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丹波の

旧・和知町(わちちょう)
京都府船井郡京丹波町


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京都府船井郡京丹波町

京都府船井郡和知町

京都府船井郡上和知村・下和知村

旧・和知町の概要




《旧・和知町の概要》

旧和知町は、由良川の中流域で、綾部市の一つ上流側にある。京都縦貫道の「京丹波わちインター」、JR山陰本線の「和知駅」「安栖里駅」「立木駅」、国道27号線が走り「道の駅和」がある当たりの一帯で、京阪地域と丹後間の重要な連絡路となっている。
中世の和智庄を町域として、中央部東寄りを上和知川が南流し、南からは高屋川が北流して、ともに南部を西に向かって蛇行する由良川に合流する。
面積の90%が山地であり、わずかに河岸段丘・扇状地上や山麓の斜面上に、水田や集落が形成されている、東・北の境界は標高700メートル以上の山々が連なっており、東境には郡内一の高山長老ケ岳(916.9メートル)がある。
明治22年(1889)町村制施行により中山・升谷・市場・篠原・大迫・長瀬・塩谷・下乙見・上乙見・下粟野・西河内・細谷・上粟野・仏主・大倉の15ヵ村が上和知村、小畑・本庄・阪原・中・安栖里・稲次・角・広瀬・出野・広野・大簾・才原の12ヵ村が下和知村となり、この2村が昭和30年(1955)合併して和知町となった。
和知町となって50年が経過した平成17年10月11日、和知・丹波・瑞穂の3町が合併、京丹波町が誕生し、和知町は廃止になった。

以下簡単に書き加えてみると(主に角川の地名辞書による)
旧石器・新石器の出土
丹波における旧石器時代の遺跡は、今まで表面採集による尖頭器などの発見によるものであったが、昭和五十六年(一九八一)からの日本道路公団近畿自動車道舞鶴線工事に伴う確認調査で、兵庫県下の多紀郡西紀町上坂井と、同氷上郡春日町七日市の二ヵ所で、兵庫県教育委員会による発掘調査が実施され、姶良火山灰層(AT層〈約二万年前〉)の上下で、数千点の石器とともに文化層が確認され、その接合資料により製作過程が検証された。
また、両遺跡は標高約六〇〇メートルの山脈状山塊を挟んで南北約八・五キロメートルに位置し、ほぼ同時期の遺跡であるが、南の加古川水系に属する上坂井遺跡は、瀬戸内側の文化圏が優勢で、北の由良川水系に属する七日市遺跡とは使用石材の比率とともに相違が明確である。
当町は。由良川水系ではあるが、上流側の丹波町からの進入が比較的容易であり、瀬戸内・山陰双方の文化圏の交錯した地域であると思われる。
さて、平成元年(一九八九)当町中山(高屋川左岸)において発見された打製石器は、サイド・スクレーパー(削器型石器)と呼ばれるもので、石材は灰黒色チャート、原石から割り取った幅の広い剥片の両側辺鄙を二次加工して鋭利な刃を付けたものである。特に右側辺には腹面からの加工も加えて交互剥離(ジグザグ状)を施し、使用痕が認められる。先端部を一部欠損しているが、現存長五一ミリメートル、最大輻三五ミリメートル、最大厚九ミリメートルが計測される。
 石器については、人類が猿人と呼ばれたころから生活の主要な道具として順次発達させてきたもので、その加工法も、投擲法(河原石を台石に直接投げ付けて割る方法)から台石打法・両極打法など、用途の多様化とともに定型化し、より精巧な加工法へ進化させてきた。
本石器は、製作技法の上からはなお新しい押圧剥離法(細い棒状の軸で、石材の末端部を圧迫して石片をはがしたもの)を使用している。残念ながら出土状況が層序に伴うものではないので、絶対年代は断定し得ないのであるが、現時点では、おそらく後期旧石器時代の約三万年~一・三万年前の時期に該当するのではないかと思われる。
 当遺物発見後、中山地区と同様の高位段丘上の子来地区(由良川右岸)において、圃場整備後、畦畔法面の黒褐色土から縄文時代の石器(凹型基部を持つ打製石鏃〈全長一五ミリメートル〉)のほか。サヌカイトやチャート、スレート片が採集された。河川氾濫による地層流失の可能性の少ない、安定した堆積層である同様の地域からは、今後さらに続々と遺跡が発見されるものと期待される。 (『和知町誌』)

これだけで、先土器・縄文・弥生の各時代についてははっきりしていない。古墳は1基も発見されていない。本庄の由良川右岸に土師器・須恵器の土器片や、石器未製品の散布地があり、古墳のあったことを推定させているくらい。

律令制下の行政区画は、丹波国船井郡に属し、「三代実録」には船井郡内の地名が記されているが、和知の地名は見えない。平安中期の「和名抄」に船井郡ま郷名は11か所が記されているが、和知に比定される郷名はなく、鼓打郷の一部に当町の字大簾・広瀬・本庄が入っていたのではないかと推定されるにとどまっている。式内社もない。
『和知町誌』は余戸郷でなかったかとしている。
丹波国は丹後国が分立して以降、桑田・船井・多紀・氷上・天田・何鹿の六郡を管轄する上国となった。承平年間(九三一~三七)に編さんされた、わが国初めての百科辞書『和名類聚鈔』(略称『和名鈔』)は、「国府は桑田郡に在り」と記述している。国府は国の官庁で、その建物が国衙である。国府の付近には国分寺や国分尼寺、また当時重要視された一宮が建てられるので、丹波の国府は、発掘調査などによって、現亀岡市千歳町付近にあったと推定されている。
一方、船井郡八木町の屋賀に小字国府が在り、「吉富荘絵図」(承安四年〈一一七四〉「真継梶之助家文書」)には、桑田・船井両郡にまたがる荘域の屋賀に相当する位置に、豪壮な建物が描かれ、「国八庁」と注されていてかつての国衙の所在を示唆している。船井郡が桑田郡から分立したとする説もあり、千歳に在ったのが一時移転していたのか、もともと屋賀に在ったのかは明らかではない。
前掲の『和名類聚鈔』には船井郡に、刑部・志麻・船井・出鹿・田原・野川・須知・鼓打・木前の九郷が記されており、刊本は余部・城崎の二郷を加える。合わせて一一郷のうち、城崎郷と木前郷は同一の郷を重複して記載したものと考えられている。これらの郷が所在した地域について、例えば刑部郷は現八木町に刑部の地名が残り、また、同町字八木島はかつて八木志万と呼ばれ、室町時代は普広院領「志万荘」の一部で、立荘以前は志麻郷であったと考えられる。このように、『和名鈔』に載せられたそれぞれの郷の郷域は、鼓打・余部の二郷を除いて現船井郡内各町のいずれかの地域に重ね合わせることができるが、和知町と瑞穂町に相当する郷の所在地はまだ明らかにされていない。
余部郷と和知
鎌倉時代の初めのころ近衛家領であった山内荘は、その後どのように伝領されたのかわからないが、室町時代のものと思われる「蜷川家文書」断簡に、御料所丹波山内荘八ヵ村として、志津師村・鼓打村・十勢村・八田村・須智村・塩田村・高屋村・紅村が記載されている。このうち十勢・須智・塩田・高屋・紅の五ヵ村は現丹波町であり、志津師・八田は現瑞穂町内に確認できる。鼓打の地名は残っていないが、瑞穂町の鼓山の麓に広がる旧中台村・橋爪村あたりがかつての鼓打村であり、鼓打郷が現瑞穂町のかなりの地域を包含するものではなかったかと考えられる。
余部(余戸)の地名は全国各地に所在する。令制下における村落制度は、五〇戸を一里として里(郷)を編成するとき、五〇戸に余る端数の戸で編成した里を余戸(部)とした。『和名類聚鈔』(刊本)に記された船井郡の余部郷は、地形的に見て、現在の和知町域と考えるのが妥当と思われる。
延喜年間(九〇一~二二)に編まれた「延喜式」の神名帳には、当時国家が公認し、弊帛を奉じた二八六一社(座数では三一三二座)の神社が挙げられており、古い格式を持つ神社ということで、延喜式内社または単に式内社と呼ばれている。丹波国にはそれぞれの郡に鎮座するものを合わせて七一座、船井郡には一〇座を数えるが、和知には一座もない。和知町本庄の阿上三所神社は古い由緒を伝える神社ではあるが、「延喜式」の神名帳が作成されたころにはなく、それ以後に創祀されたものである。現和知町域は、平安時代に入ってもなおしばらく、一郷を成立するほどの集落の形成は見られなかったのであろう。 (『和知町誌』)

平安期の寺院跡がある、特に長老ケ岳の山頂付近には密教寺院100か寺余があり、のちに和知荘内に移ったという。升谷の白山神社は養老元年(717)の創建と伝えている。


和知の中世
和知が文献に見えるのはだいたい中世からになる。
〔和知荘と片山氏〕
承永4年(1222)頃、当町域には仁和寺の荘園和知荘が成立しており、武蔵国片山郷(埼玉県新座市)の関東御家人の片山右馬允広忠が、承永の乱の際の勲功の賞として当荘の新補地頭として入り、代々安栖里を本拠として当地を治める。
当荘は承平6年(936)から山城仁和寺領であったらしい。嘉禎4年(1238)7月の北条時房下知状案に「丹波国和智庄地頭職事」見え、広忠は当荘の地頭に承永4年の下文によって任じられている。弘安3年(1280)10月18日の将軍家下文には「丹波国和智庄、武蔵国片山郷内別所」などを亡父片山親基(道縁)の譲状の旨にまかせて、子の万歳丸に譲与されたが、2年後の同5年8月には、平盛親(片山万歳丸の地頭代)と領家預所藤原行綱との間に争論が起こり、当荘は東西に和与中分された。下地中分の境は由良川を境として、東半分が仁和寺領、西半分は地頭片山氏分となり、のち、永正2年(1505)3月に守護代内藤貞行施行状には「和知下荘」と見え、東が上荘、西が下荘と呼ばれるようになったらしい。上荘は近代の上和知村、下荘は下和知村の村域に比定される。
片山氏は、和知下荘の重代相伝し、南北朝期には足利尊氏に属し、たびたびの戦いに出陣している。元弘3年(1333)5月、尊氏が篠村に六波羅攻めの兵を挙げたとき、片山貞親は一族を率いて馳せ参じ、その後建武4年(1337)には守護仁木頼章方として、丹波栗村河原・土師河原合戦に軍功をつくしている。

〔和知の土豪衆〕
永正2年(1505)の片山助次郎宛の本領安堵状には、「丹波国船井郡和知下庄除出野分 沢田分才原事」が片山助次郎の本領として、守護不入の地となり安堵されている。
永禄4年(1561)に片山右近丞は、「あせり 十蔵名」の分米2石料足2貫をもって伊豆守貞親より「しうせん(宗銭?)」20貫の融通を受けている。「あせり」は現地名安栖里であり、十蔵は十倉氏の祖名であろう。戦国期には、当地にも小土豪が出現し、天正初年のものと推定される6月21日の明智光秀の文書には片山兵内と出野左衛門助の名が見え、出野氏は由良川に沿った出野城に居城したという。また天文21年(1552)11月の足利義輝の文書では「丹波船井郡内和知上下・同粟野・同佐々江跡職所々散在」などを川勝左京亮に宛行っており、江戸期にも川勝氏の子孫が当町域内にいることから、かなり所領関係は複雑に入り組んでいたと推定される。
さらに、天正10年(1582)、筑前守への差出状には和知3人衆といわれた片山兵内、出野甚九郎、粟野久次の草高と人数指出が見え、石高は増石が加えられており、これは天正の大閤検地によるものと思われる。
天正年間末からは公卿の九条家領として当町は、大蔵(大倉)・大左近(大迫)・上粟野・下粟野・塩谷・篠原・本庄の7か村500石が見え、一部が文禄4年(1595)まで同家の知行地であった。しかし、慶長5年(1600)片山兵内の書状には「丹波国船井郡和知荘片山兵内本領地高壱千五百之所」とあり、この頃には片山氏が和知荘一円に勢力を伸ばしていたと思われ、草高が1、500石であった。片山家には文書約300通があり、軍忠状や着到状などが多いが、ほかに永正18年(1521)の和知下荘麦地子・桑代納帳、天文6年(1537)の和知下荘調帳がある。金石文関係では「応永七年□(庚カ)辰十一月日、結衆等」の銘をもつ宝篋印塔1基とそのかたわらに小型で無銘の宝篋印塔1基の計2基が升谷にある。その詳細は不明であるが、野間氏先祖に因縁のあるものと伝承されている。また、中村の観音堂(瑞祥寺跡)横の墓地に約30基の宝篋印塔が残されている。中世、この地に勢力をもっていた片山家の墓碑と考えられる。


和知の近世
〔江戸期の村々〕元和5年(1619)、小出吉親が但馬国出石城から園部に移って城を築き、船井郡では131か村、2万715石を領した。それより当町域和知荘の地域は園部藩領となった。「元禄郷帳」によれば、安栖里250石余・市場32石余・出野55石余・稲次113石余・大倉43石余・大迫77石余・大簾89石余・小畑79石余・角75石余・上粟野40石余・上乙見39石余・才原56石余・坂原76石余・塩谷26石余・篠原61石余・下粟野83石余・下乙見30石余・和知中93石余・長瀬29石余・中山45石余・西河内115石余・広瀬69石余・広野126石余・細谷79石余・仏主47石余・本庄103石余・升谷65石余の27か村、村高は合計1、995石余で、1村平均は約74石余の村高しかなく、山間村の田畑の少なさがよく示されている。しかし、「天保郷帳」では、奥村が1か村増えており、村高も新田開発が行われたため約3倍に増加している。


〔子来新田の開発〕18世紀後半頃から、新田開発のため井堰を築き用水路をつくる工事が行われた。その最も大きなものは子来新田の開発で、市場村の豪士の川勝善五郎が、市場・大倉・升谷・奥・篠原の5か村の百姓とはかり、殿田村(日吉町)井尻与惣左衛門、畑谷村吉田七郎兵衛らの援助を得て、安永9年(1780)に発起し、59年後の天保10年(1839)小来に開発した。井口を下粟野村小字壷井口に設け、水路は下乙見村を経て5か村に至り、延長60町23間(6、568m)に及んでいる。水路開通によって開墾された土地は、田反別で11町9反余に及び、147石余、ほかに23石余があり、計179石余が開発された。
このほか、享和2年(1802)に築かれた大迫井根、文化7年(1810)・天保3年(1832)に升谷上野の新田開発などがあり、傾斜地で水不足なところを遠くから谷水を引いて新田開発をした様子がわかる。
広野村には京街道が通り、若狭・丹後方面の日本海側の海産物を京に運ぶ往来にあたり、大簾峠は京街道の間道であった。本庄村には由良川中流の舟運の中心地として物資集積のための河港があった。現在も浜の小字が残っている。

〔社寺〕江戸期の寺社では、元文5年(1740)5月の園部藩寺社奉行が行った調査によると、27か村に寺院20か所が所在し、禅宗17・宮寺1・法華宗1・不明1で、禅宗17か寺のうち2か寺は臨済宗であるが、ほかの15か寺は曹洞宗で、そのなかの11か寺は園部竜隠寺末寺、4か寺は胡麻竜沢寺の末寺である。
神社では、阿上三所神社が、本庄・坂原・下粟野の3か所にある。本庄の阿上神社が最も古く、徳治3年(1308)に現在地へ移し祀ったと伝え、ほかの2社を勧請したものという。坂原の阿上社は、新補地頭として和知荘に入った片山氏が初めてここに祀ったと伝えている。古い棟札が残されているが、観応元年(1350)8月19日のものが最も古い。この社の祭礼には流鏑馬風の「馬乗り」と「天狗飛」の神事が奉納されるが、片山家の者でなければ演じられない伝えであった。
本庄の阿上神社では、毎年1月19日に御田植式・御蚕飼式が、下粟野の阿上社では御田植式が行われる。いずれも中世に源流をもつ神事と思われ、御田植式の歌詞は中世歌謡の形を残している。
〔奉納俳諧百句〕江戸中期より当地に俳諧が流行しはじめたらしく、神社の奉納額にも残されている。中でも古いものは、正徳元年(1711)の安栖里の「天王さん」と呼ばれる堂に奉納されている額で、「奉納俳諧百句」と記され、百句が読まれている。施主は安栖里の中世からの豪士、十倉保清である。


和知の近現代
〔行政区画の変遷〕当町域は明治4年7月園部圏管下となり、同年11月京都府の管下となった。上和知・下和知両地域は、中世以来の和知荘であり、地形上はもとより、産業・経済・文化の面でも密接不離の関係にあった。明治6年、両地区27か村の連合小学校「詢考館」が本庄に設置された。明治12年の郡区町村編成法実施により、上和知は船井郡第8組、下和知は第9組に編成され、同17年以来、上・下和知の区域で連合戸長役場を置き、同22年の市制町村制施行により、この連合村の区域をもって上和知村・下和知村となった。これより村役場時代となり、昭和30年の両村合併、和知町誕生まで66年間続いた。
〔鐘打鉱山〕明治43年に山陰線が園部~綾部間に開通し、和知駅が開設された。当町の産物も明治中期から伸び、明治以後盛んであった養蚕製糸業は、明治20年には栄進社が結成され、篠原に50人繰りの器械製糸工場を始めた。これは明治43年に綾部の郡是製糸会社に買収され、和知工場として最盛期には従業員数300名に達する工場となったが、昭和23年に閉鎖された。
鉱業は、鐘打鉱山のタングステン鉱の採掘がある。昭和9年、鉱区が登録され、第2次大戦中はタングステン鉱の採掘に力が注がれた。昭和33年、日本鉱業の子会社として、3万2、764aの鉱区をもち、以後タングステン鉱の採鉱量は全国の大半を占めている。これを除くと、町内の生産物は米が第一で、次いで木材・磨丸太・クリ・マツタケ・シイタケ・木炭などの林産物が多い。昭和43年由良川に和知発電所が完成。人口は、明治23年上和知村3、304人・下和知村3、617人の計6、921人。大正14年では、山林が上和知村で田畑400町歩余のところ、3、600町歩と大部分が山間であった。木炭は7万6、000俵にのぼり、牛も300頭を超えている。

〔和知町の成立〕昭和24年、上和知・下和知村組合立で和知中学校を開設し、統合校舎を字市場に建築した。同26年には同じく組合立で国民健康保険直営和知診療所を開設し、両村の協力が進んだ。そうして昭和30年4月1日両村合併によって和知町が成立し、同31年町役場庁舎が本庄に完成した。
人口は合併時の8、244人から年々減少し、全体として過疎化が進んでいる。
〔史跡・文化財・文化施設〕国史跡・国重文などはないが、和知文楽・和知太鼓など、江戸期から伝わっている民俗芸能があり、昭和37年民芸保存会ができ、後継者養成に力を入れている。


京丹波町へ
平成17年(2005)10月11日、近隣の京都府船井郡丹波町、京都府船井郡瑞穂町と合併し京丹波町が発足し、和知町は廃止となった。



旧・和知町の主な歴史記録





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
『和知町誌』各巻
その他たくさん



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