丹後の地名プラス

丹波の

福居(ふくい)
京都府南丹市美山町山森・熊壁・脇・庄田


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


京都府南丹市美山町山森・熊壁・脇・庄田

京都府北桑田郡美山町山森・熊壁・脇・庄田


京都府北桑田郡鶴ヶ岡村山森・熊壁・脇・庄田

福居の概要




《福居の概要》
棚野川の支流山森川の谷あいに位置する集落。山森・熊壁・脇・庄田の4集落よりなる。北西の郡境に頭巾山(871m)があり、山頂には雨神を祀った青葉権現が鎮座。参詣者は麓の小石を拾って山上の祠に積む風習があり、山上の石を持ち去る者は神罰をこうむると伝えられるている。
福居村は、明治9~22年の村。山森・熊壁・脇・庄田の4か村が合併して成立。はじめ桑田郡、明治12年からは北桑田郡に所属。同22年鶴ヶ岡村の大字となる。
福居は、明治22年~現在の大字名。はじめ鶴ヶ岡村、昭和30年からは美山町の大字。平成18年からは南丹市の大字。

-4集落-

山森
山森村(やまもりむら)は、鶴ケ岡19ヵ村の1。棚野川の支流山森川の最上流に位置する。川に沿って南東へ下ると熊壁村。四方を山に囲まれ、北は福井県、西は綾部市。
古代は弓削郷。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となったというが、確証はない。
慶長7年(1602)幕府領、近世中期以降、旗本武田氏領。
河合の諏訪神社の氏子。寺院は曹洞宗洞竜山宝谷寺があったが、熊壁の白峰寺に吸収された。明治9年、熊壁村・庄田村・脇村と合併して福居村となる。

熊壁
熊壁村(くまかべむら)は、鶴ケ岡19ヵ村の1。山森川左岸に開けた集落。上流は山森村、下流は脇村。古代は弓削郷。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となったというが確証はない。
慶長7年(1602)幕府領、元和5年(1619)園部藩領。八坂神社、曹洞宗白峰寺がある。明治九年(一八七六)庄田村・山森村・脇村と合併して福居村となった。


脇村(わきむら)は、鶴ケ岡19ヵ村の1。山森川左岸の集落。上流は熊壁村、下流は庄田村。古代は弓削郷。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となったというが確証はない。
慶長7年(1602)幕府領、近世中期以降、旗本武田氏領。河合の諏訪神社の氏子、熊壁の曹洞宗白峰寺の檀家。明治9年、熊壁村・庄田村・山森村と合併し福居村となった。

庄田
庄田村(しょうだむら)は、鶴ケ岡19ヵ村の1。山森川左岸の集落。上流は脇村、下流は田土村。古代は弓削郷。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となったというが史料などによる確証はない。
慶長7年(1602)幕府領、寛文4年(1664)より篠山藩領。河合の諏訪神社の氏子、熊壁の曹洞宗白峰寺の檀家である。明治9年、熊壁村・山森村・脇村と合併して福居村となった。


《福居の人口・世帯数》 110・38


《福居の主な社寺など》

頭巾山と許波伎神社、青葉権現
山森は登山道がある。こんな案内板がある、横尾ルートと山森谷ルートがあるよう。


八坂神社(熊壁)

熊壁集落の奥の方、高い所に鎮座。社殿は石段を少し登ったところにある。向かって右側に白峯寺がある。
八坂神社 字福居地内熊壁にあり。蔵王権現をまつる。世降りてその社殿廃頽に及びける時豪農内牧長兵衛の私邸内に存せし殿宇をこの地に移築せるもの今の社殿なり。  『北桑田郡誌』)


曹洞宗白峯寺(熊壁)

八坂神社の隣。寛文3年(1663)寿門の開基と伝える。のち火災で焼失、過去帳を残すだけとなったが再建されたという。境内に子安地蔵堂と桜の大木があるとあるが、見当たらない。
白峯寺 字福居の熊壁にあり。寛文三年曹洞禪宗の僧壽門の創立にかゝる。然るにその後一たび祝融氏の災に遭ひ堂宇寳什悉く烏有に歸し僅に過去帳を殘せしのみ。現存の建物はその後の再建に係るものなり。境内に一桜樹あり、花時爛漫の景四方の人を牽くに足る。又子安地藏堂あり。  『北桑田郡誌』)


曹洞宗洞竜山宝谷寺廃寺(山森)
寛文4年(1664)伝竜の開基と伝える曹洞宗洞竜山宝谷(ほうこく)寺があり、寺宝に大般若経六〇〇巻があった。熊壁の白峰寺に吸収されたそうである。
寳谷寺 字福居の山森にあり。洞龍山と號し曹洞禅宗を奉ず。寛文四年僧傳龍の開基せるものなりといふ。寺寳に大般若經六百卷あり。古雅優秀の版本なりと開けど未だ拜覽の機なきを憾む。境内に薬師堂、白山妙理大権現祠あり。観音堂は郡内三十三所観音の第五番の札所なり。  『北桑田郡誌』)


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


福居の主な歴史記録


頭巾山(ときんざん)
綾部市東端、北桑田郡および福井県遠敷郡との境界に位置。標高871メートル、当地方の最高峰。山頂が山伏の頭巾のような形状であるため名付けられたといわれる。石楠花の自生地である。
山頂に許波伎(こわぎ)神社が鎮座。「延喜式」神名帳の若狭国遠敷郡「許波伎(コハキ)神社」に比定される。地元では強木(こわぎ)権現とよばれた。現在も三方の山麓集落(故屋岡町古和木・北桑田郡美山町山森・福井県遠敷郡名田庄村納田終)が共同で祭礼を行い、祠の鍵は古和木で預かっている。
女人禁制の山で、破れぱ洪水があるという。山麓で小石を拾い山頂に積むという積石信仰の風習がある。

(頭巾山の青葉権現
山森頭巾山頂には一小祠ありて雨神なる青葉権現をまつる。傳へ曰ふ。淳和天皇の天長元年天下大に旱し民大に困みし時、守敏僧都奏して雨を祈らんことを請ふ。朝廷之を聴して雨を祈らしめ給ふに、七日に至らずして降雨あり。されど京師を潤したるのみにて洛外に及ばず、朝廷よりて命を弘法大師に下し、神泉苑に於て祈誓せしめたまひしに、其の効更に見はれず、大師惟へらくこれ守敏傳都の呪力を以て諸龍を瓶中に封ぜしに由るなるべしと、法を変じて復び祈る所ありしに、大雨沛然として佳雨あるに至れり。この時その一龍は来りて此の頭巾山に入りしといふ。又一説には或る僧この山麓なる山森に来りて頭巾山に登らんとするに、其の白衣の汚染せるを見て、山森の士民某の女之を溪川に洗ひて進めけり。僧大に喜びて山に登りしが終に下山せず。時人之を祀りしもの即ち青葉権現なりと。是より山森川流域以外に住する女は登山すれば祟を受くとて敢て之を犯さず、若し祈雨の爲に登山せんとする女子は、先づ山森に一宿して一旦土民の伽くになり、然る後登山すれば後難なかりしといふ。又参詣者は麓の小石を拾ひて山上に運び祠辺に之を積むの習あり。若し山上の石塊を一箇たりとも他に持ち去らんか、必ず神罰を祟りて地方は洪水の厄に達ふべしと傳へたり。現今なほ船井郡何鹿郡並に遠く播州方面よりも参拝祈祷す。祠の鍵今は何鹿郡上林村某氏の手に在り、同地方民当社の例祭を行ふ。
  『北桑田郡誌』).

(強木権現。奥上林村故屋岡古和木区と、北桑田郡山森との堺なる頭巾山ヅキンの頂上に一小祠ありて雨の神なる青葉権現をまつる。無格社なり。これ延喜式許波伎神社なるべし。伝へいふ。53淳和天皇の天長元年天下大いに旱し、民大に困みし時守敏僧都奏して、雨を祈らんことを請ふ。朝廷之を許して雨を祈らしめ給ふに七日に至らずして降雨あり。されど京都を潤したるのみにて洛外に及ばず。朝廷よって、命を弘法大師に下し、神泉苑に於て祈誓せしめ給ひしに、其の効更に現れず。大師惟へらく、これ守敏僧都の呪力を以て、諸龍を瓶中に封ぜしによるなるべしと。仍て法を変じて、再び祈りしに大雨沛然として佳雨あるに至れり。此の時其の一龍は来りて此の頭巾山に入りしといふ。又一説には或る僧、この山麓なる北桑田郡鶴岡村字山森に来りて頭巾山に登らんとするに、其の白衣の汚染せるを見て山森の土民某の女之を渓川に洗ひて進めけり。僧大に喜びて山に登りしが終に下山せず。時人之を祀れり、即ち青葉権現なりと。是れより山森川以外に住する女は、登山すれば祟をうくとて敢て之を犯さず。若し祈雨の為に登山せんとする女子は、先ず山森村に一宿して一旦土民の如くなり、然る後登山すれば後難なしといふ。又参詣者は麓の小石を拾ひて山上に運び、祠辺に積むの習あり。若し山上の石塊を一箇たりとも他に持ち去らんか、必ず神罰を蒙りて地方洪水の厄に遇ふべしと伝へたり。現今、若狭遠敷郡、桑田郡、本郡より参拝する者多く、船井郡は勿論遠く播州方面よりも参拝祈祷す。当社の例祭は山麓の地方民によりて行はる。其の賽物特異なり。  『何鹿郡誌』),

頭巾山
   美山町・鶴ケ岡小 六年 芝原 忠
ぼくたち、鶴ケ岡小学校では、毎年秋になると、徒歩の遠足をする。リックサックを背負って、秋空の下を元気よく歌をうたいながら歩く。その時分の美山町は、山が青や赤や黄色にそまって、とても美しい。ぼくたちは、五年生の時に、頭巾山へ登った。行きしなは遠いので、マイクロバスで行き、山のふもとでおりた。そしてそこから歩いて登った。登りしなの道は、でこぼこした。草や木やいろんな物がはえていて、とても歩きにくい。道もいくつにも分かれて、一つ道をまちがえたら、ほかの所へ行ってしまう。ぼくたちは、長い時間かかって、やっと頂上へ着いた。頭巾山は、わかさと、あやべと、北桑田のまん中にあり、高さは、海抜八七一メートルでとても高く、頂上に着くともうくたくただった。頂上には、小さな社があって、そこには「青葉権現」という神様がまつってある。
頭巾山には、いろんな伝説がある。
頭巾山の上から石を持っておりると、大雨がふり、ふもとの村は大洪水になる。なぜかというと、昔、京都のあたご山と、頭巾山が背くらべをして、頭巾山が負けた。だから少しでも高くなろうと思っている。そこで、石を持っておりると、山がおこるという。反対に村の人が石を持って上がると、山が喜ぶといわれている。その他、お祭りの時の火をなわにつけ、山の上から火をけさずにおり、この火で物をたくと、とてもよいことがあるということだ。
毎年、四月二十三日にお祭りがあり、あやべ、わかさの人が登ってこられる。
昔、日照りが続いて困るので、こんぼうという人が、おがみに来た。すると、京都にだけ雨がふったという事もいわれている。
また、旅をしていたおぼうさんが、頭巾山に登ろうとしていたが、服がよごれていたので親切な人が、服を洗ってあげると、喜んで山に登った。が、その人は、いつまでたっても帰ってこなかったそうだ。その人が頭巾山の神様だとも、思われている。
頭巾山の周りは、山に囲まれていて、とても景色がよい。そして、いろんな伝説もあり、とても良い山だ。ぼくたちは、この頭巾山を心にとめ、思い出として、いつまでも心に残していきたいと思う。
  『由良川子ども風土記』).


福居の伝説


頭巾山と龍神
 奥上林村故屋岡小和木区と、北桑田郡山森との山境に、何鹿の最高峯「頭巾山」というのがあります。山の頂には小さい祠があって、雨の神、青葉権現とも、強木権現ともいっています。「延喜式内社の許波伎神社なるべし」と『何鹿郡誌』には書いてあるが、かかる山頂に、しかも雨の神としての神社をお祭りしてあることは、興味ふかいものがあります。
 霊泉や雨乞の傳説は、全国的に弘法大師の功徳と結びつけたものが、非常に多いのでありますが、頭巾山にもつぎの傳説がのこっています。
 平安朝の天長元年(八二七年)の夏は非常な旱天がつゞき、天下の民は大いに困窮いたしました。朝庭は僧都守敏の乞をいれて、雨乞の祈祷を許しました。すると、七日にいたらずして降雨がありましたが、しかし、それは京都地方だけにしか降らなかったので、地方のものは相変らず大いになげき悲しみました。
 朝庭では、こんど、弘法大師に雨乞を命じました。弘法大師は、有名な神泉苑で(いま、東寺に属し、平安京造営のとき、つくった大内裏の禁苑であって、いま、当時のものが、のこっているのは、ここばかりである。京都市上京お池通大宮西入ル)大祈祷をしましたが、なかなか効果がありません。大師は、これは、ひょっとすると、わが法敵である守敏が、呪力で諸龍をしばって瓶中に、封じこめているから、龍神がでられないのだ。と、思って、今度は法をかえ、天竺無念池の善女龍に請じて、祈りはじめますと、こんどは、瓶中から、猛然と諸龍がとび出し、雷声すさまじく、雨をふらしつゝ四方にとびました。そのうちの一つが、西北の空にとび、丹波の頭巾山に姿をかくしたと伝られています。
 また、一説に、あるみすぼらしいお坊さんが、麓の北桑田鶴岡村字山森から、頭巾山にのぼるうとして、この村を通りかかりました。山森の民家のひとりの女が、そのお坊さんの白衣が汚れているので、洗って進めると、お坊さんは大変喜こんで山に登りましたが、そのまま、帰って参りません。山森の人々は、雨がなくて困っていたが、それから、雨がほしいようになると、頭巾山に雲がかかって、いいあんばいに雨が降ってくるので、このお坊さんこそ、雨の神の化身とあがめ、お祀りしました。青葉権現というのが、それだともいい傳えられています。それから、山森以外の女が登山しようとすれば、祟りがあるというので、もし、乞雨祈祷のため登山しようとするときは、山森村に一宿して、一たん山森の女となり、登山すると、後難がなく、霊験もあらたかであった。と、傳えられています。
 頭巾山には、かつて若狭の遠敷郡、桑田郡、船井、わが何鹿はもちろん、遠く播州方面からもお参りしたといわれますが、いまは、すっかり廃れています。
       引用文献 「何鹿教育」 第三八号 昭和四年六月
  『何鹿の伝承』).




福居の小字一覧


福居(ふくい)
勘定ノ本(かんじょうのもと) 諌ノ本(いさのもとト) 中ドイ(なかどい) 奥ノ谷(おくのたに) 小毛(こも)  岼ノ下(ゆりのした) 栗栖谷(くりすだに) 段(だん)

関連情報





資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順

丹後・丹波
市町別
 
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市

若狭・越前
市町別
 
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『北桑田郡誌』
『美山町誌』各巻
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2019 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved