塩田谷(しおただに)
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
京都府船井郡京丹波町塩田谷 京都府船井郡丹波町塩田谷 京都府船井郡須知町塩田谷 |
塩田谷の概要《塩田谷の概要》 出鹿神社の西側50mくらいの所から南ヘ入り、高速の下をくぐって最初の集落が森で、その次の曽根川の東岸に開けた集落。中世には、山内荘塩田村であったと推定されるている。塩田は谷全体の村名で、当村はその一部分で単に谷村とも称された。 塩田村は、戦国期に見える村名。丹波国船井郡山内荘のうち。「政所賦銘引付」文明9年12月8日条によれば、飯河中務忠資がその知行分「丹波国山内庄塩田村内元来名事」について、「須智源三郎領時節、彼名主五郎左衛門男号有供物、無謂令遣責」と訴えている。次いで「政所賦銘引付」巻2には「一〈飯加〉三上与三左衛門尉貞元 同(文明13年) 八四 五十貫文 星屋宮内少尉 丹波国山内庄塩田村并高屋村等 限五ケ年」と見える。また、「蜷川家古文書」第23集には、戦国期(永禄初期か)と推定される「御料所 丹波山内庄八ケ村 小川殿御領」と題する注文があり、その8か村の1つに「塩田村 奉行衆之給分」と見える。 塩田谷の3村(森・谷・安井)は曾根川の最上流に位置するため「上三ケ村」の呼称が生じたようで、文明14年(1482)10月日付の山内庄上三ケ村名主百姓等言上状案にみえる「上三ケ村」はこれをさすと推定されている。 近世の塩田谷村は、江戸期~明治22年の村。亀山藩領。。明治4年亀岡県を経て京都府に所属。同22年に須知村の大字となる。 塩田谷は、明治22年~現在の大字名。はじめ須知村。明治34年須知町、昭和30年から丹波町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。》 《塩田谷の人口・世帯数》 85・32 《塩田谷の主な社寺など》 岩山神社(式内社・弁奈貴神社) 集落のある谷の一番奥になる。車ですぐ下まで行ける。ヘナギ岩の上なのか横なのか小さな社殿がある。「奥宮 岩山神社」の石柱があり、鹿除けのフェンスがある。巨大な杉の木がある。 祭神大己貴命。旧村社。創建は不明だが、社伝によるともとは参道右手山中にあるヘナギ岩の上に鎮座していたという。天正年中(1573-92)兵火によって焼失、元和4年(1618)に再建、寛永6年(1629)・正保4年(1647)にも造営工事があったが、その後火災にかかり享保7年(1722)現在地に遷座したと伝える。なお天正年中に焼失し、宝暦5年(1755)現在地に移ったの説もある。 当社は、もとの鎮座地がへナギ岩の上であったこと、塩田谷の小字名に弁奈貴(へなぎ)があること、弁奈貴社と記名した賽銭箱が昭和40年にみつかったといわれること、社殿内外の山を往古は弁奈貴山とも称していたことなどから、「延喜式」神名帳に載せる船井郡「弁奈貴神社」と考えらていれる。 当社を上(かん)の宮、谷外の曽根にある何鹿神社を下の宮ともよびならわしているそう。 『船井郡誌』には、 辨奈貴神社 祭神不詳 在所不詳 或ハ曰ク同郡鹽田村岩山神社歟 村社 岩山神社 大已貴命 延暦中 明治十三年 大字鹽田谷 岩山神社は元辨奈貴岩の上に鎮座し、辨奈貴大明神と稱せしを、寳暦五年現今の社地に遷祀して岩山大権現と稱したりき。維新の後神佛混淆を禁じ、佛體を除却して岩山神社と改稱す。按ずるに延喜式に辨奈貴神社あり、京都府編纂の式内神社考證に辨奈貴神社、祭紳不詳、在所不詳、或は云ふ鹽田村岩山神社歟と記せること通誌第八章に引ける所の如し。明治初年當社より京都府に差出したる由緒書に曰く、 當社は村内村老の古傳説に累世境内ニ在之辨奈貴石ノ上ニ鎮座候處天正年中焼失シ寳暦五年十一月十五日當今ノ地所へ遷坐セシ由藍殿境内外ノ山ヲ往古ハ辨奈貴山卜稱セシ慮中奥岩山トモ稱ヘー所兩名ニ相成候下馬札二枚在之是ハ何レヨリ給リシヤ確書ナケレドモ老人ノ傳説ニ南朝ヨリ勅許ナリシ由ト云舊領主ヨリ高三石四斗餘免除地寄附ノ確書拜領罷在是ハ龜岡城主菅沼織部正芳殿ヨリ寛永十八年給フ云々 當社を以て式内辨奈貴神社となすは至當の説なるべし。. 『丹波町誌』 岩山神社 一、所在地 塩田谷小字弁奈貴 二、祭 神 大己責命 三、例 祭 四月一五日 四、由緒、その他 延喜式内弁奈貴神社がこの岩山神社であると考えられる。天正年中兵火にかかり、元和四年(一六一八)再建、寛永六年(一六二九)、正保四年(一六四七)に造営の事が行なわれた。享保七年(一匕二二)現在の地に移された。宝暦四年(一七五四)修営、下馬札二枚があって、勅許によって作ったと伝えている。亀山城主菅沼織部以下松平図書に至る数代の間、三石四斗の社頭地を寄付した。なお、本社が弁奈貴神社と袮していたことを示す資料として、次の諸点があげられる。 .小字岩山の隣接地に小字弁奈貴が在る。 .昭和四〇年御神前に弁奈貴社の社名人賽銭箱がみつかる。 .同四二年社務所において弁奈貴神社御供道具箱と記された木箱を発見。 .同四三年氏子より古文書ならびに弁奈貴神社境内古址図を発見、境内大岩がヘナギ岩であることが確かになった。 氏子、元安井・塩田谷 二区三五戸 式内社出石鹿イソ部神社もこのあたりにあったと伝わり、この小さな谷に式内社が2社もあったことになる。しかも山内庄一宮であった。今は何ともヘンピというかヘンピすぎるというか(失礼)そんな農村だが、住人たちの物腰が優雅で、外来者に社交的で親切で、田舎者の態度ではない。かつては高い文化を持ったソフルだったのかも。。。水の心配は少ないような所に見えて、こうした場所から開発がすすんだものか。 態度悪すぎるくせに、大都会人のつもりなのか偉そぶりぬけず、カンコーカンコー皆様来て下されなどと言っているどこかのド田舎町などはよく学ばれるとよろしいかも。。 曹洞宗日照山千峰寺 ちょっとわかりにくいが、山腹を少し登った所にある。 『丹波町誌』 日照山 千峰寺 一、所在地 塩田谷小字大将軍 二、宗 派 曹洞宗 三、本 尊 聖観世音菩薩 四、沿 革 建武元年(一三三四)山内の荘塩出谷の城主山内宗誉が千載の菩提を弔らわんため二宇を建立し、天台宗の高僧を招請して創立したが、文禄年間(一五九二-九六)焼失した。寛永九年(一六三二)伽藍を再建し、園部町徳雲寺一一世友山重学和尚を拝請し開山として曹洞宗に改めた。明治四〇年(一九〇七)暴風雨の災害により再度全壊の難にあい現在の伽藍を建立した。 住 職 木村徳成 檀家信徒 一〇戸 年中行事 … 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 塩田谷の主な歴史記録塩田谷の伝説塩田谷の小字一覧塩田谷(しおただに) 西 三本木 仲 大将軍 ユブリ谷 弁奈貴 一本槍 厚朴谷 岩山 釜土 西谷 カツラ 東 関連情報 |
資料編のトップへ 丹後の地名へ 資料編の索引
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『船井郡誌』 『丹波町誌』 その他たくさん |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Link Free Copyright © 2019 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com) All Rights Reserved |