京都府船井郡京丹波町下乙見
京都府船井郡和知町下乙見
京都府船井郡上和知村下乙見
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下乙見の概要
《下乙見の概要》
篠原の先から今の府道51号(舞鶴和知線)を下に降りて、子来井根を渡り上和知川に架かる「下乙見橋」を渡る。まっすぐ上に登れば公民館がある、右手へ行けば集落になる。写真の右手の高い所に架かる橋は今の橋で、ここから見ると下乙見は下の方にある。上乙見川と上和知川の合流点付近で、沿岸に集落・耕地がある。
下乙見村は、江戸期~明治22年の村。元和5年から園部藩領。明治4年園部県を経て京都府に所属。同22年上和知村の大字となる。
下乙見は、明治22年~現在の大字名。はじめ上和知村、昭和30年からは和知町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。
《下乙見の人口・世帯数》 18・8
《下乙見の主な社寺など》
鎮守は上乙見の熊野神社
稲荷神社
稲荷神社(下乙見)
『神社誌』には、「祭神は保食神、例祭は二月初午の日、由緒は不詳」とのみ記している。府道の拡幅工事により社殿は現在地に移転している。
『寺社類集』には、この社も記載がないところからみると、江戸時代後期の勧請と考えられる。 (『和知町誌』) |
檀那寺は篠原村の曹洞宗東月寺
《交通》
《産業》
《姓氏・人物》
下乙見の主な歴史記録
下乙見の伝説
源頼光の弓立岩
仏主行バス道路の篠原を抜けた所向って左側に神変大菩薩の石の碑が立っている。其の前に大きな石がある。これを土他の人は、源頼光の弓立岩と呼んでいる。正暦元年三月源頼光が一条天皇の勅を奉じ、藤原保昌、渡辺綱、坂田金時等の家来と共に、山伏姿に身をやつして、大江山に住んでいた酒天克子を討ちに行く途中、この石に弓を立てかけて休んだと云うのである。其の事実はともあれ、思い廻らして見ると、其の昔交通機関も今のように発達して居らず、遠く行くにしても草鞋がけで歩くより他に方法がなかった時代、路傍至る所にこうした夢の糧があって、其所で休んでは、幼児の祖母の寝物語に聞いた話を、繰り返し疲れを休めて、又歩を運んだことであろう。或は謡曲、浄瑠璃、歌舞伎、狂言などの話もはずんだであろう。或いは家に帰ってからの土産話にも、其の休んだ位置の順序を乱すべきものではない。且つ踏みを文とかけたる巧妙に内侍をからかった中納言定頼を驚かしたのである。大技表示にも役立ったであろう。もとより大江山の酒天童子の話にしても、益軒全集にもあるように、鬼形をした盗賊であろう。酒天童子の伝説も丹波大枝山(老の坂)に出没して行人を悩ました山賊を退治したのを語り伝えたのだと云う。あの有名な小式部内侍の「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」の大江山も、この大枝山に当ると云う。即ち金葉集に見る歌の意は、先ず京都を発して大江山を踏み越え、生野の里を通り丹波に行く道の遠ければ、まだ文も来て居りませんとの意を写せるもので、大江山、生野、天の橋立の順序を乱すべきものではない。且つ踏みを文とかけたる巧妙に内侍をからかった中納言定頼を驚かしたのである。大枝山は大江山、老の坂とも云う。往古は現在の乙訓郡大枝村沓掛に関があって、大江関と呼ばれていたと云う。平安朝の末期この地に山賊がこもり、行人を悩ましたので、勅を奉じて源頼光が討ち平げたのが事実だと歴史家は説いている。これを丹波大江山の酒天童子の物語を作ったものとすれば、此の和知谷に頼光の弓立岩かあっても不思誌ではない。我々の祖先は心に夢の糧を自然の風物にこ物言わせて語りつぎ言いつぎして生活を豊かにしたものと思われる。次に神変大菩薩の碑についてもこんな事を考える。
この碑は明治十四年に建てられたもので、その裏面には大先達山本豊次郎其の他世話人の名前が刻まれている。神変大菩薩とは役の行者と云われる役小角のことである。小角は仏教を好み呪術をよくしたと云うことで、歴史書は、文武帝の時、讒に依って伊豆に流されて、大宝元年(七〇一) 赦され、寛政十一年神変大菩薩の諡号を賜わるとあり、行者逝きて既に千有余年の尋命を保って、明治の初年大先達山本豊次郎として又世に現われ、ここに石碑となって我等と会ったと考えると人の命も永いものである。奇跡と言えば奇跡で、現身は僅か五十年、霊の世界は斯くも永遠であると考えられもする。ついでに和知町に残る、神変大菩薩に関する信仰の跡をかっての記行文、行事などを書き添える。
市場の行者山に登るの記
秋晴れの一日思い立つままに、かねて足を向けた。升谷でバスを下りて根来井根添いに稲荷峠の方へ歩を運んだ。併し肝心の登り口を知らない。途中で稲刈りに行く人に会って聞いて、行者山のことについて種々知ることが出来た。毎年八月二十三日に村人が挙って、比の山に登り、行者さんに参詣して二百十日の台風の被害のないように祈願し、十月一日に願解きと云って再び登山しその年の被害が無かったことを感謝し、それと共に豊年を予祝するのだそうだ。途中に秋葉権現社のあることも知り得た。教えられた登山口も直ぐ判った。尾根伝いに汗をふきながらこんなことを考えた。村人が単に行者さんと呼んでいるのは、役の行者神変大菩薩のことである。聞くところに依れば、明治生れの人で奈良の大峯山に登山したことのない人は此の地方で稀だと云う。中に五六度も登った者もあるそうだ、誰も知っているように大峯山は役小角の切り開いた山嶽信仰の本家である。昔の登山は信仰から起る敬虔な気特から行われた。そうした気持から此の山に役小角を祭り秋葉権現を祭ったのであろう。その祭った年代は明らかにすることは出来ないが、その昔ここで生活を続けた人々の心がこもって居ることは明らかである。時の流れでどうすることも出来ないことではあるが、現在の山があるから登ると云うような軽薄な考えには同調出来ない。そんな軽薄な気持で登るから山での遭難が起るのだといきどおる気持も起る。など自分よがりを思ううち、目前に木の鳥居か立っていた。鳥居の根方には多くの萩がこぼれるように咲いている。それをくぐると秋葉権現社だ。社前で何願うともなく拍手を打ち礼拝した。それで気も澄んだ。そもそも秋葉権現社は遠江国の秋葉神社が元で江戸時代は寺であったのか明治六年に神社になったと聞く。本尊は俗に云う天狗だ。此の像は秋葉山秋葉寺の僧が毘沙門天の霊夢によって作られたのだそうだ。火防の神である。村人の火を防ぐ願の結晶が此の利となり、今に続いてその願をかけると思う時、自然に火事の起らないように祈りの心が湧いて来る。社前を去って又登ろうとすれば、前より大きな鳥居があった。比の鳥居こそ、神変大菩薩への手向けなのだった。くぐり抜けて木の間漏る、秋の陽も暑く又も汗が流れる。行けども行けども祠は見えない。何となく不安な気持になって来た。それでも心押えて行くと遙か向うの高いところに石段が見え、続いて祠が見えた。足も軽くなり間もなく石段の下についた。段数を調べたら三十二段あった。その石もみんな苔に覆われている。此の石も村人が下より運び上げたものだ。風害は今も尚時々ある。これを除いてと願う心は、昔も今も変らない。昔の人の此の頃を杲して貰い度い心情から出来たこの石段、此の祠と思えば、社前にぬかずいて本年は、風水害のなかったことを感謝する気持か湧いて来た。そして今日比の山に登った根本の気持を反省した。山があるから登ったのではない役の小角が祭ってあるからだ。神変大菩薩を祭った村人の心に導かれたのだ。役の小角の山嶽信仰に尊びかれたのだと自問自答しなから、秋の陽は早くも西山に傾いて木の間の既に暗くなった道を下るに任せて早くも里に出た。そしてバスに乗り家についたのは、家人が夕食準備も終り待っていた時だった。
(『和知町石の声風の声』) |
下乙見の小字一覧
下乙見(しもおとみ)
林ノダン(はやしのだん) 木戸本(きどもと) 尾ザキ(おざき) 白樫(しらかし) 林根(はやしのね) 大道下(だいどうのした)
関連情報
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