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下大久保(しもおおくぼ)
京都府船井郡京丹波町下大久保


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京都府船井郡京丹波町下大久保

京都府船井郡瑞穂町下大久保

京都府船井郡瑞穂村下大久保

下大久保の概要




《下大久保の概要》船井郡の西の端。西は福知山市三和町。山間を土師川が蛇行して西流し、その両岸に耕地が開け、国道9号が東西に貫通する。
下大久保村は、江戸期~明治22年の村。「元禄郷帳」は旗本田中内匠知行地、「船井郡誌」で幕府領松平九十郎代官支配、「旧高旧領」では篠山藩領とする。山陰街道の要所に位置する当村には本陣や郷蔵が設置されていたという。明治元年久美浜県、同4年篠山県を経て京都府に所属。同22年梅田村の大字となる。
下大久保は、明治22年~現在の大字名。はじめ梅田村、昭和26年瑞穂村、同30年からは瑞穂町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。


《下大久保の人口・世帯数》 148・63


《下大久保の主な社寺など》

白倉神社

なにともわかりにくい場所に鎮座する白倉(しらくら)神社は春日の四神を祭神とし、社伝によると水原の春日神社の分霊を奉祀したという。創建などは不詳であるが、社蔵の延宝の検地帳写に「山林一町三反一畝歩 氏神白倉大明神境内云々」とあるという。
『梅田村史』
白倉神社  字下大久保小字堂ノ本に鎮座
祭神 武甕槌神、経津主神、天児屋根神、毘売大神
創立年代は詳でない。棟札に天和三年亥三月吉祥奉祖上白倉大明神守護云々とあるだけである。



浄土真宗本願寺派道照寺


『梅田村史』
道照寺
寺号 道照寺          所在 字下大久保小字段
開創 天保四甲子年二月創立   開基 不明
宗派 真宗本派 本願寺派    本寺 京都西本願寺
本導 阿弥陀立像        住職 森本智淳
仏堂 本堂 明治二十三年再建 庫裡    柤徒 二十五戸
由緒は不明であるが、創立は天保四年とある。




《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


下大久保の主な歴史記録




下大久保の伝説


『ふる里梅田』
下大久保に伝わる伝説       高畑 俊一

1、金比羅さん
 下大久保と上大久保の境にあり、建立年はつまびらかでない。
 「小豆三升米三升 合せて六升かっしゃかさ」と云って狸が砂をまくと言われ、夜はおそれられた。
2. 薬師さん
 堂の本に薬師堂、薬師如来と地蔵菩薩、那智の観音菩薩の三体の仏像を祭る。以前は上ノヤの観音屋敷(畠中清司氏宅屋敷)に、地蔵堂があり祭られていたが、明治の前此処に移された。今の建物(昭和三十八年)改築までは、寄せ棟のかや葺き十畳程の土間の建物で、三尺程の高さの棚の上に安置されていた。毎年八月十日は「千日さん」と言って、この日詣ると千回お詣りした御利やくがあると言うので多くの村人が詣り、又詠歌があげられた。
 薬師さんは耳の病気を良くして下さると言って、川原で小石の孔のあいたのを拾い、紐を通してお供えした。今も多く手にさげたり、ひざの上に供えてある。
 地蔵像は毎年八月二十四日、在所の広場に移し祭り、大踊りが行われた。近在から多くの男女が集まり、屋台店も出て大いに踊り明かされた。
 薬師堂の左横に那智山の八手観音の像があり、天明二壬寅年七月吉日と記されている。堂の右後に「ランド」があり、屋根の形に彫んだ石三個と二尺余りの石塔(こけむして字は読めない)と玉石、五輪の塔が安置されている。なんでも昔落武者が数人ここで残殺されたので、村人がその霊をなぐさめまつったと伝えられている。
 そのすぐ後ろに、ぼだい樹の大きな株があり、一本だけわき芽が伸びている。この木の根や皮をせんじて飲むと薬(結核)になると、遠い所からも尋ね取りに来られた。
3、送り狼
 昔、小峠を通って下大久保へ帰る時、身の毛がよだちおそろしかったので、足早に在所の明りが見える所まで帰り、西村さんの宅へ飛び込みふるえていた。
 家人に「送り狼がついて来たのだから、何でもよい、お前の持っている物を″御苦労さんでした″と言ってなげ与えなさい」と言われ、腰の手拭いを外になげた。白いものが飛び去った感じだったが、すっと体が楽に生きた気持に帰った。
 その後、みやまに送り狼が居て、夜通ると送って来ると伝えられた。
4、大蛇
 大すえが谷に大蛇が居る。山仕事に行った五人の男がざあざあと変な音がするのでその方を見ると、一間ばかりもあるへびが、鎌首を立てゝ居たので、何も取らずに逃げ帰った。三日程熱を出して寝込んでしまったと伝えられている。
5、すきのとこ
 その次の谷に〝じゃが谷〝と言って、豆かちへ越す道がある。その谷へ、一尺余りもあるすきのとこが出たと言い伝えがある。

寺谷の尼寺  坂本 竹次郎
 下大久保の堂ヶ谷には堂があり、寺谷には尼寺があったと聞かされている。寺のあった場所は現在は上大久保の持山になっているが、長い年月の間に木の葉の下に割れ残りの瓦が見受けられる。
 昔、一人の尼さんが住んで居られたが、昔の事故、木を焚いて物を煮たり湯を沸かしたり、体を暖めたり、凡て焚火ばかり使って暮らして居られた。
 栗の木などを燃やすとぽんぽんとよくはじき、火花が飛び散り、敷物や着物に穴があき困ったという。そこで尼さんは、何とかこれを封じ込み、火花が飛ばぬようにしておいたら、後世大勢の人々が喜こぶだろうと思い、栗の木を封じたと言う。
 その後寺谷の栗の木は火花が飛ばぬと伝えられている。

石灰とマンガン     坂本 竹次郎
 山の産物として石灰があった。明治末期、当区の住人中山吉太郎と言う人が自分の持山、登り尾の中程に石灰岩のある事を知り、石灰製造を始められた。
 製造する炉は現在のウシロ山の国道の上にあり、円形二米、深さ約四米の炉が二つ並んで作られている。製造法は、石灰石を小割りにして石灰と石灰石を交互に置き炉一杯につんで下から火をつけて燃焼する。全部焼き終ったら冷却して下から取り出し、俵につめて販売するのである。
 この石灰は近郷の個人にも販売したが、大半はべ夕車に積み、大きな牛に引かせて遠く胡麻駅まで運搬した。
 中山さんがやめられてから、上大久保の西村清治さんが事業主となり長年製造を続けられたが、いつの間にか製造が絶えた。
 石灰とは別に、マンガンも搬出された。
 杉が谷のマンガンは良質と言われ、洗鉱せずに出荷されていた。この鉱山を“中ノ谷の金堀り”と名付けた。
 今は休山となっているが、マンガン穴は水が一パイたまり青々としていて気味悪い感がする。
 事業主は次から次へと変ったが、採掘する者、運搬する者、荷造りする者、等土地の者にとっては、低賃金で
はあったが現金収入の仕事として貴重な存在であった。


西ノ谷のマンガン山  足立 儀太郎
 俗に「長さこのマンガン山」と呼ばれ。坑道(シキ)が、縦、横に長く。深く、今も残っており、当時如何に多くの鉱石が掘り出されたかゞ伺える。
 最盛期は大正五、六年頃で、多くの坑夫と選鉱婦で山は賑わった。
 藁のカマスにつめられたマンガンは、車道のない狭い山道を一輪車で運ばれた。
 この村へ初めて一輪車(ネコ車)が入ったのもこの頃で、又地下足袋が履かれる様になったのもこの時からである。
 「才の元」に事務所があり、幹部の人々は民家の宿舎で寝起きした。坑夫の飯場は市場橋のたもとに置かれてこの一帯は非常に活気を呈した。
 然しこんな盛んな時は僅か二、三年で、その後次第にさびれていった。
 昭和十三年頃、同じ西ノ谷で硅石の採掘がはじめられたが、質が良くなかったか、採算がとれなかったのか、長続きしなかった。




下大久保の小字一覧


下大久保(しもおおくぼ)
石仏(いしほとけ) 後山(うしろやま) 大久保坪(おおくぼつぼ) 柿ノ木原(かきのきはら) 上ノセ(かみのせ) ガンド岩(がんどいわ) 久保地(くぼぢ) コトガイチ 小峠(ことうげ) 下畠(しもばたけ) ダン 寺谷(てらだに) 峠尻(とうげじり) 堂ノ本(どうのもと) 中ノ谷(なかのたに) 西ケ野(にしがの) 畑ケセ(はたがせ) 道ノ上(みちのうえ) 森ノ下(もりのした) ヤナゼ ヤナダコ

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
その他たくさん



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