京都府船井郡京丹波町塩谷
京都府船井郡和知町塩谷
京都府船井郡上和知村塩谷
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塩谷の概要
《塩谷の概要》
旧和知町の東端、府道12号(綾部宮島線)から北へ入る谷間。東は北桑田郡美山町、南は長瀬に隣接する。中央部にある集落から南にかけて傾斜した地形で、棚田を形成している。
中世には和智荘の荘域で、すでに天正年間には九条家領「和智村」のうちとして「塩谷村」が見え、九条家に年貢を進納している。また、天正19年8月5日付で「しほ谷村惣代源衛門」の手になる「丹州船井郡和智之内しほ谷村」の検地帳も残されている。
塩谷村は、江戸期~明治22年の村。元和5年から園部藩領。明治4年園部県を経て京都府に所属。同22年上和知村の大字となる。
塩谷は、明治22年~現在の大字名。はじめ上和知村、昭和30年からは和知町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。大正6年5月、23戸中21戸焼失の大火があり、焼け出された世帯のために村役場は1戸につき8畳と4畳の仮家屋を建設したという。
《塩谷の人口・世帯数》 38・17
《塩谷の主な社寺など》
山神神社(さんじんじんじゃ)
集落の一番の奥に鎮座。弘治元年(1555)の創立と伝えられるが証すべきものはないという。
檀那寺は長瀬の曹洞宗長泉寺
《交通》
《産業》
《姓氏・人物》
塩谷の主な歴史記録
塩谷の伝説
塩谷の蛇ケ淵(一名を「蛇ケ池伝説」とも言う)
昔、和知の長瀬村の在の農家に村でも評判の美しい娘がいたそうな。ある夏の朝のこと。その家の主人が娘の寝間の沓脱石に、ずぶぬれのゾウリを見つけた。その年は何十年ぶりかの大日照りで、雨乞いの甲斐もなく一滴の雨も降らなかったのに - と不審に思った主人は、その後も気をつけていると、毎朝のように、沓脱石にはぬれたゾウリがぬいであるのを見つけた。
主人は娘に気づかれないように様子をうかがっていたが、ある夜、娘が出かけるようなのでこっそりとその後をつけた。家を出た娘は、由良川の支流塩谷川沿いの小道を歩きつづけ、蛇ケ淵と今も呼ばれている深い淵のそばの岩の上まで行くと、するすると着物を脱ぎ捨てた。
と見る間にいきなり髪を振り乱して水中に飛び込んだ。そうして淵に流れ落ちる竜王ノ滝にしばらくは打たれ続けた。しばらくして水からあがった娘は着物を着ると、またスタスタと歩き始め、こんどは尾根伝いに山道を上りはじめた。
主人は夢中になって後を追った。六キロほど上ったところで娘はたちどまった。そこには鏡岩という、鏡のように光った岩があった。娘はそこで髪を整えると再び山道を上りはじめた。やがて娘がたどりついた所は長瀨村と山をへだてた畑郷村(現日吉町)との境にある大池のほとりであった。と見る間に娘は蛇身となり池に飛び込もうとしたが、その時、娘は自分の姿を父親に見られていることにはじめて気がついた。そこで娘は父親に向い「今年は例年になく長瀬村はひどい水不足で村の人々が困っています。私は見かねて竜王ノ滝に願をかけ、竜になって天に昇り、雨を降らそうと思っておりました。きょうが丁度満願の日、竜になり昇天しょうとここまで参りましたが、残念ながらお父さんにこの姿を見られてしまいました。私の願いもむだになってしまいました」と、さめざめと泣きくずれた。が、気がつくと、娘はいつの間にか池の中にその姿を消してしまっていた。
その事があって以来、娘は二度と家には帰らなかった。
それから何日かたったころ、胡麻郷村(現日吉町)木戸の猟師が鉄砲を肩に狩りに出かけた。が、その日に限って一匹の獲物もなく、くだんの大池のほとりでタバコを吸っておった。すると、静かだった大池の水面がにかわに大きく波だったかと思うと、見たこともない大蛇が水面に姿を現した。仰天する猟師に向って、大蛇は「雨を降らすために願をかけ、竜になって昇天しようとしたが、父に姿を見られ、ヘビにはなれても竜になれないでいる。今日もまた、あなたに見られてしまった。このままでは村へも帰れない。いっそ私を撃ち殺してほしい」と頼んだ。哀れに思った猟師は、願いをいれて大蛇を鉄砲で撃った。が、弾はいたずらにはね返るばかり。
「竜にまでなろうとした蛇には、鉛の弾丸では通らないのだろう」と諦め、一旦家に帰ると、わざわざ京の鍛冶屋に頼んで金の弾を作ってもらい、再び大池にきて大蛇の頭を撃ち抜いた。その途端、大音響とともに空に稲妻が走り、ものすごい大雨が降りはじめた。
と、大蛇は流れるように畑郷(現日吉町畑)の方にずり落ちていった。その時、ウロコが何枚か飛び散ったが、そのウロコは今も畑郷のお寺に残っているという。 (長瀬)
(参考)本編は京都新聞社発行『丹波・丹後の伝説』にも長瀬の話として紹介されている。 (『和知町誌』) |
塩谷の蛇淵
塩谷から流れ出る中流が大野川に合流する近くに滝があり、その下が丁度蛇が曲って居るように淵が続いているところがある。両岸の樹々がここを覆うて昼なお暗く、夏でもこの所肌寒く感ずる程である。地方の人はこの所を蛇淵と呼んでいる。その昔、此の淵に来て、美しい若い女が毎夜毎夜、水浴していると噂が立った。或る若い男が、その姿を見ようと、或る夜此の谷へ下りた。暗い木々の間をくぐって行くと不思議、夜目にも美しい女の姿が見えた。ジット見とれて居るうちに女は水浴をすませ、ぬぎし着物を身体につけ、藁の草履をはいて大川の方へ出て行くようすに、男は音をしのばせて、その跡をつけた。女は大川もスタスタと苦もなく渡り、向う岸に行ったかと思うと、男のあとをつけているのを知ったのか、足早やになって、生いしげった木の間も気にもしない様子で山を登って行く、不思議にもその姿が、薄い光を出してでもいるように、見えたと云う。男は何物かに引張られるように、女の姿を追うて行ったら、現在長瀬の萱刈場となっているところにある池に、行き着いた。するとその女は、池にドブンと飛び込んだと云う。スルト今まで若い美しい女は見るも恐ろしい大蛇に変った。男はびっくりして後をも見ずに、真暗な山道を命からがら家に帰って遂に病気になって寝たと云う。その後もなお女は水浴に来るらしいが、恐れて姿を見た者はないと云う。今その池は龍巌池と呼ばれていて、淵の上の崖には小祠が祭られている。そして今なお此の小さい祠の中には必ず、赤い蛇がいつも居るとこの地の若い者が話して呉れた。今もなお伝説は続いて居るようだ。龍巌池は長浦塩谷が雨乞いをした時代の雨乞場であったと云う。家毎に松明を持って此の池の周囲で雨降らせ給えと龍神に祈ったのだと聞く。).
塩谷の観音さん
これは塩谷の若者から聞いた話、村の悪童達が幼い子供をおだてて、村人の尊信している観音堂の御本尊である観音さんを持ち出させて、寄ってたかって遂に真二つに割ってしまった。そして悪事をなした後の恐ろしさにみんな、それぞれの家へ逃げ帰ってしまった。その中の一人の幼児も、恐ろしさを胸に抱いて家に帰った。折も折、その子のお婆さんが観音さんへ参るところであった。一緒に行くように云われて、いよいよ恐ろしくなったが、仕方なくお婆さんの後について行った。
お堂近くなる程恐ろしさは幼児に迫るので、「お婆さん観音さんはお堂には居らないよ」と云ってしまった。お婆さんは不思議に思ってお堂の方を見れば、堂に登る石段を登りつめたところを観音さんが歩いて居られるお姿が見えた。幼児の目にもお姿が見えたのだろう。一目散に家へ逃げて帰ってしまった。残されたお婆さんか、石段を登りつめると、其所に観音さんが無惨にも真二つに割れて倒れたお姿があった。お婆さんは大いに驚いて、その割れ目を合わせて抱きかかえてお堂の中に入れて、元の位置に建てて、急いで家に帰り聞きただせば、幼児は正直に事の次第を話した。勿体ないことをしたお詫びに行かなければと幼児の手を引いて、再び参ればお堂の中から声がして、「心配することはない、もう傷は治ったよ」と、聞えた。恐る恐るお堂の中をのぞけば、観音さんのお姿は元通り、傷跡も見えない。お婆さんと孫の二人は大喜びで、共々に合掌して、よかったよかったと、お婆さんは孫の手を引いて足元も軽く家に帰ったと云う。観音さんの有難さを幼児に教えているお婆さんの姿が目に浮ぶ話だ。
塩谷のオコリ石
或る人から塩谷に小西行長の墓があると聞いた。その流れが塩谷の小西氏であるとも聞いた。或る日その墓に案内して貰ったが、既に石の祠(石遺物の項参照)は崩れていて、三寸角の石柱、上部が球形で五段に方と球と交互に刻まれた。方々でよく見る所謂五輪塔が建っているばかりであった。確かに墓地である。誰のものやら判明しない。ふと見るとその所から少し隔れて高さ一メートル位、巾五十糎位の碑らしい石があった。あの石はと案内者に聞いたら、あの石は音から、オコリ石と呼ばれていてあれに登ったり、腰をかけたりすると、その人は発熱したり、頭痛、腹痛を催すと伝えられているという。近づいて見れば、石面には葛かからんでいて、何とも刻んでない。表面は平らで後方は丸みを持った先の方は尖っていて碑としてもよい形である。その周囲には石が並べて区割してある。墓地らしい様子だ。昔は敬まれていた形跡がある。子供等が登らないようにあの石に登れば崇りがある。腹痛が起るぞと戒められていたのかも知れない。その地点から西方に尼寺の跡と云うところがあると聞いた。そこには地蔵等が三基あった。思わぬところに、歴史が秘められている。その真実は中々つかみ得ない。その帰途、若い者にオコリ石について聞いたら、幼い頃あの石に登ってはいけない。登ると頭が痛くなると云われた由、最近まで此の石はかくして、土地の人に敬遠されていたのである。果してその理由はどんな事であろう。
(『和知町石の声風の声』) |
塩谷の小字一覧
塩谷(しおたに)
井ノ本(いのもと) 西ノ本(にしのもと) 宮ノ口(みやのくち) 安ノ迫(あんのさこ)
関連情報
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