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丹波の

下山(しもやま)
京都府船井郡京丹波町丹波町下山


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京都府船井郡京丹波町丹波町下山

京都府船井郡丹波町下山

京都府船井郡高原村下山


下山の概要




《下山の概要》
JR山陰本線の下山駅があるあたり、車で行くと今は国道27号の下山バイパスができていて、見通しのよい高原のような所を行くので、下山村らしき人家を目にすることはない。以前の国道27号は下山小学校の先で高屋川橋梁の下をくぐったが、その辺りが下山である。
丹波町の最北端になり、ほとんどが山地で、由良川の支流高屋川流域に位置する。北は空山(595m)を経て和知町、西は瑞穂町、東は日吉町に接する。

下山村は、明治7~22年の船井郡の村。黒瀬・蕨・尾長野(おながの)・白土(しらつち)・知野部(ちのべ)の5か村が合併して成立した。同22年高原村の大字となる。
下山は、明治22年~現在の大字名。はじめ高原村、昭和30年からは丹波町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。大正14年山陰線下山駅が開設され、周辺地域の交通の要所となる。

白土村(しらつちむら)は、江戸期~明治7年の村、丹波国船井郡のうち。空山(595m)西麓、由良川支流高屋川の右岸に位置する。園部藩領。寺社に、寛永元年開基の浄土宗京都専称寺末金栄山加被光院願生寺、元禄10年造営の恵比須社、同12年再造営の八幡宮社、宝永6年再建の上之地蔵堂、正徳元年再興の下之地蔵堂、同7年建立の観音堂・阿弥陀堂、寛永3年再興の薬師堂などがある。明治4年園部県を経て京都府に所属。同7年下山村の一部となった。

尾長野村(おながのむら)は、江戸期~明治7年の村。丹波国船井郡のうち。高屋川の右岸に位置する。園部藩領。神社に天和3年勧請の祇園牛頭天王社がある。明治4年園部県を経て京都府に所属。同7年下山村の一部となる。

黒瀬村(くろせむら)は、江戸期~明治7年の村。丹波国船井郡のうち。高屋川左岸に位置する。当村は由良川舟運の終点としても知られ、これより上流は川が山峡部を蛇行するため舟運は不能であった。しかし由良川を下しても販路は狭く、京坂と結ばれている大堰川には及ばなかったようである。園部藩領。明治4年園部県を経て京都府に所属。同7年下山村の一部となる。

蕨村(わらびむら)は、江戸期~明治7年の村。丹波国船井郡のうち。空山(595m)西南麓。高屋川右岸の台地に位置する。園部藩領。寺院に延暦年中創建で足利尊氏再建の由緒を有する真言宗仁和寺末雲清山大福光寺、同寺末西念寺がある。国の重要文化財の渡辺家住宅がある。明治4年園部県を経て京都府に所属。同7年下山村の一部となる。

知野部村(ちのべむら)は、江戸期~明治7年の村。丹波国船井郡のうち。高屋川左岸に位置する。園部藩領。寛永5年建立と伝える地蔵堂がある。明治4年園部県を経て京都府に所属。同7年下山村の一部となる。


《下山の人口・世帯数》 552・241


《下山の主な社寺など》
蛭子神社
地図にはあるが、どこからどう行けばたどりつけるのかわからない。
『丹波町誌』には、
蛭子神社
一、所在地 下山小字森所
二、祭 神 蛭子神
三、例 祭 四月
四、由緒、その他
 創建は定かでないが、元禄一〇年(一六九七)再建、宝永五年(一七〇八)拝殿を建立した。明治初年には参詣人が少なかったが、明治一六年(一八八三)三月に世話掛が選出され社が整備されてからは、祭も賑やかになり参詣人も多くなった。
 氏子 白土 二五戸


天満宮
この社もわからない、近くまで行ってみるがみつけられなかった。
『丹波町誌』には、
天満宮
一、所在地 下山小字登尾
二、祭 神 菅原道真
三、例 祭 四月二五日
四、由緒、その他
 天保四年(一八三三)二月二九日、山城国北野天満宮から勧請し、明治一四年匸(一八八一)八月、富田村子守神社の末社と定めた。境内地二八九坪余はもと国有であったが、昭和二六年二月二三日無償譲渡を受け、同二八年宗教法人「天満宮」となった。同五二年四月御神忌一〇七五年大祭を記念して、氏子で梅林公園の建設、石牛一台を奉納した。
 四月二五日の例祭には氏子全員参列の上、米・酒その他九品を供えて祭事を行ない、青年団の劇や踊りを楽しむ。昭和五三年には子ども樽みこしを奉納し区内を巡行した。なお昔は、御神忌二五年ごとに大祭を行ない、曵山を出した。戦前には七月二五日夜、こもり堂の廻り舞台で人形浄瑠璃が行なわれていた。
 氏子 知野辺 二六戸.


八坂神社
パイパスから赤い屋根が見えて、たぶんそれと思うのだが、どこから行けばいいのかわからない。『丹波町誌』には、
八坂神社
一、所在地 下山小字東山
二、祭 神 素盞鳴命
三、例 祭 四月一四日
四、由緒、その他
 天和三年(一六八三)再建された。京都祇園八坂神社の御分社である。
明治大正の頃、牛の神様として、近村から牛を連れて多数の参拝者があった。
 毎年、二月三日・一一月一四日・一二月三一日に籠堂でお日侍を行ない、夜食として、「ぼた餅」を出す。一二月三一日の除夜祭には京都祇園八坂神社から「おけら火」をいただいてきて、おけら火をたき家内安令を祈る。
 昭和五八年五月三〇日御田祭が行なわれ、笛や太鼓に合わせて、巫子が八坂舞を舞う中早乙女に紛した主婦八人が踊りに合わせて神饌山に苗を植えた。
 氏子 尾長野 二八戸


真言宗御室派雲晴山大福光寺

鎌倉期の作風を残すという多宝塔と本堂。
この奥に今の本堂や庫裡がある。

案内板がある。
国指定重要文化財
 大福光寺は、真言宗御室派の末寺です。延暦年中の創建で、鞍馬寺の中興法印釈法延が建立しました。
 当時は、現在地より北方の空山(深山)に建てられ栄えましたが、足利尊氏公の信仰により嘉暦二年一〇月に、この地に移し建立されました。
 天正年間の兵火により多くのお堂は焼失しましたが、本堂と多宝塔は、今も当時の姿を残しています。
国指定重要文化財(建造物) 大福光寺本堂    一棟
                (明治三八年二月一八日指定)
                  大福光寺多宝塔   一棟
                (明治三八年二月一八日指定)
        (書跡典箱)   紙本墨書方丈記   一巻
                (大正一五年四月一五日指定)
                  玉篇第二十四断簡  一巻
                (昭和二四年二月一八日指定)
京都府指定文化財(彫  刻)木造毘沙門天立像  一躯
                (昭和五九年四月一四日指定)
        (古文書) 制     札   一枚
                (昭和六三年四月一五日指定)
        (絵 図) 板絵著色竹虎図   一面
                (平成二年四月一七日指定)
京都府登録文化財(工芸品)  懸仏附懸仏残欠 十五面八個
丹波町指定文化財        (昭和六三年四月一五日府指定)
                    (平成二年四月一六日町指定)
所有者 大福光寺
所在地 丹波町字下山
丹波町教育委員会


大福光寺(だいふくこうじ)は、蕨野の北部山麓にある。山号雲晴山、真言宗御室派、本尊毘沙門天。
延暦年中(782-806)に左京区の鞍馬寺の僧釈峰延が開いたと伝える。初め現地北東にある空山(そらやま。深山ともいう)の中腹にあったといわれ、その時の礎石が三十数個残る。現地に移ったのは嘉暦2年(1327)で(毘沙門堂棟木に墨書あり)、以後有力者の尊崇を得たという。中世には足利将軍家の祈祷所で、次のような制札が残るという。
  大福光寺
 一可禁断四至内殺生事
 一可停止於同領内伐山木事
 一可停止軍勢并甲乙人以下土民等乱入狼籍事
  右当寺者将軍家拝領主御祈祷所之上者以前三ケ条
  固停止也 若有違犯之輩者可被処罪科可被厳重奉
  旨之状如件
    建武四年十月     地頭代縫殿助平(花押)
享保18年(1733)四月三日付の大福光寺縁起によると、歴代園部藩主の尊崇を受けていたことが知れる。
本堂(毘沙門堂)は重要文化財。五間五面・単層・入母屋造・檜皮葺。内陣は三間三面・土間床。和様を主とするが1部に唐様建築の影響が認められる。建造は棟木銘によると嘉暦2年である。また同年の建造物として重要文化財の多宝塔がある。三間多宝塔で、初重は方柱を使用し組物は出組、二重は四手先の組物を使用。檜皮葺。そのほかに室町時代の懸仏も多く、応安6年(1373)、同7年、永和2年(1376)の墨書のものなどがみられる。虎の絵馬には大永5年(1525)、筆者狩野元信と記したものもあり、本堂にかかる鰐口は永和五年と刻されているという。
また当寺には紙本墨書「方丈記」の古写本(重要文化財)があり、奥書には、
  右一巻者鴨長明自筆也 従西南院相伝之
    寛元二年十二月 日
     親快証之
とあるそう。寛元二年(1277)は長明が「方丈記」を著した32年後に相当する。書写の年月が正確かどうか、また当寺の所蔵となった理由などは不明であるが、最古の写本の1であり、「方丈記」偽作説を否定する根拠ともなった。ほかに唐代の「玉篤」巻二四断簡(重要文化財)も蔵されるそう。

『船井郡誌』は、
仁和寺末 大福光寺 眞言 毘沙門像 延暦年中 峰延 大字下山

大福光寺は足利尊氏の再建に係る古刹にして、本堂及多寶塔は明治三十七年二月十八日特別保護建造物に指定せられたり。其棟札に曰く
大福光寺本堂棟上嘉暦二年十月二十四日、寺領御寄進主本所領家公本願即身聖人當住僧覚照房、同心衆信乃阿闍梨大貳阿遮梨禪明房、如眞房、番匠大工藤原國行、沙彌行信、藤原宗繼、藤原旨近、藤原安行、藤原宗行
尚通誌第八章を參看すべし。.

大福光寺も仁和寺末にして、延暦年中鞍馬寺中興の大徳釋峯延法師の開基にかゝる。其後堂宇壊破せしが、足利尊氏堂塔鐘樓大門等を再建して今に至り、明治三十七年二月特別保護建造物に指定せらる
本寺は武家の尊信厚く、建武年間に下されたる制札あり、
       制   札
 大福光寺
一、可禁断四至内殺生事
一、可停止於同領内伐山木事
一、可停止軍勢并甲乙人以下土民等乱入狼藉事
 右當寺者爲將軍家并領主御釿祷所之上者以前三ヶ條固所停止也、若有違犯之輩者可被處罪科可被嚴
重奉旨之状如件
   建武四年十月
                地頭代縫殿助平 花押.



『丹波町誌』は、
雲晴山 大福光寺
一、所在地 下山小字岩ノ上
二、宗 派 真言宗御室派
三、本 尊 昆沙門天玉像
四、沿 革
 寺伝に依れば、延暦年中(七八二-八〇六)に僧峯延が鞍馬寺から来て小堂を空山に建てたが、その後、嘉暦二年(一三二七)に足利尊氏が大檀越となり、現地に移転したという。境内には、本堂(昆沙門堂)・塔婆(多宝塔)があり、ともに昭和二五年八月二九日付、国の重要文化財に指定された。庫裡は二〇〇メートルほど離れており室町時代の建物である。なおこの外に本寺には多数の文化財がある。(文化財の章に記載)
住  職 山本亮海
檀家信徒 一一〇戸
年中行事 …


方丈記写本(大福光寺所蔵)
 紙本墨書、縦二八、一センチ、横四九二センチ方丈記とは人も知る鴨長明(一一五一~一二一三)が建暦年二年(一二一二)にあらわした随筆で日本文学史の代表的な作品にあげられている。安元三年(一一七七)の大火災、治正四年(一一八〇)の大風と遷都、養和年間(一一八一~一一八二)の飢饉など、天変地異や自分の隠遁生活について書いており、全編仏教の厭世感に貫かれていて、当時の世相・思想をうかがうことができる。巻初の「行く川の水は絶えずして、しかももとの水にあらず、よどみに浮かぶ水泡は、かつ消え、かつ結びて久しく止まることなし」の句は、いわゆる和漢混淆文のさきがけとなす名文で、後世の人々に好んで口ずさまれている。
 寛元二年(一二四四)に親快がこの本を鴨長明の自筆本と証明したが、原本の近いころに写されたもので、写本としては最古のものと考えられている。脱文や誤記もあるが、原本のない現在もっとも重要な写本で国の重要文化財である。




浄土宗金栄山願生寺
金栄山願生寺
白土集落の裏手の山裾。
『丹波町誌』
金栄山 願生寺
一、所在地 下山小字上野
二、宗 派 浄土宗
三、本 尊 阿弥陀如来
四、沿 革
 寛永一〇年(一六三三)創建、相挙上人を開山とすると伝えられる。大正五年(一九一六)惑誉天澄が住職となったが、その後無住となる。
住  職 川中祐海
檀家信徒 四九戸
年中行事 …



渡辺家住宅
蕨の大福光寺の隣、渡辺家は、およそ300年以前に建てられた民家で、ほとんど修理の手は加えられていないという。国の重要文化財。桁行12.8メートル、梁間9.8メートル、入母屋造・茅葺で江戸中期の建物という。

『丹波町誌』
渡辺家(丹波町下山)
 下山蕨地区にある渡辺家は江戸時代の建物とされており、昭和五〇年に国の重要文化財に指定されている。家の構造は一〇畳・八畳・六畳・六畳の四間と約一〇畳の土間などから成っており入母屋造りの芽茸き。約一二〇平方メートルの広さで南に面して立っている。規模や外観は丹波地方の民家の典型であり、往時の暮らしを物語る貴重な建物となっている。


渡辺家住宅(所在地 下山小字堂の上)
 農家の間取りは整形四つ間型、いわゆる田の字型間取りが標準的なものと一般に思われているが、実は古くから整形四つ間取りであるものはむしろ少ない。京都府でも江戸期から整形四つ間取りになるのは船井郡北部と南山城の民家だけである。北船井型には妻入り平入りの両系があり、妻入りは和知町に、平入りは丹波町・瑞穂町・日吉町に分布している。
 渡辺家住宅は間口六間、奥行五問、入母屋造平入り、茅葺きで南面する。構造は棟通りとその前後二間の通りに柱をほぼ一間ごとに立て、折置きに小屋梁を架ける。小屋梁上には真束と小屋束二本を立て、小屋束のつなぎを前後から真束に差し止める。
 平面は西側二間半を土間として、南西隅に「まや」を配し、床上部は整形四つ間取りで上手間側の室を座敷「おもて」とし、床・仏壇を設ける。柱・差物・鴨居などは丸刃の「チョウナ」はつりでごひらの柱もある。天井は座敷のみ根太天井、ほかは簀子天井としている。
 この住宅は、すでに重文に指定されている石田家住宅(美山町 慶安五年〔一六五二〕建造)と並んで京都府北部では最古に属する民家である。当住宅の建築年代は明確ではないが、当蕨区にある享保一〇年(一七二五)の祈祷札から、この頃建てられたと考えられる山根家住宅と比較して古様な点が多く、一七世紀に属する可能性が高い。



《交通》
下山駅↓

駅前通り(質実街道)↓

今は猫の子の姿も見ないが、できたころはそうではなかった。

高屋川橋梁↑

『丹波町誌』に、
下山駅
目の前を汽車は走っているが停車場もないので列車に乗るには四キロ近い道を歩いて胡麻駅に出るか、六キロ余へだてた和知駅を利用するかせねばならなかった下山地区民と隣接の質美村民などは何とかして下山に駅を作ってほしいと願っていた。そこで質美村の、竹村正夫、高原村は山根喜藏が中心となり関係地区の代表者達とたびたび協議を重ね請願駅を造ってもらうべく鉄道省へ請願書を提出した。しかし請願駅設置のためには土地と費用のすべてを提供せねばならず資金調達のため「下山実業株式会社」を開設し株券発行で資金を募り、鉄道や駅敷地のほか、貸宅地も併せて造成することにした。株券も半強制的に地区割とし目的の一八万円を調達した。
 山陰本線としては第一号請願駅として下山駅設置の認可もおり、工事着工をみたのは、史上まれに見る大旱魃の大正一三年であり請負業者は多数の人夫を連れてきて工事を進めた。人夫の宿舎には黒瀬部落など近くの農家の小屋や空家がこれに充当され、朝鮮の労働者が来村したのもこの時がはじまりであった。トロッコ以外はすべて腕力による作業で長日月を費やし、翌大正一四年一〇日一〇日下山駅開業を見ることができた。なお下山駅造成工事には土地の若者達は臨時土工となり工事進行に積極的な協力を惜しまなかった。開通式の一ヶ月以上も前より下山区・質美村の青年団員は祝賀行事の準備に追われ、地区の家々は親類縁者も招き農山村なりに祝賀の一大祭典を繰り広げた。仮装行列・音楽隊・山車など駅舎以外一戸も家もない真新しい駅前広場へ高原村・質美村の両村より練り込んだ。小学校の児童達は手に手に日の丸の小旗を振りつつ旗行列を行たった。
〽由良の水上水清く 海抜四百有余尺
 文化の風の訪ずれて 汽車の走るぞおかしける
〽走れる汽車を呼び止めて 下山駅の名も高く
 今日開通の……(以下略)と祝歌を天にも届けとばかり歌い、念願の駅開業を喜んだ。各祝賀隊が駅前広場に到着するや、祝賀列車は蒸気機関車の前に日の丸国旗を掲げ下山駅へすべりこんだ。兼ねてより依頼されていた代表者は和知駅よりこの列車に乗り込み開業第一号降車客として真新しいホームに降りたち、準備されていた式場で来賓・関係者・地区住民で埋めつくされて祝賀式典が挙行された。駅前住宅用地には天幕を張っ見物小屋や露天商が延々と続き祝賀式場や駅前広場は祝賀の渦で埋めつくされた。京都鉄道株式会社設立当時の計画通り園部・須知・桧山へと敷設されていたなればこのような事はなかったのであるが、須知町の強い反対や一部有力者のかけひきなどで請願運動が効を奏して、下山駅の設置をみることができた。
 なお下山駅への取合道路は富田附近より下山駅ヘと計画されていたがこれは京都府会で否決され現在の営農橋よりやや勾配はあるが短距離の府道が知事権限で認可されて新設される事となり下山駅設置工事と同時にこれも作られたのである。質美村へ通じる現在の下山駅大身線府道は竹村正夫府会議員らの努力により下山駅開通後に新設されたものである。
 駅前には下山区や質美村より次々と移住者が新しい家を建てて駅前商店街が形成された。また駅開業と併行して必要な運送店としては下山運送株式会社が設立され、貨物の取扱いを行なった。後に日本通運に買収されたが、貨物取扱い廃止駅となり、日通跡の建物は現在丹波町農協下山支所となっている。
 敗戦後二〇年、日本産業も復興し、自動車の普及にともない乗客の国鉄離れがはげしくなり国鉄は大きな赤字を抱えるようになり、この対策として国鉄合理化運動が展開されて昭和四六年一二月一日より下山駅も職員不在の無人駅となった。職員住宅も不用となりその建物もとりこわされ、敷地も払下げとなり、現在その宿舎跡は高原郵便局となっている。
 下山駅無人化にともない、職員事務所も不用となり、大正一四年新築された木造平屋建の駅舎も老朽化をはじめ、昭和五五年一一月三〇囗に鉄筋平屋建の小さな現在の下山駅舎に改築された。新駅舎の工費は七五二万六六四〇円。附属施設を加えると八五六万一七六三円であった。
 自動車の普及で下山駅の乗降客も激減の。一途をたどっていたが、昭和四八年よりグリーンハイツの開発により住宅の建売もはじめられ年とともに住民も増加し、須知高校の通学生の利用とともに下山駅乗降者数もその数が次第に増えはじめている。.



郷土の水運
 大堰川の水運が古くから発達していたのにくらべて、上由良川の水運はあまり振わなかった。それというのも、由良川の水流が急で、しかも岩礁が多く船の運行に適していなかったからである。
 綾部に入ると川幅も大きく、流れもゆるやかになり、ここから下流では由良川を利用して船運が開け、河川交通もかなり発達していたことが記録に残っている。
 天保元年(一八三〇)幕府は由良川通船の計画をたて、下山村黒瀬(現在の丹波町下山黒瀬)まで船を上らせるため、三ヵ年を費して戸奈瀬の岩盤を掘り割る大工事を行なった。それ以来、下山村黒瀬から下流は水運が開けたのであった。
 下山黒瀬から上流は、牛馬や人夫によって峠をこえて大堰川まで陸路で運ぶ方法がとられたが、運賃がかさんで探算がとれない有様であった。下山の蕨には、当時をしのぶ船小屋が今も残っている。
 これより七〇年前、大阪の商人長柄屋治兵衛という人が、由良川と大堰川を結んで、日本海側の物資を京都・大阪へ輸送する計画をたてて公儀へ願書を提出したことが、朝子三郎氏所蔵の文書にみえる。
 宝暦九己卯年 大阪より長柄屋治兵衛と申者 丹波和知川丹後由良湊より城州嵯峨迄通船の儀 京都町奉行松前筑前守様へ相願候処 丹後守は京都御支配に無之候間領主へ可相願候 丹波は御吟味も可被成旨被仰出候付
 去年丹後筋義相願候処 無滞に付其段申上候処 丹波にも差支無之哉罷下可相尋旨被仰付候 (後略)

 この計画をたてた長柄屋は、京都町奉行に願い出た後、さらに宝暦一一年(一七六一)に綾部藩奉行に願い出
ている。(『綾部表御願書控』)これに応じて各村の庄屋が賛意を示した。しかし、この遠大な計画は実現しなか
った。もしこれが実現していたら、この地域の歴史も大きく変わったものとなっていたのではなかろうか。


《産業》
畑川ダムと分水界
畑川ダム
手前が畑川ダム、向こうの橋は国道27号線の下山バイパス。
河岸段丘上の高原状の土地で水は谷底のはるか下を流れている。周辺の山々は低い、少し日照りでも続けば水がないだろうとハタ目にも想像はつく。農作物用の水どころか人の水がない。
パンフに、
畑川建設のあらまし
 丹波高地の分水嶺に位置する京丹波町は、水道水源を地下水や渓流からの取水に依存していたことから渇水の影響を受けやすく、安定した水源の確保が求められていました。
 また、町内を流れる高屋川及び畑川は出水のたびに被害が発生しており、近年では平成16年の台風23号において洪水被害が発生するなど、治水安全度の向上が求められていました。
 こうしたことから、水道水源の安定的な確保、洪水被害の軽減を図るため、京都府と京丹波町とが共同してダムを建設しました。

畑川ダムの概要
 畑川ダムは、一級河川畑川(由良川水系高屋川支川)の船井郡京丹波町下山地内に、洪水調節、水道用水の確保、流水の正常な機能の維持(正常流量の確保)を目的として建設された重力式コンクリートダムで、高さ34m、総貯水量196万m3 (25mプールで約5,000杯分)の機能を持つダムとして、平成4年度に事業着手し、平成25年度から供用開始しています。
 畑川ダムは、小規模のダムで多く用いられている洪水調節用のゲートを持たない自然調節ダムで、洪水時の操作が不要となること、管理コストが抑えられるといった利点があります。


ダム湖(下山四季彩湖)
畑川ダム
このあたりは日本海側と太平洋側の分水界になり、この畑川も時によって日本海へ注いだり太平洋に注いだりした遠い過去が見られるという。
今のこの谷はたぶん三峠断層の東のハテでなかろうか。

《姓氏・人物》


下山の主な歴史記録




下山の伝説


『京都丹波・丹後の伝説』
赤瀬の経塚      船井郡丹波町下山
 昔、北桑田郡のある村に、評判の、美しい娘さんが住んでいた。両親は〝チョウよ花よ〝と大切に育て、いつしか娘さんにお嫁入りの話が持ち上がるようになった。しかし娘さんは何度お見合いしても「うん」といわない。
 ところが、この娘さんにはおもしろいクセがあった。夜、家族の者がみんな寝静まるころになると、こっそり寝床を抜け出して、いずことなく姿を消し、朝になるとちゃんと寝床に戻っているのだった。初めのうちは両親も「便所にでも行っているのだろう」と、そのまま寝入ってしまったが、次の晩も、その次の晩も、夜中に目をさますと、娘さんの寝床はもぬけのから。いっこうに戻る気配もない。「どこに行っているのだろう」と不審に思った両親は、娘さんの後をつけてみることにした。父親はある夜、娘さんが寝るのを待って、娘さんの着物の端に長い長い糸を縫いつけておき、眠ったふりをして娘さんが寝床から出て行くのをじっと待つことにした。何も知らない娘さんは、みんなが眠ってしまうと、いつものようにこっそりと家を抜け出した。そこで父親は糸をたよりにつけて行った。山を越え、谷を越えて娘さんはどんどん歩いて行き、たどり着いたところが丹波町下山の赤瀬の〝くりやの淵〝だったのである。
 そこまでくると、急に娘さんの姿が消えてしまった。父親は不思議に思いながら、あたりの様子をうかがっていた。白くにぶい光を放つ三日月。虫の声一つしないしじまを破って、突然、水面をたたきつけるようなすごい音が〝くりやの淵〟で起こった。父親は、恐るおそる淵をのぞいて腰を抜かさんばかりに驚いた。大きな大蛇が身をくねらせて泳いでいるではないか。銀色のウロコが月光に映えて、ギラギラと光っている。
「娘が大蛇になってしまった」--父親はあわてふためいて家に帰り、そのころ身分の高いお寺の和尚さんに相談した。そこで和尚さんは、魔物を封じるというありがたいお経をあげ、その経文を巻き紙にしたため、それを〝くりやの淵〟の真上にあたる丘に埋められた。すると不思議にそれっきり、大蛇はいずことなく姿を消したという。
 この経塚の上には、お地蔵さんがおまつりしてあり、毎年、八月の地蔵盆には、尾長野の人たちはお供え物を持ってお参りしているという。
〔しるべ〕 丹波町三日市交差点から国道27号線を北へ約六キロ。下山校のそばに赤瀬の里があり国道27号線のわきの小高い丘が経塚。そのほとりを流れる赤瀬川と高尾川との合流点に〝くりやの淵〟がある。




旧国道27号線にかかる「赤瀬橋」。鞍馬谷川が高屋川に合流する。今はそれほどでもないが、昔はかなりキモい所ではなかったかと思われる。

『丹波町誌』
庵の阪の尼墓
 昔、黒瀬の庵の阪に小さな僧庵があって、尼さんが一人、毎日お経をあげておつとめをしていた。そのわけは、夫が戦いに敗れ、丹波に逃れ来たが、力つきて、尾長野の山中で自害をして果てた。その大の冥福を祈るため後を追い、この庵にたどりつき一生を仏門で過した。土地の人々は、あわれに思い、その死後は尼墓をつくり霊を弔ったという。今日でも、このお幕には花が供えられ、おまいりが絶えない。


『丹波町誌』
尾長野の椿さん
 下山尾長野の椿さんは、歯痛に霊験があるという。
 戦国時代の終り頃、今から四三〇年前のこと、都の近くで大きな戦があり、戦に敗れた武士たちが続々と都を逃れ、各地に落ちのびて行った。山陰街道・舞鶴街道にも幾組もの落ち人が、折れた槍、つるの切れた弓を杖に人目をさけて北へ北へと逃れて行った。
 そんな一団が、尾長野にもたどりついた。その中の身分の高そうな一人の武将は深手を負って街道をそれた谷間に入り手当をしていたが、もうこれまでと覚悟をきめて、村人を呼んで 「それがしは、この度のいくさに敗れ、ようやく逃げのびてはきたものの、この深手、切腹して果てる故、ここに葬ってもらいたい。なきがらの上には、椿の木を植えてほしい。何のお礼もできないが、かわりに歯痛の治るまじないを教えよう。」と頼み、家来たちを北の国に落したあと、見事に切腹して果てた。村人たちは、武将のなきがらを手厚く葬り、ほこらを建て、椿の苗木を植えて祭った。以来、椿さんの愛称で呼び、ずっと祭りをしてきた。
 椿の苗は年ごとに大きく成長し、そのほとりには美しい泉がこんこんと湧き出るようになった。村人たちはこの泉を「シユウズ」と呼んだ。そのうちに誰いうとなく、歯が痛むと椿さんの葉で「シユウズ」をすくい、口に含んでその葉で歯の上をなでると見事痛みがとれるといううわさが広がり始めた。村人たちは歯が痛むと必ず椿さんにお参りをし、悲運の武将の冥福を祈り、歯痛が治るように一心にお願いしたという。
 今も椿の木は、武将の霊魂を宿すが如く、春には深紅の花を咲かせ続けている。泉は戦前に、ほこらも一〇年程前になくなってしまった。







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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
『丹波町誌』
その他たくさん



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