京都府南丹市美山町樫原
京都府北桑田郡美山町樫原
京都府北桑田郡大野村樫原
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川上神社の烏田楽の概要
「烏田楽」は、京都府登録無形民俗文化財の第一号(昭58年指定)だそう、これを見なくて何を見るというのか、こうしたことに少しでも関心のある者なら必見。
ワシはそんなもんにぜんぜん興味ない、それよりもパチンコで大儲けや、という人が増えて増えて、どこともこうした日本の伝統文化は危機を迎えている。伝統文化だけでなく、それを伝える社会そのものが危機を迎え、もう来年はいよいよ村も文化も何もかもが亡びてしまうかもの状況に立ち至っている。自称スンバラシイ国、繁栄国の足元の本当のところである。
川上神社は南丹市美山町樫原の有名な天一大原神社の摂社とされ、大原神社社殿の向かって右脇に社殿があり、祭礼に奉納される芸能が「烏田楽」である。
川上神社の社前の奉納↑
幟も何も立ってなくて村は静かなもの、おかしいな日取りを間違えたかな、今日のはずなんだがな、と心配しながら行ってみると、駐車場はほぼ満車状態、いつもはカラッポだが、やっぱり今日のようであり、一安心。境内からは何やら太鼓の音もしている。
かつては頭屋制があり氏子講があったが、負担が大きいということで廃止となり、山神社ももっと離れた場所にあったが、境内に移されたり、今は以前と比べればずいぶんと簡略化されたというが、「烏田楽」そのものはそのまま伝えられている。
いつから伝わるものかと言われると何も史料がないそうで、全体の構成や所作や用具などからたぶん自立した村の誕生初めの中世からか、「600年の伝統」と言われる、とくらいしか答えようもない。そしてその600年の中でも今が最大の存亡の危機にあるように思われる。何とか乗り越えていけるものだろうか。。
例祭は毎年だいたい「体育の日」に行われる、その「体育の日」が年によって違うし、第二日曜だったりして、何とも一定しない。時間は午後2時からとなっているが、それは神楽殿で舞われる時刻で、実際は横の社務所でも事前のリハーサル的なおどりがあり、もう1時間ばかり前に行った方がいいと思う。
烏田楽は笛や太鼓、ピンササラをもった「九人衆」の人々によって演じられる。事前の社務所での躍りも入れれば、社務所、神楽殿、山の神、川上神社と前後4回にわたって奉納される。
社務所で↑
動画↓
場所は↓
もっと詳しく知りたい方は、
烏田楽の主な歴史史料や記録
『美山町誌』の記録
からす田楽
十月十日、樫原の大原神社の境内にある川上神社のお祭りでは「からす田楽」が奉納される。
戦前は十月三日に「三日月講」を開き、男だけで鯖のなれ鮨を四斗樽に漬け込み、田楽奉納後に当番宅で直会をもった。大盤振舞のため大金がかかり、別名「去(い)に講」ともいわれ、昭和三十年(一九五五)から直会を廃止し、神事と田楽だけが行われている(詳細は文化財の章参照)。
樫原の田楽
樫原の田楽 樫原田楽保存会 昭和五十八年四月十五日指定
旧樫原村の氏神である川上神社の祭礼に演じられている田楽を「からす田楽」とも呼んでいる。これは新入りのひとりが「カア、カア」と、からすの仕草をするところからきている。
この川上神社は大原神社の摂社で、境内にあり、猿田彦命を祭祀しているが、由来などは文化三年(一八〇六)の火災で文書などが焼失しているのでわからない。ササラという楽器には「天正七申歳(一八三六)作之」もう一つには「安政未歳(一八五九)九月再作之」と墨書されているが、これが始まりとは考えられない。町内で田楽が伝えられているのはここだけで、府下的にみても貴重な民俗文化財の一つである。
祭礼は十月十日で(古くは旧暦の九月十日)この祭礼には九人衆による講があり、田楽もこの九人衆によって守り続けられてきた。樫原では長男が嫁を迎えると講員となる。定員が九名であるので新入りがあると古い順に一人ずつ抜けていく。最近は若者の結婚事例が少なく、九人衆の年齢も高齢化し、継承すら危ぶむ声が聞かれる。しかし衣装の新調や地元小学校児童の継承学習などもみられるので明るい兆しである。
祭りの頭屋も、この九人衆が古参順に動め、一度頭屋に当たると、それを機会に家の壁を塗り替え風呂を造り替えるというように物入りが多かった。またこの講を「鯖講」とか「いに講」とも呼んだ。当日、鯖鮓を大量に用意して振る舞ったことからの別名であり、頭屋に当たるともてなしも含め大変な入用であったことからの別名のようである。当地方では帰るとか、どこかへ行くことを「いぬ」ということからついたと思われる。
田楽躍の構成は、ビンザサラ四人、太鼓四人、笛一人の九名で、最長老から順に太鼓の大・中・小とだんだん小さくなる。次がビンザサラで最後の一人が新入りの役とされ、これを別名「からす」と称し、笛は九人衆のうちで得意の者の役とされている。当日は社務所内で演技があり、あと山の神の祭場へと移動する。そこは神社から北東へ約三〇〇メートル余り行った山を少し登った所で、祠はないが榊の木が一本ある。その木の枝には二股枝などが掛けてはあるが、見過ごしてしまうような所である。その前の狹い場所に茣蓙を敷き、神主の祝詞のあとに田楽躍を一とおり演じる。今では僅かな田畑を耕す村であるが、本来は山の獲物を追う生活が長く続いていたのであろうか、躍が終わると山の神への供物といって新藁で作った「つと」を燃やしたり、神主が竹の弓に麻苧の弦を張った弓で的を射る行事を行う。山の神での奉納が終わると再び神社へ帰り、川上神社前で三たび演技をする。夕食は村人全員が参加して「もっそうめし」と称する木皿に高盛りした飯の周りに五菜を並べたものを食べる習慣があった。また午前中に頭屋において躍り手に搗いてもらった「直会餅」を長いまま切らずに子供たちに配って食べてもらうことをしたとも、また後宴として翌日は仕事を休んだとも伝えられているが、頭屋制がなくなった現在では、すべてなくなり、社務所で行う簡略化した行事ですませている。(『京都の田楽調査報告書』より)
『京都の田楽調査報告』
樫原の田楽
名称 田楽
所在地 北桑田郡美山町樫原
時 期 一〇月一〇日(古くは旧暦九月一〇日)
川上神社祭
一
山陰本線和知駅よりバスで入るか、京北町周山からさらに国鉄バスで美山町の中心地へ赴き、そこから和知行のバスに乗り換るかして入る樫原は、交通こそ便利とはいえないが、由良川の谷沿いに拓けた静かな山村である。近くに戦後完成した大野ダムのため、若干の山林と耕地を削られたが、村のたたずまいにさしたる影響があったとは思われない。
この村を通る街道より、バス停前の小径を山の中腹にむかって進むと、大樹の茂った杜がある。そこが大原神社である。この大原神社のたたずまいは、村落の大きさには不似合のほど立派なもので、かつてこの神が地域を越えて相当に広い信仰圈をもっていたことがわかる。田楽はこの大原神社の横に鎮座するこの村の氏神川上神社の祭礼に演じられる。
大原神社は、洛中や丹波地方に広く信仰をもつ神社で、平安時代初期にまつられたという伝承があり、樫原がその本家であるともいう。しかしこの神社が知られるようになったのは、元和年中(十七世紀初頭)に、桑田・何鹿・船井三郡の園部城主として小出信濃守吉親が入城。この神社を深く信仰してよりともいう。近世から近代にかけて、大原詣と袮し、遠くからの参拝客が多かったという。
村ではこの大原神社を旧大野村の神社として、四月二三日に祭礼を執行。樫原一村の氏神は川上神社としている。この社はもと山奥の地に別に社地があったが、後に大原神社境内に移したといわれる。
田楽はこの川上神社の方の一〇月一〇日(古くは旧暦九月一〇日)の祭礼に演じられるものである。この祭りには九人衆による講があり、田楽もこの九人衆によって躍られる。この村は戸数三〇数戸であるが、そのうち長男が嫁を迎えると講員となる。定員が九人であるから、新入りがあると古い順に一人づつ抜ける。祭りの頭屋もこの九人衆が古参順に勤めるもので、一度頭屋に当ると、それを機会に家の壁を塗りかえ、風呂を建てかえるというように物入りが多かった。この講を別名スシ講ともいう通り、鯖ズシを大量に作るので知られもする。
鯖は若狭から売りに来るのを例とするが、一〇月三日にスシ漬けと称し、鯖の骨を抜き、皮はそのままにして笹を敷いた四斗樽に小ぶりの鯖を一匹につき一合の御飯をつめて漬けこむ。二斗樽で三〇匹、四)斗樽で六〇匹程は入るという。この樽にカラおとしをした後、水を入れその上から重しをしたまま八日迄漬ける。八日にはサカおとしをし、一晩で水を切る。九日の晩には味見と称し、親類を呼んで馳走。一〇日の本祭りを迎える。
頭屋の家では、一〇日に本客として九人衆と神主・区長等を迎えて馳走をするから、相応の量が必要で、一度頭にあたると相当の出費があったらしい。このスシ講も昭和三〇年頃より中止となった。
二
スシ講がまだ行なわれていた頃は、九人衆は一〇月一〇日朝に各自禊ぎをし、頭屋の家に集まる。朝食はオカユで、昼食が本膳。焼き物のかわりに鯖ずし一本が付く。この本膳が済むと田楽の練習がある。新入りの九人衆に躍り方を教えなどし、二回程度躍る。次が区長の挨拶で、それが済むと屋祈祷と称して神主が竈ばらい以下の行事をする。この折、頭屋宅の床には神号の軸がかけられ、注連縄が張られ、御斎として大豆・ごぼう・昆布・胡麻などの御供が供えられている。神主の竈ばらいが済むと、家の祈祷として座敷にて田楽が一度躍られる。その後、二時頃に一行は行列して川上神社へ赴く。行列が神社入口にかかると練り込みと袮して笛・大鼓・ビンザサラを奉して神社前まで行く。
川上神社には拝殿はなく、本殿前に薦を敷き、円座を一一置いて既に準備が出来ている。一同着座すると、まず神事がある。この時の神饌は、古くからの決りがある。
次がいよいよ田楽躍である。田楽躍の構成は、ビンザサラ四人、大鼓四人、笛一人の九名で、九人衆が勤めるが、最長老から順に大鼓の人、大鼓の中、大鼓の小とだんだん太鼓の大きさが小さくなる。次がビンザサラで、最後の一人が新入りの役とされ、これを別名烏と称する。笛は九人衆のうち得意の者の役とされる。
川上神社前の田楽が済むと、次は山の神の祭場へと出発。そこは神社よりさらに山側に十五分程入った山口の地で、特に祠などがあるわけではない。目立たぬ木が一本あり、その枝に、二又枝などが掛けてはあるが、知らぬ者は見過してしまうような所である。その前は特に平坦地というわけではなく、人の二・三人も座せぬ所であるが、そこに薦を敷き、祝詞の後に田楽躍を一通り演じる。
今でこそ若干の田畑を耕作する村であるが、本来は山の穫物を追う生活が長く続いたのであろう。田楽躍終了後に、山の神への供物と袮する藁ヅト(新藁でツトをつくり、その中ヘスリヌカを入れ、ウラジロの木の箸を添えたもの)を燃やす。また神主が竹の弓に麻苧の弦を張った弓で、的を射る行事を行なうことがある。
田楽の山の神への奉納が済めば、一同再び神社へ帰り、練り込みで川上社へ奉告をして終る。
夕食は村人全員が参加してモッソウメシと称する木皿に高盛にした飯のまわりに御斎(五菜)を並べたものを食べることがあった。また直会餅として、午前中に頭屋にて躍り手に搗いてもらった餅を、長いまま切らずに子供達に配り、食べてもらうことをしたという。
後宴として祭りの次の日は、仕事を休んだとも伝える。
頭屋のなくなった現在、それまで個人の家でやっていた諸行事は、神社社務所にて行なわれるようになった。昼頃に九人衆と関係者は社務所に集合。そこにて頭屋のこしらえる膳を受け、神主の屋祈祷や田楽も、この社務所に祭壇を飾って行なう。このため練習の田楽と屋祈祷としての田楽が一つになり、社務所では一回しか演じていない。また鯖のすしも膳には出されないようである。
三
現在の祭礼では田楽躍は四回躍られることになる。頭屋を廃して社務所に集まった九人衆は、午後一時頃社務所で衣裳(黒紋付に裃)をつける。頭屋の座敷に凝せられた社務所の一室には、正面に祭壇が整えられ、山の神の供物なども置かれている。九人の田楽衆は、ここにて一度リハーサルをする。新しく加わった者に一通りの演じ方を教え、他の者も年一度の本番にそなえて、順番を復習する。これが済むと、専門の神職が正面の祭壇にむかい祝詞を読み、いよいよ本来頭屋で演ずるべき第一回目の田楽躍をおどる。
芸態は基本型が図Ⅰの如く二列に並ぶもので、正面にむかって左側が、奥から笛・ビンザサラの四人が年齢順、右側が太鼓役の四人で、これも年齢順である。太鼓役の一番奥が最年長者で、ササラの一番手前が最年少者、即ち新入りの役である。この人を別名カラスと呼ぶ。
① 基本型のまま跪座し、笛の前奏にて楽器をそれぞれ三打。
② 全員が立ち、楽器を三三九度(ビンザサラは左右中と三回づつ)に打ちながら、逆まわりに一周してもとの位置に戻る。太鼓は腰に結ばず左手にて緒を持つ。
③ ①と同様二列に対面して座す。ビンザサラの1が正面中央にむいて一人立ち、閉じ扇を右・左・右と持ちかえつつ三拝。次に両手を膝に置いて前かがみとなり、片足を大きく横に出し、後足をそれにスリ足で揃えるという動きを九回して、元の位置まで戻る(図Ⅱ)。はじめと同じく三拝して復座する。
④ 次にビンザサラ2、3と同様にする。
⑤ ビンザサラ4のみは、1同様に動きを終えた後、足を揃えて前方に三歩跳び、三歩跳びさがる。手には閉じ扇を持つ。これを俗に烏跳びと称して、新入りの最年少者であるビンザサラ4だけが行う所作である。
③から⑤の間、残りの太鼓四人とビンザサラの三人は跪座したまま一動作毎に、それぞれの楽器を打つ。
以上が樫原に伝えられた田楽躍の芸態である。
社務所が済むとまず山の神社に行き、同様に演じ、再び帰って川上神社前に薦を敷いて演じる。
以上が現在の演じ方であるが、山の神社と川上神社との演じる順序が昔とは逆になっているようである。
なお、楽器については第五章を参照されたい。
四
この田楽についての歴史を知るべき古文献等は樫原には一切ない。
ただ現在使用のビンザサラの一つに「天保七申歳作之」とあり、もう一つには「安政未歳九月再作之」と墨書されている。 |
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