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丹波の

篠原(しのはら)
京都府船井郡京丹波町篠原


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京都府船井郡京丹波町篠原

京都府船井郡和知町篠原

京都府船井郡上和知村篠原

篠原の概要




《篠原の概要》
府道12号(綾部宮島線)と府道51号(舞鶴和知線)の分岐点を、仏主の方ヘ入った所の一帯。由良川とその支流上和知川の合流点付近で、上和知川右岸の段丘に位置する。東を上和知川が南流し、南東部で由良川に合流。上和知川の河岸段丘上に集落や耕地がある。旧上和知村の中心地で、和知第二小学校があった。
中世には和智荘の荘域で、天正年間には九条家領「和智村」のうちとして「しのわら村」「しのわら之内かな屋村」が見え、九条家に年貢を進納している。
篠原村は、江戸期~明治22年の村。元和5年から園部藩領。畑地が多い当村では養蚕業や煙草の栽培が行われたという。子来新田のための用水の分水を受けて、新田開発が大規模に行われた。
明治4年園部県を経て京都府に所属。同13年大迫村にあった小学校を地内に新築移転して修来(しゅうらい)校と称した。同20年上和知尋常小学校と改称。同22年上和知村の大字となる。
篠原は、明治22年~現在の大字名。はじめ上和知村、昭和30年からは和知町の大字、平成17年からき京丹波町の大字。上和知村役場は地内に置かれ、村の行政の中心地となる。明治22年製糸工場栄進社が設立されたが、同43年綾部郡是製糸株式会社がこれを買収。第2次大戦中は軍需品の縫製工場に転換、戦後撚糸工場となり、昭和27年工場閉鎖した。


《篠原の人口・世帯数》 104・44


《篠原の主な社寺など》

恵比須神社

曹洞宗日輪山東月寺


日輪山東月寺(曹洞宗) 字篠原小字サコ一五
本寺の創建も前の地蔵院同様、室町初期の文安年間と伝え(開基不詳)、寛永十九年(一六四二)、龍沢寺の日照孤峰に帰依して真言宗より曹洞宗に改め東月寺と称したという。その後、寛保二年(一七四二)、大火で全山廃失し、什物も廃失した。寛延三年(一七五〇)、月璋元廓が再建した。本堂の規模は三間半×七間半(『寺社類集』による)であった。安政二年(一八五五)貫山禅道が庫裡を増築し、法地を起立し、伝法一世となった(現住は九世)。なお、寺の裏山には尼僧寺・庵の道などの古跡があり、平安時代の面影をしのばせる。 (『和知町誌』)


《交通》


《産業》
郡是製糸和知工場

和知第二小学校跡地のあたりは広く、このあたりにあったという。
郡是製糸和知工場
郡是製糸㈱は明治二十九年設立以来、三十年代に発展の一路をたどり、三十九年に何度郡・口上林分工場、四十年に中上林工場を設立し、経営規模を拡大させた。そのあとも丹波各地に分工場を設立し、また既設工場を買収していったが、その状況は『郡定製糸六十年史」に詳しい。
大正二年二月には資本金二万円で綾部製糸㈱が創立されると、両社はともに製糸業界に主導的地位を占める。
郡是製糸は、四十三年二月十八日経営不振に陥っていた栄進社和知工場(上和知村宇篠原小字赤畑一)と栄進社園部工場(園部町上本町一五)を買収した。和知工場は七〇釜、園部上場は五〇釜をもって五月十日事業を開始した。郡是製糸は両工場買収のため、四十三年増資して資本金一二万円全額払い込みとなし、買収資金に充てた(『郡是製糸六十年史』)
四十三年四月八日、分工場開業式が行われたが、『村是月報』(明治四三・六)にその状況が載っている。
     群是製糸株式会社和知分工場開業式
仝会社の和知分工場は去々月来運転しつヽありしが、去る四月八日篠原尋常高等小学校に於てその開業式をあげたり。来賓には明田組長、上下両村長始め、職員、区長其他約百五十名、本社よりは波多野社長をはじめ、上原取締役、川合教育部長などの出席あり、午後一時開業式挙行、波多野社長の式辞並に郡是の営業方針の説明、川合教育部長の教育の主義ならびに其施設に関する演説あり、後一同丁重なる饗応を受けたり。
酒宴中北原校長が、郡是が将来本村の産業の為に貢献あらんことの希望を述べられ、且つ最後に山本氏の栄進祉事業の過去の功業の偉大なるをいひ、新陳代謝の時至りて斃れしは全く天の運命なるよしを説かれしは、殊に異彩をはなちて痛快なりき、(以下略)
あと波多野社長が演説し、繭を安く買って高く売り、また職工を酷使することを不自然として、養蚕家と製糸家の連携の緊密化、繭質の向上や工場の拡張に触れ、これには忍耐と努力が必要であると説いた。
和知分工場では改築計画の第一着手として、四十四年六月、乾燥室・仮食堂を完成した。四十四年には上和知村はもちろん、高原村の一部や北桑田郡からも新繭一万七〇〇〇貫を入荷させ(四十三年度比五三〇〇貫増)、新計画による繰糸法を利用している(『村是月報』明治四四・七)。また繭の価額と購入法についても公平な評価を求めるため、生繭品位鑑定部を置いていた。

大簾の才村さつ(昭和五十二年当時八四歳)が、少女期安栖里の小糸屋(糸挽き家)に奉公し、ついで郡是和知分工場で働いた思い出をつぎのように語っている。
   織女の声
グンデ(ゼ)へ行ったら、大きな機械がガアガアまわりよって唄を歌うとられへん。話もしられんこっちゃ。大将さんが行儀よう糸をひいとるかどうか、どこぞで見とってやし。
〝朝の四時半、目をさまし、起きるとともに一礼し、笛が鳴ったら糸ひいて、もしやデニール外したら、主任さんや教婦さんに叱られて……″
食べ物は、「朝は麦御飯に味噌汁に漬物、昼はそれにおひたし、夜はダイコンとシャクシナとズイキの煮物にきまっとった。一遇間に一度はゴチソウ(御馳走)があって、油アゲが煮こんであった。また、風呂のあといつも長い話(川合信水先生)があってな、行儀をようせえ、信仰をもって働けいうちゃった。
    (『丹波物語』国書刊行会、昭和五二・八)

   給料
当時の郡是和知工場の給料は月払いではなく、毎年閉場式に女工は給料を持ち帰るので、親はツルのように首を長くして待っていた。つまり親が子の身を食うとった勘定ですな。(『和知の古老談』)
(『和知町誌』)


和知の蚕糸業
産業に栄枯盛衰がある。かっては和知町内蚕を飼育しない家の方が少なかった程なのに現在は上乙見にばかり残ってその他の地区では一軒、二軒と数える程に減じてしまった。その歴史をかえりみるのも筆者がその道を歩いて来たから独り興味があるばかりではないと思う。極簡単に述べることにする。元禄四年(一六九一)開版の日本鹿の子と云う本に諸国の産物を揚げておる中に丹波の国の産物として「和知糸」と記されている程、すでに丹波の生糸の代表としてこの町の生糸が出ている。その生産も多くその品質も優れ、全国に誇るほどの名産であったことがわかる。明治初年頃、丹波地方で製糸の技術を持った婦人は大低和知で修業を結んだ者で
  和知上きん(よい繭のこと)七粒だてで
    ひいて来ました腕ぢやもの
と云う俚謡さえ残っている。其の後上和知の先覚者に堀伊助と云う人が出て、先進地に赴いて蚕糸業の技術を修めて郷里に帰った。自家で営んでいた小規模の座操製糸を、篠原の同業者山本甚蔵氏と合同し、甚蔵氏の兄にして地方第一の資産家山本喜蔵氏を社長として、栄進社と称する水車運転の二十人取りの器械製糸工場を起した。時は明治二十年六月、間もなくボイラーを求めて五十人繰りに拡張したのであった。その場所は現第二小学校の前であった。その後経営思わしくなく遂に明治四十三年(一九一〇)綾部の郡是製糸会社が買収経営、昭和十五年郡是製糸和知工場創業三十周年の祝賀式を挙ぐるに至ったのであったが、筆者は幸にも当時その責任者の位置を与えられて居ったのであった。その為め祝賀式の前日、山本喜蔵氏の墓前に工場の代表者数名と共に花を捧げたのであった。栄進社の社名は、当時の上和知小学校長北原与市氏が名づけ親であったと云う。なお北原先生は山本喜蔵氏を評して「喜蔵と云う人は学間などはなかったけれど、実に温厚な好い人で、製糸業をやっても地方の為めと云う考えを念頭から離さず、決して私利を貪るようなことは無かった」と又掘伊助氏を評しては「蚕糸業の先覚者で人物か偉く珍らしい雄弁家であった」と。話はもとへ戻るが、郡是和知工場創立三十周年祝賀式上、奇しくも山本喜蔵氏の縁者山本完太郎氏から祝詞とし次の歌を貰ったことは、昨日のことのように思われる。
  三十歳の長き月日を一すぢに
      糸とる業や芽出たかりける
  和やかに十年を三度繰り返す
      そのいさをしや世に知られなん
人造せんいの進歩と共に生糸の需要も減り、それに加えて大東亜戦争となり米国への輸出が全く絶えて、製糸も遂に縫製工場となり軍服や国民服などを製造したが、戦後は撚糸業となり、郡是会社から須賀繊維工場と経営者も変り、昭和二十七年には遂に工場も閉鎖、其の後、当時の建物は全部取り払われて後に一時パルプ原料の製造が行われたが、今は、町の農業協同組合の売店と加工部が置かれている。戦後の世の移り変りのはげしさは、全く驚くばかりである。 (『和知町石の声風の声』)


《姓氏・人物》


篠原の主な歴史記録




篠原の伝説



五郎作淵
篠原の北方村はずれ和知川に五郎作淵と云う淵がある。その美景はいとも小さいが、此の処に一度でも行ったことのある者は、必ずその奇厳重なり、瀑があり淵深く、これを賞するに到るであろう。曽て戦後此の地に疎開しておられた洋画家山口勝己氏も絵にして比の地に残されたし、その友人日本画家美術院の院友森崎伯霊氏も此の美景を画材としてその頭の中に入れられたことがある。吾又その美景と五郎作淵の名に引かれて、その名の由来を探ったが、いまだに得ることが出来ない。けれど古老から、昔この淵に大きな山椒魚が住んで居った。或る時村の若者の一人がこれを捕えようとして馬乗りになったが、その尾ではね落されて淵に放り落されてしまった。山椒魚はその後姿を見せることがないと聞いた。この若者の名か五郎作であったと云うと立派な伝説となるだろうと思う丈である。その後姿を見せない山椒魚の行衛にも気がかかる。又伝説を作り兼ねない。伝説とは元々そう云うものなのかも知れない。
(『和知町石の声風の声』)





篠原の小字一覧


篠原(しのはら)
上ミ野(かみの) 山根(やまね) ノグチ 下タノ(しもたの) チハラ サコ オクノヤマ 大上(だいじょう) 谷(たに) ハサコ オカザキ 大道ノ上(だいどうのうえ) 堂ノ下(どうのした) 赤畑(あかはた) 大道ノ下(だいどうのした) 石仏(いしぼとけ) 火口(ひぐち) タコカ

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
『和知町誌』各巻
その他たくさん



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