上平屋(かみひらや)
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京都府南丹市美山町上平屋 京都府北桑田郡美山町上平屋 京都府北桑田郡平屋村上平屋 |
上平屋の概要《上平屋の概要》 由良川本流右岸で国道162号(小浜街道・周山街道)沿いの集落、九鬼坂の東側の麓。診療所や保健所、高校などがあり、ムラというよりは少し市街地化しているところ。 古代は弓削郷、中世は野々村庄。 上平屋村は、江戸期~明治22年の村。平屋10ヵ村の1。慶長7年(1602)幕府領、元和5年(1619)園部藩領。 弘化年間当村の平井平助・与兵衛が京都から箪笥師利助・箪市を招いて箪笥・長持の製法を習得したことから、箪笥製造が村内に広まり、平屋箪笥として世に知られた。 明治4年園部県を経て京都府桑田郡、同12年北桑田郡に所属。同14年下平屋村ほか10か村と連合して下平屋村に戸長役場を設置。同22年平屋村の大字となる。 上平屋は、明治22年~現在の大字名。はじめ平屋村、昭和30年からは美山町の大字、平成18年からは南丹市の大字。明治42年北桑箪笥創業頌徳碑が教誓寺東方に建設された。大正11年地内に大火があり、教誓寺なども類焼した。 《上平屋の人口・世帯数》 141・59 《上平屋の主な社寺など》 教誓寺境内の台地にある上平屋遺跡から、弥生時代の磨製石斧(太型蛤刃)が出土したという。 氏神は下平屋村の三社明神、宮脇にある道相神社の氏子。 山神社・八幡社 下ノ森の山神社・八幡社、 真宗大谷派教誓寺 ここにもあるぞ、と真宗大谷派(東本願寺)と書かれた寺院がある。当教誓寺のほか、西乗寺(下平屋)・正覚寺(安掛)・西方寺(又林)・覚了寺(荒倉)・光瑞寺(大内)など計6か寺の真宗大谷派寺院があり、他宗派を圧倒する教線拡張をみせている。真宗勢力の若狭からの伝播のあったことが知られるという。 『北桑田郡誌』は、 「教誓寺 上平屋にあり。眞宗大谷派にして延寶二年淨敢の開基せる所、當今住職に至るまで正に十世なり。第五世珠元の兄に文雄(もんをう)あり無相と號す、業を弟に譲り自は京師に出でゝ内外の諸典を學び、後江戸に遊びて更にその蘊奥を究め、つひに海内屈指の碩學となれり。詳しくは次項人物傳記の條下に記逑すべし。本寺は今年四月末上平屋の大火に類焼の災を受け、今は北方山麓の假堂に移れり。」 とある。また「教誓寺檀徒縁起」によるば、延宝2年(1674)浄教の開基と伝え、同9年6月に寺号許可、天和3年(1687)5月に本山より木仏尊像を交付されたという。また当村の戸数は延宝初年5、、6軒程、、享保初年20軒程という。同書はほかに平井・湯谷・場氏など旧家の由来を記すそうである。 臨済宗妙心寺派平林寺 教誓寺から少し奥に入った所にある。蓬堪の創立というが年代などは不詳。 『北桑田郡誌』は、 「平林寺 上平屋にあり。臨濟禪宗を奉ず。僧蓬堪の創立せる所といへど年代明かならず。本堂南面し輪奐の美を備へたり。」 という。 《交通》 《産業》 箪笥 当地方は冬期は積雪が多く野外労働はできず、適当な屋内副業もなかったが、弘化年間(1844-48)平井平助・平井与兵衛の2人が、京都より箪笥の名工利助・箪市を招いて製法を学び、村に工場を設けて広く村民に伝授したという。明治42年有志により教誓寺東方に「北桑箪笥創業頌徳碑」を建立、以後毎年5月にその祭祀を行っているそうである。 《姓氏・人物》 、第5世珠元の兄、無相文雄(もんおう)は碩学で知られる。 『北桑田郡誌』に、 「無相文雄 文雄(もんたう)は平屋村上平屋教誓寺 真宗大谷派 の出にして、同寺第五世珠元の兄なり。幼より頴悟聰敏學を好む。京都寺町三條三丁目 今は新京極 了蓮寺第十五世の住職傳恕和尚に戒を受け、後江戸の官寺小石川の無量山傳通院 浄土宗 に入りて宗學を修め、功成りて一旦郷里に歸りしが、家を弟珠元に托し、一且難波の傳光寺に住し、更に京都了蓮寺の第十七世住職となり、京江戸大阪の間を往来し。身を音韻研究に委ね著述頗る多し。諱は文雄。號は無相。別に尚絅堂と號せり。寶暦十三年九月二十二日示寂す。享年六十四。京都新京極了蓮寺?域に葬る。墓碑今尚存す。文雄の著書手澤本遺墨等今なほ平屋村教誓寺に存す *を附せるもの即ち是なり。 … 已上九十五部 外に未定稿のもの尚多し。 誠に本郡古今を通じての大学者といふべし。」とある。 上平屋の主な歴史記録(梅原末治の報告書 美山町域に人々はいつの頃から住み始めたのだろうか。 日本全国では毎年一万件を超す史的発掘調査が行われており。大概の地域から文字が使用される時代以前の遺跡も確認されているが、私達の美山町ではただの一度も史的発掘調査が行われていない。 美山町域で考古学的遺物遺跡が公的に紹介されたのは次に示す梅原末治の報告書ただの一度だけである。 「上平屋発見の磨石斧」 丹波に於ける史前の遺跡遺物はその発見例極めて乏しく、(中略)ここに紹介する石斧は単独の発見なるも、実物の存する点に於いて貴重なる遺品として特筆すべきものなり。 此の石斧は今平屋尋常高等小学校の所蔵に係り本員は文学士藤田元春君の好意に依りて実見せり。形第二十二図に示すが如く大形の磨製品にして総長四寸九分あり、上部は磨研の度高からず表面粗なるも、先端の蛤刃は頗る鋭利にして一見実用の器なるを示せり。而して石質は小川理学博士の鑑定に依るに輝緑枌岩なりと云う。 石斧の発見地平屋村は北桑田郡の北辺の山地にありて由良川の上流に当る。かゝる山地に石斧の発見ありし事実は先づ吾人り興味を惹く処なり。藤田君に従えば右の石斧は平屋村大字上平屋にある某寺の門前にて偶然見出せるものなりと。されば此の単一の発見によりて直ちに同地に史前遺跡の存在を肯定するは早計の感あるも、上述の如く其の地の由良川の上流に当ることは、何鹿郡以久田村の包含層の同じ川に沿い存する事実に対比して、同者の連係に想到せしむ。依りてここに単独ながら右の遺物の発見を録して、此の川の流域地方に於ける同種の遺跡の検出に対する地方人士の注意を期待す(かなの部分の原文はカタカナ)。 この「期待」にもかかわらず、われわれ美山町の「地方人士の注意」は考古学的遺跡の検出に達することなく、現在も美山町域に、文字が使用されるよりも前の時代から人々が暮らしていたのかどうかを証明することはほとんど不可能な状態が続いている。遺跡が発見されたことがないということは、考古学的時代の美山町域に人々の生活が存在したと断言することができないということにはなるが、存在しなかったということの証明にはならないこともまた確かなことである。 『美山町誌』) 上平屋の伝説樫原の小字一覧上平屋(かみひらや) 上ノ山(うえのやま) 垣内(かきうち) 盆徳(ぼんとく) 奥谷(おくたに) 溝中(みどなか) 溝西(みどにし) 長林(ながばやし) 野古(のこ) 大沢(おおさわ) 奥ノ谷(おくのたに) 梁ケ瀬(やながせ) 森本(もりもと) 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『北桑田郡誌』 『美山町誌』各巻 その他たくさん |
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