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丹波の

芦生(あしう)
京都府南丹市美山町芦生


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京都府南丹市美山町芦生

京都府北桑田郡美山町芦生

京都府北桑田郡知井村芦生


芦生の概要




《芦生の概要》
アシュウと呼んでいる、由良川の最上流に位置する集落。集落の奥は芦生原生林がに残り、京都大学演習林となっている。標高700~900mの山々に囲まれ植物層が豊富で、分布上貴重なものを含むことで有名。

熊野神社前を流れる由良川(美山川)。まっすぐ奥に(東側)入るのが本流で、まだ10㎞ばかりある、滋賀県境まである。左手(北側)から合流しているのが内杉谷川で福井県境まである、こんな小さい川だが、一時は福井県側とまたがる関電のダム計画あった、京大も芦生人もはゴメンを貫いて計画は中止されたという(2005年)。ナンでもカンでもバンザイバンザイしていればいいというものではない、こんな貴重な原生林を大金持ちどものゼニ儲けにくれてやるアホはしてはなるまい、一度壊れたら二度とは戻れない。
今後の問題としては北陸新幹線のルートがこのあたりを通ることになる、駅ができるわけではなく益はなさそう、冬は1.5m以上の積雪があるそうで、地下深くをトンネルで抜けてもらうのがいいかも…
地内灰野(はいの)は、演習林の奥で、今は廃村になっているが、北の民が北八幡宮の宮山管理のために住みついた地だという。昭和36年電灯がついたが、灰野には電灯がつかなかったため、全6軒は芦生・京都へ移ったという。
さらにその奥には木地師の住む「明治村」があったという。明治42年滋賀県との府県境に近い中山で杓子製造・狩猟を生業とする木地師3戸が見つかり、明治村と称された。彼らは同5年頃近江国小椋町村より移住したといい、大正初年京都・滋賀方面へ転出、そののちは廃村となった。大正10年芦生原生林の多くは京都大学の演習林として99年間の借地契約がされた。
古代は弓削郷、鎌倉時代以降は知井庄。
芦生村は、江戸期~明治22年の村。知井12ヵ村の1。慶長7年(1602)幕府領、天保6年(1835)より園部藩領。明治4年園部県を経て京都府桑田郡、同12年北桑田郡に所属。同22年知井村の大字となる。
芦生は、明治22年~現在の大字名。はじめ知井村、昭和30年からは美山町の大字、平成18年からは南丹市の大字。


《芦生の人口・世帯数》 55・28


《芦生の主な社寺など》

芦生原生林と京大研究林


集落の一番奥は京大の研究林になっている。

美山は鉄道も道路もありません、とのことだが、こんなリッパな鉄道がある。動力を伝えるVベルトが切れている、もう走らないのかも知れない、当地も車の時代なのか。昔は手こぎだったそうだが、これに乗って原生林へ入っていく。原生林が見たい人へは、トレッキングコースが用意されているそう、これは行ってみたい、しっかり準備をしてかからないことにはカル~イ気持ちや、年齢制限にひかかることもあるとか、ヨロヨロはムリ。

蘆生森林 本村域内は山地森林多きが中に蘆生に至りてはその極といふべく。未だ斧鉞を知らざる原始林、人跡未到の深山幽谷を發見すること屡々あり。大正十年以来京都帝国大學の實習林に編入せられしときの如きも、漸く隊を組み猟師を嚮導として奥地に入りし程なりき。當大學の手によりてますます開発せられ、且興味ある學術的発見を報告せらるヽは吾人の大に期待する所なり。   (『北桑田郡誌』)

明治村 蘆生の奥に中山と稱する地あり、本村の東北端をなし若江二州の国境に近し。本村中までは約八里を隔つ。約十町歩の平野をなし、四周は鬱蒼たる大森林に囲まる。若狭国杉尾峠へは二十町近江國高島郡針畑村字生杉へは約一里を距つといふ。この地夙に三戸の住民あり、明治五年の頃近江國愛知郡東小椋村より移住せるものにして、杓子製造を本業とし狩猟を副業とせり。明治二十二年十月に至り漸く本村人の發見する所となり、本村に寄留せしめたり。世俗之を明治村と稱す。是に由つて觀るに本村の東境は山嶽森林重疊し古来國境郡界確定せられずして、或は近江に屬し或は丹波に包まれ数々移動せしものなるべく、その確實に劃定せられしは固より明治以後の亊なりとす。    (『北桑田郡誌』)


芦生の松上げ

芦生の入り口に福正寺があるが、その下の河原で「松上げ」が行われる(8月24日)。道路から案内板と、河原にはヤグラとトロ木が見える。若狭街道(府道38号)(国道162号)沿いの集落ではあちこちで今も行われている。若狭の名田庄村でも見られる、舞鶴の「城屋の揚松明」とだいたい同じものである。この行事の呼び方、当地では「松上げ」、ほかの地では「上げ松」とか、大松明(このあたりでは燈籠木)の先の傘の部分の作りや小松明の投げ上げ形がそれぞれ少し違う。何のための行事なのかは諸説ある。詳しくは書かれた物はなく不明、マツというのは火のことのようで、それは古語辞典に、マツはタイマツのことだとあるくらい、よくわかる説明である。ワシほどの物知りはおらんと思っている現代人にわからない、民俗の断層のはるか向こうである、各時代の多くの要素が習合していて何が何やら分類するも難しい、それくらい古いよう、もっとも古くはあるいは歴史以前からの行事ではなかろうか。
京都府無形民俗文化財指定
芦生の松上げ
  祭事執行日 毎年八月二十四日
松上げは芦生の地に一七〇〇年頃よリ今日迄伝承されている地域最大の祭り事で卜ロ木を空高く立て、その先端に取り付けた傘に地上からたいまつをほうりこみ、炬火をとぼし無病息災、五穀豊穣を祈願して火の神愛宕神社に供える行事です。
ここは神聖なところですから汚さないよう心がけて下さい。  芦生行政区

松上げ
 夏の終わり(八月二十四日)の祭礼行事、松上げは木地師に縁の深い知井の芦生、棚野の田上・殿・川合の四ヶ村で現をも続けられているが、芦生では、かってはソソロでも灰野でもそれぞれに、計三ヶで所の村で松上げが行われていたという。
近世の灰野は明治初めまで北村・南村の分村であったから、北村の庄屋の算用帳には毎年旧暦七月二十四日に灰野まで神酒一升が届けられている記録を見ることができる。
 一〇間(一八㍍)を越す灯籠木の上の籠に詰められた藁・柴に、下から小松明を投げ入れて点火させる火祭りは、競技のような趣があり見る者を飽きさせない。愛宕山の修験の信仰に起源するものと言われている。
 松明が籠に入って、やがて夜空に浮かびあがるかがり火の光は、日頃見慣れたはずの森林を、まるで違った美しさに染めて照らし出す。その瞬間がいつ訪れるかも知れないという期待と、ついに来たその時の感動、一瞬視界を取り巻く天上世界。豪華な豪華な楽しみを彼らは持っていたのだ。(『美山町誌』)


芦生神社

演習林の中へ入ってしばらく行けば、左手に赤い屋根の「芦生研究林事務所」がある。地図によれば、この左手の山に芦生神社がある、そうなのだが、道路からは見つからない、参道もないような、石段らしきものがあるが5mほどで消えてしまう。この辺りの山だがわからなかった。

熊野神社

道路、市道なのか、メーン道路沿いに鳥居がある。山手に登れば、「芦生山の家」や学校跡がある。下手の建物は「芦生の里」という山菜加工などの工場。本殿は鳥居から10mほど登った所にある。
いずれの神社も記録が見当たらない、「村域内には社寺ともになく、北の八幡神社の氏子で、白石の円覚寺の檀家である」とあり、これらの社は芦生だけの神社か。
わさび祭り
 芦生の熊野権現さんでは四月十日に「わさび祭り」が行われる。子供たちも参加する村祭りである。
 昔から芦生の原生林にはたくさんの熊がいて、冬の間雪の多いこの地ではほとんどが熊狩りをして生計を立てていた。熊の胃や皮は高く売れ、肉は食用とし、油は薬に使にわれる。そこで正月から四月十日までけっしてわさびを食べないからと権現さんにお願いして熊狩りをさせてもらうのである。熊を取る間はこの約束がしっかり守られる。
 四月十日のわさび祭りはわさびを供え、今日からわさびを食べさせてもらうという許可を受け、熊狩りをさせてもらった感謝をする祭りである。神社の堂でお供えしたわさびをいただき、おさしみや手作りのごちそうでお酒を飲み、夕方まで祭りは続く。
  『美山町誌』)


曹洞宗正明寺

芦生へ入った所に寺院がある。地図にもナビにも見える。しかし手元の記録には何もない。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


芦生の主な歴史記録

一般には柱松と呼ばれる民俗行事で、このあたりでは「松上げ」とか「上げ松」と呼ばれている。
松上げについての記録
鶴ケ岡村は郡の北端なれば遺習甚だ多くこれらの祭事の外には、八月二十四日に裏盆と称し「上げ松」の遊せ行ふ、七八間の高さある杉丸太の尖頭に苧殻にて編みたる籠をつけ、杉葉を充てゝこれを立て、夜に入れば下方より松明をほりあげてこれに点火し、鐘笛、太鼓を以て之を囃し火神愛岩山に敬意を表す。蓋し本郡人の愛宕崇拝は伊勢大廟の崇敬と共に古来著しき習慣を有し、郡内各村日を定めて伊勢講愛宕講を行はざるはなく、山ノロ講と共に敬神の二大年行事なるが、崇仏の行事としては纔に観音識の一般に行はるゝがあるのみ。).(上げまつ
本村川合、殿、田土、庄田の四区に於ては、毎年八月二十四日各々近傍の川原に至りて炬火を焚く。これを上げ松と名づく。こは予め長十間内外の柱上に竹にて製したる茶筌形のヒウケを造り中に藁鉋屑などを満たし、その中央に高さ約二間の所に御幣の束を結び付く。さてその日薄暮の頃より松明を持ちたる面々はこゝに集まり来り、競うて松明を打ち上げ柱上のヒウケの中に入れんとす。やがて松明その中に入れば煙焔高く揚がりて一時に之を焼き尽す。この折を侍もて柱を倒し御幣を抜取りて捧持し、聲を揃へて祇園囃子を歌ひつゝ、其の年當番の家に入りて神酒を飲むなり。こは愛宕神社に献燈を意味せるなりといふ。  (『北桑田郡誌』)

上げ松
 八月二十四日の晩は、芦生、川合、殿、田土の四集落で愛宕さんへの献灯のための「立げ松」がある。
 この日は朝から区総出で上げ松の準備がされる。川原に二〇㍍もある柱を真っ直ぐに立てるのは大変な仕事である。
 殿では上げ松立ての責任者の音頭に合わせて柱が立てられていく。柱の状態を見ながら取られる音頭は次のようなことである。
 「どなたさんも心を合わせて ヨーイトセー
  山手が弱いぞ ヨーイトセー
  もちょっと弱いぞ ヨーイトセー
  川手が弱いぞ ヨーイトセー
  もちょっと弱いぞ ヨーイトセー
  ヨイショ ョイショ ヨイショ ヨイショ」
 ロ-プを引く人、又木を掛けて起こしていく人、みんな音頭に合わせて力を入れる。こうしてやっと土台の定位置に柱かはめ込まれる。
 夕方、公民館に集まるといよいよ祭場の川原へ「ねり込み」がある。笛や太鼓で「導き」といわれる曲でねり込んでいく。松上げが始まるとこれも笛や太鼓で「松上げ」のお囃子をして威勢よく松明がほおり上げられる。田土では成人用と子供用とがあり、夏の夜空に放物線を描く明りの線は美しい。また田土では区の人数が少なくなり、人力で柱立てができないので機械で柱立てを行っている。
  「上げ松」は愛宕さんの献火といわれているが、一説には雨乞いの行事ではないかともいわれている。上げ松をできるだけ高く上げ、煙が遠く厚くたなびいて雲となり、雨を降らせてくれることを願い祈りだものではなかろうか。


愛宕山献火祭
 八月二十四日は美山の各集落で愛宕山への献火祭がある。夕方集まった区民は、お祭りしている愛宕神社に、各自が肥松と苧幹を混ぜてあらそ(麻の皮)で縛った松明を二㍍ぐらいの竹の棒にくくって持って上がる。神社の境内で火を焚いて松明に火を分け、拝殿に御神酒やお供え物をささげ、防火の祈祷をする。終わると松明を持って下山する。暗闇に松明の火だけが曲がりくねった山道を点々と下りてくるさまは大変美しい。今宮では松明の火を各戸へ持ち帰り神様へ供える。この日、京都の愛宕山へ代参する集落もあり、献火した後迎えの宴を持つという。また板橋は八月十五日に献火祭をし山から下りてくる時、下山道のところどころに松明を立ててくる。
 松尾では、山の高台に、紅色の提灯で「大」の字形を作って灯りをいれ、(今は電球)愛宕さんに送り火として奉納している。


上げ松
上げ松 盛郷、殿、川合 昭和六十三年四月十五日指定
      芦生        平成元年四月十四日指定
 京都市の広河原や花背、久多では「松上げ」といっているが、ここに近い芦生でも同じである。形態は全く同じで名称の違いに大きな意味はない。本来はもっと多くの地区にあったと思われる。鶴ヶ岡の場合、昭和初期まで神谷、洞、庄田、脇、山森で続けられ、上吉田と林は大正五年まで独自でやっていたが田土と合併し、現在のような形になった。
 愛宕神社の地蔵さんを祀る行事で、その縁日に当たる八月ニ十四日の夕方から夜にかけての催しである。もともと修験者(山伏)たちの験比べの行事であったようで、力がついたことを確かめることに端を発して卜ると中世芸能史にくわしい山路興造氏の説である。したがって昔は「柱松」と呼んでいたといわれるが当地方での確証はない。今でもこの名称が残っている所が多いようである。これは鞍馬寺の竹伐会と同じ趣旨で愛宕修験者たちが運んだものであろうといわれている。
 上吉田区に残っている文書によると、愛宕神社神明火祭と書かれており、火災予防を願っての行事で宝永二年(一七〇五)七月二十四日(旧暦)に始まったことがわかる。祭の要領を簡単に述べると、まず御神木(灯籠木・とろぎ)と呼ぶ約二〇㍍余もある桧丸太の先端に、茶筌形の「火受け」をつけ、その中に杉葉や麻稈(おがら)など燃えやすいものを入れ、その先に愛宕神社の御幣を立てる。灯籠木は、それぞれの集落で用意された藁製の綱で倒れないように引っ張って支える。昔はこの御神木起こしというのが大変な作業であったが、現在は一部継竿式になっているところもあり、以前に比べると簡単になったようである。村人総出で準備が終わると夕方から祭が始まる。公民館などの宿を出発した一行は山車を中心に笛や太鼓の神楽囃子で道中を練り込み川原に向かう。灯籠木を中心に円形に陣取った若者衆は手に手に点火した松明を持ち、一斉に火受けに向かって投げ込むが、さながら運動会の玉入れと同じ要領だが、高いこともあり、夜でもある、そう簡単には点火しない。半時間か一時間ぐらいは投げ合いが続く、暗闇の中、放物線をえがく松明の灯は人を幽玄の世界に引き込むかのようである。やがて一個の松明が火受けに止まるとたちまちパチパチと音をたてて燃えあがり、祭はクライマックスに達し、神楽囃子は一段と調子をあげる。夜も九時を過ぎると川面をなでる川風も加わり冷気を感ずる。五穀豊穣、家内安全、そして火伏祈願の夏祭りは幕を閉じ、美山にもそろそろ早稲の刈取りが始まる。
(『美山町誌』)


…然るに近頃迄丹波北桑田郡知井村大字蘆生に於て、七月十四日の夜施行せしものは、之を愛宕火祭と稱へた、竿は高さ十五間ほど、其上端に苧稈を傘のやうに束ね、松明に火を點じて下より之を投げ、傘が燃え終ると竿が倒れる。其倒れる方を見て年の豊凶を卜したと云ふことだ(風俗畫報四十八號)。印ち形式に於ては殆と周防などの柱松と異なる所が無いのみならず、其本来の趣旨に於ても何か大きな共通點があるらしい。それを此から説明して見ようとするのである。
 右の丹波では傘と謂ひ長門では酸漿と謂ひ播磨では火祭籠と呼んだと云ふ竿の尖の籠は、何故に漏斗状であったか。なんぼ不自由な昔でも火を附けて置いてから柱を立てる位な工夫はあったらうに、何故に下から手に手に手松明を投げたかと云ふと、是は前の硫黄島の例にも先づ火の附くを手柄として競ひ爭ふとある如く、後世に於ては小児の競戲となったが、以前にはそれが眞面目なる大人たちの運だめし方法であったかと思ふ。南方氏の話に依れば、紀州田邊町又は那智村天満邊で執行ふ柱松は之に與る者は主として漁民であるが、各自に俯いて股の間からかの松の火を投げ上げ、満足に桿上の籃の中に入れた者は翌年漁利多しと信ずる由。馬鹿げた事と言へば言ふものゝ、普通に遣りにくいことを仕途げた者が、まんが良いと満足した事情は愈々顕著である。現に今日でも鳥居の頂へ小石を揚げヽ或は鍵掛杳掛などと稱して、木の枝や沓草鞋の類を投げ掛け、願ひ事の成る成らぬを卜知する風は残って居る。甲乙の部落が二つの組に立分れ、各々代表者を出して技を競はしむる場合には、成功の希望は愈々痛切になる。是も綱引に由って米の値の高下を卜し、ペイロン(競渡)を以て漁獲の多寡を卜した例が甚だ多い。端午其他の日を以て執行はれた競馬相撲印地打の類も、只徒らに爭ったのでは無かったらしく、更に進んでは紙鳶獨樂ハマコロなどの小児の戲も、以前此目的を以て始まったことは、未開民族の例を推して論證することが出来る。土民漸く年占の信用を軽んずるに至って、複雑なる神事は省略に歸し、筒粥胡桃燒の如き費用の少ない手段のみが残ったが、それでも猶例外として、二三の地方には火揚げの占法が保存せられて居た。丹波蘆生の傘は必ずしも唯一の例では無いのである。
 例へば信州戸隠山七月七日の柱祭の神事は、天明三年に之を見た人の記録がある。柱の數は三本、之を三柱の神に擬し、柱の上端に束ねた柴に火を投げ上げて疾く退き、先づ燃え附いた柱を見て其年の豊凶を占うた。其文に曰く、「速かに火の移り柴の燃え上るは何れの神の御柱ぞと見て、其年の田實の善悪の占をせり。此年は手力雄命の御柱に火早く掛りたれば此年のたなつものやよけむ云々」(眞澄遊覧記三)。山相隣する越後の妙高山に於ては、其麓なる関山三此大權現六月十七日の祭に、之とよく似た火の行事があって、其名も柱松と稱へて居る。此此の祭神は國常立尊に白山新羅の三座と申し奉るが、柱の數は二本である。此地の右左に此柱を立て、二人の假山伏各手に燧箱を持ち先達に手を曳かれて出で來り、玉橋の邊にて手を放たるゝや直に走り行いと各々一方の柱松にかけ上り、火を打って之に附け、其燃え上る速さ遅さを以て勝負を決す(越後志略)。此勝負は何の爲に之を爭ふかゞ不明で、単に「是れ鎮火祭禮の古實なり」とばかりあるが、試みに之を出羽月山神社の松例祭と比較して見るならば、趣旨の年占に在ることは判明するかと思ふ。…
(『定本柳田国男集』「柱松考」)


子どもたちの記録
熊野権現とわさび祭り
 美山町・知井小 芦生分校 六年 合田深幸
 芦生には、クマにちなんだお宮さんと、伝統的なお祭りがあります。そのお宮さんは熊野権現といいます。
 熊野権現は、須後のナメコ生産組合の横の石段を上った所にあります。昔は内杉にあったということです。なぜ移されたかというと、おそらく江戸時代末期のききんの時、内杉谷にいた人達は、稲木の木を食べたというほど食べる物がなくて、色々な土地に移ったということです。内杉谷には熊野権現さんのお宮だけが残されました。ちょうど須後には、お宮さんがないので須後に移したと、今井のおじさんは言っておられました。
 熊野権現さんのお使いは、クマだそうです。
 熊野権現さんに関係することといえば、わさび祭りがあります。わさび祭りは、毎年四月十日に行なわれます。わさび祭りでは、当家が魚とか山菜の料理を出して、みんなでそのごちそうをいただくのです。その時初めてつけるはしは、ヤナギの木で作ったものを使うことになっています。そしてそれは、熊野権現さんのお堂で行なわれます。
 わさび祭りの意味は、村のみながお正月から四日まで、わさびは絶対に食べません、その代りにクマをとらせてくださいというようなことだそうです。
 ところでわさびは、この芦生の地に昭和二十四年のヘスター台風以前たくさんはえていました。百科事典で調べてみると『わさびの発育に適当な水温は、摂氏十~十三度で、これより高温のときは発育が悪く…また直射光線を受けると発育がおさえられるので半日陰の土地を選ぶ…』と書いてありました。大変敏感な植物のようです。でも、そのわさびがたくさんはえていたということですから、逆に芦生という所はそれだけ自然がきれいだということだと思います。


なめこ工場の仕事
美山町・知井小 芦生分校 五年 井栗 禄
 芦生でなめこ工場を始めたのは、山の木切りや、炭焼きの仕事がなくなり、生活に困るようになって、これから先どんな仕事をしていったらよいか考えた結果のことです。
 昭和三十六年に、なめこやしいたけ作りをやりかけました。なめこは、昔から芦生の土地にてきして天然でもよくはえていました。そのよい条件を生かしたのが始まりです。
 春には、ほた木切り、きん植えを、お父さんとお母さんと二人づつ九人でしていましたが、一年中の仕事でなかったため、男の人は材木切りをしていました。また、そのころはお父さんのわずかな収入で生活していました。女の人たちは、春切ったほた木よせこみや、ほた場のそうじ、草かり、ほた木たてなどして、きのこがはえる準備をしていました。
 なめこは、ほた木にきんを植えてから三年目で、ほた木一面が銀色になるくらい出ます。毎日、大きなかごを背おって取りにいくのは女の人の仕事で、取ってきたなめこのあしを切ったり、洗ったりして、夜なべには、ふくろや箱に入れて売りに出る準備をします。
 男の人はなめこを持って、農協や京の高雄方面に売りに出ましたが、京都の方は、あまりよく知られなかったため売れなかったそうです。毎日山へ行って取ってきたなめこは、売れずに持って帰って、人目につかない所へたくさんすてたこともあったそうです。がんばって作った物が売れないのですててしまうことが、どんなに悲しく、くやしかったことか知れません。
 それからみんなで相談してお父さんたちが、福島県ヘーカ月間、なめこかんづめの作り方を習いに行きました。
 四十一年にプレハブ工場と、手回しのかんづめ機械をそなえつけ、なめこをすてずにすむようになりました。しかし、なめこやしいたけたけを作っていても一年中の仕事にはならず、時期がすぎると工場はあそんでしまうので、もっとほかに芦生でできることはないかと、みんなで相談して、山菜加工にとりくんだそうです。
 芦生では、ふきやわらびなどたくさんあるので、それをつくだににしたり、美山町でとれるキュウリ、ナスを漬物にしたりしました。四十九年には、工場も大きくなりました。五十三年は、特に不況で製品が売れず困ったそうです。品物がよく売れて働いている人がいそがしいくらいになればよいのにと思います。一年のうち、三月末から四月にかけてはしいたけ採りとかんそう、九月末になるとなめこ採りとかんづめ作りに、夜おそくまで働きます。なめこは十一月中ごろまで出ます。それが終わると、おせいぼ用の製品作りをはじめます。芦生の人たちは、美しい大自然の中で、良い品物が安く売れるよう願っています。そのためみんなしんけんに話し合いながらすすめています。

山仕事をするおとうさん
   美山町・知井小 芦生分校 四年 中野美貴雄
 おとうちゃんは、朝、六時半頃におきて、山行きの用意をする。山へ行く服そうは、長そでの服をきて、長ズボンにじかたびをはいて行く。
 おとうちゃんのやるおもな仕事は、すぎうえ、すぎおこし、したがり、えだうちです。
 すぎうえは、四、五月ごろにします。三年畑で育てたすぎなえを、せ中におって、高い山まで運び植えるのです。
 すぎおこしも、四、五月ごろにするのですが、芦生は、雪が多いのでたおれる木がほとんどです。すぎおこしは大切な仕事です。雪でせっかく植えた木が、おれてしまうことも多くあります。
 したがりは、杉やひのきの間にはえる草や木をかって、養分を草や木がとらないように、また、かげにならないようにする仕事です。夏にするので暑くて大へんな仕事です。また、はちがいてぼんやりしているとさされます。
 えだうちは、木のえだを切ってよいえだをつくるのです。おとうちゃんは、木のぼりが大へんじょうずです。
 今は、雨のときは大学の山のしたかりをして、晴れの時は、灰野の近くで仕事をしています。まえは、下の方から帰ってきていました。下へいったり、灰野の方へ行ったり、大学の仕事をしたりして、大へんだなあと思います。
 おとうちゃんが、山から帰ってきたら、
 「ふうー」
と、ためいきをつぎます。シャツもズボンも雨の中をあるいたように、あせでどぼどぼです。そんなおとうちゃんを見ていると、しんどいのやなあと思います。
「美貴雄よ、学校から帰ったら、ちょっとぐらい畑の草をひけ」
と言います。でも、すぐわすれて遊びに行きます。
 朝は、晴れていても、昼ごろ雨がふるし大へんやなあと思います。
 山は、あぶないことがようけある。ころげたらあぶない。かまやなたで切ったらあぶない。木がたおれてきたらあぶない。木に登とって落ちたらあぶない。いろんなことに注意せんなん。
 雨の日はぬれるし、晴れた日はあついし、大へんだなあと思う。学校に行っていて、急に雨がふってくると、おとうちゃんのことが気になります。
 でもおとうちゃんは、毎日、毎日山へ行きます。仕事がおわって、山がきれいになるとよろこんでいます。

  (『由良川子ども風土記』)

地域の情報発信といっても、これくらいの質と量がないと子どもたちに恥ずかしい、たいていは、まずほんどは、ここまでのレベルにはほど遠いのではなろろうか…

芦生の伝説






芦生の小字一覧


芦生(アシウ)
坂尻(サカジリ) 上ノ山(ウエノヤマ) 風呂ノ上(フロノカミ) スゲ尻(スゲジリ) 斧蛇(オノジヤ) 井栗(イグリ) ハエフ 権現前(ゴンゲンマエ) 畑(ハタ)

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福井県三方郡美浜町
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『北桑田郡誌』
『美山町誌』各巻
その他たくさん



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