丹後のクシフル地名
丹後のクシフル地名 |
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このページの索引 荒塩神社(大宮町周枳) アラス(大宮町周枳) 石明神(大宮町周枳) 右坂・左坂 大宮売神社(二座・名神大・大宮町周枳) 木積神社(式内社説・大宮町久住) 木積山(大宮町) 周枳(主基)(大宮町) 名所賀神社(大宮町周枳) 久住(大宮町) |
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中郡大宮町に久住という所がある。私の従兄弟の奥様がここの出だそうで、従兄弟はここをヒサズミと呼んでいた。だから私もそう読むのだとばかり思っていたのだが、正式にはクスミと読む。 久住には弥生後期の遺跡があり、古墳もある。クジュウが本来の読み方であろうと思われるのである。西の山が久住山(木積山とも。269.5メートル。右上の写真。周枳より写している)であり、さらにその西に丹後二宮・ 久住は、古くは与謝郡に属したようで、与謝郡式内社ともされる木積神社(写真右下。「延喜式内 木積神社 旧与謝郡久住村」の石碑が立っている)が鎮座する。 木積神社は与謝郡にはたくさんあって、コヅミとかキヅミと呼ばれる。木積は木住と書かれることもある。たぶんこの神社名もその地の地名、久住と同じ意味でキジュウ神社と呼ばれたのなかろうか。ここは与謝郡の発祥の地のようにも思える。 丹後にはこのような地名や神社名が少し気を付ければたくさん残されている。どうやら大変な作業になりそうである。私の知る限りはこんなことに目を向けた先人もないようである。先人未踏の分析に取りかかってみよう。 『元初の最高神と大和朝廷の元始』(海部穀定著)に、与謝郡の真名井神社の東方の「けしがは」は「くしがは」の転であって、久志と真名井のつながりが明確であるとして、高千穂のクシフル嶽のクシとも、その音が通じている。とされている。私はこれしか丹後のクシフル地名に触れた書は知らない。 たぶん天乃日矛が持ってきたのかも知れないし、もっと古い弥生期の地名なのかも知れないクシフル地名、丹後には当然たくさんありそうなので、一度に全部は無理である。絶対に避けられない所だけ、取りあえず進めてみたい。中郡大宮町の久住山(木積山)の周辺と、中郡峰山町の比治山・久次山の周辺が中心のように思われる。久士布流多気とか書くと何か天皇さんのご先祖専用の山のように思われるかも知れないが、全国にこの地名はたくさんある。全部が天皇さんと関係があるわけではない。その地に住み着いた人々が己が古来よりの信仰に基づいてその名を付けたのであろう。ずっと後になってこの名が天皇さん専用のように考えられ、今ともなれば他の地にあるのが不思議に思われると感じるようになっただけであろう。 何度も書くがクシフルは 舞鶴の九社明神・九重神社の分析から始まったので、九重・久住という地名から見てみよう。で拾ってみると21件。何件か有効そうな所がある。
ここの九重はクジュウと読むのだが、フジュウとも称したそうである。(角川日本地名大辞典)
〈 久住とも書いた.紀ノ川支流嵯峨谷川上流の山間部に位置する。北部は和泉山脈を隔てて大阪府河内長野市と接する。地名は、古く地内に九重塔があったことによるという(続風土記)。 〉 とある。
大分県西部の有名な九重火山連山である。その主峰を久住山(1786メートル)と呼ぶ。
兵庫県氷上郡柏原町に久住名という荘園があったようである。 〈 くすみ 久住<日野町> 〈 日野川上流左岸の山間部に位置する。 〔近世〕久住村 江戸期~明治22年の村名。伯耆国日野郡のうち。鳥取藩領。…天明8年の御巡見御触書写(日野郡史)によれば、鍛冶屋1軒があり運上銀60匁を納めていた。鍛冶屋による製鉄が広く行われていたことは、地内に散見する鉄滓の出土状況からも知られる。…氏神は倉智大明神(伯耆志)。 〉 倉智というのは倉下のことではなかろうか、大浦半島の倉内・黒地といった名を思い浮かべるが、朝鮮語のオロチでもある。金属神を祀ったものではなかろうか。日野川というのは、素戔嗚尊が八岐大蛇退治をしたと伝える出雲国の鳥髪山(現在の船通山。1142)から東へ流れ出る川である。西へ流れるのが肥の川(斐伊川)である。どちらの川も古来より鉄の産地として高名である。 鳥神山ではなかろうか。鳥は飛行能力をもつ(と信じられた)人間というのか神で、実際に鳥の姿を装ったりしているが、ここには鳥の姿をしたシャーマン=鍛冶屋が居たのであろうか。鳥と鍜冶は何か関係がありそうである。 かなりの舌足らずであるが、クシフルという地名と金属は何か関係がありそうだということを言いたいのである。
こんな例から、九重と久住とはどちらもクジュウと読んで、意味はクシフルのクシであろうと思われる。舞鶴風に言うなら九社・九重・加佐の地名と同じではなかろうか。 現に三重の水戸谷峠頂上付近に郡分(ルビ・こおりわけ)という地名が残っている。式内社三重神社は郡分の近くの酒戸古にあったので古くから酒戸古神社と称していた。三重区内には字上地に三谷神社、中町に諏訪神社、下地に酒戸古神社の三社があったが、三社合併の議がおこり、明治二二年一月二九日三社を合併して三重神社とするの許可を得て遷座合祀し、明治二四年九月九日より三重神社と呼び、酒戸古神社の祭神豊宇賀能売命を主神として奉祀している。 さらに大宮町久住の木積(ルビ・きづみ)神社も三重郷内であるため与謝郡の項に記されている。そのため岩滝町石田の木積(ルビ・こづみ)神社と論社になっている。久住に比定した文献は「丹後旧事記」「丹後一覧集」「丹後式内神名改」「神社覈録」「丹後国式内神社考案記」等があり、岩滝町弓木小字石田宮ヶ谷に比定する文献は「丹後国式神証実考」「丹後国式内社取調書」「特選神名牒」「与謝郡誌」等である。しかし総合的にみて、大宮町久住の木積神社が式内社であるたのではなかろうか。 〉 何といっても木積山があるから強い。クシフル神社ならあちこちにあってもおかしくはない。しかし式内社はこちらの木積神社の地なのではなかろうか。このさして高くもない山の周囲にはいくつかの木積神社があったと思われる。その最大のものは 木積神社今新熊野宮と称し億計、弘計の二皇孫を祀る、俗に高蔵大明神、三島大明神といふ。億計、弘計の二皇孫爰に住居せられしより村を皇住村といふ。 〉 とある。『中郡史稿』は、 〈 (村誌)木積神社 社格は村社并社地東西二間南北二間境内面積八十五坪社地は除地本村中央にあり昔時三島大明神と称して木像たりしが明治六年大明神を廃せられ社寺御改正之際神体を白幣に改められ木積神社と改称し村社に列せられ祭神不詳祭日十月十二日なり社地樹木は松雑木而己花木はなし (実地調査)今の木積神社は字の中央民家の東北にあり旧地は北方字ウシロ谷の奥にありてりと云ふ然れば木積山とは方位異れり(木積山は当字の南より西に跨り聳ゆ 『大宮町誌』は、 〈 木積神社はもと刈安奥官にあったが、文安五年(一四四八)八月地震と大洪水があり大被害をうけたので刈安の宮(古久住ロ)に移した。その時の洪水により衣冠姿の御神体二体(億計弘計二王子を祀る)の中一体が押し流され延利の小字一本木に漂流したのでこの地に宮を建て祀っていたが、安政年間皇守(延利)の権現山に移し高森(皇守)大明神と称し、御神体はそのまま引継がれて今日に至っている。また、久住刈安の木積神社は残りの御神体一体を祀っていたが、その後弘化四年(一八四七)さらに、現在の「中の谷」口に奉遷した。明治六年社寺改めの際時の官吏が御神体を持ち帰って白幣に改めたとあるから二王子の御神体の内一体は持ち去られた。(五十河沿革誌による)維新当時はこの例が間々あったが、丹後旧事記等では木積神社は式内社となっている。 延利の小字一本木の跡は今は全く田地となっているが、村人はこの地を「古宮」と呼んでいる。古宮は旧五十河小学校の南約二○○mの地点で小字一本木五八七番地である。また、木積神社刈安宮跡は人家の奥約五○○mの道の傍にあり、境内は二畝余で土台石数個と石段の跡等をわずかに残していたが、この跡も昭和五五年度の耕地整理により全く消滅した。 〉 木積と河守が何か関係がありそうである。カリとか高とか出てくるところから考えると何やら古い産銅集団、銅の精錬技術を持つ集団の祀る社であったかと思われる。オケ・ヲケの時代よりもずっと古く、この社の本来の祭神は彼らではありえない。
大宮売神社、延喜式には丹波郡 大宮売ノ神社二座 名神大とある。丹波郡唯一の名神大社である。二座とあるから、大宮売と若宮売であると言われる。『京都府の地名』に、 〈 大宮売神社 (現)大宮町字周枳 木積(ルビ・キヅミ)山西麓に位置し、間人街道から参道を東へ一五〇メートルほど入った所に社殿がある。旧郷社。古くは周枳社(宮)とも称した。 祭神は大宮比売命・若宮比売命。「延喜式」神名帳に丹波郡「大宮売(ルビ・オホミヤメノ)神社二座名神大」とある式内社で、同書神祇(臨時祭)にも「大宮売神社二座」とみえる。 草創時期は不詳だが、「新抄格勅符抄」に「大宮神七戸丹波」とあり、「三代実録」貞観元年(八五九)正月二七日条の諸神・進階を記す記事に「丹後国従五位下大川神、大宮売神並従五位上」とある。平安時代末には社領を含めて弘誓(ルビ・ぐぜい)院(跡地は現京都市南区)に施入されており、安元二年(一一七六)二月日付八条院領目録(内閣文庫蔵山科家古文書)に「弘誓院御庄ゝ」として「丹後国周枳」とみえ、承久四年(一二二二)四月五日付太政官牒(随心院文書)に弘誓院領八ヵ所の一として「壱処字周枳社在丹後国丹波郡大宮部大明神」と記される(→周枳庄)。 なお、丹後国田数帳によれば、中世、周枳郷六四町四段二五〇歩のうちの約半分にあたる三〇町五段一〇歩が大宮売神社の神領であったことがわかり、その規模の大きさがうかがわれる。 当社には藤原時代を下らないとされる神像が二体あって、一体は男神坐像で高さ約五〇センチ、一体は女神坐像で高さ約四一センチあり、木目に胡粉を施した跡が残り、白衣の残存とされる。「丹哥府志」はこの神像の模写を載せる。また本殿前に鎌倉時代の石灯籠二基がある。一見して両基同形同時作とみられるが、子細にみれば製作を異にし、一基の竿の上部に「徳治二年丁未三月七日」の刻銘と、中節以下に「大願主」「進」と判読されるという(「丹哥府志」校者注)。 社宝として鎌倉時代を下らないという「正弌位大宮売大明神 従一位若宮売大明神」と併記した古額があって、一説に小野道風の真跡と伝える。また、かつて当社蔵であったとされる銅製磬(幅二八センチ、高さ一五センチ)に「周枳宮 承安四年」の刻字がある。 神事は旧暦八月二の午の日であったが、現在は一〇月一〇日になり、笹ばやし・神楽・三番叟・太刀振などが奉納される。 〉 大宮売と若宮売、売は比売のメであり、だからこれは大宮女、若宮女の意味であり、宮女というのは巫女のことである。宮に使える巫女を大宮女、あるいは若宮女と呼んだと思われる。 〈 大宮売神社遺跡 (現)大宮町字周枳 大宮売神社の境内を中心とする。弥生後期を中心とした遺物がほとんどであるが、注目されるのは、祭祀遺跡を裏付ける遺物の出土である。 出土品のおもなものは、多数の弥生式土器(後期)と玉類・石製模造品・鉄刀身などである。このうち石製模造品は四〇余点あり、いずれも青灰色の滑石・蝋石でつくられ、勾玉・円形鏡形品・鏃形品・環状品・管玉・小玉などで、これらが粗製であり、模造品の性格をもっていることが指摘され、宗教的意味を有する遺跡とされる。また多くの土器が小型で土製模造品と思われ、少なくとも実用品でない点から祭器かと推定されている。 「京都府史蹟勝地調査会報告」五(一九二四年)に当遺跡についての報告が載る。 〉 弥生後期のシャーマン、ちょうど卑弥呼の時代にちょうど彼女のようなシャーマンがここにもいたのであろう。ここは当時の祭祀の中心地であった。 〈 …周枳の大宮売、若宮売両御神体の風は、諸書に甚だ誤りたる御神像を出してあって、恐れ多いことである、此の郡誌のは、私が郷内巡回常時、特に拝し奉りて謹模したので、まづ正確であります、一方は左袵で入らせられて、御髪の容、御服の姿.我邦では他に類稀な尊き御姿と存ずる、… 〉 丹哥府志は一は男神、一は女神なり、木理に胡枌が残っていて、白衣ではないかと、そして養老以前は皆左袖なりと云ふ、としている。藤原時代を下らないと言われる像である。 〈 …竹野郡黒部村に大宇賀神社あり、今大宮売大明神若宮売大明神と称す、社記に云丹波郡主基村より勧誘して丹波道主命を祀るといふ、是によってこれを見れば此神社に丹波道主命を祀るや明なり。今茲辛丑の夏恭しく開扉してこれを拝するに、誠に古代の尊像なり、二躰相並びて一は男神なり-は女神なり、右裳に地紋ありや其有無明ならずといへども、木理に胡粉の染みたる處あればまづ白衣かとも覚ゆ、唯色のよく分りたる處は鬚つらの黒色なり、実に古代の様を今日親しくこれを見る。先是養老以前は皆左褄なりといふ論往々これを聞く。既に主基の宮の神躰は左褄なりとて是を以て證とするものあり.今其尊像を拝して初て其惑を解きぬ、これを写すもかしこけれども其惑を解かんが爲に略御影をかたどり考證の一助とす。 〉 「左衽」「左褄」というのは「左前」のことで、確かに神像を見ればそうである、左に右を重ねている。対面する人から見れば左が前になっている。この左前は現在では死者に着せる装束の重ね方だそうで、縁起のよいものでないから、「事業が左前で…」という言葉がある。しかし人物埴輪やカビが発生したと騒がれる国宝・高松塚古墳の壁画などは左前だそうである。 〈 古代の日本人は白衣をまとい、白衣で喪に服した。『三国志』魏志倭人伝によると、三世紀の日本人は「青い衣服を着ていたようであるが」三世紀より後になって日本人は白衣を着るようになったらしい。ところで白衣は、古くから東北アジアの騎馬民族の常服であり、モンゴル・扶余・高句麗・新羅・女真・高麗・李朝においては、朝服・祭服として愛好されていたのである。 〉 「白衣を着る風習」 ところで遊牧騎馬民族諸国家は君主位の女系相続は認めてはいない、江上波夫氏によれば、女性の地位は高いのだが、君主位の継承者は、その国家の建国者の男系の子孫にかぎるという大原則がある。その結果として王朝は一系である。皇位継承法は明確でなく、よく血肉相争う相続者争いが起こる。 〈 大宮売神社(元府社) 周枳小字北村 祭神 大宮売神・若宮売神 延喜式内の名神大二座で、丹後の大七座の中二座の神社である。祭神大宮売神は、天鈿女命であるといわれている。大宮売神は、「延喜式」神名の宮中神祇官の巫の祀る神八座の中の神であり、若宮売神は豊受大神であり、この二神を祀る名神大二座である。 崇神天皇の時、四道将軍丹波道主命がこの地に始めて祀るといわれ、「新抄格勅符」には大同元年(八○六)に神封七戸を充てるとあり、「三代実録」に清和天皇の貞観元年(八五九)従五位上に授位されている。成相寺の「丹後国諸庄郷保総田数帳目録」には、周枳郷の中に御神領三○町五反一○歩とあり、古くから祭儀も盛大であった。戦国時代には衰微を極めていたが、徳川時代宮津藩主の崇敬も厚く、祭儀も隆昌になってきた。 当社の正面に約一四○mの松並木が続き、その先の小字馬場の地は、祭典の時に競馬が行われたといわれ、隣村河辺より当社までに神野(ルビ・こうの)という所があって、祭典の際神輿の御旅所があり、その近くの今市(ルビ・いまち)と呼ぶ地は、祭日に牛馬市の開かれた所と伝えられる。 宮津市府中の明神大社寵神社を、丹後の一の宮といに 当社を二の宮と称するのは、社格も高く祭神の名神大二座によるものである。 二、一○○余坪の平地の社地は、周枳のほぼ中央の地で、古くからの神域である。明治四四年には、境内から多数の勾玉・管玉や各種の祭祀土器が出土した。 明治六年三月一○日郷社に、大正一三年四月五日府社となる。 昭和二年の丹後大地震に、本殿・拝殿など相当の被害があったので、本殿・拝殿・祝詞舎・神饌所・絵馬舎の改築が進められ、同五年四月一一日に落成した。 神職 島谷旻夫 例祭は八月二午日であったが、明胎より一○月三日、現在は一○月一○日であり、当日は神輿が御旅所(石明神)から当社まで練り歩き、神事の笹囃子・神楽・三番叟・太刀振りは、宵祭とともににぎやかである。 なお、石灯龍の二基は、一基に「徳治二年(一三〇七)丁未三月七日」の銘刻があり、昭和三七年二月二日重要文化財に指定され、神体の二女神像は、藤原時代の作と伝えられている。改築後の旧本殿は、現在忠霊社であるが元禄八年(一六九五)の建築で、端麗な様式を残している。松並木中の大鳥居の沓(ルビ・くつ)石六個は、嘉吉三年(一四四三)の大洪水により流出したという鳥居の礎石である。 昭和二六年大宮町誕生の町名は、この由緒のある神社名を採用した。 〔境内神社〕 大歳神社(大歳命 御年命) 秋葉神社(訶具土命) 武大神社(素戔嗚命) 大川神社(保食命) 稲荷神社(倉稲魂命) 八幡神社(誉田別命) 天照皇神社(天照大神) 春日神社(天児屋根命) 天満神社(菅原道真) 佐田彦神社(猿田彦命、事代主命) 八幡神社 祭神 誉田別命(応神天皇) もと八幡山に鎮座されていたが、昭和四七年大宮売神社境内に移した。当社は鎌倉八幡宮を勧請したと伝えられているのは、本村の耕地の水不足のため、竹野川からの用水の井溝について、享保一○年(一七二五)に、井溝の通路の谷内・三坂向村との紛争が起り、翌一一年江戸寺社奉行の裁定を受けることになり、その解決の祈願のために、勧請したものだといわれている。氏神祭典の際は、神事を奉納し昭和初期まで続いた。祭日は八月一五日であったが、九月一五日となった。 昭和二年丹後大地震に倒壊し、同一一年一二月新築した。同四七年保育所設置に際し、社地をその敷地としたため、同年九月一四日に大宮売神社に懇請して、同社の東に社殿を移した。 厳島神社 祭神 市杵島姫命 大宮売神社の四鎮として、文化一四年(一八一七)ころまで、四方の地に神社守護神を祀っていたが、現在は南の当社のみが残っている。弁才(財)天と呼ばれている。弁財天は、七福神の中の神で、水の神であり、文芸・音楽・愛嬌・智恵の女神である。 〉
〈 【荒塩大明神】 風土記に所謂天女の八人の一なり。 〉 「逸文風土記」奈具社の条に、 〈 …遂に退り去きて荒塩の村に至りぬ。即ち村人らに謂りて云はく「老夫老婦の意を思ふに、我が心は荒塩に異なることなし」といふ。仍ち比治の里なる荒塩の村と云ふ。また丹波の里なる哭木の村に至り、槻の木に拠りて哭きき。故、哭木の村と云ふ。 また竹野の郡船木の里なる奈具の村に至りぬ。即ち村人らに謂りて云はく「此処に我が心なぐしく成りぬ。古事に平けく善きことを奈具志と曰ふ」といふ。乃ちこの村に留まりつ。こは謂ゆる竹野の郡の奈具の社に坐す豊宇加能売の命そ。 〉 この比治里荒塩村はここではないかと、言われるのであるが、さて現在はあまり言わないようである。比定地を峰山町の荒山(新山)の方へ譲っているように思われる。しかしれっきとした荒塩神社が鎮座する地であれば、ここが風土記の言う荒塩村かも知れない。 〈 字「アラス」といふは今城跡の形跡なし荒塩神社此所にあり或は神社より起りたる字名にあらざるか 〉 このあたりをまたアラスと呼ぶようである。荒塩神社はちょっと小高い丘の上にあり、ここからは麓の集落の様子がよく見える。パタパタと丹後縮緬を織る機の音が民家の締め切った窓の中から聞こえる。丹後は昔はどこへ行ってもこの音を聞いたが、今はまったくといってよいほどに聞かなくなっていた。ずいぶん久しぶりのような気持ちになった。ここが探し求めたアラスだ。 〈 【干塩大明神】(祭六月廿日) 金麿親王夷賊退治の時其弟塩于これに従ふ、恐らくは塩于これならん 何と読むのか、ホシオではなかろうか、このことであろうか。たぶんちがうだろう。ホシホとかナシホとかアラシホとかそんな地名がこのあたりにあったのでなかろうか。 〈 円墳と方墳 整列し出土 古墳前期の首長と役人の墓? 階級社会を裏付け*当時流行の「土師棺」も 大宮町周枳の左坂古墳群を発掘調査していた府埋蔵文化財調査研究センターは一日、同古墳群の一部から、古墳時代前期ごろの円墳と方墳が整列した状態で同時に出土した、と発表した。両古墳を築造できる階級が限られていることから同センターでは、「古墳時代前期(四世紀)の階級構成を明らかにする貴重な史料」としている。同古墳群は、古墳時代初期から同後期(四世紀前半-六世紀中ごろ)までの大小の古墳あわせて百十基以上をもつ府内でも最大規模の古墳群。中郡平野を見渡せる小高い丘陵上地にあり、東西五百㍍、南北三百㍍で、面積は約十五㌶ある。今回、同古墳群の北側に位置する古墳五基を調査したところ、円墳と方墳がほぼ一列に並び、標高が高く見晴しの良い位置から円墳、標高の低い方から方墳が出土した。奈良県橿原市の新沢千塚古墳群などの例から、円墳は地域的な首長級の墓で、方墳はその首長に仕える役人クラスの人物の墓とされている。このことから同センターでは「奈良県など他地域で明らかになっていた円墳と方墳の序列が、丹後地方でも同じようにあることが分かった」と発表した。さらに「同古墳群は、現地から約九㌔北の前方後円墳である蛭子山古墳(加悦町明石)と同時代なので、円墳の主は同古墳の王の配下にあったことが考えられる。古墳時代前期の階級社会の構造が推測できる」と説明している。また方墳のうちの一つから、畿内で流行していたとされる、土師器を棺として用いる「土師棺」も出土した。 〉
〈 【右阪の地蔵】・【左阪の地蔵】 一色義俊の弓木に在城せし頃は今の大内峠を以て往来とせず、周枳村より森本村を通りて岩滝村へ出るなり、周枳の坂を左阪といひ、岩滝の坂を右阪といふ、其阪に各地蔵あり、左阪の地蔵を言はざるといふ、右阪の地蔵を聞かざるといふ、内海の菩薩石を見ざるといふ、皆大江越中守の彫刻する千躰仏の一なり。 〉 大宮町が立てた案内の柱があって、それには、 〈 左坂の地蔵とともに三重郷大江越中守が応永卅四年(1427)奉祀した一千躰の地蔵の中の一躰である。その殆どは不明となったが貴重な記念物としてなお奉祀されている。 〉 と書かれている。彼は三重城の城主であった。江戸時代ですら4躰しかなかったそうである。現在は何躰あるのだろうか。
〈 木積山の辺に大伽藍の旧跡あり本尊薬師如来行基菩薩の開基にして天正年中伽藍破倒して本尊のも残れり本村中央に小堂宇を建て安置す方今周徳寺より所管す。 〉 周徳寺は智恩寺の末寺であるが、智恩寺(橋立の切戸の文珠。臨済宗)はもとは真言宗だったと言われる。そして次のように記している。 〈 (実地調査)木積山の薬師は明田村境にて両村間其所属に付きて兎角紛議を免れざりしにより村内に下したりと言伝ふ現今大宮売神社の東北に其堂あり本尊薬師は本来の者にあらずして後に作りたる者なりといふさもあるべし仏体は大なれども新らしく拙作なり堂棟札堂内に落散りありたり曰く当村薬師如来者往古恵心僧都御作仏也年来及数百年致大破尤難捨置故周徳二世鳳山和尚再興思立有之檀下請方致勧化米二十石程相集村役人預置及再興処村役人身上没落付勧物及失却漸半分相残田地相成近来明和八辰年徳助庄屋代領主エ再興之願書指出公辺相済其後庄屋半左衛門右之以田徳三間四間之建本堂者也矣 維時安永六年酉冬 〉 薬師堂は大宮売神社のすぐ隣に立っている。真言宗の寺院があったというのである。 『ふるさとのむかしむかし』(網野町教育委員会・S60)は、次のように行基開創と伝わる寺院を拾っている。 〈 行基は本当に丹後に来たか 奥丹後には僧行基の開基になる寺院、または行基と関係のある寺院が多いので その寺伝によって来丹の年号を取りしらべてみました。 その第一は大宝二年(西暦七○二)行基自刻の十一面観世音像を郷村岩倉の地に祭祀したのが真言宗明光寺の創始。 それより二十八年後の天平二年(七三○)行基自刻の阿弥蛇如来像を祀られたのが、久美浜町本願寺の創建となり、それより十二年後、天平十四年(七四二)行基自刻の薬師如来像を祀って 網野町字木津、上野区に真言宗法貴山薬玉寺創建、その後中性院と改める。 以上のほか、網野町字尾坂、真言宗尾坂寺は天平年間(七二九~四九)に行基が開基したと伝えられている。 また網野町生野内の大慈寺はもと大悲寺と称したが、年次不詳、行基自刻の聖観世音像を祀って創建されたが、伽藍は兵火のため焼失したと伝えている。 つぎに久美浜町如意寺は、天平年中、行基が、久美浜の地に滞在中創建されたものだと伝えられている。 つぎに中郡大宮町周根の木積山薬師堂は、昔は真言宗であり行基の開基と伝えられている。 〉 あるいはひょっとすると水銀の地なのかなと、空想して先に進もう。 |
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