22年の村。幕府領・旗本田中内匠知行地・旗本島弥左衛門知行地。万延元年上大久保村から発生した農民一揆の一揆勢は当村にも乱入したが、綾部藩の追手により阻止されて檜山へと進んでいる。 旗本知行地は明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、藩領は同4年綾部県を経て、いずれも同4年京都府に所属。同22年三宮村の大字となる。 三宮村は、明治22年~昭和26年の自治体名。保井谷・粟野・妙楽寺・水呑・三ノ宮・質志・戸津川・猪鼻の8か村が合併して成立。大字は旧村名を継承して8大字を編成した。昭和26年瑞穂村の一部となる。村制時の8大字は瑞穂村の大字に継承。 三ノ宮は、明治22年~現在の大字名。はじめ三宮村、昭和26年瑞穂村、同30年からは瑞穂町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。 《三ノ宮の人口・世帯数》 199・129 《三ノ宮の主な社寺など》 式内社・三ノ宮・酒治志神社 小学校の西側、宮ノ本の鎮守の杜には以前三宮神社と称した酒治志神社がある。内陣から弘仁4年(813)正月21日付の宣旨が発見され、式内社に比定された。 山内荘の三ノ宮の意味か、因みに一ノ宮は曽根の何鹿神社、二ノ宮は橋爪の八幡神社であった。 『船井郡誌』 酒治志神社 祭神不詳 三宮村ニ鎮座 三宮村三宮社ハ質志村ノ界ニ在テ最古社ナリ、内陣ニ宣旨アリ曰「上卿中山大納言、宜奉授正一位々記、弘治四年正月二十一日、蔵人左中辨藤浮充、丹波國質志社」ト舊藩當社ヲ以テ酒治志神社卜定タリ、蓋質志ハ酒治志ト同訓ナレハ暫舊藩ノ考ニ從フ 郷社 酒治志神社 祭神 伊弉諾尊・伊弉冊尊 案内板がある。 延喜式内 酒治志神社 京都府船井郡瑞穂町字三ノ宮鎮座 祭神 伊邪那岐尊 伊邪那美尊 例祭 十月十五日 由 緒 当社は延喜式内社で近隣では数少い歴史的神社である。 創建は火災による古文書焼失のため審らかでないが天保四年に創建一千年祭執行の記録が残されている 古くから五穀豊穣安産守護の神として崇敬厚く古風な社殿境内の老杉等が歴史の深さを物語っている 創建祝賀大祭は五十年毎に行われており近くは昭和五十八年に一千百五十年祭が盛大に執行された 社名は近接の質志の里や「シュチシ」はアイヌ語の「山麓」の意からとの説もある 『郷土史三ノ宮』 酒治志神社 祭神 伊邪那岐尊 伊邪那美尊 創立鎮座年月日 承和元年(八三四)の頃(第五十四代仁明天皇時代)(天保四年(一八三四)の一千年祭より遡り推考) 他の記録に元慶五年の頃とも記載あり 往古神社焼失のため旧記なく創立年月不詳 旧社格 郷社 明治五年正月郷社と公定さる。 所在地 三ノ宮村質志立会地、現在地名は、字三ノ宮小字宮の本二番地 由緒又は由来 社名酒治志は地名質志より生れた。(シユチシはアイヌ語で山麓の意)古老の口碑によれば、近江国坂本日吉神社の分社にして大山咋神なりと伝聞するも未詳 延宝六年の書類に氏神質志村立合、質志大明神とあり、後酒治志神社となったとある。 建造物 本 殿 六坪七合 梁行三間半一尺桁行二間半 向 拝 二坪二合五勺 神饌所 一坪 拝 殿 四坪 土 蔵 三坪九合 手水舎 八合三勺 社務所 十坪 境内坪数 八百七十六坪 官有地一種 境内神社 蛭子神社 八合四勺 梁行一間一尺 桁行四尺二寸 祭神 事代主神 大国主神 天満宮本殿 一合三勺 梁行二尺四寸 桁行二尺 祭神 菅原道真公 稲荷神社 七勺 梁行一尺八寸桁行一尺五寸 祭神 倉稲魂神 往古妙楽寺村字出合に奉祀されていた。 稲荷神社 一合六勺 梁行二尺八寸桁行二尺 祭神 倉稲魂神 往古質志村字観音峠に奉祀されていたが明治六年本社境内へ移転した。 氏子数 二三五(保・粟・妙・三・質・水呑の西田) 年中行事の概要 一、元始祭 一月三日祭典執行、年間行事の決定 一、祈年祭 三月十日頃祭典執行 一、夏 祭 七月二十日祭典執行 一、例 祭 十月十五日祭典執行、神輿渡御 一、新穀感謝祭 十一月二十日 祭典執行 社 寶 〇神殿宝鏡二面 O剣一口 焼刃直刀 白鞘 銘至徳元年(一三八四)二月備州長船住幸光寄進 元禄四年八日吉日 久木三郎兵衛 記 録 … 社号変動の事由 当社は旧質志山王大権現と称して来たが、明治五年正月郷社と公定せられ、且明治十年六月延喜式内酒治志神社に相違なき段詮議決定の旨京都府より達せられた。 京都府丹波国船井郡三ノ宮村字三ノ宮 郷社酒治志神社祠官(記名年月日なし) 余録 神仏混淆時代の宮寺を龍洞寺と称した。この建物は、三ノ宮村役場に充てた。 当社は古来地方七社の一に呼称せられ一朝の時変あるに際しては報賽する者日夜極めて多かった。 その1500年後の末裔にすら正しくは伝わっていないようであるが、シュチシというのは日本語とは考えにくい、しかしそうかといってアイヌ語でもなかろう、意味不明は何でもアイヌ語としたがる傾向があるが、古代朝鮮語と見るのが正しかろうと思われる。 「シュチ」「シチ」は須知と同じことで、そこで説明しておいたので参照されたい。だいたい王様の意味、日本語でもヌシ・アルジなどというがたぶんそのシで、チは敬語。「シ」も渡来語と思われるが、たぶんシキ(村)のキが落ちたものか、あるいは「チ」は敬語なので、敬語をつけずにもう一度付け加えたものか。「王様村」神社か「王様王」神社の意味ではなかろうか。祭神はもちろんシュチ様であろう。 当社の氏子圏ばかりでなく、周辺一帯の開発王シュチ王はずいぶんと大きな勢力があったものと思われる。五穀だけでなく金属文化、須恵器文化、あるいは古墳や神社をももたらした先端文化王かも知れない。後に秦氏に統合されていったように思われる。 曹洞宗変葉山不断寺 国道173号沿いにある。徳雲寺末。本尊、観世音。創建は不明。 『郷土史三ノ宮』 変葉山 不断寺 所在地 字三ノ宮 開 創 寛政二年(一七九〇)辛巳年 開 柤 徳雲二世 大清元智大和尚 開 基 不聞清秀首座 開 山 徳雲二四世 一禎祥麟大和尚 … 龍洞寺廃寺 『郷土史三ノ宮』 龍洞寺 所在地 字三ノ宮小字縄手 宗 派 天台宗と推察される 由緒・由来等 神仏混淆時代の酒治志神社の宮寺と言われている。明治四十四年三ノ宮村役場として転用されたが、昭和二十六年桧山・梅田・三ノ宮・質美の四ヶ村合併により二年間程役場の支所として使用されていたが、支所廃止に伴いこの建物は取除かれた。 十輪寺廃寺 『郷土史三ノ宮』 十輪寺 所在地 字三ノ宮小山 山内家の菩提寺であったと言われているが、詳細は不明である。 三ノ宮城と山内一豊 国道173号の三ノ宮交差点のすぐ山側にこんな看板、国道からよく見える。正確には三ノ宮西城跡と呼ばれている。 山内一豊の祖父一族、というか本家がここに城を築くよりも、はるか以前に古代の朝鮮式山城のようなキがあったのではなかろうか。そんな思いにさせられる所である。 三ノ宮交差点付近を南側より写す。高架は京都縦貫道、その下を走るのが綾部街道(国道173号)檜山から来て、写真中央の谷の奥へ続く、左手から来るのは山陰街道の裏街道のような道(府道26号、大身下山停車場線)で、大身から質実、下山へ続く、その交差点にあたる交通の要衝になる。 左手の山(高い山の手前に少し低い山)に、三ノ宮西城、右手の高速の大型トラックが走り抜けようとしている切り通しにはかつて三ノ宮東城があった。 『船井郡誌』 城山 大字三宮に城址二箇所あり、東なるは名のみ殘れるも、西なるは井戸と濠とを存せり。戰國時代に當り山内氏一族の據りしものなるべし。 三ノ宮小学校(廃校)の裏山の低い山である。 「三ノ宮西城跡」 「三ノ宮東城跡発掘調査現説」 天保11年(1840)綾部藩領を視察した佐藤信淵の「巡察記」に、 昔享禄天文ノ頃山ノ内ノ某此ニ居レリ、今其ノ子孫 山ノ内三郎兵衛代々ノ当村ノ庄屋タリ、武鑑ニ土州侯始祖ハ丹州三ノ宮城主山内孫次郎ト記セリ、然レトモ予藩翰譜ヲ按ニ土州侯始祖始メテ信長ニ仕へラレタル時ノ貧窶ナリシヲ見レバ三郎兵衛ガ庶流ナルカト思ハル、 三ノ宮城は、山内伊豆守憲邦(1282年没)、山内越後守憲方(1331年没)などの居城といい、山内一豊の祖父・久豊の居城は、橋爪城と見られている。 式内社・酒治志神社の裏山だから、ここが山内一族の原点の地と思われる、ここにいたのは須知に率いられた渡来集団の中枢部分だろうから、当地山内氏はその血筋を引き継いだ末裔の本家筋と思われる。信淵の時代と同じく代々三郎兵衛の名を世襲していたのか、明治10年府より賞賜あった名士としてその名が見える。 橋爪城にいたのはその枝族で、一豊はその末裔ということになろうから、貧苦だったかは別としても佐藤信淵の推測は当たっているのではなかろうか。本宗家から言えば、外に出た子孫の二世が一豊で、どうしたツテを頼ったか、よその地で幸運にも大出世をしたが、当地で一豊が何かカツヤクしたということはない。 一豊は伝説の人の部分も多いが、実在の人物で、 1546(天文15)~1605(慶長10.9.20)。安土・桃山時代の武将・土佐藩祖。名は猪右衛門、対馬守。尾張生れ。妻は見性院、近江の浅井氏の家臣若宮喜助友興の娘。父は山内盛豊。豊臣秀吉、秀吉没後は徳川家康に仕える。1600(慶長5)関ヶ原の戦に東軍につき、土佐20万石に封ぜられ、土佐藩祖となった。 一豊の妻は、信長の馬揃えのとき鏡箱から黄金10両を出して一豊に名馬を買わせ、夫の出世の基を作ったという話は「内助の功」として有名。 『藩翰譜』には、 山内一豐 一豐、織田家に仕へし初、東國第一の名馬なりとて安土に引き來て商ふ者あり。 織田殿の家人等、これを見るに、誠に無雙の名馬なり、されども、價、あまりに貴くして、買ふべき人一人もなく空しく引きて歸らんとす。 その頃、一豐は、猪右衛門尉と申ししが、この馬欲しく思へども、求むること、いかにも叶ふべからず、家に歸りて、「世の中に、身貧しきほど口をしきことはなし、一豐仕への初なり、かかる馬に乘りて、見参に入りたらんには、屋形の御感にも預るべき者を」と獨言いひしに、妻は、つぐづぐと聞いて、「その馬の價いかばかりにや」と問ふ、「黄金十枚とこそいひつれ」と答ふ、妻 さほどに思ひ給はんには、その馬、求め給へ、價をば、みづから參らすべし」とて、鏡の筥の底より、黄金十兩取り出しまゐらす。一豐、大に驚き、「この年頃、身貧しく、苦しさのみ多き頃には、この黄金ありとも知らせ給はず、いかに心強くは包み給ひけん、されども、今、この馬得べしとは思ひもよらざりりき」と、且は喜び、且は恨む、妻は、「宣ふ所ことわりにこそ侍れ、さりながら、これは、妾が、父の、この家に参りし時に、この鏡の下に入れ給ひて「あなかしこ、これ、よの常のことに用ゐるべからず。汝が夫の一大事あらん時に参らせよ」とて賜ひき、されば、家貧しく苦しむなどいふことは、よの常の習なり、これはいかに堪へ忍びても過ぎなまし、誠やらん、この度、都にて、御馬揃あるべしなど聞ゆ、若し、さもあらんには、天下の見物なり、君、また仕への初なり。かゝる時ならでは、屋形にも、朋輩にも見知られ給ふべきよしもなし。良き馬召して、見参に入れ給へと思ばこそ参らすれ」といふ、一豐、やがて、その馬求む。 程なく、都にて、馬揃へのありし時、織田殿、この馬御覽あつて、「あっぱれ名馬や、何者の馬ぞ」と仰せありしに、「これは、東國第一の馬なりとて、商人が引いて参りしが、餘りに、價貴くして誰も買ふこと叶はず、空しく引いて歸るべかりしを、山内が買ひ得て候ひし」と申す、信長聞し召し、「價貴き馬なり。當時、天下に、信長が家ならで買ふべき人なしとて、奧より遙遙來りしを、空しく還したらんには、無念の至なるべし。その山内は、年頃久しき浪人と聞く、家もさぞ貧しからんに、買ひ得たる事の神妙さよ、且は、信長の家の恥をも雪ぎ、且は、武士のたしなみいと深し」と感じ給ふこと大方ならず。これより、次第に、身を起せりといふ。誠にや。 よい嫁さんと、よい出世馬に恵まれた、超幸運無双の人として知られる。上まで登らないが、もしかして少しその幸運を分けてはもらえまいかと、ここから拝んでおいた。 この新井白石の書で超有名になり、戦前の国定教科書にも載って、彼とその妻(千代とするがこれも本当かどうかは不明)を知らない日本人はいなかった。しかし山内家にはこのハナシは伝わっていないという。 どこまで史実か不明だがその伝説も妻も一豊はじめだいたいそもそも山内氏がナゾだらけである。「山内」をどう読むかも正確には不明、当地の荘園名なのか鎌倉の荘園名なのかも不明。 ワタクシ的には酒治志神社を祀る当地出身の一族で、後に当地山内庄の庄名を名乗るようになったが、そもそもは渡来の須知氏で、当地一帯の開発氏族の長であっただろうと推測する。しかしそうした説は実はどこにもない。 戦国の武将などはほとんど皆がそうだが、ご立派ご高貴な家筋(過去の時代のものだが)の者などはいない。過去を洗えば何者か名も不明、家柄不明、住所不明、職業不明、不明不明…が多い、だいたい本人たちが自らについて語ることがない。 どれも確かなものはなく肯定も否定もできかねるが、土佐藩が自主申告した内容が『寛政重修諸家譜』にあり、それによれば、藤原秀郷(俵藤太)の子孫である首藤山内氏の末裔であるとする。しかし、首藤山内氏の明らかな末裔は戦国時代当時には別に備後に存在するが、一豊の山内氏は曽祖父以前から八代分について名前すら伝わっておらず、首藤山内氏の末裔であるか否かは不明とされる。 一豊の山内氏が尾張国に名を表すようになったのは一豊の祖父・久豊からであると見られている。樟戸義昭『山内一豊の妻』は、 『寛政重修諸家譜』では、久豊は足利十二代将軍義晴に従って丹波を離れ、阿波国に至り、後に尾張国に赴き、大永年中(一五二一~二八年)に死んだいう。 この久豊について、上佐五藤(一豊の重臣)の系図に、大永のころ、長良川の渡しである郷戸の渡しの舟で、五藤三郎左衛門浄基と出会った。浄基は久豊の人柄に惚れ込んで、黒田(愛知県一宮市木曽川町)の家に招いて数日接待し、久豊を敬ってついに臣従の誓いを立てたとある。『木曽川町史』はこの事実から、当時、黒田の有力者であった五藤氏を通じて、岩倉の織田氏(愛知県岩倉市)に仕えたのであろうと推測している。 また久豊は妻におそらく尾張二宮村(愛知県犬山市)の出身と思われる二宮修理亮俊宗の女を迎えており、この彼女が盛豊を生んだとされる。これが正しければ、山内家は丹波にいる時から、妻を通して、尾張と関係があったことになる。 そして一豊の父である盛豊についてだが、『寛政重修諸家譜』は〈累世丹波国橋爪の城に住す。盛豊旧領をすてて彼地を去、武者修行して尾張国にいたり、岩倉の城主織田左馬助敏信につかへ、終に家長となり、同国黒田村に城を築でこれに住す。後、敏信病危篤に臨で盛豊及び長臣等に遺故して嗣子伊勢守信安を託す〉とある。 一豊の父・盛豊は、山内但馬守盛豊丹波国より来る、の資料も残されているが、尾張上四郡を支配する守護代・岩倉織田氏に家老として仕えていたことは間違いない。 岩倉織田家は織田氏の本宗家だが、分家の信長に攻められて落城し、城主は降伏して出奔、家老の盛豊は討死、あるいは自刃したという。15才の一豊は流浪生活者となった。 山内一族はその「山内」の庄名にしても、小谷城攻略戦のさなかに目尻を射られて、顔を鞋ばきの土足のまま踏みつけて抜いたという鎌倉権五郎のような伝えにしても、本来は鍜冶屋ではなかろうかと思われる、鉄の鉱工業、流通商業などにたずさわって全国を歩いていたのでなかろうかと思われる。 明智光秀のヨメさんも内助の功で知られるが、彼も若狭小浜の鍜冶屋の子の伝えもあって、一般に源氏名流の子孫とか言うのはあやしい話であろうか。もったいぶった話だが、過去の栄光のことであり、いつの話をしているのだと思えるのである。近世を生み出していった者は、やはり近世的な階層の出身とワタシ的には見たいのである。 鍜冶屋の手工業者兼行商人の出、要するに近世的な市民階級の出で、それが軍事政治面の支配者ともなっていった。近世とは今とそう変わらない社会になっていった。それから500年ほどが過ぎて今はその市民間で経済的格差が大きくなりすぎた時代で、その是正をダレが行うのかが問われている時代であろうか。 我知らず、そうした時代に生きたのであろう。それぞれ成功するのはごくわずかな者で、イナカから出るのもいいが、一歩幸運の女神に見放されると首が飛んだり、流浪となる、今も同様で、ソンタク族のあのザマ、テメエの子の前でそれが言えるか、子が泣くぞ、気の毒な気もするが、これがコワイのだろうか、つまらぬ政治屋とそれを選んで恥じない有権者の罪深さを見る思いになる。そうした時代でもある。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 三ノ宮の主な歴史記録『船井郡誌』三宮村 一、沿革 古の皷打娜の一部なるべし(通誌第二章参看)今、保井谷、粟野、妙樂寺、水呑、三宮、質志、戸津川、猪鼻の八大字あり。徳川時代には保并谷、粟野、妙樂寺の三村及三宮村の一部は旗本の士島藤左衛門の所領にして、水呑村の一部は同水野長左衛門、其一部及猪鼻村の一部は同河野二十郎の知行たり。質志村及三宮村の一部は綾部藩の所領にして、戸津川村は等持院領、猪鼻村の一部は旗本の士柴田七九郎の知行なりき。廢藩の後質志村及三宮村の一部は綾部縣に屬し、其他は久美濱縣に屬せしが、明治四年十一月京都府の所轄となれり。二十二年四月町村制施行の結果、以上の八村を合せて一村となし現時の三宮村を形成するに至れり。 三ノ宮の伝説『郷土史三ノ宮』 岩屋不動尊と不動の滝 三ノ宮小山に通称「岩屋不動の滝」として地元の人から崇められている滝と不動尊の祠がある。 この山は岩屋と呼ばれ山の中腹約十米の高さから流れ落ちる滝水は、年中その流れを絶やすことなく帯状の清水を滝壺にたたえている。 この滝壺には不動さんを祀った祠がある。この起源については詳らかではないが、不動の瀧といわれる名称も恐らくこの不動尊と関係があるものと思われる。 又この滝の近くに小さな洞くつが見られ、この自然の洞くつを岩屋とも呼び、このことからこの山を岩屋と呼んでいる。この洞窟の中には七福神をお祀りした祠が見られ、古老の話によると次のような伝説がある。 昔この岩屋の谷の麓に一富豪家があった。その屋敷跡といわれる土地は今もこの谷のふもとに畑地として見られる。この家に一人娘として生れ、世にも稀な美人がいた。結婚適令期を迎えて両親は何とかよき婿をと心を砕くが、娘は一向に耳をかそうとせず、この家が先祖代々崇める「岩屋の神」に参拝することを唯一の楽しみとして日を送っていた。こうしたある日突然娘の姿がこの家から消え失せた。八方手をつくして探したところ、この岩屋の谷間の草むらに美しい弁財天の姿を見つけた。この事から娘の両親や近所の人たちは、これはきっとあの信心深かった娘の化身だと、この弁財天を懇ろに葬り祀ったということである。 この不動さんは、現在でも地元の人が、九月一日にお祭りを行っている。 三ノ宮の小字一覧三ノ宮(さんのみや) 池ノ坪(いけのつぼ) 今宮(いまみや) 小山(おやま) 沓掛(くつかけ) 小谷(こだに) 高尾(たかお) 竹屋(たけや) 岡田(おかだ) 縄手(なわて) 二反田(にたんだ) 法リ木(のりき) 花ノ木(はなのき) 宮ノ本(みやのもと) 向イ(むかい) 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『船井郡誌』 その他たくさん |
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