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丹波の

荒倉(あらくら)
京都府南丹市美山町荒倉


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京都府南丹市美山町荒倉

京都府北桑田郡美山町荒倉

京都府北桑田郡平屋村荒倉

荒倉の概要




《荒倉の概要》
府道38号(京都広河原美山線、小浜街道)沿いに、安掛の次の集落、白尾山(748m)とホサビ山(750m)の間の狭い峡谷状になったの場所を由良川が流れる。
古代は弓削郷、中世は野々村庄。
荒倉村は、江戸期~明治22年の村。平屋10ヵ村の1。慶長7年(1602)幕府領、元和5年(1619)より園部藩領となる。
明治4年園部県を経て京都府桑田郡、同12年北桑田郡に所属。同年山腹に道ができ、人馬の通行可能となる。同22年平屋村の大字となる。
荒倉は、明治22年~現在の大字名。はじめ平屋村、昭和30年からは美山町の大字、平成18年からは南丹市の大字。


《荒倉の人口・世帯数》 32・16


《荒倉の主な社寺など》

岩吹の絶景
当村と安掛の間、府道のかたわらに岩吹の絶景の名所がある。

牛塚
村内の平地に南北8メートル、東西1・5メートルの牛塚があり、古代に牛馬の供養をした塚と伝える。大正年間に地内の牛塚を発掘したところ、朱で封じられた跡が発見された(丹波志)という。

宮脇の道相神社の氏子

真宗大谷派覚了寺


府道から谷沿いに狭い道を入った所にある。明治14年に大内の光瑞寺より分派したという。
『北桑田郡誌』に、
「覺了寺 荒倉にあり。明治十四年光瑞寺より分派して獨立せるものなり。以上六ヶ寺悉く眞宗大谷派の末寺にして。本村は實に眞宗の獨壇場といふべし。」とある。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


荒倉の主な歴史記録


畠中徳三氏は「伝承 野々村誌」の中で、荒倉の吹山の遺跡について古墳の可能性を力説しておられる。過去に何度も盗掘の災にあったようで、現状から古墳と判定することはなかなか困難なことに見えるが、何らかの人為的な構造物が作られていただろうとは想像できる。畠中氏はその近くの小字神ヶ迫の塚についても古墳の可能性を示されている。歩いてみると、確かにそういう印象をいだかされる。
 国内各地でおびただしく行われている考古発掘調査は開発工事に伴い原地形が失われる直前のものがほとんどで、そもそも美山町ではそういう工事か僅少で発掘調査の必要に考えが及ぶような機会が乏しかったこともあるが、われわれの地域は山間の僻地で、発掘するに値するような何ものも埋まっていないだろうという思い込みがはじめにあったからではないだろうか。
 しかしながら実際の美山町は京都市と福井県小浜市との中間に位置する。京都市は千年の都であったし。小浜は太平洋側がペリー提督の黒船(一八五六)襲来以来、表日本といわれるようになる迄は、大陸に向かった玄関口のような町だった。
 日本海を運ばれた各地の物品が小浜で陸揚げされて京へ運ばれる場合の多くは琵琶湖を今津から大津まで船で運ばれたが、大量の物資輸送の目的以外の人々の移動には、歩く距離の短かさが最も重要なことだっただろう。距離では美山町域を通るのがもっとも短い。
 美山町内の古文書の中で多いとは言えない旅行記の中に、大野村から江州(滋賀県)の草津まで一日で歩いた記録がある。京への峠をいくつも越えて、少なくとも八〇キロは超す距離である。移動はすべて自分の足に頼っていた先人の脚力はわれわれの想像を超える逞しさがあったと見て良い。
 関西に春を告げる奈良・東大寺の「お水取り」は若狭小浜から地下を流れて二月堂の井戸に湧き出るという水を汲む行事だ。井原西鶴の「西鶴諸国ばなし」には小浜の海に身投げした女が、奈良の秋篠の里で百姓が掘った池から流れ出て来る物語が記されている。これらの話がもたらす水筋のイメージはかなり太くてまっすぐのようだ。
 小浜から奈良までまっすぐの糸を引っ張ると必ずその糸は美山町の土地を通過する。小浜から奈良までのその距離は九〇キロに満たない。京都はその途中にある。実際に歩く距離は、それに何割かを加えただろうけれど、今のしっかりした車道ほどには遠回りをすることもなかっただろう。海の玄関口の小浜から、奈良や京の都まで、歩きのプロなら一日で駆け抜けることができたかも知れない。その通り道に美山町域は存在する。早くから文明の香りをこの地域にも振りまいて、人々は足しげく行き来していたに違いない。道があって、ただ道だけがあって人が誰も住んでいないというはずはない。ここかしこに人々の暮らしはずいぶん早くから始まっていただろうと考えることはおかしなことではない。古墳を残すような有力者と、その人々を取り巻く地域社会か考古学的時代から成立していたかも知れないのだ。
  『美山町誌』)
荒倉とか吹山という地名からなら、金属精錬の遺跡かも知れない。

(知られざる軍事物資 美山のマンガン
 ドイツの潜水艦Uボートは丹波のマンガンを使った電池で走ったという。マンガンは通常鉄の強化材として使われる。丹波マンガンの特徴は、良質の二酸化マンガンで電池にも使用された。統制品に指定される前はドイツにも盛んに輪出された。

 鉱脈は小規模、薄く、枝分かれしていて、あたりはずれが激しかった。いずれも、小規模で家族経営で掘っており、鉱脈を見つけると親方になり、親方と子方の入れ替えも激しかったし、鉱脈をおって次々と飯場を移動して生活していた。坑内の仕事は多くの朝鮮の人が従事していた。一人がノミをもち、もう一人がゲソノウと呼ばれるハンマーのようなもので叩く大変危険な作業であった。美山町での歴史は明治末期、四国の人与瀬与平氏が鉱業所を開いている。鉱床は深見、大野、荒倉、知井などに点在していた。鉱山は山中にあるので自動車で運搬できるところまで、人力や木馬で鉱石をおろした。鉱石はカマスといわれる藁の袋にいれられ、ひとつが約六〇キロあった。女はひとつ、男は二つ、一二〇キロを運ぶ。三つ運ぶ人もあった。
 朝鮮人は戦争末期、昭和十八年頃から増えた。労働力不足を補うため、徴用されてきた人たちや、土地を取り上げられ、食べられなくなって日本に来た人々であった。
 美山のマンガン採掘の最盛期は太平洋戦争から朝鮮戦争の頃で、海外で大量に取れる単化マンガンから二酸化マンガンが合成できる技術が開発されると、徐々に下火になっていった。今は採掘の跡の穴を残すのみである。
 長く粉塵をすいこんだためじん肺になる人が多く、最初のじん肺検診が行われた日吉町にじん肺の石碑が建つ。 
  『美山町誌』)


『西丹波秘境の旅』に、両墓制の名残でなかろうか、と思われる墓地を見たの記事がある。
墓地と墓制
 この地でも古くは個々の家が住居の近くに墓地を設けていたようであるが、株ごとに墓地を設けるようになり、場所も住居から少し離れた所に移した。昔の墓を「ひき墓」とか「旧墓」と呼び、お盆などにはその場所の掃除もし、懇に弔う所が多い。集落によっては更に共同墓地として高燥な地へ移している所もある。
 墓には木の墓標を立て朽ちれば印の石を置くのが一般的であったが、まれに家によっては石碑を墓の上に立てた所がある。このように葬る所と詣る所が同じ墓を「単墓制」という。
 明治十七年に「墓地及埋葬取締規則」が出されており、板橋では、明治十九年~二十一年に共同墓地を新設し、各株ごとに場所を区分して埋墓とし、その入口に「詣り墓」として家ごとの石碑を立てた。いわゆる葬る所と詣る所が別々の場所に設けられていて、これを「両墓制」というが。板橋の場合は全区が同じ場所に「両墓制」の墓を設けたのである。(「板橋区誌」)
 個々の家の墓石を立てた年代を見ると江戸時代の終わりごろからのものであって、そのころから埋墓と別に詣り墓を設け始めている。「埋墓」を「身墓」ともいい、「詣り墓」を「卵塔」とか「壇塔」とかいう。
 昭和五十年代になると両墓制が増え始め、各集落で詣り墓が整備され始めた。火葬が増えてきた現代の自然な流れなのかもしれない。それとともに埋墓も集落や株で整備されてきているし、埋墓と石碑の場所を考え個々の家の墓として墓地内で整備し単墓制としている所もある。
 しかし墓地の整備等は集落や株内でされるもので、時期とか形態は決まっていない。昔のままの墓地を現状としているところもある。
  『美山町誌』)


荒倉の伝説






荒倉の小字一覧


荒倉(アラクラ)
下野(シモノ) 中野(ナカノ) 小山(コヤマ) 小段(コダン)  荒倉台(アラクラダイ) 嶋台(シマダイ) 大迫(オオサコ) 河原(カワラ)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『北桑田郡誌』
『美山町誌』各巻
その他たくさん



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